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Channel: さすらい人の独り言
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行ってきましたイラン

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今回は、イランを見てきました。
出かける前は気安く観光ができのかと不安を覚えましたが、実際には親日的で、見所も満載で、一級品の観光対象国でした。イスラム文化に興味があるのなら、まず見学するべき国だと思いました。

この報告はこれから開始いたしますので、お楽しみに。

(写真は、エスファファーン・イマーム広場)

さすらいの風景 成田からテヘラン

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パキスタンに続いてイランに出かけてきました。イランというよりもペルシャという響きに憧れを感じての旅立ちでした。

イラン8日間の旅でしたが、帰国時にドバイでの乗り継ぎができずに、1日遅れでの帰国になりました。ドバイでのホテル及び食事代はエミレーツ航空持ちであったので、そのおかげで簡単なドバイ観光もできました。

旅行日程は、以下のようなものでした。(航空機の時間は、予定のものです。)

「イラン8日間」(阪急旅行社) 2013年12月13日〜21日(航空機遅延のため1日延長)

第1日目 12月13日(金)
 成田発 22:00 (EK0319)

第2日目 12月14日(土)
 ドバイ着 5:00
 ドバイ発 7:50 (EK0971)
 テヘラン着 9:35
 テヘラン市内観光(ゴレスタン宮殿、バーザール、宝石博物館、イラン考古学博物館)
 テヘラン泊(TEHERAN ENGHELAB HOTEL)

第3日目 12月15日(日)
 テヘラン発 7:20 (W51089)
 シラーズ着 8:35
 シラーズ観光(ナシールアルモスク、エラムガーデン、アリ・エブネ・ハムゼ廟、サアディー廟、コーラン門、ハーフェーズ廟、ヴァキールの市場)
 シラーズ泊(PARS)

第4日目 12月16日(月)
 ペルセポリス観光
 ナクシュロスタム観光
 パサルガダエ・キュロス王の墓
 ヤズド泊(SAFAYIEH YAZD)

第5日目 12月17日(火)
 ヤズド市内観光(沈黙の塔、ゾロアスター教寺院、ヤズド旧市街、金曜日のモスク、アミール・チャクマック広場)
 イスファハン市内観光(金曜日のモスク、ヴァンク教会、イマーム広場の夜景)
 イスファハン泊(KOWSAR ISFAHAN)

第6日目 12月18日(水)
 イスファハン市内観光(チェヘルソトン庭園、マスジェディ・エマーム、アーリー・ガーブ宮殿、ハージュ橋、マスジェデ・スエイブ・ロトゥフォッラー)
 イスファハン泊(KOWSAR ISFAHAN)

第7日目 12月19日(木)
 アブヤネ村観光
 カシャーン観光(テペ・シャルク、フィーン庭園)
 テヘラン発 21:20 (EK0978)
 ドバイ着 23:59

第8日目 12月20日(金)
 ドバイ泊(マジェスティック・ホテル)
 ドバイ観光(ブルジュ・ハリファ観光)

第9日目 12月21日(土)
 ドバイ発 2:55 (EK0318)
 成田着 17:20

成田出発が夜遅くのために、家を朝出ました。この日、強い低気圧が北海道を通過し、私は問題なく成田に到着できましたが、北海道から参加の二名がキャンセルし、一名は別便を利用して三日目から合流となり、全部で16名の小人数での観光になりました。

成田での待ち時間が長かったので、昼と夕食をとることになりましたが、幸いセブンイレブンがあるので、食料を買い込み、ビールも飲んで時間をつぶすことができました。レストランに入ると、飛行場値段で高いですしね。

タイムテーブルを見ると、ドバイ行きは、後ろから三番目の出発でした。観光客もあらかた出発した後で、出国手続きも簡単に済みました。



今回は、ドバイ経由でテヘランまで、エミレーツ航空の利用になりました。



エコノミークラスでも、このようなアメニティーグッズをもらうことができました。ベルト通し付きのポーチに、アイマスク、靴下、歯ブラシセット。なお、トルコ航空と違って、行きも帰りと同じ物でした。

もらうとうれしいのだけど、使わないのだよね。



成田からドバイへは、中国を西に横断してからパキスタンを南下するコースでした。シルクロードのルートと同じで、期待が高まりました。

エミレーツ航空は、ビデオが充実していましたが、iPODの音楽を聞きながらうつらうつらと過ごしました。



一回目の食事。グリル・チキンのプロヴァンス風ソース添えということです。もう一品は、牛肉の黒胡椒炒め。

美味しく食べましたが、食事とドリンクを配るのがえらく遅い。反対の列が食べ終わった頃に、ようやく配られました。



イランは、アルコール禁止で、持ち込みも法律で罰せられます。エミレーツ航空では、普通にビールやワインは提供されたので、しばしのお別れということで飲んだくれました。ビールは、ヴァドワイザーとハイネケンでした。



二回目の食事。真夜中で食欲もないので、少しでも食べやすいかと思って和食のサワラのグリルを選択しました。あまり美味しくなかったです。もう一品は、西洋アサツキが入ってオムレツ。今度はワインを飲みました。



ドバイ空港は、巨大で、建物内の装飾も凝っていました。



金持ちアラブ国の空港とあって、ブランド店も多く並んでいました。ブランド店は、素通りするだけですが。早朝にもかかわらず、乗客で空港内は賑わっていました。



アラブ風な壺も売っていました。



ベリーダンス用でしょうか、エロティックな衣装も展示されていました。



立派なクリスマスツリーも飾られていました。ここってイスラムの国ですよね。



空が明るくなったところで、再び飛行機に乗り込みました。



ドバイを飛び立つと、すぐにホルムズ海峡に出ました。眼下に見えているのはゲムシュ島のようです。ホルムズ海峡は、ペルシア湾沿岸諸国で産出する石油の重要な搬出路になっています。

現在では、イラン核開発問題のため、イランと欧米・湾岸アラブ諸国との間で緊張が高まっています。アメリカ海軍が展開し、これに対抗して、イランも定期的に海峡で軍事演習を行っている政治的緊張の場でもあります。



イラン内陸部に入ると、赤茶けた大地が広がるようになりました。



ドバイ・テヘラン間でも食事が出ました。朝食のためにオムレツでした。





航空機は、ザグロス山脈に沿うように北上しました。ザグロス山脈は、4000m級の山が連なり、雪で白く覆われていました。

今回のイラン旅行は、12月の寒い季節とあって、中東の国なら暖かいだろうと思って予約したのですが、良く調べると東京よりも寒いことが判りました。実際にも、観光中に寒くて苦労する場面もありました。

なお、果物のザクロは、このザグロス山脈の名前に由来するとも言われています。



イラン入国は、私の当たった管理官がコンピューターの照合に手間取ったかで時間がかかりましたが、なにがまずかったか判らないままに入国スタンプを押してくれました。運が悪いと、別室に連れて行かれて指紋採取が行われてしまようです。

