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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 キャンディ その3

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入口から本堂へは、トンネル状の通路を通りますが、豪華な装飾が施されていました。



仏歯は二階の礼拝堂に収められていますが、一階にも礼拝堂が設けられていました。



前に飾られている象牙は、ペラヘラ祭りに使われた象のもののようです。



扉の上には、これまで見てきたスリランカの寺院でおなじみになった、魔除けの像が置かれていました。



木造の礼拝堂は、全体に装飾が施されていました。



日本の寺院建築と似た雰囲気があります。



二階の礼拝堂を見上げたところ。



二階へと進みます。



踊り場には、ペラヘラ祭りの際に仏歯を収めるための容器が展示されていました。



このレリーフは、スリランカへ仏歯が持ち込まれた際の逸話を現したものです。

インドで仏陀が火葬された後、遺骨と歯はインド各地に分割されました。4世紀に南インドのカリンガ王が戦に敗れた際、娘のヘーマ・マーラと夫のダンタはスリランカへ逃れましたが、その際、マーラは父の遺言に従って長い髪を巻きあげた中に仏歯を隠してセイロンに持ち込み、アヌラータブラに奉納しました。

その後、仏歯は王権の権威を保証する証となり、都が移る度に一緒に運ばれて、最後はキャンディに落ち着きました。

なお、収められている仏歯は、右の犬歯とのこと。

この仏歯伝来伝説は、ホータン王に嫁ぐ中国の王女が、髪飾りに隠して絹の繭を持ってきたことによって、1世紀頃に中国外で絹の生産が行われるようになったという伝説を思い起こさせます。



ペラヘラ祭りに使われる飾りのようです。



二階の礼拝堂に進みました。



仏歯を収めた容器は、プージャの際に扉が開かれて見ることができますが、その時間ではありませんでした。写真が展示してありましたが、宝石で飾られた黄金の容器のようです。



熱心に礼拝する信者で混み合っていました。



豪華に装飾された礼拝堂。扉の奥に仏歯が収められています。



お供えの花も沢山置かれていました。



廊下いっぱいに信者が座っていました。



一階に下りる途中にも礼拝堂が設けられていました。

さすらいの風景 キャンディ その4

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仏歯寺の本堂の見学を終えて外に出てきましたが、境内には他にも多くの建物が並んでいました。



灯明を捧げる建物も設けられていました。



ここでは、ロウソクではなく、ココナツオイルの灯明が用いられていました。



建物の一つに巨大な像の剥製が展示されていました。

これは、ラージャと呼ばれ、ペラハラ祭りの際に聖なる仏歯を背中に載せて行進する勤めを65歳に亡くなるまでの50年間にわたって務めた象の剥製です。

なお、ラージャというのは、「牙(タスク)を持つ立派な象」に贈られる共通の名前です。姿と同時に、行進の間に周りの見物人の騒音にも動じないで堂々としている品格も備えている必要があります。ある時、このラージャに仏歯を載せたところ、動こうとしなくなったことがあり、調べると容器を止めるベルトが緩んでいたというエピソードを現地ガイドが紹介していました。



脇の壁には、ありし日の写真が飾られていました。



ラージャと並ぶスリランカの第2代大統領になったJ・R・ジャヤワルダナ氏の写真が飾られていました。J・R・ジャヤワルダナ氏は、第二次大戦後の日本の復興に大きな貢献をした恩人として忘れることはできません。

J・R・ジャヤワルダナ氏は、1951年には国連に蔵相として参加し、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席しました。その際の会議演説で彼は、「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、また、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という法句経の一節を引用して、セイロン(現スリランカ)は日本に対する賠償請求を放棄する旨の演説を行って各国の賛同を得、日本が国際社会に復帰できる道筋を作りました。

閣僚・首相・大統領として、さらに政界引退後もたびたび日本を訪れて、日本とスリランカの交流に尽力しました。1996年の死去に際しては、献眼を行い、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本の女性に贈られました。



仏歯寺を囲む壁の上から本堂を振り返ったところ。



かつては王宮だった考古学博物館。



向かいの建物では象が飼育されていました。



キャンディ湖の畔にでると、修復工事中でしたが、王家の沐浴場がありました。



王宮であった建物のようです。



入口付近には、お供え用の花を売っていました。



キャンディ湖の美しい眺めが広がっていました。

キャンディ湖は、王朝最後の王になったスリー・ウイクラマ・ラジャシンハによって12年をかけて造られたものです。建設当時は、無駄なものとして評判が悪かったそうですが、現在ではキャンディの景観に無くてはならないものになっています。

海外旅行では、評判の悪い王様が残した建造物が、現在では観光に大いに役立っていることが多くあり、これは歴史の皮肉といえます。

島がありますが、王宮のハーレムになっており、トンネルで王宮とつながっていたといいます。

人ごみをかき分けて、キャンディダンスの会場へと急ぎました。

さすらいの風景 キャンディアン・ダンス

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仏歯寺の見学後、近くのキャンディアンダンスの会場に移動しました。会場は劇場というよりは体育館といった感じの古びたものでしたが、この理由も後で納得することになりました。

キャンディアンダンスは、キャンディ王朝の頃に宮廷内で踊られていた舞を中心とし、各地の舞踊を組み込んだもので、18世紀初頭に現在の形となりました。ペラヘラ祭りにも組み込まれていますが、これは1916年以降に祭祀に優雅さや威厳をもたらそうと組み込まれたものとのことです。

幸運なことに最前列の席でした。

ほら貝が吹きならされて開演となりました。



まずはマグル・ベラ。神々を祝福する儀式の始まりの音楽で、素手で叩くドラムの演奏が行われました。





ブージャ・ナトゥマ。仏陀に祈りを捧げるブージャを表現した踊り。







パンゼル・マトゥマ。シンハラ族の戦士の踊り。





バク転など、アクバティックな動きが行われます。



農作業の踊りのようです。







仮面の踊り。スリランカでは、今でも精神療法として行われている悪魔祓いの踊りです。



この仮面のミニチュアは、スリランカの土産物店で良く売られています。



マユラ・ナトゥマ。ヒンドゥー教の戦いの神スカンダの乗り物である孔雀を表現した踊り。





ラバンの踊り。皿回しを行う民族舞踊。







ヴェス・ナトゥマ。キャンディ・ダンスで最も重要とされる踊り。64もの飾りで造られた衣装は太陽を現すといいます。







フィナーレ。



一旦演技は終わりになって、舞台の上が解放されて観客が移動しました。我々は最前列であったため、移動する必要はありませんでした。



この後、火を使った演技が続きました。



体を火であぶってみたり。



火を口に含んでみたり。



かなりの荒業です。



舞台の下に火を起こしたトレーを置いて、火渡りを行いました。



熱くないのですかね。気合いの入れ方はともかく、火傷はしないのだろうか。



火が少し弱くなると、油を注いで燃え上がらせました。

この火渡りの儀式で、1時間程の公演は終わりました。会場が少々ぼろかったのも、最後の火を使った演技で納得がいきました。しかし、日本での公演だったら、消防法に抵触しませんかね。ペラヘラ祭りの一端をうかがうことができました。

さすらいの風景 キャンディ その5

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キャンディにおける宿はオゾ・ホテルで、ここで二泊しました。キャンディ湖南岸の丘の上にあり、道が細いためにツアーのバスではホテル前まで入れず、ホテルバスで送迎してもらう必要がありましたが、屋上からの景色が良かったので少々の不便は相殺されました。

