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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 フンザ その8

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第6日目は、まず、ハセガワ・メモリアル・パブリック・スクールの見学を行いました。

学生が次から次に登校してきていました。



立派な校舎が設けられていました。



入り口の壁には、ハセガワ・メモリアル・パブリック・スクール創設の由来を記したプレートが飾られています。



ハセガワ・メモリアル・パブリック・スクールは、フンザの裏手に聳えるウルタル?峰で雪崩によって亡くなった登山家長谷川恒夫氏の、遭難の際の村人の協力のお礼として、また故人の遺志によって、奥様が日本で募金を集めて建てられた学校です。1997年の開校なので、歴史も積み重ねてきています。

学校内の廊下には、長谷川恒夫氏の写真が飾られています。

谷川恒夫氏のウルタル?峰登山については、後で触れることにしましょう。



この学校には、4才から18才の幼稚園児から高校1年に相当する学生が、男女共学で学んでいます。



子供たちが、教室の窓から、興味深そうに見学者を眺めています。





朝礼の合図で、ドラムが鳴らされました。



朝礼のために校庭に整列しました。校庭の向こうには、ディランが白きたおやかな峰を見せていました。



整った顔つきの子が多いですね。





先生が号令をかけていました。



国旗と校旗の掲揚。



号令で向きを変えています。



一団高い所に合唱団が立って、一同国歌の斉唱。日本人を歓迎する歌も歌ってくれました。





座って先生の訓話を聞いていました。



歓迎の印ということで、フンザダンスの披露。



フンザダンスは、子供の頃から身についているようです。





校庭からは、ウルタルも見えています。風景という点に関しては、素晴らしい所にこの学校は建てられています。



授業風景も見せてもらいました。幼稚園児の教室です。



服装も整っており、非常に教育レベルの高い学校であることが判ります。

イスラム世界では、女性は家に閉じこもっておれという考えが強く、パキスタンでも女性の教育権利を否定するイスラム過激派によるテロ行為の「マララさん襲撃事件」さらに学校爆破事件が起きて、世界に衝撃を与えています。初等教育を受けられずにいる子どもは、世界でおよそ5700万人に上り、国別ではパキスタンがおよそ540万人で、世界で2番目に多くなっています。

とこがフンザの人々が信仰しているイスマーイール派の教義は緩やかで、お祈りの習慣も個人に任されおり、女性は家に引きこもっている必要はないと考えられ、女性の教育、社会参加が盛んになっています。フンザの谷の識字率は、パキスタンの中で最高の90%以上になっているようです。



歌に続いて、フンザダンス。



他の教室ものぞかせてもらいました。



授業は英語で行われています。



校長先生と懇談。若い先生で驚かされました。



日本の商社の寄付も行われていました。



コンピューター室も設けられていました。



校庭に出て、朝のすがすがしい空気の中のディランを眺めました。





校庭からのウルタルの眺め。



ハセガワ・メモリアル・パブリック・スクールの見学を終えて、バルティット・フォートの見学のために、歩いてバザール方向に戻りました。

その途中で眺めたラカポシ。



長谷川恒夫氏が亡くなったウルタル?峰も、全貌を見せてきました。


さすらいの風景 フンザ その9

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ハセガワ・メモリアル・パブリック・スクールの見学を終えてからは、カリマバードの上に聳えるバルティック・フォートの見学を行いました。

バザールに戻り、坂道を登っていきます。



息を切らして急坂を登っていくと、バルティック・フォートが見えてきました。



バルティック・フォートは、フンザのミール(藩主)の居城として長年にわたって用いられてきたものです。近年は荒廃していましたが、イスマイール派の最高指導者のアーガー・ハーンの援助によって1990年から6年の歳月を経て修復されました。

チベット王国の一部であったバルティスタンから嫁いだ王女が、大工や石職人を従えてきて改築・装飾を行ったので、チベット建築の影響が見られます。



バルティック・フォートの基部には石垣がめぐらされて要塞化されています。



背後にはウルタルの山が聳えています。



髭が特徴的な警備員。この人は、ガイドブックにも写真が載っています。



狭い階段を上がって内部に入りました。なお、バルティック・フォートは入場料が必要ですが、その他に内部の写真撮影には別料金を支払う必要があります。



薄暗い牢獄を見下ろすことができました。



薄暗い廊下が階段上のホールの周りに続いていました。



ミール(藩主)の衣装が展示されていました。



絨緞が敷き詰められており、寝室のようです。



食堂。



明かり取りと排煙のための天窓。板をずらして何枚も重ねて造った天窓は、中央アジア西部が発祥といわれており、フンザの建築の特徴になっています。



階上のテラスに出ました。ベンチの置かれた東屋が設けられていました。



壁には、アイベックスの頭蓋骨が飾られていました。



テラスからは、フンザの谷を見渡すことができました。フンザは、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」のモデルになったといいます。この眺めを見ると、風と共に飛びたくなりますね。



テラスの背後には、ウルタルを見上げることができます。



ウルタルの谷を見下ろすことができます。この谷は、カラコルム山系の20万分の1地図には、Death Valleyと併記されます。これは、長年にわたる水道工事中に、落石や雪崩によって何十人もの死者が出たため、そのような名前が付けられたようです。現在は、カリマバードの水源として、生命の谷になっています。



長谷川恒夫が亡くなったウルタル?峰を見上げることができました。7000m峰をあまりに近くから見上げているため、スケール感が失われています。



屋上にも部屋が設けられていました。ミール(藩主)の写真が飾られていました。



居間。



階下の部屋とは違い、ガラス窓が設けられて開放的な造りです。



飾りが設けられた柱が、風景にアクセントを付けています。





窓に色ガラスがはめられた小部屋が設けられていました。





調理器具の他に、赤ん坊の揺り籠が置かれていました。





客間として用いられていたらしい大広間。



楽器が飾られていました。



内部の見学を終えて外に出て、フンザの谷の眺めを楽しみました。



最後にバルティック・フォートを見上げて別れを告げ、坂を下りました。

さすらいの風景 フンザ その10

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旅の第7日目、フンザでの滞在を終え、再びカラコルム・ハイウェイのバス移動を再開しました。



ウルタル?峰(左)とウルタル?峰が見送るように紺色の空に聳えていました。



移動するうちにフンザピークやレディースフィンガーも姿を見せて、車窓から目を離せなくなりました。



フンザピークを背景に、岩山のアルティット・フォートが姿を現しました。



それほど走らないうちに、バスストップになって、岩絵の見学になりました。



ここの岩絵は、アイベックスなどの動物が主です。







岩絵よりも、山の姿に目が引かれます。



フンザから先のカラコルム・ハイウェイは、途中土砂崩れで迂回路が設けられている場所は別にして、良く整備された舗装道路が続きました。中国からの資金や建設業者が入っているためのようですが、労働者のパキスタン人をこき使うため、評判は悪いようです。