荷物検査は、グループでまとまってからX線検査に向かうと、必要ないといってそのまま通してくれました。

イラン国内では、政府機関などは撮影禁止のため、少し離れてから空港を撮影しました。

テヘランまでは長旅でしたが、無事に入国し、さっそくテヘランの市内観光を始めました。

さすらいの風景 テヘラン その1

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テヘランの観光では、まずゴレスターン宮殿を見学しました。

ゴレスターン宮殿は、ガージャール朝(1779〜1925年)の王宮として建てられました。パフラヴィー朝の時代(1925-1979)まで少しずつ建て増しされ、戴冠式など王家のレセプションの場として使用されていました。

このガージャール朝の歴史は、日本の明治時代に重なりますが、西欧列強とロシアへの従属の時代でした。トルコもそうでしたが、イラン人も日本好きが多いようで、その理由の一つに日露戦争でロシアを負かしたことが挙げられるといいます。平和教育のもとで日本人自身が忘れ去ろうとしている日露戦争の勝利が、思わぬ実を結んでいます。

入り口を入ると、噴水の設けられた水路の向こうに宮殿の建物が広がっていました。ゴレスターン宮殿は世界遺産に選ばれていますが、後ろのビルがせっかくの景観を損なっています。



ズームアップして宮殿だけを写しこみましょう。



ゴレスターン宮殿の前庭には、ペルシャ式庭園がもうけられています。ゴレスターンは「花のある場所」という意味があります。



庭にいるのは、カラスとのこと。日本の真っ黒カラスと違って可愛く見えます。



宮殿内には多くの建物が設けられていました。これは民俗学博物館のようですが、残念ながら入場しませんでした。



建物の壁には、装飾タイルで美しく飾られていました。



アーチの上はしっくいのレリーフでしょうか。





装飾タイルに覆われた壁が続いていました。



ペルシャブルータイルと呼ばれることもありますが、青の美しいタイルが張られていました。



イスラムでは、写実的な絵は避けられるのが通常ですが、狩や鳥が描かれています。



ゴレスターン「花のある場所」の名前に相応しい花の絵も飾られています。





熊狩りの絵。



パターン化した模様。



バラを用いたパターン模様。



タイル模様も見学していると女学生の一団がやってきました。日本の年頃の女学生と同じようにうるさいほどに明るく、写真を撮らせてくれました。イスラムの女性というと、髪は隠さなければならないとか、体のラインを隠す服を着る必要があるなどと、閉鎖的な感じがしますが、イランで出会った女性は予想に反して親しみやすい人ばかりでした。





謁見室のある宮殿本館に向かいました。





宮殿の入り口。



謁見室や客室などを見学しましたが、残念ながら宮殿内は撮影禁止でした。

開いたドアの隙間から入り口ホールを撮影したこの写真から判るように、細かいガラスを壁や天井に張り詰めて、キラキラに輝く内装が施されていました。天井から吊るされたシャンデリアはフランスのバカラ製で、趣味はともかく豪華絢爛でした。



入り口のドアの両脇にはライオン像が置かれていました。丸い玉を踏みしめているのは、唐獅子と同じですね。



壁には、ライオンと太陽神を組み合わせた像が、数多く取り付けられていました。



ウズベキスタンでも、同様の図案が描かれていましたが、ペルシャから伝わったのでしょうね。











庭に向かって開放された部屋。



王の謁見用ホールとして使われていたのか、王座も置かれていました。



宮殿内部と同じように、このホールも小さな鏡が一面に張られていました。





天井もキラキラ。



ガラスを組み合わせて、細かい装飾も施されていましたが、ガラスの反射に目が眩むばかりでした。



宮殿脇の通りで見かけた喜捨のためのポスト。

この後、徒歩で近くのバーザールに向かいました。

さすらいの風景 テヘラン その2

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ゴレスターン宮殿見学の後、バザールにやってきました。入り口前の広場には、大勢の人が集まっていました。立っているだけのようで、何をしているのでしょうね。



バザールの入り口には、イスラム風のアーチが設けられていました。



中に入ると、上野アメ横並みの混雑でした。ここでは買い物はせずに見て回るだけとの説明がされましたが、ガイドについていくのでやっとでした。



売る商品は場所ごとにまとまっていますが、入り口付近は布関係の商品が並んでいました。



キラキラの室内装飾品。



中は迷路のようで、脇道に入ると混雑も少し和らいできました。



天井から吊るされた黒い幕は、第三位の宗教的指導者が亡くなって、近いうちに葬儀を行うため、その喪章のようです。



このような黒幕は、この後で訪れたイランの各地で見かけました。



ドライフルーツの店。



なぜか、下着のゾーンに入ってきました。



堂々と写真を撮るのに躊躇してしまいますね。



横目で見ると、日本では見られない派手な色合いの下着が並んでいました。



金銀を売る店が並んだ一画に出てきました。



イランはアメリカ主導の経済制裁でインフレ率も相当に高くなっているため、貴金属で財産の保全を計っているのかもしれません。



人混みの中を歩いていると、若者はジーンズをはいており、女性は明るい色のスカーフをかぶっていたりして、服装については自由化が進んでいるように見えました。

さすらいの風景 テヘラン その3

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バザール見学後に昼食をとり、午後の観光としてまず宝石博物館を訪れました。

宝石博物館は、イラン国立銀行の地下にあり、人が集まっている所が入り口になります。見た感じはここが博物館かと思う地味な入り口です。チェックは厳重で、カメラやバックなどの持ち込みは禁止されており、手ぶらで入場する必要があります。



カメラの持ち込みは禁止のため、撮影した写真はありませんが、日本語のガイドブック(10000リアル)と48枚セットの絵葉書(50000リアル)が販売されているので、その画像をアップすることにしましょう。日本語ガイドブックと絵葉書合わせて60000リアルですが、これは日本円で300円以下の激安価格です。国立銀行ならではの太っ腹です。あるいはインフレによる市場価格の高上に合わせないで、昔の価格のままで販売しているのかもしれません。

イラン到着時に現地ガイドから20ドルをリアルに代えてもらいましたが、リアルが必要だったのは、ここのガイドブックと絵葉書代に、スーパーでの配り用のお菓子の買い物くらいで、後はドルを使うことができました。



エメラルド小冠

宝石博物館では、エメラルド、ルビー、ダイヤモンドなど、宝石の種類ごとにまとめて展示されていました。



ナーデルの帽子飾り 18世紀 イラン製



トルコ石がちりばめられた水パイプ

なお、トルコ石はペルシャで産出され、これがトルコ経由でヨーロッパに運ばれたためトルコ石と呼ばれるようになったといいます。



金製のエナメル細工の水差し



孔雀の玉座

王座の先端に曙光をイメージしたデザインに宝石が取り付けられているので、太陽の玉座とも呼ばれます。孔雀の玉座は、ゴレスタン宮殿に置かれていましたが、1981年に宝石博物館に移管されました。



ナーデルの玉座 1798〜1834年製作

この玉座は、26733個の宝石がちりばめられて、離宮への移動のために12の部分に分かれるようになっています。



宝石地球儀

1869年に、保管されていた粗い宝石類を用いて作成されました。34kgの金と3656gの宝石が使われています。大洋はエメラルド、陸地はルビー、イランや英国はダイヤモンドで現されています。