写真は、翌朝撮影したもの。



夕食後に屋上に上がりました。このホテルでもプールが設けられていましたが、狭いので、最後のゴールでのホテルを期待することにしました。



屋上からは、ゴールの街の夜景を楽しむことができました。



中心部が、仏歯寺です。



中央部の黒く抜けているのは、工事中の王族の沐浴場です。



翌朝、再び屋上に上がりました。ゴールの街は丘に囲まれており、住居が丘の中腹まで広がっています。



朝のキャンディ湖。



仏歯寺を中心とした眺め。前夜の夜景では街の様子があまり判らなかったのですが、朝の展望でようやく把握することができました。



西の丘の上から街を見下ろすホワイト・ブッダ。



第五日目はヌワラエリヤで茶畑見学を行ったのですが、午後の早い時間にホテルに戻ってきてキャンディの街歩きを行ったので、合わせて載せておきます。

ホテルから坂道を下ると、キャンディ湖の畔に出ました。湖畔の散策路を歩いて中心地に向かいました。



かつて王様のハーレムであったという小島。



仏歯寺と並んでキャンディで代表的な建物になっているクイーンズ・ホテル。



仏歯寺の全景が広がっています。茶色の屋根が六角堂です。



湖畔を歩いてクイーンズ・ホテルの前までやってきました。



クイーンズ・ホテルの脇はアーケードになっており、ここから始まるダラダ・ウィーデヤが一番の繁華街になっています。



通りは人と車で大混雑になっていました。幸い信号機があるので、安全に通りを渡ることができました。



とりあえず、時計塔まで歩いて引き返しました。



イギリス統治時代を思わせる西洋建築も見られました。







目的も無く歩いており、脇道に入りました。



ヒンドゥー教寺院も現れました。



チープな作りの人形も良い味を出しています。



これはイスラム寺院のようです。

ツアーでの拘束にも少々疲れてきているので、目的も無い街歩きは気分転換になりました。

さすらいの風景 ヌワラ・エリヤ

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第五日目は、キャンディの南に広がる丘陵地帯のヌワラ・エリヤで、茶畑と紅茶工場を見学することになりました。

キャンディ周辺の道路は、朝から大混雑でした。



ヌワラ・エリヤに向かう前に、宝石店に立ち寄りました。宝石店では、採掘の展示が設けてありました。

スリランカは、サファイア、ルビー、キャッツアイ、アレキサンドライト、スピネル、ガーネット類等で世界でも有数の産出国になっています。

産出国だから安いのかどうかは、日本で宝石売り場に近づいたことのない私には知るよしもありません。



宝石の研磨方法の説明。ダイヤルゲージの先に原石を付けて、一定の角度毎に研磨面を作っていき、様々なスタイルのカットを仕上げます。



宝石の台座の金属加工。



そして宝石売り場。

家ではスリランカ土産なら宝石ねと騒いでいたので、買うことになりました。次の海外旅行に出かけるための先行投資と思うことにしましょう。

ひと仕事終えた気分でバスに乗り込み、ヌワラ・エリヤに向かいました。、



カーブの多い道を進んで丘陵地帯に入っていくと、茶畑が現れるようになってきました。、



ヌワラエリヤ周辺には、観光客を受け入れている紅茶工場が沢山ありますが、今回は、レンロッチを訪れました。



周辺の斜面には、緑の茶畑が広がっていました。



まずは、茶摘みの説明。



枝先の二枚の葉を積みます。



摘んだ葉は、ベルトを頭でおさえて背負った籠に入れていきます。



茶摘みはなかなかの重労働で、この作業のために南インドからタミル人が導入されたといいます。





紅茶工場の見学に移動しました。



残念だったことに、この日は工場が休みで機械が動いておらず、製造過程が判りにくくなっていました。

紅茶の古典的な製造過程の「オーソドックス製法」では、次のように進みます。
1.萎凋(いちょう) 生葉に含まれている水分の約半分を平均的に取り除く作業。
2.揉捻(じゅうねん) 茶葉に撚れを与えて、茶葉の細胞組織を破壊し、葉の中の酸化酵素を含んだ成分を外部に絞り出し、空気に触れさせて酸化発酵を促して形を整える作業。
3.玉解き・ふるい分け 揉捻工程で茶葉は塊になるので、これをほどいて平均的に空気に触れるようにして、酸化発酵を促進する作業。
4.発酵 室温25~26度、湿度90%の発酵室に、厚み4~5cm程度に広げ、2~3時間放置する。この段階で、緑色だった葉が鮮やかな赤銅色になり、紅茶としての芳香を漂わせ始める。
5.乾燥 乾燥機に入れ、100度前後の高温熱風で酸化酵素の活性を止め、水分3~5%まで乾燥させる。

この過程の途中に機械を導入して、スピード化を図ったシステムが行われるようになっています。

これは、 萎凋(いちょう)のステージ。



揉捻(じゅうねん)の機械。



玉解き・ふるい分けの機械でしょうか。



発茶葉がのっていませんが、酵のための台。



出来上がった紅茶がコンテナに山盛りになっていました。



紅茶は、葉の大きさ順に、FOP(フラワリー・オレンジペコ)、OP(オレンジ・ペコ)、P(ペコ)、BOP(ブロークン・オレンジ・ペコ)、BOPF(ブロークン・オレンジ・ペコ・ファニングス)、ダスト等とグレード分けされます。

葉が大きいから高級という訳ではなく、紅茶が濃く出やすいかどうかが一番の違いになるようです。また、一番細かいダストというのも屑というわけではなく、ティーバッグに主に使われています。

トゥワイニングの紅茶の製品名で、オレンジ・ペコを生産地と勘違いしていましたが、オレンジペコは茶の枝の尖端部分から2番目に若い葉のことを言います。オレンジ・ペコというとセイロン紅茶のことが多いようですが、ダージリングのように生産地を現す言葉ではありません。



袋詰された紅茶。OP(オレンジ・ペコ)と書かれています。



異なったグレードの紅茶の見本。



なお、チップというのは、枝の先端の針状の若葉を使ったものです。



付属のレストランに移動して、OP、BOP、BOPFの試飲をしました。飲んでいるうちに味の違いは判らなくなってしまいました。

その後、ここで紅茶の買い物をし、昼食をとってキャンディに戻りました。

なお、ここでは配り土産用の少量のティーバッグは売っていなかったので、キャンディのスーパーで買いました。





茶畑で働いている人も見えました。

さすらいの風景 キャンディからゴール

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第六日目は、キャンディからコロンボへ移動することになりました。今回の旅行で、一番長い移動になります。

キャンディの街を後にしてひと走りすると、車窓に鉄道車両が展示されているのが見えました。



年代物の汽車のようです。



看板から国立鉄道博物館であることが判りました。



それぞれの車両が活躍した時代の歴史的背景を知りたいところです。



キャンディは標高300mほどの山間部にあるので、海岸部へは大きな下り坂になります。大きなカーブが連続しました。



道路脇の木に大きなコウモリがとまっているのが見えました。インドオオコウモリは羽を広げると1.6mにも達します。夜行性で昼間は大きな木の枝にぶら下がって休んでいます。バナナやイチジク、パパイヤ、マンゴーを食べることから、果樹園などからは、果物を食い荒らすやっかいものと考えられているようです。



車窓から頂上に露岩を持った山が見えてきましたが、「スリランカのロビン・フッド」として知られているサラディエルが見張り台としていたとのことです。彼は、イギリスの植民地時代、お金持ちから奪ったものを貧しい人たちに分け与えましたが、最後には捕まって処刑されました。



