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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 ヤズド その3

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アーテシュキャデの見学を終えて旧市街地に向かいました。



ヤズドは、砂漠の中のオアシス都市として発達したため、特異な建築様式が発達しています。

これは、沈黙の塔でも見たアーブ・アンバールです。ガナート(地下水路)で引いた水の貯水槽をドームで覆い、その周りにバードギール(風採り塔)を立てています。



旧市街地の奥に一歩入ると、日干しレンガを積み上げて泥で固めた家の壁が続いています。



人影も少なく、ひっそりした小路が延びていました。



補強も兼ねているのか、小路を挟んだ家の間をアーチでつないでいます。



面白い飾りの施されたドア。



時が止まったような感じがします。



奥に進むとどのような眺めが広がっているかと誘われますが、団体ツアーとあって興味のままに彷徨うことはできません。





ひと歩きしてバスに戻りましたが、ヤズドの街中では、バードギール(風採り塔)をそこかしこに見ることができました。



続いて、アミール・チャグマーグのタキーイェを見学しました。裏手でバスを降りると、二本のミナレットが目に飛び込んできました。



ミナレットは美しいタイル装飾で飾られていました。



アミール・チャグマーグのタキーイェは、15世紀に建てられてバザールや寺院の複合施設です。

残念ながら逆光のため、正面からは見学しにくい状態でした。



入り口上部の装飾。



広場には、大きなナフルが置かれていました。

ここは、預言者ムハンマドの孫でシーア派十二イマームの3代目イマームのホセインゆかりの地で、彼が殉教したモハッラムの月(イスラム暦の1月)に殉教劇が行われ、彼の棺を模したナフルをかつぎ、人々が鎖で自分の体を鞭打って哀悼の意を表現するといいます。



アミール・チャグマーグのタキーイェの前は広場になっており、周辺には古い家並みが広がっていました。



広場にあった噴水。何の像かは判りません。



ヤズドでの見学を終えて街を去ろうとした時、再度車窓からアミール・チャグマーグのタキーイェを眺めることができました。

さすらいの風景 ヤズド その4

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ヤズドで最後の見学場所になるマスジェデ・ジャーメのため、時計台の脇でバスを下りました。



商店の並ぶ通りを少し歩くと、マスジェデ・ジャーメが見えてきました。



マスジェデ・ジャーメは、ササーン朝時代のゾロアスター教の神殿跡地に、14〜15世紀に建てられました。金曜日のモスクとも呼ばれ、ヤズドのシンボル的存在になっています。

二本並ぶミナーレは、イランで一番の52mの高さを誇っています。



ミナーレは、建築当時のままの姿を保っているといいます。



美しいタイル装飾で飾られています。



入り口の左奥に主礼拝室のドームが見えています。



入り口の木の門は、13世紀に造られたオリジナルだといいます。

上から人の形にに鎖が下げられているのは、駱駝の侵入防止のためのものだといいます。



門の内部



入り口を抜けると広場に出ます。



広場の周囲を回廊がとりまいています。



入り口のミナーレを振り返ったところ。裏側はタイル装飾が省かれているところがあります。



主礼拝堂のイーワン(中庭に向かって開放されたアーチ状の空間)



中に入ると、メッカの方向を示すミフラーブが置かれています。



タイル装飾が見事です。



イスラム建築で用いられるタイル装飾には、モアッラクと呼ばれる「モザイクタイル」とハフトランギーと呼ばれる「絵付けタイル」があります。ここでは、モザイクタイルが用いられていました。



中央部の装飾は、モザイクタイルと表面に凹凸を付けたレンガ装飾の組み合わせになっています。



絵付けタイルは、四角のタイルが並べられているので判りますが、モザイクタイルでは不定形のタイルがはめ込まれています。

インドのタージマハルでは、白大理石に色付きの石を嵌め込んで模様を造っていますが、このモザイクタイルの発展形といってもよいでしょうね。





中庭越しに見た主礼拝堂。



入り口の上に聳えるミナーレ。



マスジェデ・ジャーメを出ようとすると、女学生の一団に出会いました。



男性としては、女性の写真を撮るのに腰が引けるところがあるのですが、グループのおばさん達は積極的に一緒に記念写真を撮りっこするので、その脇から女性の写真を撮る機会が多くなりました。



これでヤズドの街の見学を終えてエスファハーンに向かいました。街外れには、新しいゲートが造られていました。



車窓からは、雪を被った山を望むことができました。



地面を覆う白い物は、塩です。



前日に続いて、広大な砂漠の中のドライブが続きました。



途中、ナインの街で昼食をとりました。



隊商宿(キャラバン・サライ)を改装したレストランで、建物も風情がありました。







昼食後、再びバス移動が続きました。



睡魔と闘いながら外を見続けていると、砂漠の中に、隊商宿(キャラバン・サライ)の建物が現れました。



小さな土盛りが連続していますが、これはカナートと呼ばれる地下水路の地上部です。砂漠地帯では、一定間隔で縦穴を掘ってから横穴を掘ってつなぎ、山から流れ出た伏流水を街まで引いてくる水利システムが発達しました。砂漠の中のオアシス都市を保ってきたカナートですが、現在では水道システムも発達して、農業用水に使われるだけになってきているようです。

さすらいの風景 エスファハーン その1

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エスファハーンには夕暮れ時に到着し、翌日の予定であったマスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)をまず見学しました。