アッパース・ミルザの帽子 イラン製 19世紀初頭



キイアニ王冠 イラン製 1797年

カジャール朝の王たちによって使われました。



パーレヴィー王冠

レザー・ハーンやモハマッド・レザー・パーレヴィー王によって使われました。王冠の総重量は2080g。



ファラー王冠

ファラー・パーレヴィー王妃が用いるため、収蔵された宝石のうちから未使用のものを使って1967年に造られました。プラチナ台に1469個のダイヤモンドやエマラルドなどがはめ込まれ、総重量は約1.5kgあります。

被っていると首が凝るでしょうね。



ルビーカップ インド製 17世紀



エメラルド製かぎ煙草入れ イラン製 19世紀後半



燭台 1800年製作

ゴレスタン宮殿の孔雀の玉座の脇に置かれていました。



ダリヤー・イェ・ヌール

この宝石博物館を代表する宝石です。世界最大きなピンクダイヤモンドで、「光の海」と名づけられています。182カラットもあり、1739年にナーデル・シャーとの戦争に敗れたムガール皇帝ムハンマドから贈呈されたものです。

ダイヤモンドというには巨大で、ガラスの塊のように見えてしまいます。



真珠のブローチ

あひるは黒真珠、白鳥は白真珠で作られています。スワロフスキー製でありそうですが、素材が違いますね。



エメラルドと真珠のネックレス 1967年製作



宝石で飾られたデキャンタ 19世紀中旬製作



帽子飾り

宝石でネコの顔を作っています。



ルビーのネックレス



トルコ石とダイヤモンドのネックレス



ダイヤモンドのネックレス



ルビーの王冠



ダイヤモンドの王冠



ルビーの王冠

これまでにも、イスタンブールのトプカプ宮殿宝物館やロシア・クレムリンのダイヤモンド庫で大量の宝石コレクションを見てきましたが、この宝石博物館はさらに上をいくものでした。

賀正

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謹賀新年

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

今年も山と海外旅行を楽しみたいと思っています。

(パキスタン・フンザ ラカポシ7788mの夜明け)

さすらいの風景 テヘラン その4

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宝石博物館に続いてイラン考古学博物館を訪れました。

イラン考古学博物館は、パフレヴィー朝時代の1935年に、ササン朝時代をイメージさせる建築様式で建てられました。紀元前6000年から19世紀に到るまでのイランの考古学的、美術的に重要な美術品が収蔵されています。



館内では時代順に展示されており、最初は紀元前6〜4世紀の土器、陶磁器、青銅器が並んでいます。



紀元前3000年頃の土器。



美しい鹿の模様が描かれています。



チョガー・ザンビールで発掘された牡牛像



牡牛像には楔形文字が刻まれています。



チョガー・ザンビールで発掘された青銅の車輪。



ユーモラスな形の土器も並んでいました。



ダレイオス?世がエジプトに造らせたという彫像。紀元前6世紀頃。



裾部には楔形文字が刻まれています。



台座などにはエジプトのヒエログリフが刻まれています。



この博物館の目玉と言える、ペルセポリスのダリウス?世の謁見の間から発掘されたレリーフ。椅子に座るダリウス?世で、背後に立つのが息子のクセルクセス?世と言われています。



ダリウス?世の手は、平和を象徴するハスの花が握られています。



ダリウス?世の前に立つのは、丸い帽子をかぶったメディア人です。



ダレイオス1世の謁見の間にあった、彩釉煉瓦によるペルシャの兵士像。B.C.6世紀頃。



ゾロアスター教のシンボルが描かれています。



謁見の間へ続く階段に施された衛兵の行列浮彫

階段の外側にはペルシャ軍の兵士が描かれています。



階段の内側には、生け贄を持ったペルシャやメディナの神官が描かれています。



百柱の間にあった牡牛の柱頭





ダリウス?世と言われる胸像



ペルセポリスから出土したラピスラズリで造られた王子像の頭



パルティア貴人の銅像。紀元前2世紀



カットグラス椀。

奈良の正倉院の宝物として有名な白瑠璃碗は、これと同じ造りです。



ソルトマンと呼ばれる1993年に塩抗で発見された3世紀のミイラ。



足の部分も残されています。



ササーン朝ペルシャの首都ビシャプールで発掘されたモザイク。

考古学的には興味深い展示品が並んでいますが、宝石博物館を見た後では、ちょっと地味な感じがしてしまいます。

さすらいの風景 テヘラン その5

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テヘランの市内観光を終えてホテルに向かいました。

思っていたよりも近代的な街並みが広がっていました。





車窓から見たウェディングドレスのお店。体の線の露出度も高く、日本と変わりませんね。



テヘランの宿は、TEHERAN ENGHELAB HOTELでした。



部屋は、ところどころガタがきている所もありましたが、きれいでアメニティーグッズも揃っていました。



部屋の中を見ていくと、メッカの方向を示す印が壁に付けられていました。



メッカとでも書かれているのでしょうか。



備え付けの棚を開けてみると、コ−ランとお祈りの際に敷くマットが用意してありました。



ホテルの部屋は通常の洋式便所でしたが、イランの共用トイレは、このようなアラブ式のものでした。水洗用のノズルが備えてありますが、一般的には紙は備え付けてありません。

和式トイレと同じでもあり、水で洗うのはあきらめて持参の紙を使えばよいのですが、別な問題がありました。イランでは、小用の際も水で洗うようで、小用の便器がありませんでした。個室の数は限られるため、トイレの際には男性も個室の前で待つことになりました。今回は、小人数のグループだったので助かりましたが、大人数だと面倒なことになったことでしょう。



部屋から見た夜景。ボルジェ・ミーラードと呼ばれる、世界第6位の電波塔である高さ435メートルの塔が見えています。イランの電波塔が、世界的に見てこの順位にいるのは意外です。



ライトアップされたモスクも見えていました。



ホテル近くの大通りまで出てみました。通りにあった紳士服の店。地球の歩き方では、「イランではネクタイを着用することは反イスラームと見なされているため、どんなフォーマルな場合であっても、ノーネクタイで通した方がよいだろう。」と書かれているのですが、スーツを着たマネキンはびしっとネクタイを締めていました。

ホテルがあった地区には各国の大使館やテヘラン大学があって進歩的な人が住んでいるようで、そのような人が決める時には、スーツにネクタイといった服装をするのではないかと思います。イランは、変わろうとしているようです。



通りで見た花屋。品数が揃っています。



店には、ペルシャ文字のネオンが輝いていました。



街角のナン屋さん。夕食のため、焼き立てのナンを買っていました。



スナック類の店。



翌朝は、シラーズへの移動のため、4:30にモ−ニングコールで早起きして、空港に向かいました。

途中、アーザーディー・タワーを見ることができました。ライトアップされていることもあるようですが、この日は暗い中に立っていました。

アーザーディー・タワーは、高さ45mあり、1971年にペルシャ建国2500年を記念して建てられました。



空港で出発を待っていると夜が明けてきました。飛行機に乗り込もうとすると、前日は雲がかかっていたテヘラン北部に広がるアルボルズ山脈の眺めが広がっていました。真っ白に雪をかぶっていました。