再びバスに乗って走り出すと、レディースフィンガーの全容を眺められるようになりました。



カラコルム・ハイウェイの行方にも、新しい山が現れてきました。



おそらく トリボール7733m(右)とモミヒル・サール7343m(左)だろうと思います。



モミヒル・サール7343mの鋭鋒。



レディースフィンガーともお別れ。



カリマバードの山として、最後にウルタル?峰が、険しい山頂を表してきました。





ウルタル?峰の姿は、カリマバードからでは下から見上げることになってしまうため、少し離れた所から見る必要があるようです。山頂は、垂直の大岩壁に囲まれています。



ウルタル?峰は、長谷川恒夫が亡くなった山として知られています。佐瀬稔著 「長谷川恒男虚空の登攀者」に著されていますが、今回この本が手に入らなかったため、同じ著者による「残された山靴:志なかばで逝った8人の登山家の最期」を参照しました。この本には、長谷川恒夫が亡くなった後のウルタル?峰の初登頂を目指した者の敗退と成功が描かれています。

長谷川恒夫は、アルプス三大北壁の冬期単独登攀に世界で初めて成功し、栄光の人になります。しかし、ヒマラヤに転身してからは、運に見放されて敗退の連続になります。

長谷川恒夫は、1990年にウルタル?峰へのアタックを行うも失敗。翌1991年の再挑戦で、雪崩によって亡くなってしまいます。

当時、8000m峰は全て繰り返し登られ、未踏の高峰は、第一位ナムチャバルワ(7782m 1992年に初登頂)、第二位ブータンのガンケール・ブンズム(?峰7541m)、ウルタル?峰(73388m)は第三位の高さを持っていました。ブータンのガンケール・ブンズムは、政府によって登山が禁止されていたため、ナムチャバルワが登られた後は、ウルタル?峰は事実上登山家に残された地上最高の未踏峰になりました。

長谷川恒夫亡き後も、この未踏峰をめざして、日本人隊も含む各国の登山隊が挑戦しましたが、死者を出すも登頂はかないませんでした。ウルタル?峰の初登頂は、1996年の松岡・山崎(下山後に死亡)隊によってようやく成し遂げられました。

このウルタル?峰の初登頂によって、登山家の関心は「最も高い未踏峰」から「無酸素・バリエーション・単独」へ移っていくことになりました。その点からも、ウルタル?峰は、興味深い山ということになります。

晴天に恵まれてフンザの山の眺めを堪能することに満足し、カラコルム・ハイウェイを先に進みました。

さすらいの風景 アッタバード湖 その1

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カリマバードを後にして、カラコルム・ハイウェイを北上しました。これから向かう地域は、上フンザあるいはゴザール地方と呼ばれます。



カラコルムハイウェイは、切り立った崖の間を進んでいきます。路面はきれいに舗装されて快適な道ですが、土砂崩れでトンネルごと埋まってしまい、迂回路が設けられているところも出てきます。道路脇の斜面には、今にも崩れそうな土砂が溜まっています。日本の山岳道路だと法面をコンクリートで固めてしまうのが普通ですが、ここでは斜面を切り開いて道路を造っただけです。カラコルム・ハイウェイの維持には、土砂崩れが起きてはそれを除いてということを繰り返す必要があります。



アッタバード湖が見えてきました。

2010年1月4日、フンザ渓谷で大規模な地すべり災害が発生して、フンザ川が堰き止められ、天然ダムを形成されました。ダム湖の面積は約1060ヘクタール、最大水深約120m、平均35m、貯水量は東京ドーム約300個分という推測値が得られています。

ダム湖の形成に伴い、同地域の村々や主要道路であるカラコルム・ハイウェイが水位上昇により水没しました。アッタバード湖によってカラコルム・ハイウェイが寸断されたため、物資や人員は、船で湖を渡って、上流あるいは下流部に待機している車に乗り換えることになりました。



船着き場では、デコ・トラが荷物を積み込むのを待っています。



トラックの運転手の他に荷物運びの人足も待機しており、大賑わいです。



デコ・トラの勢揃いですが、手前からイスズ、日野、日産と、元は日本車です。この状態では、日本の車検に通らないでしょうね。



荷物を満載した船が到着しています。



私たちグループも船に乗り込みました。



1時間ほどの船旅で、途中にはチャイのサービスもありましたが、移り変わる風景から目を離せない状態になりました。



一応救命胴着を身に付けます。事前の説明では、寒さ対策に厚着が必要と聞いていたのですが、晴天で暖かい日差しに恵まれました。



湖の上に頭を出す雪山にも目が引き付けられます。



超満載の船が行き来しています。暇なのか、旅行者が珍しいのか、手を振ると答えてくれます。



でき方は違いますが、北欧のフィヨルドのような雰囲気です。



水は、他では見られない不思議な青色になっています。



静かな湖面に山の影が映っています。



大荷物の間から、運転手の頭がかろうじて出ています。



船のたてた並みで、山の影も揺れました。





モーターボートは、パトロールのもののようです。



湖を回り込む度に風景が変わってきます。



5000〜6000mの名も知らぬ山。



天気にも恵まれて、遊覧船気分で乗っていることができました。

さすらいの風景 アッタバード湖 その2

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アッタバード湖の湖畔には、水没した家屋が見られ、道路の付け替え工事も行われています。



支流の谷奥には、雪を頂いた山を望むことができます。



湖面が急に広がりました。



船が進むにつれて、タポプダン・ピーク(6106m)が少しづつ姿を見せてきました。この山は、イギリス人によって、カテドラル・ピークスと呼ばれましたが、まさに言い当てています。



この形に一番合うのはミラノのカテドラルでしょうか。



パトロールのモーターボートが再び近づいてきました。中国の中古品のようです。





湖畔に広がるのは、Shishkatの村です。以前は、この村でカラコルム・ハイウェイの橋が架かっていたようですが、現在は左岸に孤立しています。



船が進むにつれて少しづつ姿を見せてきたカテドラルも、全容が現れました。





湖畔には、立ち枯れしたポプラが並んでいます。



立ち枯れした部分で、以前の水位を知ることができます。かなり水位は下がってきているようです。



2012年の旅行記録を見ると、下船場所は、さらに進んだグルミットの上流部だったようですが、Shishkat村の対岸部でトラックが待機していました。



湖上からのカテドラルの眺めを、名残り惜しみながら眺めました。



いずれカラコルム・ハイウェイが再開されてアッタバード湖の船旅も無くなるのでしょうが、見ることができなくなるには惜しい風景でした。



ここにある車は、土砂崩れが起きた時にアッタバード湖の上流部に取り残されたものか、中国から入ってきたものです。船着き場といっても仮設のもののため、岩がごろごろしています。



船に荷を積み込んでいました。





対岸のShishkat村に渡る渡し船に人々が乗り込んでいました。



谷奥には、名も知らぬ高峰が聳えています。



ここでバスに乗り換えました。(写真はグルミットで昼食をとったホテルの駐車場で撮影)ここまでのサイユー旅行社のものではなくパキスタン政府のもので、このバスでクンシュラブ峠を越えてタシュクルガンまで旅することになりました。クンシュラブ峠越えのバスはボロイものが多いようですが、これはトヨタの中古車で、比較的状態も良く、頑張って走ってくれました。