エスファハーンは、古くからの政治・文化・交通の拠点として栄えました。8世紀にマスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)の基となった大モスクが建立され、町はこれを中心に発展していきました。11世紀にセルジューク朝のスルターン・マリク・シャーが、国の都に定めると、エスファハーンは最初の隆盛期を迎えることになりました。セルジューク朝が衰退した後は、モンゴル軍の進攻やティムールの破壊によってエスファハーンは停滞期に入りますが、1597年にアッバース1世によって、エスファハーンはサファヴィー朝の新首都に定められました。アッバース1世は、マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)のある旧市街地に対し、アッバース1世はエマーム広場を中心とする新市街地を再開発し、エスファハーンは第二の隆盛期に入りました。

マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)は、一度焼失しましたが、12〜14世紀に再建されて、増改築が繰り返されましたが、当時の建造物が多く残されています。



マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)の門前はバザールが広がっていました。





チャドルを着たマネキンが並んでいました。



入った所の小部屋にマスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)の模型が置いてありました。中庭の周囲に、多くの建物が取り巻いています。入場は、左下の入り口からになります。



入り口左手の礼拝堂に入ると、アーチを支える柱が何本も並んでいました。スペイン・コルドバのメスキータと似た雰囲気があります。





レンガ造りで小さなドームを柱が支えていますが、多くの建築様式が見られるようです。



礼拝のための絨毯が敷かれているところもありました。





天井の高い部屋に出てきました。



大きなドームに覆われた礼拝堂。



ここのミフラーブは、年代を経て痛んでいました。



中庭に一旦出ました。広場を囲む四方の建物には、エイヴァーンが造られていました。

正面の北東のエイヴァーンは、托鉢僧のテラス。



北西のエイヴァーンは、師のテラス。



南東のエイヴァーンは、弟子のテラス。



南西のエイヴァーンは、主のテラスと呼ばれています。



中庭の中央には壇が設けられていました。



北西のエイヴァーンの脇から入ると、小さな礼拝堂があります。



ここのメフラーブは、漆喰細工で造られています。



コーランの一節や唐草模様が、細かく描かれています。





古いメンバル(説教台)が二つ置かれていました。





その奥には、冬の礼拝室があります。日が暮れて気温も下がってきており、暖かいこの部屋は居心地良く感じました。



エイヴァーンの壁を飾るモザイクタイル装飾も見事でした。



青のタイルが主に用いられています。





壁には、イランの最高指導者であるイスラム聖職者の絵が飾られていました。これはイラン革命の指導者のホメイニ師。



こちらは、現職のハーメネイー師。

この二人の肖像画は、イランの街中で数多く見られました。イスラム教では偶像崇拝を禁止しているので、聖職者の肖像画も禁止なのかなと思っていたのですが、イランでは考え方が少し違っているようです。



ミナレットの上には、手の飾りが置かれていました。

日も沈んできましたが、もうひと頑張りしてヴァーンク教会に向かいました。

さすらいの風景 エスファハーン その2

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夕暮れ迫る中、ヴァーンク教会にやってきました。



ヴァーンク教会は、ザーヤンデ川の南のジョルファー地区にあるアルメニア教会です。モスクを思わせるドームの上には十字架が置かれています。

アッバース1世によって、エスファハーンはサファヴィー朝の新首都に定められましたが、当時絹の国際交易で活躍していたアルメニア人が移住させられ、新・旧の市街地の対岸にあたるジョルファー地区に居住することになりました。アルメニア人には数々の特権が付与され、宗教の自由も認められました。この地区には13のアルメニア教会がありますが、このヴァーン教会は1655〜64年に建てられ、最も古いものです。



教会の脇には、鐘楼が建てられています。



入り口の上には、時計台が設けられています。これだけ見ていると、イスラム信仰国にいるとは思えませんね。



教会は、イスラム風です。

紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国が築かれて繁栄しましたが、ローマ帝国とサーサーン朝ペルシア帝国の間の緩衝地帯という位置にあったため、トルコやロシアなど、時代ごとに異なる国によって属国化されることになります。アルメニアには、1世紀頃にキリスト教が布教され、紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教とし、キリスト教信仰がアルメニア民族の拠り所となってきました。



教会内部に入ると、壁を埋め尽くしている壁画に目を奪われます。



円蓋も絵で埋め尽くされています。





正面祭壇の絵。



最後の審判の絵のようです。



磔刑の図



サロメだろと思います。



しばらくイスラム美術ばかり見てきたので、キリスト教の宗教画が新鮮に見えました。



教会の前の建物は、アルメニア博物館になっています。



聖具が展示されていました。





アルメニア語聖書の印刷機。



アルメニア語の聖書。



キリスト教とはあまり関係はないですが、涙壺。

戦争などで愛する人と離れ離れになった女性が、相手を思って流す涙をためたと言われます。水増しをしなかったですかね。

この涙壺は、夏目雅子が主演した「時代屋の女房」に小道具として出てきて、初めて知ったものです。



聖書の一節を書いた髪の毛が顕微鏡の下に置かれています。



重さ0.7gの14ページある世界最小の聖書。



二階は絵画などが置かれていました。







一階の片隅には、19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが強制移住、虐殺などにより死亡した「アルメニア人虐殺」の資料が置かれていました。



アルメニア博物館の見学を終えて外に出ると、濃紺の空をバックに教会がライトアップされていました。







昼間に見た光景と夜景とでは、雰囲気が違ってきます。

この後は、エマーム広場の夜景見学に向かいました。

さすらいの風景 エスファハーン その3

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この日の最後の観光として、イラン観光の最大の見どころに挙げられるエマーム広場を訪れました。翌日の昼間に詳しく見学することになりますが、まずは夜景観察ということです。

バスを下りて、小路を通り抜けていきます。



エマーム広場に出ると、まずマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーが目に飛び込んできました。