富士山型の山は、ダマーヴァンド山(5601m)のようです。

実は、12月の海外旅行を考えるにあたって、中近東なら暖かいだろうと思ってイランを選んだのですが、良く調べると東京並みに寒く、観光中にも寒さに苦労する場面もありました。



現在日本へは運航されていないイラン航空のロゴマーク。これは、イラン観光の目玉でもあるペルセポリス遺跡にあるグリフィンの像に由来しています。



前日、ドバイからテヘランへ移動した距離の三分の二ほどを戻ってシラーズへと移動しました。航路に沿って見えるアゾロ山脈は白く染まっていました。

さすらいの風景 シラーズ その1

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イランの観光は、テヘランから南部のシラーズに移動し、そこから北上しながら観光を行ってテヘランへ戻るという行程になりました。

シラーズは、紀元前のアケメネス朝以来四度にわたって首都が置かれ、現在ではイランで五番目に人口の多い街になっています。特に、ザンド朝の名君キャリーム・ハーン(1750年〜1779年)によって、寺院や市街地が整備されました。近くには、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)の都のペルセポリスがあり、その観光基地になってもいます。

シラーズに到着して、まずマスジェデ・ナスィーロル・モスクを訪れました。市街地の奥にある、比較的小さなモスクです。



外壁は見事なタイル装飾で飾られていました。



ペルシャでは、イスラム的には教義からはずれるのではと思われるような、写実的な花や鳥の模様が描かれていました。



門の上には、ムカルナス(鍾乳石飾り)の装飾が施されていました。



ここで、シラーズの現地ガイドのファラさんと合流。美人で、この後の記念写真の相手として引っ張りだこになっていました。



マスジェデ・ナスィーロル・モスクの中庭です。1887年に完成しました。均整がとれていますが、ここの魅力はもっと別なところにあります。



塔の上には、指を広げた手の飾りが置かれています。これは、シーア派のモスクで良く見られ、ムハンマド、ファティマ、アリー、ハサン、フセインの五聖人を象徴しているとのことです。



マスジェデ・ナスィーロル・モスクの最大の見どころである西の礼拝室に入りましょう。

ステンドグラスを通して差し込む光が、礼拝堂を美しく染めていました。この光景から、ローズモスクあるいはピンクモスクとも呼ばれています。



この眺めを得るためにも、マスジェデ・ナスィーロル・モスクは午前中に訪れる必要があります。



我々グループの貸し切り状態で、ゆっくりと写真を撮ることができました。



柱も虹色に染まっていました。



絨緞もオリジナルの模様が判らないほどに、ステンドグラスの色に染まっていました。





ステンドグラスを通しての光に目を奪われてしまいますが、天井やアーチ部分には細かい模様が施されていました。



メッカの方向を向いてお祈りするための目印のミフラーブ。



絨緞の上には、お祈りの際に頭をつけるための小石が置かれていました。



内部を見学していると、ファラさんが良い場所に座って休んでいたので、モデル撮影会になってしまいました。





東の礼拝堂は、現在では資料展示室になっています。



部屋の構造は、こちらの方が良く観察できます。



礼拝堂の中に、井戸の入り口がありました。



深い井戸が掘られていました。



中庭に戻って、タイル装飾を見学しました。





マスジェデ・ナスィーロル・モスクにはドームも設けられていました。

続けてエラム庭園に向かいました。

さすらいの風景 シラーズ その2

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エラム庭園に向かう途中、街中に大きなスイセンの飾りが置かれていました。香の強いスイセンが、シラーズの特産品になっています。



エラム庭園に入場しました。



エラム庭園は、ガージャール朝時代の1800年代に造られた庭園で、「ペルシャ式庭園」として世界遺産の構成物の一つに選ばれています。



バラ園も設けられていました。エラムとは、ペルシャ語で天国という意味です。



12月とあってバラの花も僅かになっていましたが、シラージは標高1600mの高地にあるため、四季を通して温暖な天候に恵まれています。



庭園の中心といえるエラム宮殿です。ガージャール朝の19世紀に造られました。



宮殿の前には、水路が延びて噴水も設けられています。四分割されて整然と整備された庭園や水路がペルシャ式庭園の特徴になっています。



宮殿の壁には、美しいタイル装飾が施されていました。



中心には騎馬像。



脇には、上半身裸の女性も描かれています。イスラム的にどうなのでしょうね。



ペルセポリスのレリーフでは「牡牛を襲うライオン」の像が有名ですが、この書き方では雌牛を襲う豹ですね。



反対側にも同じような絵が描かれていますが、微妙に違っています。



女性の群像。



ライオン退治の像。羽のようなものがあるのでグリフィンかもしれません。



花も描かれていました。



女性の像も描かれていました。



エラム宮殿を脇からみたところ。



庭園の木立は刈り込みが行われていました。ペルシャ式庭園は、フランス式庭園と共通点があります。



12月とあって、木の葉も落ちて、冬枯れの雰囲気がただよっていました。



恋人たち。

すぐ脇にシラーズ大学があるので、若者のデート場所になっているようです。



入り口脇には、小鳥占いが客待ちをしていました。手にのせた小鳥が占い紙を引き出すという仕組みのようです。

緑のシーズンから外れていて、花は少なかったですが、ペルシャ式庭園の魅力は味わうことができました。

さすらいの風景 シラーズ その3

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エラム庭園に続いて、アリー・エブネ・ハムゼ聖廟を訪れました。

外からは、タイルで装飾されたドームの頭が見えていました。



アリー・エブネ・ハムゼ聖廟に入場すると、中庭に出ます。この聖廟では、女性は頭から全身を覆う布のチャドルを着用することが決まっています。チャドルは無料で借りることができ、女性群は、チョドルを着た姿での記念写真に興じていました。

ここのドームは、たまねぎ型の美しい姿をしています。



ドームは美しいタイル装飾が施されています。



中庭には、池が設けられていました。



アリー・エブネ・ハムゼ聖廟へは、男女別々の部屋に入場することになります。廟の内部は鏡モザイクで、煌めいています。



アリー・エブネ・ハムゼは、835年にシラーズで殉教したエマーム・レザーの弟のセイイェド・アフマド・エブネ・ムーサーの甥とのこと。セイイェド・アフマド・エブネ・ムーサーを祀ったシャー・チュラーグ(ランプの王)廟は、巡礼者が集まる聖地になっており、廟内はイスラム教徒しか入れませんが、このアリー・エブネ・ハムゼ聖廟は、同じ造りで、異教徒にも開放されています。



聖廟内で、熱心にお祈りをしている人もいました。



キンキラで、写真撮影も大幅な露出補正が必要になります。



イランの新婚所帯では、まずランプと鏡を揃えるといいますが、これは家庭を明るくするという意味があるようです。このようなガラスモザイクは、キリスト教の聖堂で薄暗い中にロウソクが揺らめいて神秘性を高めているのとは、逆の発想です。