道路沿いには、その集落の特産品を売る店がまとまって現れました。これは篭製品の店。



続いて現れたカシュー・ナッツの店で、トイレ休憩を兼ねた買い物をしました。



店先には、カシューナッツの実の大きな模型が吊るされていました。



これはカシューナッツの花。



タイル製品の店。



パイナップルの店。



海岸部近くになると、街も大きくなってきました。



海岸部に出たところで、高速道路にのりました。立派な道路が設けられていましたが、利用している車は僅かでした。



途中のサービスエリアで休憩。



ピザハットがありました。



カフェやレストラン、土産物屋が並んでいましたが、これで商売が成り立つのかなと心配になるくらいがらすきでした。



高速を下りて、再びインド洋と再会しました。



海岸線を走ってゴールの街に入りました。これはバスターミナル。



これは鉄道の駅。

バスターミナルや鉄道駅が新しいのは、2004年のスマトラ沖地震によって津波被害を受けて再建されたからです。二階建てになっているのも、津波対策を考えてのもののようです。



ゴール要塞の見学の前に昼食をとりましたが、その店の一階は、仮面売り場になっていました。

コールの北にあるアンバランゴダの街は仮面の街として有名です。もともとは、悪魔祓いの儀式に使われていたものですが、観光客の人気が出てしまい、現在ではスリランカ土産として売られるようになっています。



壁一面に仮面が飾られていました。仏像も売られていましたが、面白いのは仮面の方ですね。



外壁にも飾られていたので、その写真です。



スリランカで恐ろしいものというとコブラになるのですかね。



火を現したものですね。



他の悪神も勢ぞろい。



怖さよりもユーモラスに見えてきてしまいます。

昼食後は、ゴール要塞の見学です。

行ってきました インドネシア

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6日間の日程でインドネシアに行き、ボロブドール遺跡やバリ島のヒンドゥー寺院を見てきました。
スリランカ旅行が終わり次第報告していきます。

さすらいの風景 ゴール その1

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昼食を終えて、いよいよゴール旧市街地の見学になりました。ゴールは、スリランカ南西海岸の先端部に位置しており、ヨーロッパ人が南アジアや東南アジアに建設した城塞都市の典型的な例で、ヨーロッパ建築と南アジア地域の伝統が混在しています。

近づいてきたゴールの街は厚い城壁に囲まれていました。



ゴールは古代から知られた良港で、多くの外国商人が訪れていました。1505年にポルトガル船が初めてこの土地にやってきた際には武力によって入港を果たし、1589年に要塞を築きました。1640年、ゴールを支配していたポルトガル軍はオランダ東インド会社に降伏し、ゴールはオランダの支配下に入りました。オランダ人は砦を拡張して、その中に街を造り、これが現在のゴールの街の原型になりました。イギリス植民地時代も、ゴールは重要な支配拠点とされて、城塞都市としての整備が進められました。



北にあるメインゲートをくぐって城塞内部に入ったところでバスを降り、まずは時計台に向かいました。



城壁の上にスリランカ国旗が掲揚されていますが、内側の段に兵士の像が飾られていました。



イギリス軍を現した像でしょうか。内部に置かれているので、敵は何者を想定しているのだろうか。



城壁の上に置かれた時計塔。残念ながら修復中で、上がることはできませんでした。



時計塔の脇からメインゲートをみたところ。



反対側には、スター要塞が設けられていました。厚い城壁に囲まれています。

この要塞は、15世紀半ばに火砲に対応するために発達した星型要塞あるいは稜堡式城郭の形を持っています。大砲が発達すると高い城壁は用意に崩すことができるようになり、厚さが重視されるようになりました。また城壁の角の死角を無くすために円塔ではなく稜堡が作られるようになり、多数の方向からの射撃が行えるように星形の形態をとるようになりました。日本では、五稜郭が星型要塞として知られていますね。



国旗の掲揚台。



ここに大砲をすえつけたのでしょう。



スター要塞に向かいました。



スター要塞の城壁は、インド洋に落ち込んでいました。



城壁にカワセミらしき鳥がとまっていました。鳥はあまり知りませんが、アオショウビンのようです。



城壁はさらに続き、歩いて一周できるようです。



時計台を振り返ったところ。

街を取り囲むこの厚い城壁は、2004年のスマトラ島沖地震の際には津波から街を守ってくれたとのこと。



城壁を下りてチャーチストリートを南に向かうと、オランダ教会が現れました。



オランダ植民地時代の1752年に建てられたもので、スリランカで最も古いプロテスタントの教会です。



プロテスタントの教会のため、内部はすっきりしたものになっています。ポルトガル時代のものが残っていれば、もっと装飾過多になっていて面白かったでしょうに。



教会の床には、墓石が埋め込まれています。ヨーロッパでは普通のことですが、人の墓石を踏んで良いのであろうかという気持ちが浮かんできます。



どくろマークが印象的です。



中庭にも墓石が並んでいました。



オランダ教会の先には図書館とオール・セインツ教会が見えています。



通りには古い建物が並んでいました。



図書館の隣は郵便局ですが、工事中でした。



オール・セインツ教会は、1868年建設のイギリス国教会です。そうと知ると、確かにイギリス的雰囲気があります。




オールセインツ教会は前を通り過ぎただけだったので、急いで中をのぞきました。

さすらいの風景 ゴール その2

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チャーチ・ストリートを南に向かいました。



猛暑になっているためか、通りを歩く者は少なくなっていました。



ゴールの街では、西洋人の観光客が目立ち、現地の人の姿はあまり見かけません。



通りには西洋風の建物が並んでいました。





アラビック・カレッジと書いてあり、イスラム関係の建物です。



観光客向けの土産物屋やカフェもありますが、人気がありません。





通りの南端まで歩いてきました。



南の海岸部には高さ18mの灯台が設けてありました。



城壁に上がりました。青い海原が広がっていました。



歩いてきたチャーチストリートを振り返ったところ。



城壁の南西の角に向かいました。



青い海に白波がたっていました。



灯台方面を振り返ったところ。



北側の眺め。



クレイジー・ジャンパーという看板が置かれていました。現地ガイドが交渉をして、一人100円ほどというので、実演を見せてもらうことになりました。



こちらが、クレイジー・ジャンパー。



勢いをつけてジャンプ。城壁は垂直ではなく傾斜があるので、かなり水平距離を飛ぶ必要があります。



無事に着水。



大岩に上がって、



再びジャンプ。



また大岩に上がって、



三回目のジャンプ。



三回の実演を終えると、あっという間に城壁をよじ登ってきました。



バスに乗って戻る途中、仏教寺院がありました。



学校もありました。

ゴール要塞は、小さいながらまとまった街になっていました。

さすらいの風景 ジェットウィング・ライトハウス その1

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ゴール要塞の見学の後は、早めにこの日の宿のジェットウィング・ライトハウスに入りました。今回の旅行での最後の晩になります。

バスが横付けされたジェットウィング・ライトハウスの入口。ちょっと地味な感じがします。



二階にあるプロントへの螺旋階段には、シンハラ・オランダ軍とポルトガル軍の戦いをモチーフとした彫刻が飾られています。

撮影のために足が止まってしまいますが、後で時間をかけて見学することにして先に進みましょう。



二階に出ると、インド洋のきらめく海原が目に飛び込んできました。劇的な演出です。



ジェットウィング・ライトハウスを建てたジェフリー・バワは、現在のトロピカル・リゾート・ホテルのスタイルを造った建築家として知られています。

丁度この旅行の予習をしている時に、ジェフリー・バワの建築についての本が新潮社のとんぼの本シリーズで出版され、参考になりました。

ジェフリー・バワは、スリランカのコロンビアのヨーロッパ系の裕福な家庭に生まれ、19歳だった1938年にイギリスのケンブリッジ大学へと留学し英文学を専攻しました。大学卒業後に弁護士となり、1946年にスリランカへと帰国しました。帰国後すぐに1年半にも及ぶ世界旅行を行い、その後自分の理想郷をつくろうと、ベントータに土地を買いました。しかし建築の知識に欠けていたことから、イギリスへと再び留学し、38歳となった1957年より建築家としての活動を始めました。

