七日目は、モスタルを途中で見学して、プリトヴィッツェ湖まで移動することになります。移動距離は、510kmにも及びます。
ボスニア・ヘルツェゴビナのネウムを通過して再びクロアチアに入り、ネレトヴァ川沿いの道に進みました。
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ネレトヴァ川は重要な河川であるため、川岸に要塞のような塔が見られました。
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クロアチアから再びボスニア・ヘルツェゴビナへと国境を越しました。ネウムの国境とは異なり、ここの通関は書類審査に少し時間がかかりました。
ボスニア・ヘルツェゴビナに入ると、イスラムのモスクが現れました。
ボスニアヘルツェゴビナというと、まずボスニア紛争という言葉を思い浮かべるように、この国は複雑な歴史を持っています。これからのモスタルの見学の予備知識として、歴史を少し長くなりますが振り返ることにしましょう。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入り、その後6世紀後半からスラヴ人が定住し始めます。この地域は地理的環境から、カトリックと正教会の激しい布教争いの最前線となり、多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求めるようになりました。
15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入り、正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くは、このときイスラム教に改宗しました。このほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んだイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まりました。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国やヴェネツィア共和国と戦争を行った際には、ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしました。
19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となりました。1908年のオーストリアによるボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合は、セルビアの大セルビア主義や、汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となりました。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となりました。
第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれ、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受けましたが、これに対抗したセルビア人の民族主義者によっても民族浄化の応報が繰り広げられました。
パルチザンの活躍によってユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生しました。この時代は、長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進みました。言論や文化的活動に関しては、他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められ、1984年には平和の象徴でもあるサラエボオリンピックが開催されました。
1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武装が進みました。
1992年、ボシュニャク人(旧ムスリム人)が主体のボスニア政府は、セルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定しました。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って武装も進めて対抗しました。三者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられました。このボスニア紛争は、1995年に国際連合の調停でようやく終結しました。
ようやく平和が訪れた現在の姿をモスタルで見ることになります。
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ネレトヴァ川沿いの丘の上には、古城が見られました。ライン川沿いのような風景ですが、観光地化はされていないようです。
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葡萄酒ようのブドウ畑も広がっていました。
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モスタルに入ると、日の丸マークを付けた市バスを目にすることができました。これは、「モスタル市公共輸送力復旧計画」ということで無償資金協力を行い、紛争中に破壊されたバスを贈ったことによります。
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モスタルに到着してバスを降りると、脇にはカトリック系の聖ペーター教会の塔が聳えていました。この教会は16世紀に造られましたが、紛争中に破壊され、2000年に再建されました。塔の高さは、モスタルの街のどこからも眺めることができるように、100m以上あります。
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モスタルの見学を終えてバスに戻る際、ミサが終わったところでドアが開いていたので、中をのぞかせてもらいました。内部は、シンプルな造りでした。
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通りにでると、紛争中に破壊された建物が現れました。
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モスタルの中心地に入るところの交差点脇の建物にも、銃痕が残されていました。
この交差点付近が民族同士がぶつかる最前線になっていたといいます。
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交差点脇の空き地にはユダヤ教のシナゴーグがあったといいます。ここはまだ再建されていませんでした。
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廃墟になった建物は、所有者に再建の費用が無いことや、死亡などによって所有者が判らなくなっていることで、そのまま残されているようです。また、負の遺産として、観光に生かそうという思惑もあるようです。、
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歩いていくうちに、土産物屋も出てきて、観光地の雰囲気になってきました。
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土産物屋をのぞく観光客で賑わってきました。
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トルコでも見かけた、タイル飾りが売られていました。
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ランタンもトルコで見たものと同じです。
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通りから見下ろすと、小さな石の橋が見えました。
この橋は、モルタルの最大の見どころであるスターリ・モストの建築を命じられた建築家が、本番前の試作に造ったものと言われています。
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アラブ風バザールといった雰囲気の通りを進んでいきます。
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脇に入ると、アラブ風浴室のハマムの建物がありました。
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メイン通りから川に向かって下っていきました。
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ネレトヴァ川の川岸に出ると、スターリ・モストの眺めが広がりました。
スターリ・モストは、全幅 4 m、全長 30 m 、川面からの高さは 24 m あります。橋の両脇には、防御のための塔が設けてあります。
スターリ・モストとは古い橋の意味で、1557年にスレイマン1世が当時あった不安定な木製の吊り橋に替えて作るよう命じて造らせたものです。9年かかって完成したといいます。この橋は、建造当時では世界唯一のシングル・スパン・アーチであったと考えられています。
伝説では、建築家は前代未聞の橋を作らねば死刑にすると申し渡されていた為に、橋が完成して足場を撤去する日には、自身の葬式の準備をしていたといいます。
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橋の欄干の上に立っているのは、橋から飛び込むダイバーです。飛び込むそぶりはするのですが、なかなか行いませんでした。かなりの金額のチップをもらわないと飛び込みはしないようです。
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再び通りに戻ってきました。
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スターリ・モストの入り口にやってきました。橋のこちらがわにはタラ塔が設けてあります。
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黄色い郵便ポストが取り付けてありました。