さすらいの風景 グルミット

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アッタバード湖を渡り、再びバスの旅を再開しました。

トポップダン(6106m)が、カテドラルという別名に相応しい姿を見せていました。



ようやく水が引いて現れた河畔には、水没した家屋や立ち枯れした木を見ることができました。仮設道路のため、砂埃の酷い大揺れの道が続きました。



それほどの距離を走らないうちにグルミット村に到着しました。村の背後には、グルミットタワーと呼ばれる岩山が聳えていました。



グルミット村に入って、まずはホテルで昼食になりました。

ホテルの壁に、土砂崩れによってできたアッタバード湖の地図が張ってありました。2013年9月現在では、グルミット村まで水が引いてきています。



昼食後にホテルの外に出てみると、牧場を前景にしたカテドラルの美しい風景が広がっていました。



グルミット村の見学を行いました。



坂道を上がっていくと、中心部の広場にでました。



グルミットタワーの鋭峰も良く眺めることができました。



グルミット村は、フンザのミール(藩主)の別荘があった場所で、この広場もポロ競技場であったようです。



村の説明を立ち止まって聞いていると、子供たちが集まってきました。

この一帯に住むのは、アフガニスタンから中国にかけて広がるタジキスタン系のワヒ族のため、フンザの子供達と比べると、少し顔つきが違っています。



広場の奥には、フンザのミール(藩主)がカリマバードのバルティット・フォートが造られる前に滞在したオールド・ハウスが残されています。



そのまま放置されて老朽化が進んでおり、修復工事が必要な状態になっています。



軒下で、村の女性たちが、綿打ちを行っていました。



子供も民族衣装を着ていました。



村の中を散策しました。



絨緞工房にやってきました。



近くの小学校で先生として働くかたわら、絨毯を織っているとのことです。



天井には、フンザの建物の特徴である、ラテルネンデッケ構造の明かり取りが設けられていました。



売り物の絨毯を並べ始めたのですが、別なグループが入ってきたので、何も買わずに退散していましました。



村の中は、石垣で囲まれた小路が続きます。



女の子登場。後で判ったのですが、これから見学させてもらう民家の子でした。



別な女の子。パキスタンでは、子供の写真撮りが多くなっています。



民家訪問の一行を一家で待ち受けていました。



ここの名物お爺さん。結婚は三回目といいます。



おしゃべりの後は、笛を演奏してくれました。

笛の他に音楽が鳴り出したので伴奏かと思ったら、家族の持つ携帯の着信音でした。家の外に出ると、テレビの衛星放送のパラボラアンテナが設置してあったりもし、結構進んでいるようです。もっとも、後進国といえる国では、電話回線やテレビの地上波放送設備の整備が遅れていたことから、一気に携帯電話や衛星放送の方が普及してしまうという開発順序の逆転現象が起きています。





迷路のような工事を通ってバスの待つホテルに戻りました。



バスの旅を続けます。川岸に近づくと、廃屋が目立ちました。



カテドラルの美しい姿ともお別れです。



水没して壊れたカラコルム・ハイウェイ。



グルミットタワーを後にして先に進みました。

さすらいの風景 パスー

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グルミット村から凸凹道を少し走ると、良く整備されたカラコルム・ハイウェイに乗ることができ、風景を眺めながらの快適なドライブになりました。



背後にグルミット・タワーの属する山塊が遠ざかっていきました。



川の上流部に、鋸刃のような鋭峰を連ねた岩山が見えてきました。トポップ・ダン(カテドラル)の西に回り込んだようです。標高6106mの主峰は背後に隠されています。



カラコルム・ハイウェイはこの先でヘアピン状にカーブしますが、崖に「ウェルカム・トゥ・パスー」と書かれていました。



カラコルムハイウェイは、パスー氷河に突き当たるようにして、カーブしていました。



車道脇まで流れ出ているパスー氷河ですが、少し前までは、道路脇まで迫っていたようです。



パスー氷河脇には、シスパーレ峰(7611m)が、雪煙をたなびかせながら、天を突くように聳えていました。



バスに戻って少し進むとパスー村に到着し、バスを下りて通り抜けることになりました。



道の両脇には、石垣が続いています。家畜の囲いも兼ねているようです。



平屋が点在しているだけで人影が見当たりません。



リンゴの木が多く、実もなっていました。



村というよりも集落ですが、それには不釣り合いに見える立派な学校がありました。





歩いている途中で見た唯一のお店。



不釣り合いに見えるほど立派なモスク。



川向こうの岩壁に文字が書かれているのが見えました。



歓迎の言葉は、イスラム教の指導者が訪れた時の歓迎に書かれたのですね。我々観光客のためではありませんでした。ここの立派な学校やモスクも教団からの援助によるもののようです。



村から少し貼られたところにあるAMBASSADOR HOTELが今宵の宿です。ホテルというよりは、モーテルといった方が良いですね。



ホテルの前は広河原になっており、川向こうにトポップ・ダンの岩山が広がっていました。



ホテルの前に出ても、人家はまったく見当たりません。これは、上流方向。



こちらは、パスー村方面。



チェックイン後に、ホテルの前庭で、胡桃ケーキを食べながらお茶を飲んでいると、日も落ちてきました。



広河原を突っ切ってフンザ川の川岸まで歩いてみました。



緑もほとんど無く、荒涼とした風景が広がっていました。



夕食後、星空を見ようと、外に出ました。満月が明るすぎて、星は隠されてしまっていましたが、月明かりに雪山が白く浮かんでいました。パスー方面に灯りが一つ見えるだけで、ホテル以外の人家は周囲にないことが判ります。



三脚を持っていかなかったので、手持ち撮影では、これが限界でした。



夜中の3時にトイレで起きたついでに、もう一回写真を撮りました。オリオン座も山に近い所まで下りてきていました。



翌朝、岩山の先端に朝日が当たりだすのを見て、出発の準備をしました。



いよいよ、第8日目は、クンジュラブ峠越えになります。今回の旅の最大の目標ではありますが、さてどのようなことになりますやら。

さすらいの風景 クンジュラブ峠越え その1

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第8日目は、パスーを出発し、クンジュラブ峠を越えてタシュクルガンまでの移動になります。パスーの標高は2600mで、クンジュラブ峠は4733m、タシュクルガンは3100mなので、体験したことのない標高の体験になります。

クンジュラブ峠越えは、今回の旅のハイライトではありますが、陸路でのパキスタンから中国への国境越えということで、最大級の難関が待ち構えています。

朝日に輝くシスパーレ峰を後にして、国境の村スストに向かいました。



パスーからスストまでは、40分ほどフンザ川沿いに進みます。



スストは、国境の村ということでトラックが多く、砂埃が舞っていました。



周囲には、名も無き岩山がそそり立っていました。



パキスタンの出国手続きは、スストで行われます。道の右手にあるのが、出入国手続きを行う事務所です。すぐ脇のホテルでトイレを済ませ、事務所が開くのを待って、出国手続きを行いました。