ジェフリー・バワは同性愛者でしたが、その兄ベイビスも同性愛者で、その恋人にオーストリア人芸術家のドナルド・フレンドがいました。フレンドは、スリランカ滞在後にバリ島に移り、そこで高級別荘地造成の計画をたてることになりました。それにジェフリー・バワの建築様式を紹介し、アジアンリゾートの建築にジェフリー・バワのスタイルが取り込まれることになりました。



海に面したテラスに置かれたテーブル。

ジェフリー・バワの建築は、海や空、岩といった自然との一体化といえます。



風景としてまとまっているため、この正面のテーブルには座れず、見るだけになってしまいます。



海を眺めながらチェックインの手続きが終わるのを待ちました。



チェックインに時間がかかりそうなため、もう一度螺旋階段に戻りました。このシンハラ・オランダ軍とポルトガル軍の戦いをモチーフにした彫刻は、ラキ・セナナヤケの作品です。









ドームの上部まで彫刻に飾られた螺旋階段が続いています。



フロント脇から客室に向かう回廊が続いています。自然の地形を残しているため、庭園部は起伏し、回廊部の中に岩が飛び出ていたりします。



奥の方の建物は、収容人員を増やすために行われた客室の増築部分です。幸い、この新築部でもジェフリー・バワの建築様式が施されています。



客室に向かう途中、プールサイドを通りました。



さらに海岸部にも、もう一つのプールが設けられていました。



客室への廊下。少しそっけない感じです。



ターコイス・ブルーの扉を開けて部屋に入ると、ウェルカム・フルーツがお出迎え。



入口を振り返ったところ。客室の扉は、このようなターコイス・ブルーに統一されています。



ベッドルーム。美しく装飾されています。



ただ、日ごろ安ホテルに慣れていると、ベッドの上に並べられた幾つものまくらやクッションが寝るときに邪魔でね。



白壁に飾られた絵も、部屋の華やかさを増しています。





外光が差し込む窓際にテーブルが置かれていました。



自然の光も、この部屋の雰囲気造りにひと役かっています。



テラスのドア。開けるとどんな風景が広がるかの期待感がわいてきます。



テラスには椅子とテーブルが並べられていました。プールと脇の芝生、インド洋を見下ろすことができました。



入口脇のクローゼット。



バスタブとシャワールーム。



トイレ。



洗面台。ベッドルームと異なり、暗めの装飾になっていました。

まずは部屋の観察を終えて、この後は、館内の見学、プールでのスイミング、夕日鑑賞と忙しい時間を過ごすことになりました。

さすらいの風景 ジェットウィング・ライトハウス その2

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荷物をざっと整理した後、急いで水着に着替えて、プールサイドの見学に出かけました。

広々としたプールが設けられていました。



プールで泳いでいる人もいましたが、それよりもプールサイドで寝そべっている人の方が多い状態でした。



プールを取り巻く芝生のすぐ向こうは、インド洋の海原が広がっていました。



海辺に出ました。セイロン島の南西海岸は砂浜が広がっていますが、このホテルのある所だけが岩礁地帯になっていました。打ち寄せる白波に目が引き付けられます。



砂浜を見ると、沢山の貝が混じっていました。



フロントのある棟に向かっては、階段状に整備されていました。



階段の上にはプールが設けられていましたが、こちらは浅く子供用でした。



下のプールに戻ってひと泳ぎ。太陽もかなり低くなってきました。

夕日をどこで見学するか考えましたが、自分の部屋が良いだろうと思い、戻りました。



部屋のベランダに座り、寝酒に持ってきたウィスキーを飲みながら、日没を待ちました。



空も茜色に染まってきました。椰子の木が、南国ムードを高めています。



光の筋がインド洋に輝きました。



水平線近くなったところで、雲に太陽が隠されていってしまいました。



もう一度太陽が現れましたが、再び雲に隠されて水平線に沈むところは見られませんでした。



日が沈んで薄暗くなりはじめても、波打ち際に人が集まっているのが見えました。



ウェディングの記念写真で、カップルにベールをかけて撮影していました。最近では、海外旅行中の名所でウェディングの記念写真に出会うことが多くなっています。



夜のとばりが広がりました。夕食の時間も迫ってきました。

夕日が水平線に沈むのを見られなかったのは少々残念でしたが、ゆったりした時を過ごすことができたのに満足しましょう。

さすらいの風景 ジェットウィング・ライトハウス その3

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夕食はフロント脇のレストランでとりました。やや暗めの照明の落ち着いた雰囲気です。



天井の絵。



夕食の内容も合わせて載せておきましょう。

まずは、前菜。



スープにはトムヤムクンを選択。



メインディッシュは、白身魚のグリルを選択。



デザートのアイスクリームとケーキ。

ここまではビュッフェ・スタイルばかりだったので、一品ずつ出される食事は落ち着いて食べることができました。



食後は、夜の館内の見学。

廊下の飾り。



三階に上がると、池になった中庭が設けられていました。



その脇に、バーがあります。ここは、ジェフリー・バワの造ったオリジナルがそのまま残されています。

丁度誰もいなかったので、中を見学させてもらいました。



バーのカウンター。



ビリヤード台。



天井には、バワと良くコラボしたエナ・デ・シルヴァによるセイロン時代の都市の紋章をデザインした絵が飾られています。





ほの暗い照明が、時間を忘れさせます。



上のプール。



下のプール。



時間も遅くなったので部屋に戻りましょう。これがスリランカ最後の夜で、明日の晩は飛行機の中です。



朝になって、再び館内の見学。螺旋階段を通って三階に上がりました。



池が設けられた三階の中庭。



バーには、鍵が掛かっていました。



三階のテラスに出ると、朝日で空が茜色に染まっていました。



昨晩のレストランで朝食。ビュッフェスタイルでしたが、豊富な料理が揃っていました。





暖かい料理も運ばれてきていました。



完全に洋食スタイルの朝食です。



朝食後、フロント前の磯に出てみました。足場は少々悪いですが、白波の打ち寄せるインド洋の眺めを楽しむことができました。



岩場の上からホテルを振り返ったところ。この地形を生かすために、ここにホテルを建てたことが判ります。



上のプール。



下のプール。

せっかくのリゾートホテルなので、もっとゆっくり過ごしたいところですが、ツアーでなく個人旅行でないと無理ですね。ともあれリゾートホテルの一端を楽しむことができました。

さすらいの風景 ゴールからコロンボ

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スリランカ滞在の最終日、ジェットウィング・ライトハウスを出発し、北西海岸沿いに北上してコロンボに向かいました。



海沿いの道でしたが、家屋が並んでいて、海の眺めはまれにしか開けなかったのは残念でした。この一帯は、砂浜が広がることからサーフィンなどのマリンスポーツの人気スポットになっているようです。



道路脇に巨大な仏像が現れました。



看板に、ツナミホンガンジと書かれていました。

この津波本願寺佛舎は、2004年末に起きたスマトラ島沖地震によって引き起こされたインド洋大津波の被害者追悼のために建てられたもので、高さは18.5メートルあります。



この反対側には、列車が津波によって飲み込まれたことによる犠牲者の慰霊碑が置かれていました。

ここでは、コロンボ行の列車が第1波の被害を免れたため、車内は安全と誤解した地元住民が列車内や屋根の上に避難しましたが、続く第2波の津波に飲まれたため、乗客の他地元住民なども含め1000人が死亡しました。