右手には、マスジェデ・エマーム。



エマーム広場は、長方形の広場で、北端にはゲイサリーイェ門が見えています。



広場の中央部を夜景を楽しみながら一周しました。

マスジェデ・エマームの入り口に立つ二本のミナレットに目が引き付けられます。



エマーム広場の中央部には噴水があり、奥には周囲にバザールが広がるゲイサリーイェ門が見えています。



広場の中央部に出て振り返ると、アーリー・ガープー宮殿が見えてきました。修復工事中で足場が組まれて、外観が悪くなっていましたが、翌日の入場観光はできました。



噴水の池に、広場を取り囲む回廊の灯りが浮かんでいました。



マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーのドームの脇に満月が浮かんでいました。



少し離れたため、マスジェデ・エマームの奥にあるドームも見えてきました。



正面から見たアーリー・ガープー宮殿。



噴水が池に水音を立てていました。

池の周りの冷気は、夜になって昼間の熱気も落ち着いたというのなら心地良く感じられるのでしょうが、日没とともに冷え込んできており、ジャケットの下に薄いダウンを着込んでいても寒さが堪えてきました。夏の時期なら、夕涼みに出てくる人々で賑わうのでしょうが、歩いている人も僅かでした。



池にマスジェデ・エマームの美しい姿が映っていました。



夜景を眺めながら広場を歩いているうちに、月も上がってきました。

夜のエマーム広場を眺めていると、「千一夜物語(アラビアンナイト)」の舞台に身を置いている感じがしてきました。「千一夜物語」は、サーサーン朝時代に中世ペルシア語であるパフラヴィー語で書かれた物語が、イスラームのアッバース朝時代に翻訳されて原型が創られました。



広場の周囲の回廊には商店が入っています。



寒いためか、人も少なくなっていました。



エマーム広場の本格的な見学と買い物は翌日に行うことにして、夕食のためのレストランに入りました。

さすらいの風景 エスファハーン その4

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エスファハーンでは、KOWSAR ISFAHANホテルに泊まりました。写真は、翌朝に撮影したもの。



このホテルの部屋もきれいでしたが、部屋が上階にあったためか、トイレで紙を流すのは禁止でした。これは海外では良くあることですが、水の流れをみていると、大をすると流せなくて大変なことになりそうでした。幸い、部屋の前に、アラブ式の共用トイレがあったのでこちらを使うことにしました。



通常なら、クレームを入れて部屋を変えてもらうところですが、この部屋はザーヤンデ川に面しておいて展望を楽しめるので、そのまま居座りました。

部屋のテラスイに出るとライトアップされたスィー・オ・セ橋を見下ろすことができました。



橋の向こうにマスジェデ・エマームが見えていました。



ザーヤンデ川は、ザーグロス山脈のザルデ山に源を発し、イスファハーン平野を貫流した後、100kmほど東の砂漠で姿を消します。ザーヤンデ川には、「生命を生み出す川」という意味があるといいます。

エスファハーン市内には、11本の橋が架かっていますが、その中の幾つかは歴史ある石橋で歩行者専用になっています。



スィー・オ・セ橋は、1602年に完成した長さ300m、幅14mの橋です。「スィー・オ・セ」とは33を意味し、橋上部のアーチが33あることから名づけられています。



写真では判り難いですが、ザーヤンデ川は完全に干上がっており、川を歩いて横断できる状態でした。川の中央に出て写真を撮りました。



イランの治安は良いので、暗い中を歩き回ることができました。



橋に近寄ってきました。





橋の一階部もアーチが連続しています。



北側の橋詰にでました。



橋の二階部を歩いてホテルに戻りました。



夜明けのスィー・オ・セ橋。



明るくなってみると、干上がった川に足漕ぎボートが並べてありました。



対岸に見えているのは、神学校とマスジェドを兼ねたマドラセイェ・チャハール・バーグ。



朝のスィー・オ・セ橋。



六日目は、丸一日目を使ってエスファハーンの市内観光を行いました。

さすらいの風景 エスファハーン その5

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六日目の観光は、チェヘル・ソトゥーン庭園の見学から始まりました。

バスを下りて歩いていくと、ペルシャ風の建物が現れました。



良く見ると、建物の前にあるのは、トリケラトプスの像。

頭に?マークが浮かびましたが、これは自然史博物館でした。



チェヘル・ソトゥーン庭園に入ると、池と宮殿の眺めが広がりました。

チェヘル・ソトゥーンとは、「40本の柱」という意味です。実際の柱は20本ですが、池に映った影を合わせて40本になるからといいます。

横に6列、縦には、脇は3本で中央二列だけは4本。合計で20本となります。ただ、池に全体の影を映そうとすると、重なって40本にはなりませんね。



池の脇に置かれた像。



ユーモラスな顔をしています。



宮殿の前まで進んで入り口を振り返ったところ。



この宮殿は、1647年にアッパース2世によって迎賓館として建てられたものです。



長い柱が屋根を支えています。



柱の台座には、ライオン像が飾られていました。



天井はモザイク模様で飾られていました。



宮殿の入り口は、鏡で飾られています。



地元の女学生の団体が見学に訪れていました。イランの各地で、郊外学習の子供たちに合いましたが、少し年齢のいった子供は女の子ばかりでした。男の子は、学校での座学ばかりということなのだろうか。



鏡モザイクが輝いていました。かつては柱も鏡で覆われていたといいます。





天井も鏡で覆われています。



天井の鏡を使って自己撮り。首が痛くなりました。

さすらいの風景 エスファハーン その6

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チェヘル・ソトゥーン宮殿の中に入ると、壁を埋め尽くす絵に目を奪われました。