出国手続きは、一人あたりの時間はかかりましたが、特に厳しいこともなく行われました。荷物検査は12名中2名がオープンさせてのチェックで、後はX線検査のみでした。

西遊旅行社の「パミール高原大縦断9日間」のグループが、フンザからカシュガルまで同じ行動日程になっていました。我々グループは総勢12名の小人数でしたが、こちらは20数名のグループであったため、並行して手続きを行っていたものの時間がかかり、我々の方が先に出発することができました。この人数の差が、国境越えで大きな差を生むことになりました。

パスポートに押された出入国スタンプ。いつもの空港での出入国では気にしていないのですが、今回は特別です。入国イスラマバード・エアポート、出国ススト・チェックポイントと押してあります。



再びバスに乗っての移動が続きます。出国スタンプをもらったといっても、まだパキスタン国内です。



スストからクンジュラブ川に沿って30キロを過ぎるとクンジュラブ国立公園のゲートに到着します。



国立公園への入場料として、外国人は8ドルを払う必要があります。パキスタン価格としては、結構な金額です。



トイレを借りて、一息つきました。



フンザ川も幅が狭くなってクンジュラブ川と名を変えています。



標高が上がったため、河畔の木立の紅葉も進んでいました。



荒涼とした風景が広がってきました。



黄色く色づいた灌木が余計に鮮やかに見えます。





標高は次第に上がっていき、富士山の標高3776mも越していきます。これまで登った山では富士山が最高峰なので、これからは未体験の高度になります。



標高4000mを越した付近から体に異変を感じました。車窓から写真を撮るためにシャッターを切るために息を止めますが、その後に深呼吸を続けないと、息苦しさが消えなくなりました。普通に呼吸をしているだけでは次第に息苦しくなって、意識して深呼吸を行う必要がありました。

高山病予防として、「水分をたくさん摂り、トイレに行きましょう」とありますが、この後の中国入国に問題があって、この方法はとれません。



立派な山が見えてきましたが、名前が判らないのが残念です。



谷の出会いで昼食になりました。標高はおよそ4000mほど。車道から水辺までの僅かな距離を歩くのも、深呼吸をしながらゆっくり歩く必要がありました。



昼食は、サンドイッチ、ローストチキン、ポテト、お菓子、ジュースのランチボックスです。高山病の症状として、「食欲減退、吐き気」が挙げられますが、美味しく食べることができました。



谷奥の山の眺めを楽しみました。



最高の昼食場所です。先を急ぐ必要があったのは残念です。



この先のカラコルム・ハイウェイは、九十九折で一気に高度を上げていきます。



カラコルム・ハイウェイの周囲は、次第に高原状になっていきました。



川の流れもせせらぎといった感じになってきました。





来た道を振り返ると、白い山並みが広がっていました。



ヤクの大群が草を食んでいました。



山の稜線も低くなり、クンジュラブ峠も近づいてきたようです。

さすらいの風景 クンジュラブ峠越え その2

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クンジュラブ峠は、標高4693mの台地になっています。

峠を走るパキスタン・中国の国境部は緩衝地帯が設けられており、中国側にはゲートが設けられています。中国側の国境付近は写真撮影禁止ということで、バスの車窓から撮影したこの写真のみになりました。入国審査の際に、カメラの撮影画像がチェックされることもあるともいわれました。



クンジュラブ峠付近は草原になっており、パキスタン側ではヤクの放牧も行われているようです。



峠の脇に頭をもたげる5000m峰。山頂まで僅かな距離で達することができそうです。



パキスタン側の国境事務所。添乗員が書類を見せるだけで通過させてくれました。



国境の緩衝地帯でバスを下りて写真を撮りました。



中国側の撮影はトラブルになるというので、パキスタン側の撮影です。峠といっても穏やかな風景が広がっています。



パキスタン側の国境事務所が、広大な風景の中に小さく見えています。中国側の国境ゲートとは大違いですね。



カラコルム・ハイウェイのクンジュラブ峠(標高4693m)は、国境を横断する舗装道路としては世界一の高所を通る道路になっています。冬季閉鎖によって、この国境は例年5月1日から10月15日の間だけ開いています。



この眺めで、パキスタンともお別れになりました。

写真撮影を行っていてそれほど時間が経たないうちに、中国側の警備兵によってバスに乗って中国側に進むように指示されました。おかげで、クンシュラブ峠にあるというパキスタン・中国国境の標識を確かめることができませんでした。

ここからが、旅の最大難関の中国入国になりました。ゲートに進むと、中国旅行社が、記念写真を撮り合っており、まず不快感。バスに小銃を持った警備兵が乗り込んできましたが、驚いたことにスマフォで音楽を流して聞き始めました。人っ子政策で甘えさせられた中国人若者特有の肥満体型で、規範と訓練のほどが疑われます。



峠から少し下ったところに国境事務所があり、ここで荷物検査が行われますが、これが厳重で時間がかかります。前のトラックの検査が終わるのを待つ必要がありました。

ここでの一番の問題はトイレに自由に行けないことでした。パキスタン人運転手が中国の警備兵に頼みにいくと、余計なことを頼みにくるなといって小突かれていました。中国の友好国としてパキスタンの名前が挙げられますが、パキスタンの一般人は、中国人の横暴な態度を嫌っている者が多いようです。

ようやく事務所に入って入国手続きが始まると、これは比較的スムーズに進みました。

車に乗り込みましたが、出発の許可が出ずに、理由も判らないままの待機が続きました。海外旅行では、気長に待つ覚悟が必要ですが、ここでは二つの問題がありました。

一つは、4700m標高でお菓子の袋がパンパンに膨らむほど空気は薄く、ここで時間が経過すれば、高山病にかかる危険性が増すことです。寝ると高山病にかかるため、起きてという声が添乗員さんからかかりました。普通の登山だと歩いているうちに高度順化もできるのですが、バスの旅とあっては速やかに高度を下げる必要があります。

もう一つは、トイレの問題です。入国審査の時にトイレを一回済ませましたが、その後は、バスの中に缶詰状態になりました。タシュクルガンまでの200km・2時間半ほどは、ノンストップでの移動になります。ただちではないものの、時間がこのまま経過していけば、トイレ問題で絶体絶命の状態に追い込まれかねません。

理由も判らずに待たされている間に、後続の「パミール大横断8日間」グループが到着しました。このグループの入国手続きが終わってから一緒に出発かと思い、まだ待つのかと思ったところ、突然バスの出発許可がでました。

結局、入国手続きを終えるまでに1時間半。その後の待機に1時間20分ほどかかりました。Web上にある旅行記をみると、5時間待たされたこともあるようなので、順調にいったほうでしょうか。

このクンジュラブ峠での入国審査を受けると、中国嫌いになることは確実です。でも、私は中国が好きです。「宦官の十常侍や暴君董卓が悪政をしき、地方役人は腐敗し、黄巾族が跋扈する」三国志の世界が今にも続いていると思えるのが中国です。