海際を走る道路のすぐ脇を線路が走っていました。



ウミガメの保護センターを訪れました。この一帯の海岸線は、ウミガメが多くみられることで有名になっています。



スリランカにいるウミガメは、ヒメウミガメ、アカウミガメ、アオウミガメ、タイマイ、オサガメといった種類がいます。



ここでは、ウミガメの卵を買い集めて孵化させて海に帰しています。



水槽には、沢山の子亀が泳いでいました。これは1日目。



三日目になると甲羅も固くなるので、手で持っても大丈夫とのこと。





大きな亀もいました。





これらの大亀は、船のスクリューなどでヒレが切られたりして傷ついていて、ここで保護されています。



保護センターの脇には美しい海原が広がっていました。



ウミガメが卵を産むには良さそうな砂浜です。



グンバイヒルガオでしょうか。



再び高速道路に乗りました。途中のパーキングで休憩。



ここにもスリランカの民芸品店がありました。



コロンボ手前のスリー・ジャヤワルダナプラで高速をおりました。スリランカの行政上の首都はここに移されています。

池に囲まれた国会議事堂が見えました。この国会議事堂は、ジェフリー・バワの設計により、大阪の万博パビリオン建設に携わった関係から日本の三井建設によって建てられました。



コロンボのバンダラナイケ記念国際会議場。これは、中国の寄贈により建設されました。



コロンボ市内に入ると、渋滞がめだつようになりました。



市役所のようです。



コロンボでは市内観光は行わず、スーパーで買い物をした後、空港に向かいました。



スリランカ旅行も無事に終えることができましたが、自然に恵まれて、遺跡もゆっくりと見学することができました。おとなりインドと比べるとカオス度が少ない点が好みの分かれるところです。

さすらいの風景 スリランカの食

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スリランカ旅行中の食事のまとめです。今回の旅行での食事は、ジェットウィング・ライトハウスでのコース料理での夕食とコロボでの中華料理の夕食をのぞいてビュッフェ・スタイルが続きました。

スリランカ到着日のネゴンボ・ベガサスリーフ・ホテルでの夕食。



デザートのケーキ。

ホテルでの夕食は、いずれも料理は豊富で、特にデザートのケーキの充実は驚かされました。



ベガサスリーフ・ホテルでの朝食。朝食は、スリランカ風の料理もありましたが、朝食はあまり食べないため、西洋風の内容になってしまいました。



シーギリヤ・アリヤ・リゾート&スパでの夕食。
 


デザートの豊富さには、目を見張るものがありました。



ケーキもかなり食べました。



シーギリヤ・アリヤ・リゾート&スパでの朝食。



シーギリヤ・アリヤ・リゾート&スパでは二泊しましたが、二回目の夕食。料理内容も若干変わっていました。



デザートもたっぷり頂きました。



キャンディ オゾ・ホテルでの夕食。



ここもケーキは豊富にありました。



キャンディ オゾ・ホテルでの朝食。

ジェットウィング・ライトハウスでの食事は。ホテルの項に載せてあります。

今回の宿泊ホテルでの食事は、充実したもので、満足のいくものでした。



これに対し、昼食は、内容的には少し劣っていました。

アヌラダプーラでのレストランでの昼食。実は、これは現地ガイドが盛ったものを、見本として撮影したものです。私は、これほどの量は食べませんでした。



シーギリヤでの昼食。

スリランカの料理は、すべてライス&カリーというものでした。チキン、野菜の単品をスパイスとともに似た料理が一般的になっています。日本のカレーのように、肉と野菜を共に煮込むような料理はありません。



スパイスガーデンでの昼食。



ヌワラ・エリアのティーファクトリーでの昼食。



キャンディでの昼食



コロンボでの中華料理の夕食。



何品も出てきましたが、少々怪しい中華料理でした。





辛い食事に欠かせないビール。最も一般的なライオン・ビール。



アンコール・ビール。この他にスリーコイン・ビールも初日のネゴンボのホテルで飲みましたが、レストランの照明が暗いため、後で撮影しようと思ったら、この後は出てきませんでした。

スリランカでは、インドと同じカレー料理ですが、腹をこわす心配なしに食事ができたのは良かったです。

さすらいの風景 スリランカ土産

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スリランカ名産品としては、まず紅茶が挙げられます。

中央は、訪問したヌワラ・エリヤのレンロッチの紅茶。上と下は、キャンディのスーパーマーケットで買いました。空港でも紅茶専門店がありましたが、紅茶の買い物は済んでいたので見るだけになりました。



空港に置かれていた看板ですが、これはセイロン紅茶の認証マークです。



スリランカの名産品としては宝石が挙げられます。ルビーとブルー・サファイアのペンダント。



スーパーで買ったおつまみ。



ココナッツシュガーにゴマを入れたスリランカのお菓子。これはお勧めです。



ココナッツシュガー。紅茶の飲む際に、ブロックを砕いたものを一緒に食べるようです。



カシュー・ナッツ。



料理の元。



民族音楽のCD。



バティックの飾り。



象さんペーバーのノート。象さんペーパーとは、象の糞の未消化繊維から紙を造ったものです。



ミニチュアの仮面。孔雀なので、悪霊を食べてしまうのでしょう。



クリーム入りクラッカー各種。商品によって微妙に味は異なりますが、美味しく食べました。



象の絵柄のTシャツ。



背後の尻尾が気に入りました。



キャンディのベラヘラ祭りのパレードの絵柄のTシャツ。



チョコレート。



コロンボの空港のノリタケの店で買ったシーギリヤ・レディーの絵皿。

スリランカ旅行については、これで終了。次回より、インドネシア旅行が始まります。

さすらいの風景 羽田からジョグジャルタ

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スリランカに続いてインドネシアに出かけました。目的は、ボロブドゥールやブランバナンの遺跡ですが、ツアーの多くは、この二つの遺跡を1日で見学し、夜には飛行機でバリ島に向かうというものになっています。じっくり遺跡の見学のできそうな以下のツアーを選びました。

【天国の門ランブヤン寺院と世界遺産ボロブドゥール 6日間】(西遊旅行社)

2016年
第一日目 4月8日(金)
 羽田発 11:04(GA875)ジャカルタ着 17:15
 ジャカルタ 19:35 (GA218)ジョグジャカルタ着 20:50
 (ジャカルタ ハイアットリージェンシー泊)

第二日目 4月8日(土)
 プランバナン寺院群(ロロ・ジョングラン寺院、セウ寺院)、チャンディ・ムンドゥ、チャンディ・パウォン、ボロブドゥール遺跡、ボロブドゥール遺跡夕日見学
 (ボロブドゥール遺跡 マノハラ泊)

第三日目 4月8日(日)
 ボロブドゥール遺跡朝日観光、ジョグジャカルタ市内観光(クラトン王宮、水の宮殿)
 ジョグジャカルタ発 16:25(GA252) デンバサール着 20:00
 (ウブド アルマ ミュージアム&スパ)

第四日目 4月8日(月)
 タマンアユン寺院、ジャティルイのライステラス、パトゥカル寺院、ケチャックダンス
 (ウブド アルマ ミュージアム&スパ)

第五日目 4月8日(火)
 ランブヤン寺院、自由行動(モンキー・フォレスト、アルマ美術館)

第六日目 4月8日(水)
 デンバザール発 0:55 (GA880)
 成田着 8:50

午前中の羽田空港発であったので、京浜急行線大鳥居駅の東横INN羽田空港1に泊まりました。コンビニも前にあって便利でした。



今回は、ガルーダインドネシア航空を利用しました。ガルーダインドネシア航空は、インドネシアのいわゆる「フラッグ・キャリア」です。インドネシアは今回が初めてのため、当然この航空会社も初乗りです。