天井の装飾も見事です。



部屋には、宴会の絵が三枚掛けられています。17世紀の著名な細密画師レザー・アッバースィによって描かれたものです。アッパース1世がアシュタルハーン朝のヴァリ・モハンマド・ハーンをもてなす宴、タフマースブ1世がムガール朝の王子フマーユーンをもてなす宴、アッパース2世がアシュタルハーン朝のナーデル・モハンマド・ハンをもてなす宴とのことですが、どれがどれかは判りません。



宴のさまが生き生きと描かれています。踊り手の姿には、東洋的なものが感じられます。

ペルシア細密画(ミニアチュール)は壁画や写本の挿絵として発達してきました。イランの詩文学は10〜13世紀にその絶頂期を向かえて数々の傑作が生まれましたが、絵画は、少し遅れた13世紀後半のモンゴル支配下のイル・ハン朝の頃からで、ティムール朝を経て16世紀、サファヴィー朝期に全盛期を迎えました。イル・ハン国を建てたモンゴル人が、中国絵画の技法をイスラーム世界に伝えたといいます。



細かい所を見ていくと、興味が尽きません。





踊り手が増えています。



酔いつぶれている人。



女性だけで酒盛り。



宴会の参列者。







お客が年少のようなので、これが「タフマースブ1世がムガール朝の王子フマーユーンをもてなす宴」の絵のように思えます。

細密画というとインドのムガル絵画も有名です。第2代皇帝フマーユーンは、一時期、サファヴィー朝のタフマースプ1世の宮廷に身を寄せていた事があり、その折に、フマーユーンは、ペルシャ細密画に触れる事となりました。フマーユーンはインドに戻る際に、2人の絵師を連れ帰り、そこからムガル絵画が始まりました。

この宴会の絵は、ムガル絵画誕生の場面を描いているともいえます。



民族楽器の演奏者





宴会の絵と並んで、戦いの絵が飾られていました。

イスマイール1世とオスマン軍の戦い、イスマイール1世の軍勢がターヘルアバードでシャイバーニー朝軍を打ち負かす様子、インドのカルナルでの戦いの三枚の絵が飾られていました。



像が描かれているので、インドでの戦いでしょうか。



首が飛ぶ殺戮のさまが描かれていますが、宴会の絵の方が生き生きとしていますね。











壁の下部には、男女を描いた小ぶりな絵が飾られていました。ペルシャ細密画ならではの趣があります。



誘うような姿にエロチシズムを感じます。



絵に描かれている赤い飲み物は、葡萄酒のように思えます。

漢詩なら「酔臥沙場君莫笑」といった場面ですが、ペルシャの詩でも同じような酔いどれの詩があるのでしょうね。























これらのペルシャ細密画を見ていると、二人の画家が思い浮かんできます。

一人は、この「千夜一夜物語」を描いたカイ・ニールセン。

カイ・ニールセン(1886〜1957年)は、デンマークのイラストレーターで舞台美術も手がけました。この絵は、コンドラシン&コンセルトヘボウ管弦楽団によるリムスキー・コルサコフ作曲の交響組曲「シェエラザード」のCDジャケットに使われていましたね。



エルテ作 ファイヤーフライ

もう一人は、エルテ(本名ロマン・ド・ティルトフ 1892〜1990年)。ロシア生まれで、オリエンタリズムとロシア文化を取り入れ、さらにペルシャの色彩やビザンチンの華麗さを加味したアール・デコの画家で、数々の舞台衣装やヴォーグ等のファッション雑誌の挿絵を手がけました。リトグラフ「数字」シリーズが最も知られていますね。

この二人の絵が好きなので、時代を遡ってペルシャ細密画に親しみを覚えるのかもしれません。

さすらいの風景 エスファハーン その7

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チェヘル・ソトゥーン宮殿の入り口の大ホールの奥に進むと小部屋が現れました。



この部屋の壁も細密画で飾られていました。



あいかわらず酒盛りの絵です。イスラム教に反するということで消されなかったことは幸いです。







壁も美しい装飾で飾られています。



小部屋を抜けると、再び大部屋に出ました。



細密画も見られましたが、この部屋は資料の展示室になっていました。



古いペルシャ絨緞



宮殿の窓を飾っていたステンドグラスが展示されていました。



ヨーロッパの教会で見られるステンドグラスに比べて、ガラスの一片が細かく、技術の高さが判ります。



現在の窓は、透明なガラスがはめ込まれているのは残念です。



チェヘル・ソトゥーン宮殿の見学を終えて、庭園に出ました。



花が終わっており、ちょっとさびしい感じの庭園でした。



庭園の片隅にあるチャイハネに入りました。チャイヘネは、「お茶の家」という意味で、喫茶店の役割を果たしています。水煙草の装置も置かれていました。





現地ガイドのアリーさんがお茶をふるまってくれました。

ガラス製コップに、熱々のお茶がなみなみと注がれて出てきました。



このお茶は、一旦皿に移して冷まして飲むというのが普通のことのようです。また、角砂糖は、お茶に入れてかき混ぜて飲むのではなく、お茶に浸してから角砂糖を食べるというのがイラン流です。そのためか、角砂糖も堅めのものになっていました。(写真撮影のために左手で角砂糖を持っていますが、イスラム流では、右手で食事を行うのがマナーです。)




さすらいの風景 エスファハーン その8

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チェヘル・ソトゥーン庭園の見学を終えて、隣接するエマーム広場にやってきました。前日に夜景を見学しましたが、昼間はまた違った雰囲気です。