バスが走り出して峠から少し下がったところで、中国のパトロールもいないということで、写真撮影の許しが出ました。



クンジュラブ峠の中国側はパミール高原となり、山に囲まれた中、穏やかな地形が広がっていました。

なお、パキスタンでは車は左側通行であったものが、中国では右側通行に変わります。



歩くと楽しそうな高原ですが、国境地帯とあって、自由な行動が許されないのは残念です。





雪山も遠ざかり、周囲には茶色の地肌をむき出しにした山が広がるようになりました。



良く整備された道路で、バスは快調に進んでいきました。バスに揺られて眠気も生じてきましたが、高山病予防のために「眠らないで」という声が何度もかかりました。





高原の幅も次第に広がってきました。







人家も見られるようになってきました。



高原の奥にも人家が点在しています。



車窓左手の西側にはタジキスタンのヒンドークシュ山脈が広がっていました。





ラクダも放牧されていました。



電柱の列も見られるようになって、ようやく里も近づいてきました。



新しい建物は、遊牧民の定住化政策のもとで建てられているようです。



国境の街タシュクルガンには、日没時に到着しました。出入国管理局に到着しましたが、建物に人影は見当たりませんでした。待つことしばらくで、管理局スタッフが到着しました。入国手続きが始まれば比較的スムーズでしたが、その後の荷物検査のためには、X線撮影の機械にスイッチをいれて、使えるようになるのをしばらく待つ必要がありました。オープンさせての荷物検査は、12個のうちの運の悪かった2個のみでした。

ようやく手に入れたタシュクルガン入国のスタンプは、貴重に思えました。なお、出国は北京になりました。

ここでようやくトイレに入ることができました。4時間ほどトイレを我慢することになりました。クンジュラブ峠越えの最大の難関は、高山病よりもトイレの我慢といっても良いでしょう。高山病予防対策に反して、前夜から水分を控えめにしていたのは正解でした。海外旅行で良くある下痢を起こしていたら、とんでもない悲惨な目にあうことになるのでしょうね。

パキスタンからのバスとも別れて、出迎えのカシュガルからのバスに乗って、近くのレストランに向かいました。

長い一日を無事に終えて、ビールを飲んでほっとしました。

夕食を終えてホテルに入ったのは、夜中の12時になっていました。パキスタンの時差は、日本時間-4時間であったものが、中国では-1時間になるので、パキスタンから中国に入っただけで3時間時計を進める必要があります。パキスタン時間では、まだ9時なのですが、中国では深夜です。「パミール第横断8日間」グループもようやくタシュクルガンの出入国管理局に到着したようでした。このグループは、なんとか夕食をとることができたようですが、これ以上遅れた場合には、カップ麺の夕食になってしまう場合もあるようです。散々クンジュラブ峠で意地悪されたあげくに夕食がカップ麺では、泣きっ面に蜂ですね。

いろいろな問題がありましたが、ともあれ無事にタシュクルガンのホテルで眠ることができました。

さすらいの風景 タシュクルガン

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タシュクルガンの宿は、天縁国際大酒店でした。パキスタンのホテルと比べると、新しく設備が整っていました。

部屋に入ったのは夜中の12時ですが、昼まで使っていたパキスタン時間ではまだ9時です。外に出てみました。



ホテルの周囲は造成地で、立派な道路が延びている割には、人家や店はありませんでした。



第9日目は、朝食9時、出発10時という、やけにゆっくりとした時間配分です。少し早めに起きても真っ暗で、ようやく9時になって明るくなってきました。

中国の北京を中心とする標準時間では、新疆エリアはあまりに西に位置して生活実感とずれているため、非公式ではありますが2時間を引く新疆エリア時間というものが使われています。新疆エリア時間では7時になるので、少しは合ってきますかね。



夜明けの空に月が浮かんでいました。



タシュクルガンの周りの山は雪を載せていることから判るように、タシュクルガンの標高は、3200mほどあります。日本でいうならば、北岳や穂高岳の標高ですね。この高度では高山病の危険性もあり、中国の旅行者は酸素を持ってくるともいいますが、クンジュラブ峠(標高4693m)越えで高度順化ができたのか、高地にいるという感覚はありませんでした。



朝になって見た天縁国際大酒店。



ちょっと散歩してみました。通りの向こうにロータリーが見えました。



ロータリーの中心には、舞い上がる鷲の像が置かれていました。



ホテルの受付でも、舞い上がる鷲の絵を描いたTシャツを売っていたので、この町のシンボルのようです。



ロータリー脇には、真新しいショッピングセンターのような建物もできていました。ただ、歩いている人は僅かで、活気の見られない町でした。旧市街地が別な所にあるのかも知れません。



バスが出発して町はずれに進むと、雪山と湿原の眺めが広がりました。



バスを下りて、湿原に敷かれた木道に進みました。



標高3200mの高地にあるので、高層湿原といってもよさそうです。



湿原は、早くも茶色に変わっていました。



湿原には、かなり奥まで木道が続いていました。



木道に出て振り返ると、石頭城の眺めが広がりました。



タシュクルガンは、突厥語で「石の城」を意味し、時代ごとに支配者は異なり、漢、キルギス、ウィグル族の各小国によって支配されてきました。



玄奘三蔵法師は、インドからの帰りにこの石頭城を訪れたといいます。



現在では仏教の痕跡は見当たらず、周囲の丘の上に見られるのは、イスラムの墓です。

さすらいの風景 スバシ峠

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タシュクルガンの町を出発し、カシュガルに向かいました。道路は良く整備されており、快適なドライブが続きました。



パミール高原をゆったりと川が流れています。



雪山の眺めが広がっていますが、パキスタン側と違って穏やかな姿をしています。





中国に入ると普通のトラックが走っており、パキスタンのデコ・トラが懐かしくなります。



原野の中に、時折り民家が現れます。



走るうちにムスターグ・アタ峰(7546m)が近づいてきました。



姿を変えていくムスターグ・アタ峰を眺めながらのドライブになりました。







ムスターグ・アタ峰から流れ出る氷河も眺めることができました。





出発したタシュクルガンの標高は3200mでしたが、バスは次第に高度を上げていき、標高4100mのスバシ峠に到着しました。広大なパミール高原のため、バスの走行中は高度を上げているという感じはありませんでした。

クンジュラブ峠とは異なり、ここではバスを下りて、ゆっくりと風景を楽しむことができました。

ムスターグ・アタ峰も近くから眺めることができました。



峠の先には、コングール峰(7719m)の山塊が大きく広がっていました。



車道脇の草原に上がってみました。前の日に標高4732mのクンジラブ峠に上ってから標高3200mのタシュクルガンで1泊したためか、標高4100mのスバシ峠では大きく深呼吸を続ける必要があるものの、歩き回れるといった感じでした。