ガルーダインドネシア航空のロゴは、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の乗り物の神鳥ガルーダを現しています。

ガルーダは、呪いといかさまによって奴隷の身分にされていた母を助けるため、乳海攪拌から生まれた不死の聖水アムリタを奪うため、天界に乗り込みました。守備を固めて待ち受けていた神々を打ち破り、さらに神器の罠をかいくぐり、聖水アムリタを奪い飛び去ってしまいました。ガルダが飛んでいるとヴィシュヌと出会い、ヴィシュヌはガルーダの勇気と力に感動し、不死を授ける代わりに、自身の乗り物となる約束を交わしました。

カルーダは、ヒンドゥー教の神々の中でも最高クラスの戦闘力を持っていますが、ロゴの点で世界の航空会社のうち最強はどこと考えると、エジプト航空ということになるでしょうね。エジプトの神々の中で最も古く、天空と太陽をつかさどる神とあっては、最強といって良いでしょう。



東京国立博物館東洋館所蔵「ヴィシュヌとガルーダ(カンボジア・アンコール時代12~13世紀」

今回は、東京で前泊したため、家を早めに出て、東京国立博物館東洋館をじっくりと見学しました。2013年2月のベトナム旅行の際にも訪れているのですが、展示品が少し変わるので、時々訪れてみる必要があります。一部はウェブに掲載済みですが、いずれ追加して書き改める予定です。

アジアの遺跡が好きならば、東京国立博物館東洋館は訪れる価値があります。



初日は、羽田からジャカルタ経由でジョグジャカルタへ移動することになります。

三日目にはジョグザカルタからバリ島のデンバザールへ移動し、帰国はデンバザールから成田へということになります。今回は一筆書きの行程であったので良かったのですが、ツアーによっては、バリ島からジョグジャカルタへ往復するようなものもあるので注意が必要です。



座席配列は、2+4+2でした。通路側を希望したのですが、隣の窓際の席が空いていたため、二席を占領して楽ができ、風景も楽しむことができました。これならビジネスクラスは必要ないですね。



ただ、翼の上だったので、後方を向く必要があったのが難点ではありました。



機内用のアメニティーグッズが配られました。中身は、靴下、アイマスク、耳栓でした。帰りの暗い機内で間違って二つ配られたので、三つを持ち帰ることになりました。

機内での過ごし方としては、冷房がきついので注意が必要です。帰りは、薄着でいるので、特に注意が必要ですね。



離陸してほどなく、ドリンクサービス。インドネシアのビールということで、ビンタン・ビールをもらいました。旅行中は、このビールのお世話になることになりました。



フライト中の食事は一回になります。少し遅くなりましたが、昼食相当ということになります。

配られたメニュー表によれば、選んだインドネシア料理のメインは、「鶏肉のトゥトゥルガソース」とのこと。和食のメインは、「白身魚の柚子風味」だったようです。

料理名は良く判りませんでしたが、スパイシーなチキンを美味しく頂きました。



機内では、iPODで音楽を聴きながら、時々外を眺めながら過ごしました。

ジャカルタ到着直前のフライトマップですが、ほとんどを海の上を飛んでいきました。



見えるのは、海原のみ。



フィリンピン上空でようやく島が見えてきました。



ボルネオ島の北端に近づいてきました。



目を凝らして見ていると、雲の上に頭を出している高山が見えてきました。キナバル山のようです。昨年2月の登山をなつかしく思い、その後におきた地震の被害に心を痛めることになりました。



ジャカルタ到着前にアイスクリームのサービス。エッセル・スーパーカップは、いつも食べていてお気に入りですよ、でもミニサイズだし、ここはハーゲンダッツを出してほしかったですね。



ジャカルタへの着陸態勢に入りました。湾には沢山の船が浮かんでいました。



高層ビルも並んでおり、ジャカルタは大都会のようです。ただ、ジャカルタは見学なしで通過するだけです。



ジャカルタの空港は、そう大きくはありませんでした。

今回のツアーの添乗員は、大阪からのメンバーと一緒にやってきて、ジャカルタで合流することになっていました。人の流れについていき、入国審査を行おうとすると、インドネシア人専用窓口しかなく、とりあえずパスポートを出してみると、ここではないといわれてしまいました。結局、通路の正面はインドネシア人専用で、外国人はその結構手前の両サイドということが、右往左往して判りました。これくらいのトラブルは、個人旅行では普通のことで、ツアーでの添乗員のありがたさが判ります。



なんとか国内線の搭乗口に移動し、添乗員に出会ってひと安心。



ジャカルタからジョグジャカルタへと移動します。スペールがYOGYAKARTAになっているのには、注意する必要があります。



搭乗を待つ間に、日も暮れてすっかり暗くなっていました。

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1時間20分の飛行ですが、軽食としてパンとクッキー、水の入ったボックスが出てきました。日本のカレーパンのように、スパイシーなひき肉が入っており、美味しく食べました。



東西に長いジャワ島の西端近くにジャカルタがあり、ジョグジャカルタは島の中央にあります。バリ島は、ジャワ島の東端に隣接しています。



ジョグジャカルタに無事に到着。ジョグジャカルタの空港は小さく、出発の待合室は一つしかありません。歩いて、荷物受け取り所に移動しました。

現地ガイドと合流してバスに移動しましたが、一つがっかりしたことは中型バスであったことです。参加者17名の少人数なので、二席を占有できると期待していたのですが、交代で回すことになりました。実際にバスで移動してみると、インドネシアの道路事情が悪いため、大型バスでは無理という場所が多いことが判り、納得することになりました。

さすらいの風景 ジョグジャカルタ その1

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夜遅くになってジョグジャカルタの宿のハイアットリージェンシーに到着しました。

人気の高いリゾートホテルということで、館内はボロブドゥール遺跡を模した飾り付けが行われていました。



フロント。



レストランのある地階。庭に続いています。



館内の設備は整っているように見えましたが、客室内かび臭かったのは残念でした。湿度がかなり高いことも影響しているようです。

今回のツアーでは、初日の夕食がついていなかったため、シャワーを浴びてさっぱりした後、日本のコンビニで買って持ってきたおにぎりと調理パン、ビールで夕食をとりました。



朝になると、ホテル周囲には緑豊かな庭が広がっていることが判りました。



海外旅行の初日は、日本との時差もあって早めに目が覚めてしまうことが多いいです。今回もジョグジャカルタの時差が2時間あるせいもあって、朝食開始の6時には早々とレストランに集合することになってしまいました。日本ならすでに8時なので、遅めの朝食といえます。

中庭にもテーブルが並んでいたので、庭を眺めながら朝食をとりました。



庭は、遺跡を模した飾り付けがされているようなので、朝の散歩がてら見学しました。



レストラン前の池。バリ島の湧水を模しているようです。



ウングルウングルと呼ばれるバリ島特有の旗が飾られています。



太陽が昇ってきました。



階段の欄干には、ヒンドゥー教のマカラと思われる像が飾られていました。





庭に置かれた仏像も苔むして年を経ているように見えます。



所々にお堂が置かれていました。



石橋。



プールになっており、早朝にもかかわらず家族連れが泳いでいました。高台に置かれたお堂は、裏に回ったところ、ウォータースライダーの乗り場になっていました。見た目はジャングルに囲まれた遺跡といった感じなのですがね。