中央の柵で囲まれた中に墓石が置かれているようです。



壁の向こうに、女性用の礼拝室が広がっています。銭湯の仕切りを思い浮かべてしまうのは、不信心者ということになってしまうでしょうね。

さすらいの風景 シラーズ その4

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アリー・エブネ・ハムゼ聖廟に続いて、サアディー廟を訪れました。

サアディーは、1290年に亡くなった抒情詩人で、70歳を過ぎてからシラーズに戻り、代表作「ゴレスターン(薔薇園)」を書き上げました。



サアディー廟は、1864年に建てられました。



廟の中には墓石が置かれていました。



ガイドのアリさんが、サアディーの詩を朗読してくれました。「盗賊が隠者の庵に入ってめぼしい物が無いのでがっかりしていると、隠者が気づいて、自分が敷いていた粗末な敷物を投げ与えました。神の道に励む者は、敵の心も悩まさない・・・」というような内容だったようです。結構長い朗読で、内容は理解できませんでしたが、ペルシャ語の響きを味わうことができ、イランの人々がペルシャ語に誇りを持っていることが判りました。



廟の壁は美しいタイル装飾で飾られていました。



花と鳥が描かれており、詩人に相応しい絵柄です。



これは詩の一節でしょうか。



前庭の階段を下りると、小さな池が設けられていました。カナートと呼ばれる地下水路で水が導かれているようです。なぜか、魚が泳いでいました。



続いて、クルアーン(コーラン門)へ。



街の北東にあり、エスファハーンやペルセポリス方面から訪れる際の玄関口になっています。門の上部に古いクルアーン(コーラン)が治められていたので、この名前で呼ばれています。



街の外側からの眺め。



コーラン門の装飾。



コーラン門の脇には、14世紀のイランの詩人のハージュー・ケルマーニー像が置かれていました。

ペルシア語圏において、ハージュー・ケルマーニーは、オマル・ハイヤーム、ハーフェズ、サアディーと並ぶ四大詩人の一人に数えられるようです。

この中で、以前から名前を知っていたのは、オマル・ハイヤームだけですが。



さらに、ハーフェズ廟を訪れました。



丸屋根の東屋の中に墓石が置かれています。



廟を見学しようとすると、子供たちの一団がやってきました。



子供の写真撮影会になってしまいました。



服装も個性的で、親が子供に気配りをしていることがうかがえます。



さて、ハーフェズ廟です。1935年にフランス人建築家がペルシャの伝統をふまえて設計したものです。



ハーフェズは、1325年から1389年の生涯のほとんどをシラーズで過ごし、酒や音楽についての詩を多く残し、それらは比喩であって、神への愛や信仰心を詠ったといいます。イランでもっとも偉大で、敬愛されている抒情詩人と言われています。コーランを全て暗唱できることから「クルアーンの暗唱者」という意味でハーフェズと呼ばれています。

墓石には、ハーフェズの詩が刻まれています。



廟の周りは庭園になっており、ハーフェズの詩を朗詠していました。

シーラーズは詩人等に愛された都市で、「薔薇と詩」で知られた芸術や文化の中心地であったことが判りました。

さすらいの風景 シラーズ その5

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夕方近くなって、シラーズ観光の最後として街の中心地を訪れました。

キャリーム・ハーン城塞の脇でバスを下りました。キャリーム・ハーン城塞は、ザンド朝時代にキャリーム・ハーンの居城として使われていました。四隅に円塔を備えています。



この円塔は傾いてしまっています。



バザーレ・ヴァルキールに向かいましたが、古本屋なのか壁に本が並べられていました。なかなかユニークな展示です。



通りにはスパイス屋も見ることができました。



何のスパイスを売っているのか判りません。



バザーレ・ヴァルキールに入ります。ザンド朝時代から続くレンガ造りのバザールです。



チャドルの店のようです。チャドルは、既製品は無いようです。



鮮やかな布地はスカーフでしょうか。



華やかなドレスを売っていました。チャドルの下は、結構おしゃれをしているともいいます。



主に布製品が並んだ通路を進んでいくと、円蓋が現れました。



ここでは、主に工芸品が売られていました。



その奥に小広場が現れ、それを囲むように店が並んでいました。昔の商人宿(カールヴァーン・サラーイ)を利用したサラーイェ・モシールです。



ここで自由時間になりましたが、イランに到着してまだ二日目とあって、あまり買いたいものがなく、イラン旅行での土産物はイスハファーンで買い込むことになりました。





二階の回廊部に上がることができ、広場を見下ろすことができました。





バザーレ・ヴァルキールの見学を終えてバスに戻る途中、キャリーム・ハーン城塞が夕焼けに染まっていました。



空が薔薇色に染まりました。イラン到着時の天気予報では、天気が崩れるとのことだったのですが、幸いなことに、この後のイラン観光中は晴天に恵まれることになりました。



シラーズの宿は、PARSでした。



このホテルも、部屋はきれいでした。



部屋の窓からは、隣に立つモスクを見下ろすことができました。



ロビーには、シラーズ特産のスイセンが飾られていました。



ホテルは、街の中心からは少し離れていましたが大通り沿いにあり、商店も並んでいました。ナッツ類の店に案内され、とりあえずビスタチオのお菓子を買いました。

さすらいの風景 ペルセポリス その1

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旅の四日目は、イラン観光の最大の見どころであるペトラ遺跡の見学になります。

シラーズの街を出ると、茶色に染まった岩山が広がるようになりました。



ペルセポリスの到着直前になると、直線道路の先に遺跡が見えてきました。この直線道路は、王の道と呼ばれ、ダレイオス一世が支配地にめぐらせた道路の一部になっています。



バスを下りて、しばらく参道を歩きます。



観光客の団体は我々だけだったのですが、戸外学習なのか、子供たちの集団が見学に訪れていました。



ペルセポリスの入り口が良く見えるようになってきました。遺跡は、岩山の麓を削った高さ12〜14mの基壇の上に広がっており、入り口には大階段が設けられています。

ペルセポリスは、遺跡ファンの間では、ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡とともに、中東の3Pと呼ばれています。このうち、シリアのパルミラ遺跡をしばらく訪れることはできそうにないのは、残念なことです。

ペルセポリスは、紀元前520年、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世が建築に着手し、その子のクセルクス1世によって、宮殿や広場が築かれ、即位式や宗教的儀式の都になりました。

日本がまだ縄文時代の古代です。

しかし、紀元前331年に、ペルセポリスはアレクサンダー大王の攻略によって陥落し、出火によって廃墟になってしまいました。

ペルセポリスは、古代ギリシャの歴史家の著した「アレクサンドロス伝」によって広く知られるようになり、名前の由来は、「ペルシアの都」と、「都市を破壊する」を掛けた一種の言葉遊びであったとも言われています。