道路脇の草原からスバシ峠にある道路標識をみたところ。

スバシ峠は、ムスターグ・アタ峰の山裾から続く広大な台地を越しています。



スバシ峠からのパノラマ写真。広大な風景としかいいようがありません。

クリックで拡大写真



スバシ峠から下っていくと、再び広大な高原の中の走りになりました。



車道脇には柵も設けられているので、家畜の放牧も行われているようです。



ムスターグ・アタ峰から流れ出る氷河。



コングール峰も近づいてきました。写真の左に写っているのが7719mの最高峰でしょうか。



ムスターグ・アタ峰の見え方も大きく変わってきました。

さすらいの風景 カラクリ湖

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スバシ峠を越して高原を走っていくと、湖面が現れました。



この湖はカラクリ湖と呼ばれ、標高3600mの高地にあります。ムスタグ・アタ山(7546m)が目の前に聳え、湖面に影を映しています。



東に遠くコングール山(7649m)を望むことができます。



湖の周りには、観光客用のラクダも歩いています。



左のピークがコングール山(7649m)の最高峰のようです。



コングール山(7649m)からは氷河も流れ出ています。



カラクリ湖では、もう一か所で下車観光しました。



鏡のようなカラクリ湖にムスタグ・アタ山(7546m)が影を映していました。



湖の周りをカメラを構えながら散策しました。時折り吹く風によって立ったさざ波が収まるのを待ちました。



カラクリ湖は、パミール高原でも人気のある景勝地で、一般的にはカシュガルから往復することになります。



湖畔には、観光客相手の物売りのゲルが置かれていました。



中をのぞかせてもらいました。住いに使ってはいないため、中に家具は置かれていませんでした。



カラクリ湖の見学を終えてパミール高原の旅を続けました。

さすらいの風景 ブルン湖からカシュガル

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カラクリ湖を後にし、カラコルム・ハイウェイを進みます。



雪山も車窓に見え続けました。



ブルン湖に到着し、下車して風景を楽しみました。ここで標高3200mあります。



砂丘が岸際まで広がっており、その影を映した湖面は不思議な色を見せています。



景勝地ですが、天然の湖ではなく、2007年に出来た水力発電用のダム湖です。



湖畔には土産物を売るキルギス族の小屋が並んでいました。石を加工した装身具が主で、買う気は起きませんでした。



ブルン湖の先は、谷も狭まりました。パミール高原も終わりのようです。



谷の上には雪山が頭をのぞかせていました。



急坂が続くようになり、25kmの制限速度が設けられていました。交通検問所があり、次の交通検問所までの時間がチェックされて、短いと速度オーバーの違反になるようです。速度を出し過ぎた時は途中で休憩を入れることになりますが、我々は途中で昼食をとるため、速度超過を気にする必要はありませんでした。

日本の高速道路でもこのような速度制限は簡単に行えるでしょうけど、パーキングが渋滞して大混乱になるでしょうね。



谷沿いに下っていくと、川向こうにキャラバン・サライ(隊商宿)の跡を見ることができました。



険しい山に囲まれた溪谷の旅は困難であったでしょうね。



道路の危険性を証明するかのように、大型トラックが横転して道の半分を塞いでいました。スピード超過か、落石に乗り上げたのでしょう。



一気に下って谷を抜けました。



検問所が現れました。ここでは一旦バスを下りて、パスポートを見せて検問を通過しました。中国国内であっても、この検問所から西のパミール高原に入るのにはパスポートのチェックが必要になります。



検問所の周辺には飲食物を売る店が並んでいました。



川幅も広がり、ゆったりした流れになってきました。



赤く染まった山が見られるようになると、昼食のレストランに到着しました。



地層が良く現れています。



昼食後、バスで少し移動した所で、赤い山の眺めを楽しみました。





いよいよカラコルム・ハイウェイも終わりに近づいたところで、バスのタイヤがパンクしました。幸いというか、すぐ先にトラックの修理工場があり、そこで修理を行うことができました。

隣接したガソリンスタンドの屋根の下で、風景を眺めながら待ちました。



雪山も遠くなっていました。幸い、30分ほどで再び走りだすことができました。



カシュガルが近づくと、緑が多くなりました。カシュガルはタクラマカン砂漠の西端に位置しますが、天山からの川が流れ込んでオアシス都市になっています。



いよいよゴールも近くなってきました。



綿花の畑が広がるようになってきました。



カシュガルに到着。シルクロード沿いのオアシス都市といったイメージからは外れる、近代的な町です。



カシュガルの中心となる十字路に到着しました。パキスタンから続いたカラコルム・ハイウェイの旅も終わりました。

この十字路でタクラマカン砂漠の南の縁を辿る西域南道と、天山山脈の南端を辿る天山南路が分かれます。カシュガルから敦煌に到るタクラマカン砂漠横断の旅もいつか行いたいと思いながら、カシュガルの市内観光に進みました。

さすらいの風景 カシュガル その1

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カシュガルの市内観光のため、ホテルの前を素通りして、週末バザールに向かいました。



人民東路を東に向かうと、毛沢東像が置かれていました。カシュガルは、新疆ウィグル自治区の西端の重要都市ですが、中央政府から遠く離れているため、権威を見せつけるために毛沢東像が置かれているような気がします。天安門広場の肖像画を別にして、中国の他の町で毛沢東の銅像が置かれているのは見たことがありません。



カシュガル老城と呼ばれるウィグル族の旧市街地が見えてきました。この旧市街地も、反対運動も激しかったようですが、地震などの防災対策のためという理由で取り壊されて再開発されるようです。おそらく、変哲のない近代的な街並みに生まれ変わるのでしょう。再開発でもうけるのは漢族の業者と地方政府の役人で、近代的な建物では家賃も高くなってウィグル族は住めなくなるのではと案じてしまいます。



終末バザールにやってきました。日曜日は大変な賑わいになるようですが、この日は土曜日。それでも大勢の買い物客が集まっていました。



入り口付近は、布地や衣類といった布関係の店が並んでいました。





鮮やかな色が広がっています。



布地を扱っている店のようです。



あつらえられた服。結構ウェストが絞り込まれていますね。



ウズベキスタンで見た民族衣装の色・模様と似ています。



一般用に使うマットでしょうね。



これは本格的な絨毯。



イスラム礼拝の際に敷くマット。



キルギス族の帽子。



ウィグル族の帽子。ウズベキスタンの帽子と同じです。



耳当て付きの毛皮帽子。時間があったら買ってしまったかな。



民族楽器の店。



カシュガルラワープと呼ばれる楽器が並んでいます。



ドライフルーツの店。



干し葡萄やナッツ類が並んでいます。





スパイスの店。



市場の中では、黒い衣服で顔を隠したウィグル族の女性もいれば、短いスカートで闊歩する女性もいました。



時間も限られていたため、買い物はできず、見学だけで外に出ました。

バスに乗ろうとすると、車が衝突してレンガが道路に散乱しました。中国に入ると、乱暴な運転が目につくようになりました。

さすらいの風景 カシュガル その2

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週末バザールの後は、職人街にやってきました。



職人街は、ウィグル族の職人の店が並んでいます。通り自体は新しいものになっています。



まずは、隣接するウィグル族の居住区を見学しました。



細い小路が張り巡らされていますが、建物自体は新しいものです。



小路の奥に進んでいくとモスクが現れました。



小路では子供たちが遊んでいました。



これもモスク。



職人街に戻ってきました。これは打ち出し銅器の店。



中華鍋や薬缶が売られていました。



民族楽器の店。



店内に入ると、民族楽器が所狭しと展示されていました。



見本ということで、楽器を弾いてくれました。



左はチェロのように立てて弦で弾くホシュタール。一つあけて、これも立てて弦で弾くサタール。中央あたりに沢山並んでいるのは、指でつまびくラワープ。右寄りに二つ並んだ丸胴の楽器は、立てて弦で弾くギジェク。



