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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 ニゴンボからアヌラーダプラ その2

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ニゴンボを通り過ぎた後も、海岸線に沿っての北上が続きました。

キリスト教の教会が、引き続き現れました。



珍しくヒンドゥー教の寺院。



民家のようですが、日本と比べても豪邸ですね。



少し内陸部に入ると、稲田も現れました。



鮮やかな色に塗られたキリスト教の教会。



チウラの街に到着しました。





長い編成の列車が停車していました。



チウラもインド洋に面して漁港を持った街です。



小型船が停泊していました。この一帯ではカタマランと呼ばれる双胴の帆船が使われていたようですが、見えるのは船外機を付けた船ばかりでした。





市場脇を通り過ぎました。



海辺に面したレストハウスでトイレ休憩になりました。今回のツアーでは、トイレ・チップは、すべてツアー会社の方で支払ってくれました。海外旅行では、小銭がなくて有料トイレに入るのに苦労する場合も多いので、これは助かりました。

ドライバーの休憩の問題もあって、自由時間ができたので、すぐ脇の海辺に進みました。海辺には散策路が整備されていました。



波打ち際では、子供たちが遊んでいました。



良い場所で休憩をとってくれたおかげで、広々としたインド洋の眺めを楽しむことができました。



浜辺の砂浜では、ヒルガオ系の花が咲いていました。



レストハウス脇の空き地では、小魚が一面に広げられていました。イワシの一種のようです。



スリランカでは、様々な干魚が作られて、細かくして炒め物に入れたり、旨味を加えたりするようです。



チウラの街でも立派な教会が造られていました。



チラウを出発後もしばらく海岸線に沿って北上しました。

川では、子供たちが水浴びをしていました。



ブッタマラの街が近づくと、イスラム寺院も現れました。イスラム教は、スリランカが東西貿易の中継基地であった関係でアラブ商人によって伝えられ、10世紀以降ムスリムも増加していったようです。



これも、イスラム寺院。ブッタマラは、ムスリムの多い街とのこと。



これは、キリスト教の教会。

ブッタマラの手前で海岸線を離れて、内陸部に入っていきました。



道路脇には、水を湛えた池が現れました。雨季の終わりの時期ということで、水量も豊富です。スリランカでは、歴代の王が農業の振興のために溜池を作っており、これが自然のものなのか人工的な溜池なのかは判りません。



水辺には、ホテイアオイのような水草が花を付けていました。

美しい風景ですが、ホテイアイオは南アメリカ原産で、 世界の侵略的外来種ワースト100にも選ばれています。



アヌラーダプラも近づいたところで、ようやく仏塔が現れました。



テーマパークの入口のように見えますが、これは陸軍基地の入口です。翌日見学するシーギリヤのライオンの入口は、現在では前足しか残っていませんが、このような形になっていたといいます。



賑やかなアヌラーダプラに到着。レストランで朝食をとった後に、いよいよ本格的な観光の開始です。ここまでの車窓見学でも結構楽しむことができましたけどね。

さすらいの風景 アヌラーダプラ その1

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スリランカ中央部のアヌラーダプラ、ポロンナルワ、キャンディの三都市を結んだ三角形の内側は、歴代の仏教王朝が造った遺跡群が残されていることから文化三角地点と呼ばれています。

アヌラーダプラは、2500年前に最古の都があった地で、まずはスリー・マハー菩提樹から観光を始めました。これは入口のゲート。



ゲートの上の飾りに目がとまりました。この像は、この後に訪れたスリランカの寺院でも見かけることになりました。

これは、ヒンドゥー教の神話に出てくるカーラのように思えます。カーラは、シヴァ神の部下でしたが、底なしの大喰らいで、自分の体を食べてしまって頭だけになってしまいました。魔除けの像として使われているようです。このカーラ像は、中国から日本に伝わった鬼瓦と同じ起源を持っているように思えます。

