帰国日の第4日目は、ゆっくり起きて朝食をとり、空港へ送ってもらいました。
昼過ぎの出発ですが、時間に余裕をもたせると空港への移動しかできませんでした。、
出国手続きを終えて出発ゲートに向かうと、デメルの売店がありました。ここで、デメルのザッハトルテを買うことになりました。ホテル・ザッハーのものはすでに買ってあったのですが、食べ比べをしたくなってのことです。
離陸してほどなく、飲み物のサービス。
昼食相当の機内食。これは、パスタ。
これは、肉の炒め物にライス。
機内ではiPODで音楽を聞きながらうつらうつらするのが通常ですが、機内のオーディオプログラムをのぞいてみました。音楽の国の飛行機とあって、クラッシック音楽もかなりありました。ただ、新譜なのかもしれませんが、一般受けはしないマイナーな曲ばかりという印象でした。
ミュージカルのタイトルを見ていくと、「エリザベート」がありました。「エリザベート」の20周年を記念して2011年から2012にかけてドイツ語圏で公演したツアー・カンパニーによるケルンでの公演を収録した最新ライブ盤CDです。
エリザベートを訪ねての旅の締めくくりにふさわしい曲ということで、これを聞きながらの旅になりました。
到着前の朝食。早朝とあって、食欲がありません。
無事に成田に到着して、新潟に戻る途中、停電による新幹線のストップというアクシデントもありましたが、影響も最小限で済んで新潟に戻ることができました。
おまけの話をひとつ。
ウィーンのホテルで手に入れた日本語の情報誌です。
その中にあった、「ウィーン 知らなくてもいい話」を興味深く読みました。
「カイザリン・エリザベート号の最後」についての話です。
オーストリア海軍のカイザリン・エリザベート号は、第一次大戦前の1892年にカイザー・フランツ・ヨーゼフ1世級防護巡洋艦の二番艦として建造されました。
ここで不思議に思うのは、内陸部にあるオーストリアがなぜ海軍を持っていたかということですが、当時はイタリアやアドリア海沿岸部にも領地がありました。サウンドオブミュージックの主人公のモデルになったゲオルク・フォン・トラップ(大佐)は、第一次世界大戦に潜水艦艦長として従軍し、オーストリア海軍の国民的英雄となっています。
カイザリン・エリザベート号は、1914年に日本を表敬訪問し、その帰路、上海に停泊している時に第一次大戦が勃発しました。オーストリアはドイツと同盟していた為に、カイザリン・エリザベート号は青島へ向かい、ドイツ軍と合流しました。一方、日本は英国と同盟を結んでおり、中国への進攻の意図もあって、青島に要塞を築いていたドイツ軍を攻めることになりました。
攻める日本軍2万人に対し、青島要塞を守るのはドイツ軍4000人とオーストリア軍艦に乗る400名だけでした。カイザリン・エリザベート号は、上陸した日本軍に砲撃を加えますが、砲弾も尽きて、乗組員は上陸して要塞のドイツ軍と合流しました。放棄されたエリ-ザベト号は、青島港内で自爆沈没しました。
2ヶ月に及ぶ青島攻防戦は、ドイツ兵・オーストリア兵の投降によって終わりました。捕虜は、徳島や習志野などの収容所に送られて、そこで5年を過ごすことになりました。なお、徳島の収容所で捕虜がベートーベン第九交響曲を演奏したのが、日本初演となっています。なお、この戦いで捕虜になった中には、菓子職人のユーハイムがいました。ドイツ人捕虜が作った作品の展示即売会を開催することになって、バウムクーヘンを作ったのが、日本での初製作ケーキになりました。
悲劇の皇后エリザベートの名前をもらった軍艦は、やはり悲劇的な運命をとげました。この軍艦の命名については、明治天皇の撃沈したとき失礼だろということで「日本の軍艦の艦名に人名はふさわしくないという」意見が正しいように思えます。