飾り用のミニチュア楽器が山積みになって売られていました。手前に見えるのは、ホシュタール。



飾り用のラワープを記念に買いました。持って帰るのに少々苦労しました。



これは木工製品の店。



ナンに飾りを入れるためのスタンプ。



枕かな。



中央にぶるさがっているのは、赤ん坊用の揺り籠で使われる排尿用の管。これは男の子用。女性用もあります。



ウズベキスタンでもこれと同じ装置を見ましたが、中央アジアで一般的に使われているようです。別な店で売られていた揺り籠ですが、この管を下に通すための穴があけられています。



歯医者の看板。解剖学的におかしい所がありますけどね。



入れ歯を製作中でした。



通りでは、インドで良く見た歯ブラシ用のニームの小枝らしき物も売られていました。



カシュガルは果物も豊富でした。これはザクロ。



日本の物とは形が違いますが、イチジク。



スイカとウリ。この地方の特産としてハミウリが有名ですね。



正体不明の飲み物。



中華粽



ナン。



青味を帯びた卵。



蜂蜜。色が違うところを見ると、いろいろな種類がありそうです。

職人街はもっとゆっくり見ていたかったのですが、この後で見学するエイテイガール寺院の閉館時間が迫っていたため急ぐ必要がありました。


さすらいの風景 カシュガル その3

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職人街を抜けていくとエイティガールモスクが見えてきました。



エイティガールモスクは、新疆ウィグル地区で最大のイスラムモスクです。1422年(明の永楽20年)に創建され、増改築が加えられました。1700年代にカシュガルのウイグル族の女性がメッカに巡礼に出かけてアフガニスタンまで行ったものの内戦でそこから先に進めず引き返し、共同墓地と小さなモスクがあったこの地に現在のサイズに近いモスクを寄進したといいます。

正門の高さは12m、左右のミナレットは18mあります。モスク前はエイティガール広場になっており、イスラムの祭日には2〜3万人の信者が集まるといいます。



境内に入ると庭園が設けられており、礼拝堂前にも門がありました。



門の左右には、それぞれ異なる文字でなにやら書かれていました。ウィグル文字とアラビア文字でしょうか。





中庭には、礼拝所に入り切れない信者のための説教台が置かれていました。



青い柱が印象的な礼拝所です。靴を脱いで中に入りました。





脇の回廊にも礼拝所が続いていました。



中心部の礼拝所。



メッカの方向を示すミフラーブが設けられていました。



礼拝者用に絨毯が敷かれています。



裾がほつれた古びた絨毯が壁に飾られていました。イランのホメイニ師が寄贈したもののようです。贈られた当時はホメイニ師はそれほどの地位ではなかったため普通に使っていたものが、その後に偉くなったために飾り物に格上げされたようです。



見学を終えてエイティガール広場に出ました。



エイティガール広場の周りにもミナレットのような塔を見ることができました。

これでカシュガルの市内観光を終えて、夕食をとってからホテルに入りました。

さすらいの風景 カシュガル その4

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夕食を終えてホテルにチェックイン後、夜の街へ散策に出かけました。幸い、宿泊した天縁国際大酒店は、東西南北の幹線道路が集まる交差点脇にあって、出かけるには良い場所にありました。



ホテルの脇の人民公園前には毛沢東像がライトアップされていました。



人民公園入口には、北京の天安門前の金水河とそれに架かる橋の飾りが施されていました。

カシュガルという場所で、このような飾りを見ると、帰国後の事件になりますが、2013年10月28日に発生した天安門車両炎上事件を思い浮かんでしまいます。

天安門付近で、四輪駆動の車が観光客を次々とはねながら暴走し、天安門のすぐ前にある金水河橋に架かる欄干に衝突して燃え上がりました。これによって車に乗っていた三名と車にはねられた観光客二名が死亡し、40人が怪我をしました。

中国政府は、ウィグル族の政治的テロと断定して、事件に関連したとして多数のウィグル族の検挙を行いました。その一方で、車を運転していたのは息子夫婦と母親という、テロの実行犯としては不自然なメンバー構成であるという疑問点も出ています。新疆ウイグル自治区で発生した暴力事件で、直系の親族が当局者に射殺されたために事件が起こされたという話も出てきています。

事件の真相は判りませんが、この事件前にも、カシュガル周辺では暴動によって多数の死傷者が出ています。この公園に見られる中央政府の象徴が、北京で事件が起こされるなんらかのきっかけになったようにも思われます。



夜市のようなものがないかと思い、エイティガール広場に向かって開放北路を歩いていきました。



エイティガール広場はライトアップされていたものの、露店は出ていませんでした。



職人街方面も店は閉まっていました。



それでもエイティガール広場には人が集まってきており、写真撮影用のラクダもいました。



露店は、エイティガール広場前のカシュガル老城入り口付近に並んでいました。大変な賑わいでした。



ドライフルーツやナッツ類の店。



ナンを売る店。



骨付き肉を積み上げています。



この骨付き肉は煮込み料理にするようです。



チキン。



麺料理の店。



シャシリクというかシシカバブというか、串焼きの店。



板であおぎながら焼いており、周囲に煙が立ち込めています。



串に刺した具の煮物。日本のおでんのような感じがしますね。



巨大なソーセージ。まさに腸詰といった感じです。



焼き飯。チャーハンというよりは、中央アジア方面のブロフに似ています。

調理をする人、食べる人で、夜市は熱気に包まれていました。



開放北路沿いでは、道に衣類を広げて商売をしていました。



ホテル前に戻り、今度は解放東路を東湖公園に向かいました。



遊園地の観覧車がライトアップされていました。



少し歩いて東湖公園に到着。



東湖公園の周囲は美しくライトアップされていました。





東湖は人口の湖のようですが、かなりの広さを持っています。橋が水面に美しい影を浮かべていました。



月も浮かんでいました。



しばし、夜景の写真撮影に専念しました。





美しい風景ですが、シルクロードの中国再西端の都市というイメージで見ると、これで良いのかという違和感も覚えます。これは敦煌の街でも感じたことですが、ウィグル族の住む辺境のアオシス都市というイメージからは外れるように急速な開発が進んでいます。

旅の終わりにあたって、パキスタンの鄙びた山間の街が懐かしく思い出されました。

さすらいの風景 カシュガルからの帰国

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10日目、観光はすべて終え、日本へ戻る旅が始まりました。カシュガルは中国辺境の地にあるため、ウルムチ経由で北京に移動し、そこから日本に戻ることになります。一日では移動しきれず、10日目は北京までの移動だけで終わります。

カシュガルの空港に到着。



カシュガル発の飛行機はすべてウルムチ行きのようです。



小ぶりですが、新しくきれいな空港でした。



中国南方航空を利用。



カスガルを飛び立つを、砂漠の向こうに天山山脈の姿が広がりました。



白き峰が連なっています。



雲の上に雪山が頭を出していました。



1時間半ほどのフライトですが、軽食が出てきました。といっても、噛みついてがっかりの具の入っていないパンのみでした。中国南方航空の機内食は、軽食でも大きな箱入りで出てくるので、開けた時のがっかり感も大きくなります。