カンボジア・プリア・コー遺跡のカーラ像

ミャンマー・バガン遺跡のカーラ像



スリランカでは、お寺の境内に入る際には靴を脱ぐ必要があります。入口には、靴の預かり場所が設けてありました。チップが必要なようですが、これもツアー会社の方でまとめて払ってくれました。境内には小石も転がっていて足裏を炒める必要があるので、履き捨てることのできる靴下と、汚れた状態でも移動できるサンダルが必要になります。クロックスのサンダルを持っていきましたが、気温も高い中の散策やプールサイドへの移動などに重宝しました。

境内に入るには、靴の他にも、帽子をやスカーフを脱ぐとか、傘はささない、肩や膝を露出する服装は禁止など、制約も多いので事前にガイドブックを読んでおく必要があります。



境内に進みましたが、土の上を歩くため小石が当たって痛く、見学よりも足裏の方が気になりました。ミャンマーでも寺院の中では素足になる必要がありましたが、床がタイル敷きになっていたので、熱さはともかく痛みは感じませんでした。



スリー・マハー菩提樹の正面入口にやってきました。回廊が取り巻いている中に菩提樹の大木があります。

紀元前3世紀に、インドのアショーカ王の王女サンガミッター尼が、11人の比丘尼と共にスリランカに布教のためにやってきました。その際、その下で仏陀が悟りを開いたという菩提樹の分け木を、インド・のブッダガヤからここに運び、当時のデーワーナンピヤ・テイッサ王が植樹し、仏教を保護しました。

人間の手により植樹された樹木では最古のものとされ、現在は野生動物からの保護のために石台や鉄柵によって取り囲まれています。なお、ブッダガヤにあった本家の菩提樹は、5世紀頃のインドにおける仏教の弾圧により切られてしまい、現在ではこのスリー・マハー菩提樹からの分け木が植えられているようです。



木の根元部分は見られないのですが、幹が分かれているようで、金色の支柱で支えられている部分が最も古い部分のようです。



回廊へは階段で上がるようになっています。



階段の入口の両脇には、聖域を守護するガードストンが置かれています。

この彫刻が誰か気になります。ほとんどのガードストンの像は、足元に二人の子供を従えていることから、あくまで推測ですが、インド神話の財宝神クベーラ(仏教ではヴァイシュラヴァナ、音読みして毘沙門天)ではないかと思います。 クベーラの子には、ナラクーバラとマニグリーヴァがおり、ナラクーバラは中国に伝わって道教に取り入れられて西遊記や封神演義でおなじみのナタに変わっています。



階段の上り口には、輪廻を現すムーンストーンが置かれています。正面のものは踏まれてかなりすり減っていたので、別の階段のものを載せてあります。

象は「誕生」、牛は「老齢」、ライオンは「病気」、馬は「死」を現すといいます。クイーンズ・パビリオンに一番保存状態が良く美しいムーンストーンが残され、これらの動物が刻まれているといいますが、残念ながら訪れませんでした。

このスリー・マハー菩提樹のムーンストーンを見ると、摩耗が進んでいてはっきりしないのですが、象が一頭おきに並んでおり、二頭の動物しかいないように見えます。象「誕生」と馬「死」が並んでいると見ていいのでしょうか。



階段脇には動物が描かれていますが、これはヒンドゥー神話の怪魚マカラに似ているように思えます。

カンボジア・アンコールトム遺跡のマカラ像



回廊の各所に設けられた祭壇では、人々が熱心に祈りを捧げていました。





内陣には一般の人は立ち入ることはできません。中にも建物があるようで、壁に象の彫刻が並んでいました。



願い事をする一つの方法としては、お金を布にくるんで結びつけます。



もう一つは、布に願い事を書いて取り付けるという方法です。

なお、ここに取り付けられている旗は、仏教を象徴し、仏旗(ぶっき)と呼ばれています。「六色仏旗」とも呼ばれ、色にはにはそれぞれ意味が込められています。六番目の色は輝きを現し、独自の色は配されず、他の5色を上から順に並べた縞模様で表現されます。これは、スリランカで定められた国際仏旗と呼ばれるものですが、日本では別な色の旗も用いられています。