基壇の上には、クセルクセス門(万国の門)が聳えています。



入り口の左右に大階段が設けられています。



111段の階段は、馬でも通れるように、各ステップは低く造られています。



保護のために木製の階段が上に被せられていますが、脇にオリジナルの階段が見えています。



基壇の上から王の道を見下ろしたところ。



基壇の上に出ると、クセルクセス門(万国の門)が現れました。



クセルクセス門(万国の門)は、クセルクセス1世によって造られ、控えの間として使われていたといいます。



門の両脇には、巨大な牡牛の像が置かれています。残念ながら偶像崇拝を嫌うイスラム教徒によって顔が破壊されています。



円柱の高さは10mあります。



門の中の壁には落書きが見られますが、発掘に携わった歴史学者のものもあるようで、これはこれで歴史的遺物になってしまっています。



クセルクセス門の出口には、人面有翼獣神像が置かれています。



顔の部分は破壊されていますが、その他の部分は良く残されています。





この巨大な像を見ていると、当時の威容がどのようなものであったのだろうと、想像が膨らみます。



遺跡見学の途中、アバダーナ(謁見の間)から見たクセルクセス門。



クセルクセス門の先には、儀仗兵の通路が延びています。道の両脇の窪みそれぞれに、儀仗兵が立っていたようです。



儀仗兵の通路の脇に、ペルシアではホマと呼ばれているライオンの胴にワシの頭と翼を持つグリフィンの頭像が置かれています。これは、柱の頭に置かれて、中央部に横柱を載せて支えていたようです。別な場所で発掘されたものが、この場所に展示されているようです。



このホマ像は、テヘラン空港で見ましたが、イラン航空のロゴマークに用いられています。

さすらいの風景 ペルセポリス その2

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続けてアパダーナ(謁見の間)に向かいました。アパダーナ(謁見の間)は、ダレイオス1世の命によって建てられた宮殿で、属国からの使者との謁見、ノウルーズ(新年)の祭儀のために用いられました。



ここでの見どころはレリーフが良く残されている東階段で、保護のために屋根が設けられています。遺跡の景観としては違和感がありますが、保護のためとあっては仕方がありませんね。



アパダーナ(謁見の間)は、高さ2.6mの床の上に設けられていますが、側面にレリーフが施されています。



有名な「牡牛を襲うライオンのレリーフ」

ライオンが夏、牡牛が冬を現し、季節の移り変わりを示しているという説が有力です。同じ図案のレリーフは、いくつか置かれていました。



ペルシャ人とメディア人の要人の行進が描かれています。



ペルシャ人が「縞の帽子」、メディア人は「丸い帽子」を被っていることで、両者を区別することができます。



階段脇の装飾。



植物をモチーフにした装飾。



クサビ状文字で、いわれかなにかが書かれています。



衛兵たちの行進。



アディダスの靴の三本線マークはこのレリーフに由来します、というのは冗談。



この東階段には、王に贈り物をする23の属国の使者の様子が描かれています。それぞれの国は、糸杉のレリーフによって仕切られています。

23か国のレリーフを以下に並べます。中には、損傷が進んでいるものもあります。

メディア アケメネス朝のおひざ元。



エラム 子供と母ライオンを携えています。



アルメニア  グリフィンをかたどった壺を持っています。



アーリア イラン東部の民族で、フタコブラクダを従えています。



バビロニア 牡のコブ牛を連れています。このレリーフでは、牡の牛や馬は、股間の一物が必ず描かれています。



リディア 小アジアで流行の靴を履いて入場。



ブーツのように見えますね。



アラコシア  アフガニスタンの現在のカンダハールのある地方。



アッシリア 羊をつれています。



カッパドキア 布や種馬を携えています。



エジプト レリーフの上部にあって損傷が進んでいます。



スキタイ 武装状態で入場しています。





イオニア 布やトウモロコシを持っています。



バクトリア



ガンダーラ コブ牛を連れています。



パルティア 二種類の鉢を持ち、フタコブラクダを連れています。(なお、地球の歩き方の写真では、バクトリアとバルティアの写真が入れ違っています。)



サガルティア 現在のヤズド付近にいた民族。



ソグティアナ 弓や短剣、斧などの武器を身に付けています。



インド ヒンドゥー教徒の正装をしています。



スクドリア 小アジアのエーゲ海沿岸部の民族。



アラビア ロープをまとって、ヒトコブラクダを連れています。



ザランジュ アフガニスタン南西部の民族



リビア 動物たちを引き連れています。



エチオピア 黒人の風貌をしています。

博物館できちんとした照明を当てた方がレリーフが見やすくなるとは思いますが、遺跡の本来にある場所で見られることの方が大切だと思います。


さすらいの風景 ペルセポリス その3

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アバダーナ(謁見の間)は、屋根は失われて、12本の柱だけが残されています。かつては高さ19mの屋根を36本の柱で支えていたようです。



高い柱で、当時の壮麗さがうかがわれます。



遠くに見えている崖をめぐらせた岩山で、この遺跡の石が切り出されたようです。



アバダーナ(謁見の間)の中に巨大な双頭鷲像が見えています。



アバダーナ(謁見の間)の西側に回り込みながら見学を続けました。



アバダーナ(謁見の間)の隣りにあるタチャラ(ダレイオス1世の宮殿)が見えてきました。



タチャラ(ダレイオス1世の宮殿)は、ダレイオス1世のプライベートな宮殿。タチャラとは冬の宮殿という意味です。



かつては宝石が埋め込まれた彫像で飾られていたといいます。



基壇の側面には、様々な料理を運ぶ料理人の姿が描かれています。



タチャラ(ダレイオス1世の宮殿)は、他と比べて、比較的構造が残されています。





内部は立ち入り禁止ですが、中を良くみると、柱にレリーフが施されています。



貴人に日傘をさしかけています。傘はアッシリア時代の壁画に描かれているようで、その文化を継承したアケメネス朝ペルシャでも用いられたようです。



他にも人物のレリーフが見られました。



タチャラ(ダレイオス1世の宮殿)の隣にバディーシュ(クセルクセス1世の宮殿)があります。



クセルクセス1世のプライベートな宮殿で、バディーシュとは「居住のための宮殿」という意味です。



このレリーフは、かなり損傷が進んでいます。



人物のレリーフ。



このレリーフは、日傘の像が良く残されています。



人物が二人並んでいます。顔は壊されていますが、服のひだなどは良く残されています。



ペルセポリスの背後の岩山には、二つの王墓が設けられています。山に向かって左側は、アルタクセルクセツ2世の墓です。

アルタクセルクセス2世の治世はアケメネス朝の中では最長のものになりました。



ゾロアスター教の最高神のアフラ・マズダのレリールなどで飾られていますが、ここは最後の自由時間で訪れました。



山に向かって右側にアルタクセルクセス3世の墓が造られています。

アルタクセルクセス3世は、アケメネス朝の最後から三番目の王で、アルタクセルクセス2世の息子ですが、他の兄弟全てを殺害して王位に上がりました。暴君として知られていますが、軍事的には成功してペルシャの勢力を広げました。宦官によって息子と共に殺害されて、この墓所に葬られました。

最後の自由時間が短く、この墓まで足を延ばすことができませんでした。

さすらいの風景 ペルセポリス その4

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ペルセポリスの中心部を一周して、アパダーナ(謁見の間)の南東ににある中央宮殿(会議の間)にやってきました。