(これにて、ウィーン旅行記は終了です。)
昼過ぎの出発ですが、時間に余裕をもたせると空港への移動しかできませんでした。、
出国手続きを終えて出発ゲートに向かうと、デメルの売店がありました。ここで、デメルのザッハトルテを買うことになりました。ホテル・ザッハーのものはすでに買ってあったのですが、食べ比べをしたくなってのことです。
離陸してほどなく、飲み物のサービス。
昼食相当の機内食。これは、パスタ。
これは、肉の炒め物にライス。
機内ではiPODで音楽を聞きながらうつらうつらするのが通常ですが、機内のオーディオプログラムをのぞいてみました。音楽の国の飛行機とあって、クラッシック音楽もかなりありました。ただ、新譜なのかもしれませんが、一般受けはしないマイナーな曲ばかりという印象でした。
ミュージカルのタイトルを見ていくと、「エリザベート」がありました。「エリザベート」の20周年を記念して2011年から2012にかけてドイツ語圏で公演したツアー・カンパニーによるケルンでの公演を収録した最新ライブ盤CDです。
エリザベートを訪ねての旅の締めくくりにふさわしい曲ということで、これを聞きながらの旅になりました。
到着前の朝食。早朝とあって、食欲がありません。
無事に成田に到着して、新潟に戻る途中、停電による新幹線のストップというアクシデントもありましたが、影響も最小限で済んで新潟に戻ることができました。
おまけの話をひとつ。
ウィーンのホテルで手に入れた日本語の情報誌です。
その中にあった、「ウィーン 知らなくてもいい話」を興味深く読みました。
「カイザリン・エリザベート号の最後」についての話です。
オーストリア海軍のカイザリン・エリザベート号は、第一次大戦前の1892年にカイザー・フランツ・ヨーゼフ1世級防護巡洋艦の二番艦として建造されました。
ここで不思議に思うのは、内陸部にあるオーストリアがなぜ海軍を持っていたかということですが、当時はイタリアやアドリア海沿岸部にも領地がありました。サウンドオブミュージックの主人公のモデルになったゲオルク・フォン・トラップ(大佐)は、第一次世界大戦に潜水艦艦長として従軍し、オーストリア海軍の国民的英雄となっています。
カイザリン・エリザベート号は、1914年に日本を表敬訪問し、その帰路、上海に停泊している時に第一次大戦が勃発しました。オーストリアはドイツと同盟していた為に、カイザリン・エリザベート号は青島へ向かい、ドイツ軍と合流しました。一方、日本は英国と同盟を結んでおり、中国への進攻の意図もあって、青島に要塞を築いていたドイツ軍を攻めることになりました。
攻める日本軍2万人に対し、青島要塞を守るのはドイツ軍4000人とオーストリア軍艦に乗る400名だけでした。カイザリン・エリザベート号は、上陸した日本軍に砲撃を加えますが、砲弾も尽きて、乗組員は上陸して要塞のドイツ軍と合流しました。放棄されたエリ-ザベト号は、青島港内で自爆沈没しました。
2ヶ月に及ぶ青島攻防戦は、ドイツ兵・オーストリア兵の投降によって終わりました。捕虜は、徳島や習志野などの収容所に送られて、そこで5年を過ごすことになりました。なお、徳島の収容所で捕虜がベートーベン第九交響曲を演奏したのが、日本初演となっています。なお、この戦いで捕虜になった中には、菓子職人のユーハイムがいました。ドイツ人捕虜が作った作品の展示即売会を開催することになって、バウムクーヘンを作ったのが、日本での初製作ケーキになりました。
悲劇の皇后エリザベートの名前をもらった軍艦は、やはり悲劇的な運命をとげました。この軍艦の命名については、明治天皇の撃沈したとき失礼だろということで「日本の軍艦の艦名に人名はふさわしくないという」意見が正しいように思えます。
(これにて、ウィーン旅行記は終了です。)