エマーム広場は、別名でナグシェ・ジャハーン広場と呼ばれ、これは「全世界の図」という意味です。サファヴィー朝のアッパース1世の命によって1598年に着工され、完成までには数十年かかりました。この広場に付けられた「エスファハーンは世界の半分」という言葉が良く知られています。また、イラン革命までは、王の広場とも呼ばれていました。

まずは、マスジェデ・エマームを見学しました。マスジェデ・エマームは、別名「マスジェデ・シャー(王の寺院)」とも呼ばれます。

アッパース1世の命によって1612年に着工されましたが、完成したのは王の死後の1638年でした。



二本のミナーレが入り口に設けられています。



入り口の上部には、タイルで飾られたムカルナス(鍾乳石飾り)が設けられています。



ムカルナス(鍾乳石飾り)を下から見上げたところ。



入り口の奥に中庭が見えています。



中庭を囲む回廊には、礼拝所が設けられていました。



壁を飾るタイル装飾も見事です。



回廊のアーチの奥に中央礼拝堂が見えています。

中央礼拝堂はメッカの方向を向く必要があるため、この中庭とエマーム広場とは45度の角度で折れ曲がっています。



中央礼拝堂の入り口のエイヴァーンには、二本のミナレーが設けられています。



中庭には、四方にエイヴァーンが設けられています。これは入り口から見て右のエイヴァーン。



これは左のエイヴァーン。



入り口のエイヴァーン。



広場の隅に移動すると、中央礼拝堂の奥にあるドームが見えてきます。



回廊の壁を飾るタイル装飾。



壺や花の模様が描かれています。



中央礼拝堂の両脇には、17世紀に増築された神学校があります。この向かって左のマドラセイェ・ナーセリーイェは、冬用の学舎でした。小さな中庭の周りに部屋が並んでいます。



中央礼拝堂のドームやミナーレが見えています。



ここのタイル装飾では、青の他に黄色のタイルが用いられています。





見学者も他におらず、静かな空間が広がっていました。

さすらいの風景 エスファハーン その9

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マスジェデ・エマームの見学を続け、中央礼拝堂に入りました。



小さな円蓋を柱の列が支えています。



タイル装飾が天井一面を飾っています。



青だけでなく、黄色のタイルを使った絵も見られました。



高いドームの下に出ました。このドームは、外側は高さ54m、内側は38mと二重構造になっています。



ドームの天井から光が差し込んでいるように見えましたが、ドームの上部に穴が開いている訳ではなく、周囲の小窓から反射した光が線になって見えているようです。この仕掛けは、マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーでも見ることになりました。



中央礼拝堂のミフラーブ。



メンバル(説教台)。



このドームは反響が良く、地元ガイドのアリーさんが、コーランを詠唱してくれました。



また、中央の四角の板が埋め込まれている場所は反響の中心で、手を叩くと一瞬遅れて反響音が返ってくるので、連続して叩くと何重にも重なって聞こえました。また、紙を弾いて鳴らすと、背の高さの範囲で音階が変わってきました。このような音響効果まで計算して建物を造っていたとすると、イスラム文化が非常に進んでいたことが判ります。

エマーム広場で見学していると、このドームでの声が外にまで聞こえていました。



中央礼拝堂から見た入り口のエイヴァーン。





中央礼拝堂を出て、マドラセイェ・ソレイマー(夏用の学舎)を見学しました。



先に見たマドラセイェ・ナーセリーイェ(冬用の学舎)と同じ造りになっています。





ここも美しいタイル装飾で飾られています。



中庭に出て、入り口のミナーレを眺めました。





見学を終えてエマーム広場に出ようとすると、女学生の一団に出会い、その中から日本人ですかと声が架けられました。日本に滞在していたとのことでした。



記念撮影タイムになってしまいました。



エマーム広場に出ると、ここでも女学生の一団に遭遇して記念撮影。

イランでは、予想以上に親日的で、地元の子供達の撮影が非常に多くなりました。

さすらいの風景 エスファハーン その10

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マスジェデ・エマームに続いてエマーム広場にあるアーリー・ガープ宮殿を見学しました。

1〜2階はアッパース1世の時代、バルコニーと3〜7階はアッパース2世の時代に造られました。イランで最初の高層建築で、かつてエマーム広場で行われたポロ競技を観戦したといいます。

バルコニーは修復工事中でしたが、内部は見学できました。



宮殿内に入る前に、裏手に回りました。建物を見上げると、前方と後方からでは階層が違うように見えますが、これは外部から宮殿内部の構造が判らないようにしたためとのことです。



最上部の部屋は音楽堂で、壁に特徴的な穴が開けられているのが見えました。



宮殿内に入って狭い階段を登っていきます。



バルコニーは工事中で、正面のマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーの眺めが邪魔されていたのは少し残念でした。



マスジェデ・エマーム方面は、良い眺めが広がっていました。「世界の半分」と呼ばれるに相応しい眺めです。



バルコニーの天井もモザイク状に飾られていました。



バルコニーから宮殿に入ると、その内装に目を奪われました。







花や鳥の絵が図案化されています。



ここの細密画もレザー・アッパースィーによるものです。





人物は、中国風ですね。



再び狭い階段を昇って最上階に出ると、音楽堂になります。



音楽堂では、壁に楽器を模した穴が開けられています。これは演奏の際の余計な反響音を除くために設けられたといいます。



天井も単純な円形ドームではなく、細かい窪みが設けられていました。

この当時の演奏ではフルオーケストラは発達しておらずに室内楽程度でしょうから、そこまで音響効果を追求する必要があったのかは疑問ですが、興味深い構造です。



穴の形も、場所によって微妙に違っています。









壁は木製のように見えますが、漆喰でできています。

イスラム文化は、予想以上に奥が深いようです。

さすらいの風景 エスファハーン その11

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アーリー・ガープ宮殿の見学の後、昼食のためにエマーム広場を離れました。午後に戻ってきてからマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーの見学と買い物をすることになりました。

