4日目は、マヤバン、カバー、ウシュマルといったマヤ遺跡の見学を行うことになりました。
まずは、マヤパン遺跡を訪れました。「マヤ」の名前の元になったといわれるマヤパン遺跡ですが、他に観光客はおらず、静かな雰囲気が漂っていました。
マヤパンは、マヤ文明における後古典期・後期の1220年代から1440年頃まで栄えた、マヤ文明の中でも新しい時代に属する都市です。ユカタン地方北部に強大な勢力を広げたチチェン・イッツアが、反乱によって衰退、放棄されてしまった後、反乱を起こした者たちを中心に、チチェン・イッツアから100kmほど離れた場所に新しい都の建設が進められました。この新首都がマヤパン(マヤの旗)です。
写真は、北にある入口付近から南方向を見たもの。手前に壁龕の神殿、その奥にククルカンのピラミッドが見えます。
入口付近から西方向の眺め。四層の基壇を持った神殿が見えています。
遺跡の内部に進んでいきましょう。
柱の並んだ建物の跡が見られます。
壁龕の神殿を南側から見たもの。
壁龕の神殿は、壁龕に描かれた彩色壁画が残されていることから名前が付けられているようですが、中は閉鎖されています。
東側には、天文台あるいは丸い神殿が見えています。
ククルカンのピラミッドの全容が現れました。チチェン・イッツァのカスティーヨを模したピラミッドとされており、基壇の底辺は 30m、9層の基壇は 18m とより小型です。
このピラミッドは、マヤパン遺跡で一番高い建物になっています。
西側の階段から登ることになりました。ピラミッドの脇には、王達の広間の柱が並んで参道のように見えます。
急な階段で、手も使いながら慎重に登りました。
北西方向の眺め。
ククルカンのピラミッドの上からは、遮るもののない展望が広がっていました。密林の中に遺跡があることが判ります。
北方向の眺め。右寄りに壁龕の神殿が見えています。
北東方向の眺め。
東方向の天文台あるいは丸い神殿の眺め。
ピラミッドの上には、建物の支柱であったような柱の跡も残されていました。
マヤパン遺跡の修復は、北半分が終わったところで、南半分はまだ密林に覆われた状態になっています。修復が完全に終われば、もっと壮麗な都の姿が現れるはずです。
下りは、上りよりも慎重さが必要でした。
このピラミッドも、チチェン・イッツァのカスティーヨと同じく、階段の側面がククルカン(羽の生えた蛇神)を模していて、下部に蛇の頭が置かれていたようですが、現在では他所に移されてしまっています。
ピラミッドの南側に回り込むと、小さな祭壇があり、何かの像が残されていました。
ククルカンのピラミッドの南東角では、崩落によって前の時代のピラミッドが露出しており、漆喰彫刻を見ることができます。
描かれているのは、槍か軍旗を持った兵士で、頭の部分だけが四角にくりぬかれています。頭の部分の四角い窪みからは頭や頸の骨の破片が見つかっており、人の頭部を納めて漆喰で覆い、生贄の儀礼が行われていたようです。
ククルカンのピラミッドの東側に付属する建造物には、壁画が残されており、フレスコ画の広間とも呼ばれています。
軍旗を掲げる兵士が描かれているようですが、劣化が進んでおり、絵柄を見極めることが難しくなっています。ネットで見られる報告と比べても、劣化が急速に進んでいるようです。
ククルカンのピラミッドの南側には、植物に覆われたセノーテ跡があります。水源として、また儀礼の場として、重要な役割を果たしていたようです。
東側にある天文台あるいは丸い神殿の南に隣接してチャーク仮面の広間があります。
チャーク仮面の広間。角度が悪いですが、角が鼻になっています。
天文台あるいは丸い神殿。この建物の目的ははっきりとは判っていないようです。
漁師の神殿。
草葺きの屋根の下には、壁画が保存されていますが、退色が進んで絵が判り難くなっています。
かろうじて見分けられた部分。
左に、丸みを帯びた魚。右に口と手を縛られたワニ。縛られたワニを、洪水を免れる為の生贄とする説もあるようです。
この壁画は、複製である可能性もありますが、近いうちに絵が消えてしまう危険性があります。
漁師の神殿から見た天文台とククルカンのピラミッド。
この遺跡にも、イグアナがいました。
マヤパンは、マヤ最後の大国といえるのですが、この遺跡は「チチェン・イツァーの稚拙な模倣」といった否定的な評価が一般的になっているようです。マヤパン遺跡は、ガイドブックの「地球の歩き方」にも載っていません。
しかし、実際に見学してみると、チチェン・イツァーのコンパクト版として、興味深く見ることができました。これは、最近になって遺跡の修復が進んで、見どころが多くなったことによると思われます。チチェン・イツァーの予習として見学するのが面白いと思われます。
