ハフパト修道院の見学を終えて再び川沿いの道に戻って進むと、ハフパト村から見えていたアラヴェルディ銅鉱山が近づいてきました。付属施設は閉鎖されているようですが、それでもパイプを通して山の上から煙が出ていました。
アラヴェルディ周辺では、ソ連崩壊後に廃墟になった建物が目立ちました。
ソ連からの独立は、経済的には難しい問題を生じているようです。
エレバンへの道は、二通りあり、今回は西よりの道を通ることになりました。復路は、東よりのセバン湖湖畔を通るルートを使いました。
谷間の道から九十九折で、一気に高度を上げていきました。
川沿いに広がるアラヴェルディの街と、エレヴァンートビリシを結ぶ鉄道を見下ろすことができました。
台地の縁が見えてきました。
九十九折を上りきると、広大な高原が広がっていました。
雲が広がっていますが、高原の奥に山が見えていました。アゼルバイジャンもジョージアと同じに山に包まれた国です。
高原は、緩やかに起伏しながら広がっていました。
高原には、細いけれども深い谷間が刻まれていました。橋を架けるのはそう難しくはないようですが、橋は見当たりませんでした。
途中で、ポピーが沢山咲いていたので、写真ストップになりました。
青い花はハナシノブの仲間でしょうか。
高原を引き裂く亀裂に沿って走っていきます。
草原が、青や黄色に染まっていました。
谷間の向こうにまとまった集落が現れました。
ようやく谷間を横断することができました。昔使っていた石橋も見えました。
谷を横断するには、かなり上流部に回り込む必要がありました。
正体不明のモニュメント。
さらに高原を進んでいきます。
高原を下っていくと、街が近づいてきました。パナゾルでしょうか。
この街も工業が衰退して寂れた感じがしました。
スピタクで、再び鉄道を横断しました。
1988年12月7日に、スピタクを震央とした地震が生じました。アルメニア大地震と呼ばれるこの地震で、死者は約2万5000人にも及んだといいます。廃墟になった村も見られました。
スピタクを過ぎると、再び山岳地帯に入っていきました。
白く雪を頂いたアラガット山(4092m)が見えてきました。アラガット山は、アルメニア最高峰になっています。
本来であったら、アルメニアの最高峰はノアの箱舟の伝説を持つアララト山(5165m)なのですが、このアルメニア人の心の故郷ともいえる山は、現在はトルコ領になっています。この話は、また後ほど。
アラガット山の山頂部には、4000m前後のピークが四つ並んでいます。雲がかかっていますが、山頂近くまで見えているようです。山を見ると、つい登山ルートを考えてしまいます。
Aparanの街に到着したところで、トイレ休憩も兼ねてスーパーに立ち寄りました。
ナンの窯がおいてあり、夕方の買い物客のために焼いていました。
カメラを構えていると、こちらを意識して、ナンの延ばした生地を放り上げるパフォーマンスをしてくれました。
焼き釜の中ものぞくことができました。
様々なパンが売られていました。ツアーに夕食がついていなかったら、ここで食料を調達していたところです。
焼き菓子とケーキ。
Aparanを出発すれば、首都のエレバンにもうひと走りといったところなのですが、道を羊と牛の群れが埋め尽くしているのに出会いました。
交通事故による足止めと違って、羊の通過待ちは腹が立ちません。
丘の上に十字架が立っていました。
ここは、アルメニア文字公園と呼ばれ、アルメニア文字が丘に並べられていました。
アルメニア文字は405年にメスプロ・マシュトツにより提唱されました。
夕暮れ迫る頃、アルメニアの首都の0エレバンに到着しました。
アラヴェルディ周辺では、ソ連崩壊後に廃墟になった建物が目立ちました。
ソ連からの独立は、経済的には難しい問題を生じているようです。
エレバンへの道は、二通りあり、今回は西よりの道を通ることになりました。復路は、東よりのセバン湖湖畔を通るルートを使いました。
谷間の道から九十九折で、一気に高度を上げていきました。
川沿いに広がるアラヴェルディの街と、エレヴァンートビリシを結ぶ鉄道を見下ろすことができました。
台地の縁が見えてきました。
九十九折を上りきると、広大な高原が広がっていました。
雲が広がっていますが、高原の奥に山が見えていました。アゼルバイジャンもジョージアと同じに山に包まれた国です。
高原は、緩やかに起伏しながら広がっていました。
高原には、細いけれども深い谷間が刻まれていました。橋を架けるのはそう難しくはないようですが、橋は見当たりませんでした。
途中で、ポピーが沢山咲いていたので、写真ストップになりました。
青い花はハナシノブの仲間でしょうか。
高原を引き裂く亀裂に沿って走っていきます。
草原が、青や黄色に染まっていました。
谷間の向こうにまとまった集落が現れました。
ようやく谷間を横断することができました。昔使っていた石橋も見えました。
谷を横断するには、かなり上流部に回り込む必要がありました。
正体不明のモニュメント。
さらに高原を進んでいきます。
高原を下っていくと、街が近づいてきました。パナゾルでしょうか。
この街も工業が衰退して寂れた感じがしました。
スピタクで、再び鉄道を横断しました。
1988年12月7日に、スピタクを震央とした地震が生じました。アルメニア大地震と呼ばれるこの地震で、死者は約2万5000人にも及んだといいます。廃墟になった村も見られました。
スピタクを過ぎると、再び山岳地帯に入っていきました。
白く雪を頂いたアラガット山(4092m)が見えてきました。アラガット山は、アルメニア最高峰になっています。
本来であったら、アルメニアの最高峰はノアの箱舟の伝説を持つアララト山(5165m)なのですが、このアルメニア人の心の故郷ともいえる山は、現在はトルコ領になっています。この話は、また後ほど。
アラガット山の山頂部には、4000m前後のピークが四つ並んでいます。雲がかかっていますが、山頂近くまで見えているようです。山を見ると、つい登山ルートを考えてしまいます。
Aparanの街に到着したところで、トイレ休憩も兼ねてスーパーに立ち寄りました。
ナンの窯がおいてあり、夕方の買い物客のために焼いていました。
カメラを構えていると、こちらを意識して、ナンの延ばした生地を放り上げるパフォーマンスをしてくれました。
焼き釜の中ものぞくことができました。
様々なパンが売られていました。ツアーに夕食がついていなかったら、ここで食料を調達していたところです。
焼き菓子とケーキ。
Aparanを出発すれば、首都のエレバンにもうひと走りといったところなのですが、道を羊と牛の群れが埋め尽くしているのに出会いました。
交通事故による足止めと違って、羊の通過待ちは腹が立ちません。
丘の上に十字架が立っていました。
ここは、アルメニア文字公園と呼ばれ、アルメニア文字が丘に並べられていました。
アルメニア文字は405年にメスプロ・マシュトツにより提唱されました。
夕暮れ迫る頃、アルメニアの首都の0エレバンに到着しました。