昼食後に、ザーヤンデ川に架かるハージュ橋を見学しました。



ハージュ橋は、アッパース2世時代の1666年に完成しました。2層構造で、上層部のテラスでは、夏の夜に王が宴を張ったといいます。



現在では、歩行者専用の橋になっています。もっとも、川の水が無くなっているので、適当な所を横断している人が見られます。



橋のたもとには、ライオン像が置かれていました。ガイドブックには、この象にまたがるとたちどころに結婚できると書いてありましたが、乗っている人は見かけませんでした。



後ろから見ると、この像は雄ライオンですね。



向こう岸まで橋を渡ってみました。



橋の縁はアーチに囲まれた回廊になっていました。モデルの撮影場所によさそうですね。



橋は所々タイルで飾られていました。



向こう岸からの眺め。この橋は水量調節のための水門の役割もしていました。



こちらにもライオン像が置かれていました。残念ながらこのライオン像の性別を確かめるのは忘れました。、



橋の中間部に設けられたテラス。



隣りのチュービー橋も見えていました。この橋もアッパース2世によって造られました。



エマーム広場に戻る際、車窓から鳥型の面白い生け垣を見ることができました。

さすらいの風景 エスファハーン その12

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昼食を終えてから再びエマーム広場に戻ってきました。広場を囲む建物で残っていたマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを見学しました。



アッパース1世によって造られた王族専用の礼拝堂です。レバノンの有名な説教師シェイフ・ロトゥフォッラーを迎えるために造られました。後に、アッパース1世は、彼の娘と結婚しました。



マスジェデ・エマームと並んで、サファビー朝建築の最高傑作とされています。



ドームの外面も美しいタイル装飾が施されています。



入り口には美しいエイヴァーンが設けられています。



タイル装飾も見事です。







内部に入ります。



この建物には中庭は無く、高いドームで覆われた礼拝堂に出ます。



ドームを見上げると、頂点から光の線が延びています。この光は、礼拝堂の中でも二ヵ所の限られた場所でしか見られません。



頂点には、孔雀が描かれており、光はその尾のように見えます。現在の知識をもってしてもどのような仕掛けか判らず、当時の人はさぞ神秘的に思ったことでしょう。



礼拝堂のミフラーブ。



ミフラーブの作者のサインのようです。



美しいタイル装飾に目を奪われます。







一般的には、四角の装飾タイルを並べて絵を造っていますが、小片を組み合わせたモザイクタイルで装飾されている所もありました。



これもモザイクタイル。

エマーム広場を囲むイスラム建造物は、他では見られない壮麗さと洗練された美しさを備えていました。海外からの観光客がほとんどいないのは、空いててラッキーと思う反面、残念な気にもなりました。

さすらいの風景 エスファハーン その13

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エマーム広場の見学の最後は、自由行動となって買い物タイムになりました。

長方形のエマーム広場の北には、ゲイサリーイェ門があります。



ゲイサリーイェ門の先はバザールになっており、マスジェデ・エマームのある南側と違って庶民的な領域になっています。



ゲイサリーイェ門近くでは、車道が横断しています。



エマーム広場を囲む回廊は商店になっていますが、ゲイサリーイェ門側は、庶民的な店が並んでいました。





紹介してもらったナッツ・ドライフルーツの店で、今回はドライ・イチジクを買いました。





ゆっくりと見て回りたいところですが、時間が限られており、急いで歩き回ることになりました。



マスジェデ・エマームのある南側は、観光客用の土産物屋が並んでいます。



イラン旅行の土産は、エマーム広場でおおよそ揃うようです。







イラン制裁の関係で海外からの観光客がほとんどおらず、また日暮れ近くになると寒くなってしまうためか歩いている人も少なくなり、ちょっと寂しい雰囲気でした。



最後に、残照に浮かぶマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーを目に焼き付け、エマーム広場を後にしました。



これでこの日の見学は終わりになりましたが、希望者だけ絨毯の店に案内してもらいました。敦煌、トルコと絨毯の店を見てきたので、ペルシャ絨緞を見逃すわけにはいきません。



ここでも、まず最初に絨毯の説明が行われました。



続いて、次から次に絨毯が広げられていきました。





見事な絨毯ですが、手の出る値段ではありません。











ペルシャ訪問の記念ということで、この小さなものを買いました。実用性はなく飾りですかね。ネコ用絨毯にはもったいないなあ。

ビザカードが使えるというので、数万円分をカードで払ったのですが、夜になってホテルに店員が訪ねてきて、カード代金が落とせなかったとのことでした。結局、日本円で支払うことになりました。イランにはアメリカ資本のカード会社が入っていないので、ドバイの会社経由で決算しているようですが、その連携がうまくいかなかったようです。なお、このカードは、ドバイでのビール代などでは無事に使えました。


さすらいの風景 アブヤーネ村 その1

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旅の第7日目、いよいよこの日の夜にはイランを去ることになりました。

エスファハーンからテヘランに向かいますが、その途中、アブヤーネ村とカシャーンを訪れることになります。



バスは、乾燥地を北に向かいますが、車窓からは雪を頂いた山が見えてきました。これらの山は、イランの西部に南北に連なるザグロス山脈に属しています。なお、果物のザクロの名前は、このザクロス山脈の名に由来するといいます。