庭に置かれた茅葺屋根の小屋。



ホテルの建物。この建物は、ボロブゥドール遺跡の形を模しているように見えます。



庭の奥はゴルフ場になっていました。





戻って、昨晩は良く眺められなかったホテルの入口を撮影しました。



ホテルの入口には、結婚式の飾り付けをした車が置かれていました。



入口脇の中庭。夜とは違った雰囲気があります。



庭に面したステージでは、結婚式の準備が行われていました。



朝も早い時間にもかかわらず、結婚式の参加者が集まってきていました。イスラム教ではアザーンで夜明けに起こされるため、結婚式などの儀式の開始も早いのかもしれません。



出発のためにロビーにいくと、結婚式の参加者が集まっていたので写真を撮らせてもらいました。持っているのは、新婚カップルに渡すプレゼントでしょうか。コングラチュレーションと挨拶したら、ありがとうと日本語で返ってきたのには驚かされました。

時間があれば結婚式の様子を見学していたかったですが、バスに乗り込んで遺跡の見学に向かいました。

さすらいの風景 ロロ・ジョングラン寺院 その1

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ホテルを出発し、まずはジョグジャカルタの東15kmほどのところにあるプランバナン寺院群の見学にむかいました。

現在のジャワ島は、イスラム教が普及していますが、9世紀の中部ジャワは、北部は仏教国のシャイレンドラ王国、南部はヒンドゥー教国のマタラム朝によって支配されていました。この二つの王国は王族同しの結婚によって姻戚関係にあり、友好的に交流していました。それぞれが、ボロブドゥールとプランバナンという壮大な寺院を建築したことにより、タイプの異なる遺跡をジョグジャカルタ近郊で見学することができます。

バスを下りてまず目に飛び込んできたのは、プランバナン寺院の中心的建物であるロロ・ジョングラン寺院です。天を突くように林立する聖堂の眺めに思わず見入ってしまいます。

これを見たくて、インドネシアにやってきました。



遺跡の入場口前から見たロロ・ジョングラン寺院。中央のひと際高い聖堂は、シヴァ神を祀ったものです。



入場口の先からの眺め。聖堂が重なるために遺跡の全体像が判りにくいので、次の配置図を参考にしてください。



メインの建物としては、ブラフマー聖堂、シヴァ聖堂、ヴィシュヌ聖堂が並び、前にはそれぞれの神の乗り物である白馬のハンサ、牡牛のナンディ、神鳥のガルダを祀った堂が置かれています。その他にも小堂があり、それぞれの見分けがつきにくくなっています。

なお、東が正門になっているため、ロロ・ジョングラン寺院の見学には午前中が望ましいことになります。午後には逆光になって遺跡が見にくくなるので、ツアーを選ぶ際には、この点に注意する必要があります。



一段高くなった中央部の周りにも小堂が並んでいます。多くは倒壊したままになっていますが、中には修復されているものもあり、その見学に足が止まりました。



小堂の入口の上には、魔除けのためのカーラ像が置かれていました。



入口の階段脇には、マカラ像が飾られていました。



口の所に神像が置かれているのは、初めて見ました。



周囲に無造作に置かれたガレキにも素晴らしい彫刻が施されていました。



人面の鳥のレリーフもありました。ギリシャ神話に出てくるハーピーを思い出してしまいますが、ヒンドゥー教や仏教で相当するものが思い浮かびません。



植物をモチーフとしたレリーフ。

これらは、断片であっても、博物館展示物クラスの価値がありますね。



さらに進んでいくと、シヴァ聖堂が近づいてきました。その手前のナンディ堂が重なって、見分けがつきにくくなっています。



ナンディ堂の壁面を見ると、レリーフがびっしりと並んでいました。



天人の像のようです。



ナンディ堂下部のレリーフ。



獅子像が飾られていました。



その脇には、孔雀の像。



これは、羽の広げ方が少し違います。



ナンディ堂の周りには、様々な動物のレリーフが飾られていました。

これはキツネかな。



猫かな。化け猫風ですが。



羊かな。



ネズミですかね。



これはよく判りません。可愛いとはいえませんが、感性が違うのでしょうか。

現地ガイドの説明を聞きながら、まずはナンディ堂の外観を眺めましたが、これでもかと並べられたレリーフに興奮が高まりました。

さすらいの風景 ロロジョングラン寺院 その2

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それでは、遺跡の中心になるヒンドゥー教の三大神の聖堂を順に見ていきましょう。

向かって左にブラフマー聖堂。高さは、23m。

ブラフマーは創造神ですが、独自の神話を持たないことから現在では人気が低くなっています。



中央にシヴァ聖堂。高さは47m。

シヴァは、世界の寿命が尽きた時、世界を破壊して次の世界創造に備える役目をします。シヴァは、本来は破壊神ですが、民間信仰によって様々な性格が付け加えられて、一般的な人気を集めています。



右にヴィシュヌ聖堂。ブ高さは、ラフマー聖堂と同じ23m。

ヴィシュヌは世界の維持・繁栄をはかります。ヴィシュヌは、「アヴァターラ」と呼ばれる十の姿に変身して地上に現れたといいます。叙事詩『ラーマーヤナ』の英雄のラーマや、叙事詩『マハーバーラタ』の英雄クリシュナは、ヴィシュヌ神の化身のひとつとされ、この神の人気のほどが判ります。

これらの三つの聖堂は、ほぼ同じ形をしているため、写真を後で見返した時、どれがどれか判らなくなってきます。



まずは、シヴァ聖堂から見学しました。天に向かって突き上げるような感じです。



入口の上には魔除けのカーラ像が置かれていました。

カーラは、底なしの大喰らいで、ある時、シヴァ神に体を食べさせてくれといいます。あきれたシヴァ神は、それなら自分を食べれば良いだろと言います。良いことを聞いたと、カーラは、自分の体を食べていき、頭だけが残りました。



入口の階段脇には、カ-ラとセットになるマカラ像が置かれていました。

マカラは、水の神ヴァルナ神の乗り物とされ、象のような鼻、とぐろ巻く尾を持ち、水を操る力を持つとされています。

プランバナン遺跡は、アンコール・ワット遺跡と同じように、ヒンドゥー神話に基づく飾り付けが施されています。



壁面の獅子の飾り付け。



獅子の両脇のレリーフは、天界に咲く吉祥の樹木カルパタールと、その下に金を入れた袋と半人半鳥のキンナラ、キンナリー。



天人を描いたレリーフ。



ドラムを演奏しています。



堂内は暗く、明るい外から入ると目も効かず、ライトの灯りが必要になりました。

道内に入ると、シヴァ神像が置かれていました。高さ3m、四本の手を持ち、後ろの二本の手には払子と数珠を持っています。

六代目の王ラカイ・ピカタンの死後、その遺骨は王の肖像ともされるシヴァ神像の真下に埋められ、シヴァ聖堂は王の霊を祀った霊廟になっています。



シヴァ像の台は、リンガと対になるヨーニ(女陰)の形になっていました。



シヴァ聖堂には、四面に部屋が設けられて、四体の像が置かれています。



回廊を回って、各像を見ていきました。



南面の小部屋に置かれたアガスティヤ像。

南インドの聖仙たちの長とされ、ラーマーヤナの中でも、ラーマに黄金弓ブラフマダッタを授ける協力者として登場します。



西面の小部屋に置かれたガネーシャ像。

シヴァとパールヴァティーの間に生まれた長男で、太鼓腹の人間の身体に 片方の牙の折れた象の頭をもちます。富の神様として人気が高く、この像も触られて黒光りしているところがあります。



北面の小部屋に置かれたドゥルガー女神像。水牛の上に乗っていますが、これは悪魔マヒシャが変身した姿で、左手は悪魔の髪の毛をつかんでおり、その悪魔を殺す姿が描かれています。