まずは、マヤパン遺跡を訪れました。「マヤ」の名前の元になったといわれるマヤパン遺跡ですが、他に観光客はおらず、静かな雰囲気が漂っていました。
マヤパンは、マヤ文明における後古典期・後期の1220年代から1440年頃まで栄えた、マヤ文明の中でも新しい時代に属する都市です。ユカタン地方北部に強大な勢力を広げたチチェン・イッツアが、反乱によって衰退、放棄されてしまった後、反乱を起こした者たちを中心に、チチェン・イッツアから100kmほど離れた場所に新しい都の建設が進められました。この新首都がマヤパン(マヤの旗)です。
写真は、北にある入口付近から南方向を見たもの。手前に壁龕の神殿、その奥にククルカンのピラミッドが見えます。
入口付近から西方向の眺め。四層の基壇を持った神殿が見えています。
遺跡の内部に進んでいきましょう。
柱の並んだ建物の跡が見られます。
壁龕の神殿を南側から見たもの。
壁龕の神殿は、壁龕に描かれた彩色壁画が残されていることから名前が付けられているようですが、中は閉鎖されています。
東側には、天文台あるいは丸い神殿が見えています。
ククルカンのピラミッドの全容が現れました。チチェン・イッツァのカスティーヨを模したピラミッドとされており、基壇の底辺は 30m、9層の基壇は 18m とより小型です。
このピラミッドは、マヤパン遺跡で一番高い建物になっています。
西側の階段から登ることになりました。ピラミッドの脇には、王達の広間の柱が並んで参道のように見えます。
急な階段で、手も使いながら慎重に登りました。
北西方向の眺め。
ククルカンのピラミッドの上からは、遮るもののない展望が広がっていました。密林の中に遺跡があることが判ります。
北方向の眺め。右寄りに壁龕の神殿が見えています。
北東方向の眺め。
東方向の天文台あるいは丸い神殿の眺め。
ピラミッドの上には、建物の支柱であったような柱の跡も残されていました。
マヤパン遺跡の修復は、北半分が終わったところで、南半分はまだ密林に覆われた状態になっています。修復が完全に終われば、もっと壮麗な都の姿が現れるはずです。
下りは、上りよりも慎重さが必要でした。
このピラミッドも、チチェン・イッツァのカスティーヨと同じく、階段の側面がククルカン(羽の生えた蛇神)を模していて、下部に蛇の頭が置かれていたようですが、現在では他所に移されてしまっています。
ピラミッドの南側に回り込むと、小さな祭壇があり、何かの像が残されていました。
ククルカンのピラミッドの南東角では、崩落によって前の時代のピラミッドが露出しており、漆喰彫刻を見ることができます。
描かれているのは、槍か軍旗を持った兵士で、頭の部分だけが四角にくりぬかれています。頭の部分の四角い窪みからは頭や頸の骨の破片が見つかっており、人の頭部を納めて漆喰で覆い、生贄の儀礼が行われていたようです。
ククルカンのピラミッドの東側に付属する建造物には、壁画が残されており、フレスコ画の広間とも呼ばれています。
軍旗を掲げる兵士が描かれているようですが、劣化が進んでおり、絵柄を見極めることが難しくなっています。ネットで見られる報告と比べても、劣化が急速に進んでいるようです。
ククルカンのピラミッドの南側には、植物に覆われたセノーテ跡があります。水源として、また儀礼の場として、重要な役割を果たしていたようです。
東側にある天文台あるいは丸い神殿の南に隣接してチャーク仮面の広間があります。
チャーク仮面の広間。角度が悪いですが、角が鼻になっています。
天文台あるいは丸い神殿。この建物の目的ははっきりとは判っていないようです。
漁師の神殿。
草葺きの屋根の下には、壁画が保存されていますが、退色が進んで絵が判り難くなっています。
かろうじて見分けられた部分。
左に、丸みを帯びた魚。右に口と手を縛られたワニ。縛られたワニを、洪水を免れる為の生贄とする説もあるようです。
この壁画は、複製である可能性もありますが、近いうちに絵が消えてしまう危険性があります。
漁師の神殿から見た天文台とククルカンのピラミッド。
この遺跡にも、イグアナがいました。
マヤパンは、マヤ最後の大国といえるのですが、この遺跡は「チチェン・イツァーの稚拙な模倣」といった否定的な評価が一般的になっているようです。マヤパン遺跡は、ガイドブックの「地球の歩き方」にも載っていません。
しかし、実際に見学してみると、チチェン・イツァーのコンパクト版として、興味深く見ることができました。これは、最近になって遺跡の修復が進んで、見どころが多くなったことによると思われます。チチェン・イツァーの予習として見学するのが面白いと思われます。