シドンの街の見学を終えてティール(現在はスール)にやってきました。ティールは、紀元前10世紀ころに、シドンを抜いて最も栄えたフェニキア人の都市国家になりました。なお、カルタゴはティール出身の女王ディドーによって建国されました。紀元前332年、アレキサンダー大王の東征に対しフェニキア人の中では唯一激しく抵抗し、要塞化されたティールの島に立てこもりました。これに対し、アレキサンダー大王の軍は海上封鎖の上、海岸と島を結ぶ道を造り、7ヶ月を費やしてティールを陥落させました。その後、セレウコス朝シリアやローマ、アラブ軍、十字軍などに占領されてその遺跡が残っています。
ティールの遺跡は、陸の遺跡と海の遺跡の二つに分かれますが、まず陸の遺跡から見学しました。
入場口付近はビザンチン時代のものです。
道の脇には墓石が乱雑に転がっていました。
彫刻の見られる石棺。
石畳みの奥には、セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門が見えていました。
石畳が斜めに組まれているのは、馬車が走るのに対して強度を増すためのようです。
建物の跡も残されていました。
モザイクも残されていました。
再建中の建物もありました。
石棺の蓋でしょうか。一面に彫刻が施されていました。
拡大してみると羽の生えた男児のようです。クピド(キューピット)のように見えます。
モザイクの床。
セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門。左に付属する小さな門は、歩行者用の門のようです。
セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門の先はローマ時代の遺跡になります。石畳も良く保存されています。ビザンチン時代の石畳とは違った組み方になっています。
石畳の脇には円柱と水道橋の橋げたが並んでいました。
左が水道橋になります。
遺跡の南側には原っぱが広がっていますが、これはかつての競技場です。ベンハーの映画などで有名な戦車競技が行われました。2万人が収容されて、ローマ帝国で二番目の大きさだといいます。
メインの観覧席のようです。
競技場の南の端まで歩きました。ゲートと観覧席が残されていました。
南のゲート。ここから歓声のもとに競技者が入場したのでしょう。
競技場の外側からの眺め。
競技場の中央にも遺構が残されていました。青いシートは、モザイクの保護のためのようです。
これは浴場跡のようです。
オベリストも立てられていました。
モザイクを眺めながら入り口に戻りました。
この後は、海の遺跡に向かいました。
ティールの遺跡は、陸の遺跡と海の遺跡の二つに分かれますが、まず陸の遺跡から見学しました。
入場口付近はビザンチン時代のものです。
道の脇には墓石が乱雑に転がっていました。
彫刻の見られる石棺。
石畳みの奥には、セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門が見えていました。
石畳が斜めに組まれているのは、馬車が走るのに対して強度を増すためのようです。
建物の跡も残されていました。
モザイクも残されていました。
再建中の建物もありました。
石棺の蓋でしょうか。一面に彫刻が施されていました。
拡大してみると羽の生えた男児のようです。クピド(キューピット)のように見えます。
モザイクの床。
セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門。左に付属する小さな門は、歩行者用の門のようです。
セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門の先はローマ時代の遺跡になります。石畳も良く保存されています。ビザンチン時代の石畳とは違った組み方になっています。
石畳の脇には円柱と水道橋の橋げたが並んでいました。
左が水道橋になります。
遺跡の南側には原っぱが広がっていますが、これはかつての競技場です。ベンハーの映画などで有名な戦車競技が行われました。2万人が収容されて、ローマ帝国で二番目の大きさだといいます。
メインの観覧席のようです。
競技場の南の端まで歩きました。ゲートと観覧席が残されていました。
南のゲート。ここから歓声のもとに競技者が入場したのでしょう。
競技場の外側からの眺め。
競技場の中央にも遺構が残されていました。青いシートは、モザイクの保護のためのようです。
これは浴場跡のようです。
オベリストも立てられていました。
モザイクを眺めながら入り口に戻りました。
この後は、海の遺跡に向かいました。