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タラ塔には、「ダイバー・クラブ」として先ほど見た橋の上からのダイバーの詰所が設けてありました。
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スターリ・モストの上は、観光客で賑わっていました。滑りやすいため、横板を踏みながら歩く必要がありました。
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橋の上からは、川沿いに広がるバザールやコスキ・メフメド・パシャ・モスクの眺めが広がっていました。ネレトヴァ川の東側は、ムスリム人の居住区になっており、アラブ風の眺めです。
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コスキ・メフメド・パシャ・モスクのミナレットの上に人が見え、後で登ることにしました。
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東側から振り返ったスターリ・モスト。
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スターリ・モストの東側には、ヘレビヤ塔が設けてあります。
モスタルでは、ここまでのバルカン半島の旅で出会ったものとは全く違う風景が広がりました。
ボスニア・ヘルツェゴビナのネウムを通過して再びクロアチアに入り、ネレトヴァ川沿いの道に進みました。
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クロアチアから再びボスニア・ヘルツェゴビナへと国境を越しました。ネウムの国境とは異なり、ここの通関は書類審査に少し時間がかかりました。
ボスニア・ヘルツェゴビナに入ると、イスラムのモスクが現れました。
ボスニアヘルツェゴビナというと、まずボスニア紛争という言葉を思い浮かべるように、この国は複雑な歴史を持っています。これからのモスタルの見学の予備知識として、歴史を少し長くなりますが振り返ることにしましょう。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入り、その後6世紀後半からスラヴ人が定住し始めます。この地域は地理的環境から、カトリックと正教会の激しい布教争いの最前線となり、多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求めるようになりました。
15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入り、正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くは、このときイスラム教に改宗しました。このほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んだイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まりました。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国やヴェネツィア共和国と戦争を行った際には、ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしました。
19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となりました。1908年のオーストリアによるボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合は、セルビアの大セルビア主義や、汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となりました。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となりました。
第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれ、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受けましたが、これに対抗したセルビア人の民族主義者によっても民族浄化の応報が繰り広げられました。
パルチザンの活躍によってユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生しました。この時代は、長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進みました。言論や文化的活動に関しては、他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められ、1984年には平和の象徴でもあるサラエボオリンピックが開催されました。
1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武装が進みました。
1992年、ボシュニャク人(旧ムスリム人)が主体のボスニア政府は、セルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定しました。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って武装も進めて対抗しました。三者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられました。このボスニア紛争は、1995年に国際連合の調停でようやく終結しました。
ようやく平和が訪れた現在の姿をモスタルで見ることになります。
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ネレトヴァ川沿いの丘の上には、古城が見られました。ライン川沿いのような風景ですが、観光地化はされていないようです。
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モスタルに到着してバスを降りると、脇にはカトリック系の聖ペーター教会の塔が聳えていました。この教会は16世紀に造られましたが、紛争中に破壊され、2000年に再建されました。塔の高さは、モスタルの街のどこからも眺めることができるように、100m以上あります。
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土産物屋をのぞく観光客で賑わってきました。
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ランタンもトルコで見たものと同じです。
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通りから見下ろすと、小さな石の橋が見えました。
この橋は、モルタルの最大の見どころであるスターリ・モストの建築を命じられた建築家が、本番前の試作に造ったものと言われています。
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脇に入ると、アラブ風浴室のハマムの建物がありました。
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メイン通りから川に向かって下っていきました。
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ネレトヴァ川の川岸に出ると、スターリ・モストの眺めが広がりました。
スターリ・モストは、全幅 4 m、全長 30 m 、川面からの高さは 24 m あります。橋の両脇には、防御のための塔が設けてあります。
スターリ・モストとは古い橋の意味で、1557年にスレイマン1世が当時あった不安定な木製の吊り橋に替えて作るよう命じて造らせたものです。9年かかって完成したといいます。この橋は、建造当時では世界唯一のシングル・スパン・アーチであったと考えられています。
伝説では、建築家は前代未聞の橋を作らねば死刑にすると申し渡されていた為に、橋が完成して足場を撤去する日には、自身の葬式の準備をしていたといいます。
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橋の欄干の上に立っているのは、橋から飛び込むダイバーです。飛び込むそぶりはするのですが、なかなか行いませんでした。かなりの金額のチップをもらわないと飛び込みはしないようです。
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再び通りに戻ってきました。
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スターリ・モストの入り口にやってきました。橋のこちらがわにはタラ塔が設けてあります。
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黄色い郵便ポストが取り付けてありました。
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タラ塔には、「ダイバー・クラブ」として先ほど見た橋の上からのダイバーの詰所が設けてありました。
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スターリ・モストの上は、観光客で賑わっていました。滑りやすいため、横板を踏みながら歩く必要がありました。
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橋の上からは、川沿いに広がるバザールやコスキ・メフメド・パシャ・モスクの眺めが広がっていました。ネレトヴァ川の東側は、ムスリム人の居住区になっており、アラブ風の眺めです。
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コスキ・メフメド・パシャ・モスクのミナレットの上に人が見え、後で登ることにしました。
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東側から振り返ったスターリ・モスト。
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スターリ・モストの東側には、ヘレビヤ塔が設けてあります。
モスタルでは、ここまでのバルカン半島の旅で出会ったものとは全く違う風景が広がりました。