この女神には、一つの伝説が残されています。

魔法使いの父親を持つバンドン・ボンドゥウォソという男がいた。ある時、この男は地方の王から、プランバナン一帯を治める大王プラブ・ボコを殺害するよう頼まれた。男は、魔法使いの父の助けを借りて殺害に成功し、プランバナン一帯の王の地位についた。殺された王には、ロロジョングランという美しい娘がいたが、バンドンは妻とすべく言い寄った。父の仇と結婚したいはずもなく、娘は、「もし一日で千体の神像を作れるなら結婚しましょう」と難題を出した。男は精霊の助けを借りて、朝になるまでにと像を作り始めた。完成も近くなったところで、ロロジョングランも一計を案じ、一番鶏を早めに鳴かせることにした。精霊は朝になったと勘違いして消え去り、結局、神像は九百九十九体までしか作られなかった。この妨害がロロジョングランの仕業と知ると、バンドンは怒って娘を石に変えてしまった。このドゥルガー女神像が、ロロジョングランの石に変わった姿と言われており、この遺跡の名前にもなっています。



壁面に置かれた像も見ごたえがあります。

中央の像は、方位神ローカパーラ。ローカパーラは、4方位または8方位のそれぞれを守る神の総称です。経典によっても異なってきますが、一例としては、東はアグニ、南はインドラ、西はヴァルナ、北はソーマという神が担当します。


両脇には天女アプサラス。



天女アプサラスは様々な表情を見せています。



他の方位神ローカパーラ。



これらの像は、ジャワ美術にみるローカパーラの最高傑作といわれています。





壁面の所々にもカーラ像が置かれていました。

シヴァ聖堂では、この他の見どころとしてラーマーヤナ物語のレリーフがありますが、それは別項目にて。

さすらいの風景 ロロジョングラン寺院 その3

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シヴァ聖堂にはラーマーヤナ物語のレリーフが飾られており、これはブラフマー聖堂のレリーフに続きます。

レリーフの全部を撮影できませんでしたが、物語に沿って説明していきましょう。

【子供のいないダシャラタ王は盛大な祭を催し、王子誕生を祈願した。おりしも世界はラークシャサ(羅刹)の王ラーヴァナの脅威に苦しめられていたため、ヴィシュヌ神はラーヴァナ討伐のためダシャラタ王の王子として生まれることとなった。こうしてカウサリヤー妃からラーマ王子、カイケーイー妃からバラタ王子、スミトラー妃からラクシュマナとシャトルグナの二子の王子がそれぞれ生まれた。】

「女魔タータカーを殺すラーマ」

成人したラーマは、ラクシュマナと共に門出の旅に出て、女魔タータカーらを殺した。



「聖者ヴィシュヴァーミトラの訪問」

成長したラーマは聖者ヴィシュヴァーミトラのお供をしてミティラーのジャナカ王を訪問した。



「弓技にてシータを得る」

ラーマはそこで王の娘シーターと出会い、結婚した。



「第2王妃が即位の約束を迫る」

【ダシャラタ王の2王妃カイケーイーにはマンタラーという侍女がいた。ラーマの即位を知ったマンタラーは妃にラーマ王子への猜疑心を起こさせ、ダシャラタ王にラーマをダンダカの森に追放し、バラタ王子の即位を願うように説得した(ダシャラタ王はカイケーイー妃にどんな願いでも2つまで叶えることを約束したことがあった)。】





「妻と弟を連れて都を去るラーマ」

【ラーマはこの願いを快く受け入れ、シーター、ラクシュマナを伴って王宮を出た。しかしダシャラタ王は悲しみのあまり絶命してしまった。】











【ダンダカの森にやってきたラーマは鳥王ジャターユと親交を結んだ。またラーマは森を徘徊していたラークシャサを追い払った。ところがシュールパナカーはこれをうらみ、兄であるラークシャサ王ラーヴァナにシーターを奪うようにそそのかした。そこでラーヴァナは魔術師マーリーチャに美しい黄金色の鹿に化けさせ、シーターの周りで戯れさせた。シーターはこれを見て驚き、ラーマとラクシュマナに捕らえるようせがんだ。そしてラーヴァナは2人がシーターのそばを離れた隙にシーターをさらって逃げた。このとき鳥王ジャターユが止めに入ったが、ラーヴァナに倒された。】

「黄金の鹿を射るラーマ」



「ラーヴァナにさらわれるシータ」



「鳥王ジャターユとラーヴァナの戦い」



「鹿に化けた魔術師マーリーチャを殺すラーマ」





【ラーマはリシュヤムーカ山を訪れて、ヴァナラ族のスグリーヴァと親交を結んだ。ラーマは王国を追われたスグリーヴァのために猿王ヴァーリンを倒した。スグリーヴァはラーマの恩に報いるため、各地の猿を召集し、全世界にシーターの捜索隊を派遣した。その中で、南に向かったアンガダ、ハヌマーンの1隊はサムパーティからシーターの居場所が南海中のランカー(島のこと。セイロン島とされる)であることを教わる。】

なお、セイロンの現在の国名のスリランカは、スリ(光り輝く)ランカ島という意味を持っています。







「猿王ヴァーリンを射るラーマ」 スグリーヴァとバーリンの戦い。左に弓を射るラーマ。







【風神ヴァーユの子であるハヌマーンは、海岸から跳躍してランカーに渡り、シーターを発見する。ハヌマーンは自分がラーマの使者である証を見せ、やがてラーマが猿の軍勢を率いて救出にやってくるであろうと告げた。ハヌマーンはラークシャサらに発見され、インドラジットに捕らえられたが、自ら束縛を解き、ランカーの都市を炎上させて帰還した。】





「ハヌマーンのラーマへの報告」



「ランカ島へ攻め入るラーマと猿軍」



これ以降は、ブラフマー聖堂のレリーフになります。

【ランカーではラーヴァナの弟のヴィビーシャナがシーターを返還するよう主張したが聞き入られなかったため、ラーマ軍に投降した。ここにラーマとラーヴァナとの間に大戦争が起きた。猿軍はラーヴァナの息子のインドラジットによって大きな被害を受けながらも次第にラークシャサ軍を圧倒していき、インドラジットが倒された後、ラーヴァナもラーマによって討たれた。ラーマはヴィビーシャナをランカーの王とし、シーターとともにアヨーディヤに帰還した。】

「ランカ島上陸後の戦い」







「ラーマの出陣」





「ラーヴァナの弟クンバカルナの死」



「悪魔王ラーヴァナの死」



【ラーマの即位後、人々の間ではラーヴァナに捕らわれていたシーターの貞潔についての疑いが噂された。それを知ったラーマは苦しんで、シーターを王宮より追放した。シーターは聖者ヴァールミーキのもとで暮すこととなり、そこでラーマの双子クシャとラヴァを生んだ。後にラーマは、シーターに対して、シーター自身の貞潔の証明を申し入れた。シーターは大地に向かって訴え、貞潔ならば大地が自分を受け入れるよう願った。すると大地が割れて女神グラニーが現れ、 シーターの貞潔を認め、シーターは大地の中に消えていった。嘆き悲しむラ
ーマは、王位をクシャとラヴァに譲り,天界に昇ってヴィシュヌ神に戻った.】













「双子を生むシータ」









「聖者ヴァールミーキがラーマーヤナを双子に語る」

レリーフの説明は、推測で補っているところもあり、誤っているかもしれません。



ラーマーヤナの物語を知ったのは、高校の時の世界史の受験勉強でした。受験勉強のためには、ヒンドゥー教に関係した物語として題名だけ覚えておけばよかったのですが、実際に本を読んでその面白さに引き付けられました。まさか、その当時は、海外旅行に出かけ、その物語に基づいた遺跡を見物するとは思ってもいませんでした。

現在、このラーマーヤナの翻訳本は幾つか出てはいますので、西遊記に似た所もある物語なので、ぜひ読んでください。
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