ここにも、日傘をさしかけられた貴人のレリーフが飾られていました。



ゾロアスター教のシンボル。



王座かつぎのレリーフ。

28の属州の臣民がダレイオス1世の王座を支え、王の背後にクセルクセス1世が控えています。



アパダーナ(謁見の間)の東側には、百柱の間があります。

百の柱が並ぶペルセポリス最大の広間でした。当時は、財宝が飾られていたといいます。



牡牛の像が飾られていました。



牡牛の像が飾られた未完成の門

建設中にアレクサンダー大王に破壊されて未完成に終わりました。



柱頭であったと思われる牡牛の像が、地面に置かれていました。

これで、ペルセポリスの中心部を一周して自由時間となり、山の中腹にあるアルタクセルクセス2世王墓を目指しました。



アルタクセルクセス2世王墓への道は、踏み跡状態で、急な登りに息を切らして墓の前にたどり着きました。



ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダの前に王が立ち、その下には28人の人物像が描かれています。28の属州の臣民がかつぐ「王座かつぎのレリーフ」と共通しています。



墓は閉鎖されており、中には入ることができませんでした。



柱の上に牡牛像が置かれていました。遺跡に転がっていた双頭鷲像や牡牛像がこのように使われていたことが判ります。



墓に描かれた像には、ライオン像も見られました。



アルタクセルクセス2世王墓の前は、ペルセポリスの全景を眺めることのできる展望台になっていました。

クリックで拡大写真

写真の右奥がクセルクセス門。そこから儀仗兵の通路が続き、その脇に未完成の門があります。中央の屋根が設けられているのが、アバダーナ(謁見の間)。その手前に百柱の間。アバダーナの左の奥にタチャラ(ダレイオス1世の部屋)。アバダーナの左隣に中央宮殿。左奥にハディーシュ(クセルクセス1世の宮殿)、その手前の建物は博物館。その前の山側には宝庫がありました。

宝庫にはダレイオス1世以来の王朝の財宝が保管されており、アレクサンダー大王が征服して運び出す時には、1万頭のロバと5000頭のラクダが必要だったといいます。



アルタクセルクセス2世王墓から見たクセルクセス門



未完成の門



少し下った所から見た百柱の間。



見学を終えて入り口の休憩所に戻ると、楔形文字とペルシャ文字の対応表が掲示されていました。記念の土産に、名前を皮のブレスレットに彫るというもののようです。英語のアルファベットとの対応があれば面白かったのですがね。

ペルセポリスは、期待通りの大規模な遺跡でしたが、観光バスは我々のものだけでした。ゆっくり見学できたことはうれしかったものの、イランの観光産業のためには残念なことに思いました。

さすらいの風景 ナグシェ・ロスタム

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ペルセポリス見学の後、ナグシェ・ロスタムに向かいました。ナグシェ・ロスタムは、ペルセポリスの北東6kmの所にある岩山に造られたアケメネス朝の王墓です。

車窓から、岩山の尾根の末端部に造られた王墓が見えてきました。



ナグシェ・ロスタムの入り口。



入ってすぐの所に高台があり、ナグシェ・ロスタムの全景を眺めることができました。

右端に、角度が少し違えてクセルクセス1世の墓。



続いて、右からダレイオス1世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス2世の墓が並んでいます。もっとも、ダレイオス1世の墓以外は、別な説もあるようです。

時代的には、ダレイオス1世、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世、二代飛んでダレイオス2世の順となります。アルタクセルクセス1世を継いだクセルクセス2世は、2ヶ月で異母弟のソグディアノスに暗殺されてしまい、王位を簒奪したソグディアノスも、数か月後に別の異母弟のダレイオス2世に殺害されました。この二代の王は、在位も短くて墓を造ってもらえなかったようです。ダレイオス2世の跡を継いだアルタクセルクセス2世の墓はペルセポリスに造られて、ナグシェ・ロスタムでの墓造りは終わったようです。

なお、ダレイオス1世は、キュロス大王の死後、内乱を治めて王位につきました。中央集権統治を確立し帝国の繁栄をもたらしました。ギリシアとの間で、約50年に及ぶペルシア戦争を開始させましたが、戦争の途中でダレイオスは死去し、戦いは息子のクセルクセス1世に引き継がれました。



これはクセルクセス1世の王墓ですが、ナグシェ・ロスタムの墓はいづれも同じ構造で、崖の壁面が十字型に彫りこまれて造られています。上部には王座を臣民が支える王座かつぎのレリーフやゾロアスター教のシンボルが飾られています。



あまり知られていないペルシャ帝国ですが、このクセルクセス1世は、映画「300(スリーハンドレッド)」における敵役で登場します。ペルシャ戦争においてスパルタのレオニダス王が300人の親衛隊と共に、クセルクセス1世が率いる100万のペルシア軍を迎撃し、善戦むなしく全滅したテルモピュライの戦いを描いています。クセルクセス1世は、この後のサラミスの海戦に敗北し、ギリシャ攻略は失敗し、ペルシャ帝国の衰退を招きました。ただ、この映画、クセルクセス1世を黒人系の怪物じみた姿に描いており、イラン政府がイラン人の先祖であるペルシア人を激しく冒涜していると非難したといいます。あくまでファンタジーとして見る必要があります。

もうひとつ、クセルクセス1世は、ヘンデル作曲「クセルクセス(セルセ)」の主人公として登場します。このオペラは、ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」に書かれたエピソードに基づいているといいます。「クセルクセスは弟のマシステスの妻ばかりかその娘にまで手を出し、クセルクセスの妻であったアメストリスは嫉妬に怒り、マシステスの妻を殺害して、その死体を夫に与えた」という陰惨なものです。ヘンデルのオペラはクセルクセスが弟の恋人に横恋慕し、恋のごたごたの末にハッピーエンドとなる、ゆるいストーリーに変わっており、ペルシャの王を主人公にする必要がどこにあるのか判らない物語に変わっています。このオペラの見どころは、開幕早々に歌われる「オンブラマイフ(いとしい緑の木陰)」のアリアですが、全幕を見通すには少々辛いものがあります。ヘロドトスの原作に従うなら、作曲者はリヒャルト・シュトラウスあたりが相応しいように思えますね。



王墓の前の窪地に進んでいきます。



墓の下部の岩壁には、ササーン朝時代のレリーフが施されています。ササーン朝は、アケメネス朝がアレクサンダー大王によってほろばされた後にその配下のセレウコスによって造られたセレウコス朝、遊牧民によるアルサケス朝と続いた後に現れたペルシャの大帝国です。

ダレイオス1世の墓の右下方には、シャープール1世の息子ナルセの叙任式を描いたレリーフがあります。



他のレリーフの保存状態からすると、顔がはっきりしている所は修復後のように見えます。



ダレイオス1世の墓の下には「バハラーム2世の勝利」のレリーフがあります。



クセルクセス1世とダレイオス1世の墓の間には、高さ7mの大きさで「騎馬戦勝図」が描かれています。ササーン朝は、東ローマ帝国との間で度々戦いを行いました。このレリーフは、シャープール1世が東ローマ帝国の皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とする大勝利を収めた記念碑として造られました。