ハイウェイ途中の駐車場から見た白き峰。





アブヤーネ村は、この高山の山懐にあるようです。



再びドライブを続けました。



ハイウェイを離れて山に向かうと、水の流れる谷が現れました。



雪山が近づいてきました。



高度を上げていくと、人家が現れてきました。



崖に開いた穴は、羊小屋とのこと。高度が上がって寒さも厳しいので、保温のために穴倉の中で飼っているようです。



アブヤーネ村に到着。アブヤーネ村の標高は、2500mあるようです。



周囲の岩山は赤みを帯びていますが、村の建物もその土を使っているためか赤みを帯びています。



この村には、ネコが沢山いました。しかも人なつこいので、たっぷりとネコ撮りができましたが、それは「ペルシャのネコ」篇にて。



赤い壁の間に続く小路を進んでいきました。





独特な雰囲気があります。



この村の女性は、白地に赤やピンクのバラ模様のスカーフを被っているのが特徴です。



ただ、村で会ったのは老人ばかりで、若者は大都市に出稼ぎに行ってしまっているようです。





写真と撮りながら、村の奥に進んでいきました。

さすらいの風景 アブヤーネ村 その2

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アブヤーネ村の奥に向かって歩いていきます。



アブヤーネ村ではゾロアスター教を信仰しており、一般のイラン人には通じない特異な方言を使うようです。



バラのスカーフを被った女性が道端に座ってドライフルーツなどの土産物を売っていました。



谷向こうの大地に見えるのは要塞とのこと。現在では廃墟になっているようです。



日干し煉瓦を使って、おしゃれに窓枠を造っています。



窓も少し変わっています。



ドアにはノッカーが二つ取り付けられています。右は男性用で、左は女性用とのこと。ノックの音によって、訪問者の性別を知ることができるようになっています。



写真を撮りながらの歩きが続きました。













二階建ての、村の中でも大きな建物。お金持ちのお屋敷でしょうか。



突き当りの霊廟に入りました。7代目イマームの子孫の霊廟とのこと。



タイルで覆われた尖塔が印象的です。



霊廟内には、イラン・イラク戦争の戦没者の慰霊所が設けられていました。イランの地方都市では、メイン通りの街灯などにイラン・イラク戦争の戦没者の写真が飾られていました。この戦没者は、殉教者とされているようです。

イラン・イラク戦争は、イランとイラクが国境をめぐって行った戦争で、1980年9月22日に始まり1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えました。イランでは1979年にホメイニー師の指導によるイスラム革命があり、親米のパーレビー政権が倒れるとともに、君主制中心の周辺アラブ諸国の警戒感が強まりました。イスラム革命後の混乱に乗じて、以前から国境紛争のあった隣国イラクのサダム・フセインは、1980年9月22日未明、イラクに対し全面攻撃を仕掛けました。イラク軍はイラン国内に進攻し、それを最初の奇襲で生き残った空軍が要撃するという戦いになりました。パーレビー政権時代は、アメリカの戦闘機を導入していたため、イランが制空権を支配することができました。

イランのイスラム革命に介入しようと、米国や欧州、ソ連、さらにアラブ諸国などはイラクを積極的に支援しました。特にクウェートは、ペルシア湾の対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援し、資金援助や軍港の提供を行いました。

完全に孤立したイランですが、20万を越える義勇兵が前線に加わって、戦線は膠着状態に陥りました。ここで奇妙な援助国が現れてきます。アラブ全てを敵に回しているイスラエルは、敵の敵は味方ということで、米国製の部品を調達するなどしてイランを支えました。さらに、少数派のアラウィー派が政権を担っていたシリアと反欧米を掲げるリビアがイランに味方するということになります。1981年6月7日に、イスラエル空軍機はヨルダン・サウジアラビア領空を侵犯してイラク領に侵入して、イラクがフランスの技術で建造していた原子力発電所を空爆して破壊してしまいます。さらにレバノンにイスラエル軍が侵攻。イスラエルの漁夫の利的攻撃全開です。その後、イランとイラク間の都市のミサイル攻撃や、米国の介入によるイランによるペルシャ湾のタンカー攻撃なども起きましたが、当初の当事者であったイランとイラクは戦い疲れて、1988年8月20日に停戦を迎えました。

イラン・イラク戦争の終戦後、サダム・フセインは多大な戦時債務を返還することになりましたが、戦災によって経済は低迷し、石油価格も低下しており、行き詰ってしまいました。そこで、借金を棒引きにするかのように、1990年8月2日にイラクはクウェートに進攻して湾岸戦争が勃発しました。

こうして紛争を振り返ると、イランが一番の被害者のように思えますね。



噴水のある池には薄氷が張っていました。厳しい気候の高地ですが、水が豊富なことから人が住みついているようです。



写真を撮りながら引き返しました。







ハイウェイからアブヤーネ村への道が分かれる分岐には、防衛基地が設けられていました。キャラバン・サライかと思って写真を撮ってしまったのですが、背後には高射砲陣地が設けられていました。緊張が高まりましたが、バスに乗って通り過ぎる際に兵士と目が合うと、手を振ってくれました。



アブヤーネ村との分岐からハイウェイを少し走ると、原子力発電所が現れて、その一帯は撮影禁止になりました。施設が見えなくなってからの撮影ですが、原子力発電所からの送電線鉄塔が連なっています。遠くに見える土盛りは、高射砲の陣地かもしれません。