カシュガルからウルムチへの飛行ルートは、かつてのシルクロードの天山南路に沿っています。



シルクロードの旅人は、この6000〜7000mの山稜を見上げながら、タクラマカン砂漠の縁を歩きました。



ウルムチ空港で乗り換え。この空港には到着時に利用したことがありますが、出発は初めてです。



北京行きの飛行機に乗り換え。



中国南方航空を利用。



ウルムチを飛び立つと印象的な山が目に飛び込んできました。



ボゴダ山(5445m)でしょうか。



ウルムチ・北京間の機内食。おいしく食べました。



北京は、この日も靄っていました。



北京空港に到着し、現地ガイドに案内されて地下のレストランで夕食をとりました。慣れしんだ中華料理の味で美味しく食べましたが、気になったのは隣にあった吉野家でした。



久しぶりの日本食として、むしろこちらの方を食べてみたかったですね。味やボリュームについて興味がありますし。



北京では、寝るだけだったので、空港近くのホテルでした。チェックイン後に、近くのスーパーマーケットへ買い物に案内されました。ホテルの周辺はちょっとした商店街になっていました。パキスタンや中国のウィグル地区では買えなかった配り用の土産物をここで買いました。



朝になってから撮影した北京での宿の北京泊国都大飯店。



11日目は、北京から成田への移動のみとなります。



再びパキスタン航空に乗り込みました。

天候・道路状況に加えて政治的状況が旅の可否に大きく影響する「クンシュラブ峠越え パミール大横断」の旅でしたが、困難さはあったものの問題になるアクシデントも無く、天候にも恵まれて無事に終えることができました。

さすらいの風景 パキスタンの食

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パキスタンの食事は、基本的にビュッフェスタイルでした。

いつものことですが、朝食は、簡単に済ませ、これは卵とカレー、ナン、小麦を油で焼いたブーリ。



フンザのホテルでは、日本人が主に利用するせいか、特別注文で朝食におかゆも出てきました。添乗員がインスタントみそ汁や梅干し、漬物を日本から持参してくれたので、日本式の味を楽しむことができました。



移動中の食事は、昼はハイウェイ沿いのレストラン、夕食はホテルとうことになりました。食通向けの食事ではありませんが、美味しく食べることができました。

これはベシャムでの夕食。まずはスープ。



ナン。ナンとスープだけでそれなりに腹は膨れます。



ロースト・チキン。



各種カレー。



ライス。



デザートの甘いおかゆ。



チラスでの夕食。まずスープ。



チキンにカレー味の煮物、麺、ライスといったところになります。ビュッフェスタイルだと種類があっても、味の判りそうなものばかり取ることになりますね。



デザートのプリン。パキスタンの食事ではデザートにプリンが出てくることが多かったです。



フンザでは、昼食と夕食をホテルでとることになりました。毎回少しずつ変えているといっても同じカレー味が続きます。これは、フンザ滞在三日目の夕食。



グルミットでの昼食。塩味だけの茹でジャガが美味しく感じたりします。



果物に甘いムースのデザート。



フンザでの夕食の一回は、フンザ・ダンスを見ながらの「フンザの郷土料理」になりました。

ダドゥと呼ばれる手打ちうどん。



スープラ。マトンをボイルしたもの。



グル・エ・ギャリング。小麦のクレープ。



バル・エ・ギャリング。そば粉のクレープ。



ハリッサ。麦と肉と杏オイル。



カレー味のチキンの煮込み。





ディラムピティ。杏と麦のデザート。

フンザは長寿の里として知られていますが、その郷土料理ゆえか素朴な味でした。



フンザでの楽しみは、イスラム教国で禁酒のパキスタンにありながら、アルコールが飲めることでした。このマリービールは、1860年創業で、もともとはパキスタンに駐屯していた英国軍へ納めるために製造が始められたといいます。工場はイスラマバード近くにあるようで、わざわざ遠く離れたフンザまで運ばれてきています。

しっかりした苦みがあって、一般的なビールと比べても遜色は無い味でした。

ただ問題は500ml缶が1000円することでした。日本の山小屋でも同じ値段がするところもあるので、特別な場所で飲むビ−ルということで納得することにしましょう。



久しぶりのビールに喜んで夕食と昼食に飲み、さらに日本人の団体が三組入ったため、最後の晩にはマリービールのホテルのストックが品切れになってしまいました。代わりに出てきたのが、この中国製のビール。これとてもカシュガルから国境を越えてはるばる運ばれてきたため、値段は同じ1000円。運賃の問題は許すとしても、問題は味がほとんどない激マズであったことでした。



フンザでは、昔からアルコール類が造られてきました。これは葡萄酒。味見をさせてもらいましたが、アルコール分の入った葡萄ジュースという感じで、一般的な葡萄酒まで達していませんでした。



これはフンザ・ウォーターと呼ばれる果実を蒸留した地酒。臭いに癖があって、味見だけで充分でした。

さすらいの風景 新疆ウィグル自治区の食

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国境を超えて中国に入ると、がらりと内容が変わりました。

これは、タシュクルガンでの朝食。



カシュガルでの朝食。点心類も出てきました。



タシュクルガンからカシュガルへの途中でのレストランでの昼食。観光客は、ここで昼食をとるのが一般的なようで、他の観光バスも停まっていました。

麻婆豆腐。



肉と野菜の炒め物。



煮込んだ肉。



味付けの異なる肉と野菜の炒め物。



卵とトマトの煮物。



キクラゲの炒め物











スープ。



名物ともいえるメロン。

中華料理になるととたんに種類と量が多くなります。



ビールも普通の値段で飲むことができるようになりました。燕京ビールは北京の大手メーカーですね。

食事を楽しんでいる傍らで、現地ガイドやバスの運転手はまとまってカップ麺を食べていました。これはお金の節約というよりは、イスラム教のために豚肉を使うこのレストランの中華料理が食べられないことによります。



ウィグル族らしい料理は、カシュガルの夕食で食べることができました。

まずはサラダ。



パン。ナンではありませんでした。



ヨーグルト。



麺。ウズベキスタン料理の名前でいうならラグマン。



焼き飯。ウズベキスタン料理でいうところのブロフ。



串でさした焼肉。ウズベキスタン料理でいうならシャシリク。

ボリュームもあって美味しい料理でしたが、残念なのはウィグル料理の店であったので、ビールが置いてありませんでした。



仕方がないので、夜に街に出た時に酒屋を見つけてビールを買いました。ビールという言葉が通じずに、冷蔵庫の中を覗き込んみ、自分で取り出して買うことができました。良く見るとフンザでこりた「超純ビール」だったので失敗だったと思ったのですが、飲んでみると普通の味でした。中国からフンザまで運ぶ間に味がおかしくなったのですかね。

(この項はこれで終了。次の旅の報告をお待ちください。)
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