他にも騎馬戦のレリーフが見られました。





王墓の前には、ソロアスター教の神殿が置かれていました。



ナグシェ・ロスタムの見学を終えて昼食をとり、その後ヤズドへ向かいましたが、その途中、ペルセポリスの北東87kmにあるパサルガルダエのキュロス大王の墓を見学しました。

パサルガルダエは、キュロス大王によって造られたアケメネス朝最初の首都です。

アレクサンダー大王は、ペルセポリス攻略の後にこのキュロス大王の墓を訪れて、中から宝物を取り出したとギリシャの歴史書に伝えられています。



アラブ人がこの地を支配するようになった時には、ソロモン王の母の墓であるとして破壊を免れたといいます。



この後は、今回のイラン旅行の中で最長のバス移動になりました。人家の無い広大な砂漠地帯が続きました。



思っていたよりも立派な道が砂漠の中に一直線に続いていました。



日が沈んでいきました。



砂漠の中に現れた建物は、キャラバンサライ(隊商宿)でしょうか。



雪をかぶった山も見えてきました。シール・クーフ山(4074m)でしょうか。



空が赤く染まってきました。



満月が空に浮かんでいました。



街にも灯りが灯り始めました。すっかり暗くなってからもうひと走りしてヤズドに到着しました。

さすらいの風景 ヤズド その1

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ヤズドでは、街外れにあるSAFAYIEH YAZDに泊まりました。長時間のバス移動で、すっかり暗くなった7時過ぎに到着し、ホテルのレストランで夕食をとって後は寝るだけになりました。



新しくできたホテルのようで、部屋もきれいでした。



朝になってから見たホテルの外観。アラブ的な造りになっていました。



5日目は、まず沈黙の塔から見学を始めました。沈黙の塔は、ダフネと呼ばれるゾロアスター教の鳥葬(風葬)を行うための墓場です。

街外れの砂漠の中に沈黙の塔の小山が二つならんでいます。

ヤズドは、イラン中央部にあって、ササーン朝ペルシャの時代からゾロアスター教の中心地になってきました。



左の塔の方が少し高くなっています。



右の少し低い方に上がることになりました。



沈黙の塔の麓には、葬儀に使われた施設が並んでいます。



塔を備えたドームは、アーブ・アンバールと呼ばれ、ガナートと呼ばれる地下水路で運ばれた水の貯水槽をドームで覆い、周囲に冷却のための塔を立てたものです。





近くに、地下に下りる階段がありました。信者は礼拝の前に身を清めるために使ったといいます。



こちらはトイレ。



トイレの内部。



集会場



礼拝室



中からは、沈黙の塔を望むことができます。



こちらは、高い方の沈黙の塔。



丘の上をめざして歩き始めました。



結構急で息が切れてきましたが、一気に登りつめました。



丘の上は、リング状の土壁がめぐらされ、入り口が設けられていました。



中央に穴が開いている円形の葬祭場が設けられていました。ゾロアスター教では、火、水、土を神聖なものとしたため、遺体を安置して風化させる方法をとりました。本来は風葬であったものが、鳥が寄ってきてついばんでしまったため、鳥葬に変わったようです。



最後に残った骨は中央の穴に入れ、満杯になると酸でとかしたといいます。



斎場の外に出ると、雪をまとった山が見えていました。



ヤズドの郊外には、シルクロードが通っています。ゾロアスター教もシルクロードを伝わって、中国ではけん教あるいは拝火教と呼ばれました。



丘の麓の眺め。

本来は砂漠の真ん中にあったのでしょうが、市街地が迫ってきて神秘性が薄まってきています。



現在のゾロアスター教徒の墓。

1930年に鳥葬が禁止され、現在では土葬が行われているようです。



ヤズド市街地の眺め。



バスに戻って移動を始めると、標高4000m級のシール・クーフ山脈の眺めが広がりました。

さすらいの風景 ヤズド その2

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沈黙の塔の見学を終え、ヤズド市内に移動してゾロアスター寺院のアーテシュキャデを見学しました。アーテシュキャデとは「火の家」という意味で、ヤズドにいくつかあるゾロアスター神殿の中でも最も重要なものになっています。

神殿自体は、インドのゾロアスター教信徒の寄付によって賄われ1934年に建てられた新しいものです。



建物上部には、ゾロアスター教の守護霊フラワシの像が飾られています。この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として善のために働き、助けを求めている人を救うであろうと信じられています。フラワシ信仰は祖霊信仰と結びつき、インドに渡って盂蘭盆の起源になったとも言われます。



寺院の中は質素な造りで、ガラスの奥に聖火が置かれています。



この聖火は1500年前から燃え続けているといいます。信者は、この火を礼拝します。

燃料が少なくなっているのか炎が小さく、消えないか心配になりました。

ゾロアスター教は、紀元前1600年頃から紀元前1000年頃にかけて生きた世界最古の預言者といわれるザラスシュトラによって創られました。

ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論であるといいます。経典「アヴェスター」によれば、世界は至高神であるアフラ・マズダー、およびそれに率いられる善神群と大魔王アンラ・マンユ(アフリマン)および悪神群の両勢力が対峙し、たがいに争う場であるといいます。善神群と悪神たちとの闘争ののち、最後の審判で善の勢力が勝利し、その後、新しい理想世界への転生が行われると説かれます。この来生観は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に影響を与えたといいます。

アケメネス朝ペルシャの王はゾロスター教を信仰しており、ササン朝ペルシャの時代になると国教として定められました。ソロアスター教の本拠地のイランがイスラム化すると、ゾロスター教徒は、非イスラム教徒に加えられる税金などで圧迫を受けて、改宗を余儀なくされました。

ササン朝滅亡の後、一部のゾロアスター教徒はインドに移住してパールシー(イラン人)と呼ばれる共同体を造って定着しました。現在では、インドがゾロアスター教徒の最も多い国になっています。パールシーは裕福な層や政治的な影響力をもった人々の割合が多く、インドの二大財閥の一つの自動車メーカーで有名なタタ・グループもこれに属しています。

また、指揮者のズービン・メータもパールシー出身です。現存の巨匠の一人に挙げられるメータのレコーディングの代表作にリヒャルト・シュトラウス作曲・交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」があります。このツァラトゥストラは、ニーチェの同名の著書に基づいていますが、ゾロアスター教の開祖のザラスシュトラのドイツ語読みです。メータのレコードは、録音も優れた名盤として知られていますが、ドイツ系指揮者でなく正統的演奏でないという偏見じみた意見もあったと思いますが、この曲については思わぬところで結びついています。なお、この曲は、キュ−ブリック監督の「2001年宇宙の旅」の冒頭の音楽として有名ですが、カラヤン・ウィーンフィル版が当時は指揮者とオケの名前を伏せて使用されました。

ゾロアスター教は中国ではけん教と呼ばれ、ネストリウス派(景教)やマニ教(明教)と共に唐代三夷教と呼ばれましたが、日本までは伝わりませんでした。世界史の教科書に登場するくらいでどこか神秘的な雰囲気のただよう宗教ですが、意外なところで関係を生じているようです。
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