この原子力発電所は、現在問題になっているイランの核開発問題の舞台になっています。イランは20%高濃縮ウランの自国製造を進めていますが、これは医療用アンソトープのためと説明しています。高濃縮ウランを用いるのは原子爆弾の製造を狙っているからではないかと疑われて、アメリカから経済制裁を受けています。

原子爆弾の開発の禁止が望ましいことは当然ですが、疑惑段階でイランに経済制裁をとる一方で、既に核兵器を保有しているパキスタンやインドなどにはおとがめなしという矛盾があります。さらにイランの核開発によって中東の緊張が高まるという点では、イスラエルは核拡散防止条約に加盟しておらず、その地位を認められていない核保有国とされています。もっとも、イスラエルは核の保有を否定も肯定もしない立場を取っています。

平和あっての観光ですので、イランの政治状況がさらに改善されて、多くの観光客が訪れるようになることを願ってやみません。

さすらいの風景 カーシャーン その1

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アブヤーネ村からテヘランに向かう途中、カーシャーンを訪れました。ここがイラン旅行における最後の見学地になります。

まずテペ・シャルク遺跡を見学しました。小高い丘が残っているだけですが、イランで人類が最初に住みついた遺跡とのことです。紀元前5〜6世紀の遺跡で、日干しレンガを積み上げた世界最古のジッグラト(ピラミッド形神殿)が残されています。



丘の下には、大きな彩文土器が展示されていました。



ジッグラト(ピラミッド形神殿)の基部の日干しレンガの露出部には、保護のために雨避けが設けられています。



この遺跡からは、人骨も発掘されました。少女の骨のようです。



板張りの歩道を通って丘に登っていきます。



歩道の周囲には、土器の小さな破片が転がっているのが見えます。



かなり崩壊が進んでいますが、住居跡でしょうか。



現在も、発掘作業の途中のようです。



丘の上からは、住宅地が遺跡にせまっているのが見えます。



入り口脇には、この遺跡から発掘された彩文土器の簡単な展示場が設けられていました。ルーブル美術館や大英博物館に主要出土品は流出しており、これはレプリカ。



欠損部が多いですが、これは実物。



未整理の破片が展示されていました。

貴重な遺跡のようですが、時代が古すぎて興味が追い付かない感じでした。

さすらいの風景 カーシャーン その2

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カーシャーンは、テヘランとエスファハーンの間にあるオアシス都市です。カーシャーンは古くからの歴史を持っていますが、別荘地としてサファヴィー朝の王に愛されました。

特にアッパース1世は、カーシャーンの郊外にこのフィーン庭園を造り、死後もこの地に埋葬されることを願いました。

フィーン庭園が、イラン最後の見学地になりました。



門から入ると、水路の先に宮殿が建つ、典型的なペルシャ式庭園が広がっています。



まずは、庭園の左端に向かいました。



庭園を囲むように水路が延びています。カーシャーンにはキャビール砂漠がすぐ東に迫っており、水と緑の豊富な庭園は、天国の模倣といえます。



まずは、王の風呂(ハマム)に入場しました。



天井の低い、いかにも浴室といった小部屋が続きます。





人形で再現されているのは、カージャール朝の宰相アミール・カビールの死の場面です。

料理人の子から、カージャール朝の宰相に上り詰めたアミール・カビールは、19世紀半ばに数々の改革に着手したものの、3年でその地位を追われ、フィーン庭園内の建物に蟄居を命じられました。失脚の翌年の1852年に、カージャール朝第4代国王ナセロディンの許可を得た刺客が押しかけ、浴室で手首を切られて殺害されました。イギリス、ロシアといった欧州列強の進出によりイランの弱体化が進んだのに対し、アミール・カビールは軍や産業の近代化で乗り切ろうとしましたが、彼の悲劇的な最後によってイランの近代化が遅れることになりました。

アミール・カビールは、イランの人々に愛され、フィーン庭園もアミール・カビール庭園とも呼ばれています。



歴史上の事件もあって、お湯が張られていない浴槽は寒々とした感じがしました。













出口近くに縛られた像が置かれていましたが、これはアミール・カビールに危機を告げるために駆け付けたものの囚われてしまった使者のようです。



こちらは監視人かな。



アミール・カビールの姿を現した像のようです。

さすらいの風景 カーシャーン その3

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アッパース1世が造ったフィーン庭園の離宮部分を見学しました。



正面建物の裏手にあるドーム状の東屋です。



修復工事の足場が組まれていましたが、見学には支障はありませんでした。



ドーム状の天井には美しい装飾が施されていました。



時代が新しいためか、洗練された感じがします。





花と鳥が描かれるペルシャ芸術は、具象的な絵を避けるイスラム美術とは違っています。





人物画も修復中ですが描かれています。







大きめの池があり、その底には穴が開いており、水が湧き出ていました。この庭園の水は、丘の上にある貯水池から引かれています。



庭園の正面にある建物に入りました。



建物の中から入り口方面を見たところ。



脇に向かっても水路が設けられていました。



この建物の天井の飾りは簡素なものでした。



改めて、正面から離宮を眺めました。





入り口の門に向かう水路。



12月にもかかわらずバラが咲いていました。

イランというとイスラムの規範が厳しい国というイメージがありますが、ペルシャ芸術は、その枠を超えて自由で、日本の花鳥風月の美意識に通ずるものがありました。

これでイランの見学を終えて、テヘランに向かい、夜の飛行機で帰国の途につくことになりました。カシャーンを出発すると、小雨混じりの風が強くなりました。イランの観光中は晴天が続いていたので、天気の崩れが観光が終わったあとでラッキーと思ったのですが、これがひと波瀾の原因になるとは、この時は思いませんでした。
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