寺院の関係者が、おまじないの白糸を配っていました。謝礼は必要なようです。三日間外さないで願い事をするようです。



回廊から菩提樹を見上げたところ。



お供えの花が祭壇に並んでいました。お供えの花は、自分で嗅いではいけないとか地面に置いてはいけないとかの決まりごとがあるようです。



回廊を歩いていくと、菩提樹を取りまいていた古い壁の一部が保存されていました。



一旦境内から出てルワンウェリ・サーヤ大塔に向かうと、スリー・マハー菩提樹の北門の前に出ました。入場に使った西門よりも、北門の方が立派です。



門の上には、カーラとマカラと思われる像が飾られていますが、中央に置かれているのは、菩提樹の苗木を持ったサンガミッター尼のようです。脇には剣を持った武人の像が置かれており、これはヒンドゥー教ではロカパーラと呼ばれる四天王でしょうか。

日本の仏教では、ヒンドゥー教の影響が見られますが、スリランカでも同じことのようです。

さすらいの風景 アヌラーダプラ その2

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スリー・マハー菩提樹の見学の後は、ルワンウェリ・サーヤ大塔に向かいました。純白に輝く仏塔が見えていましたが、距離もあることからその大きさを把握することはできません。



スリー・マハー菩提樹とルワンウェリ・サーヤ大塔の間には、立派な遊歩道が設けられていました。



遊歩道を歩きだしてまもなく、右手にローハ・パルサーダの遺跡が現れました。これは紀元前2世紀にドゥッタ・ガーマニー王によって建てられた僧院の跡で、当時は黄金色の豪華な屋根を持つことから、黄銅の宮殿を意味するこの名前が付けられました。ドゥッタ・ガーマニー王は、ルワンウェリ・サーヤ大塔の建築を開始させてもいます。



現在では、40列、各40本の石柱が並んでいます。



歩くうちにルワンウェリ・サーヤ大塔も次第に近づいてきました。



遊歩道の両脇は、木がまばらに生えた草原が広がっており、牛も放牧されていました。



草原の奥には、ジェータワナ・ラーマヤが見えていました。3世紀にマハーセーナ王の命によって建てられたものです。現在の高さは約70mありますが、原型は高さ122m、水晶の置かれた頂点までは152mあったといいます。れんがの土台は直径113m、厚さ8mあったといわれています。現在ユネスコの手によって修復が進められていますが、風景に良くとけ込んでいます。



仏教遺跡と並んで、遊歩道脇で遊んでいる猿にも目が引き付けられます。スリランカ・ハイイロオナガザルという種類のようです。



人には良く慣れており、子供を抱いた猿も多く見かけました。



ルワンウェリ・サーヤ大塔の全体像も見えてきました。高さは55m、完成当時は110mあったといいます。

ルワンウェリ・サーヤ大塔は、紀元前2世紀にドゥッタ・ガーマニー王の命によって建造が開始されました。王は完成を待たずに亡くなり、息子のサッダーティッサ王子が遺志を継いで完成しました。

ドゥッタ・ガーマニー王は、南インドから侵攻してきたタミル軍を何度も撃退しましたが、サッダーティッサ王子が参戦を希望したのに対し、王は許可しませんでした。最初は反発していた王子でしたが、後には王の優しさを知り、この仏塔の完成間近に王が亡くなろうとする時、竹と布で一夜にして完成し、王にその姿を見せたといいます。



ルワンウェリ・サーヤ大塔でも、入口で靴を脱いで境内に進みました。



人と比べると、ルワンウェリ・サーヤ大塔の巨大さが判ります。



基壇の周りには象が並んで飾られています。



階段下には、ガードストーンが置かれていました。



正面には祭壇が置かれていました。




信者が熱心に祈りをささげていました。なお、スリランカでは、お参りの際には、白服を着るのが通例になっています。



日影に入って塔の上を見上げると、はめ込まれた水晶が光るのを確認できました。



基壇の四隅には、小型版の仏塔が飾られていました。



時計周りに仏塔を一周しました。



基部の壁には小型の象が飾られていました。小さな仏像が置かれているのは、隠れキャラみたいですね。



レリーフの飾られた壁が高くなった所を良く見ると、四種の動物が並ぶレリーフがありました。



四種の動物は、ムーンストーンで見られる「誕生」を現す象、「病気」のライオン、「死」の馬、「老齢」の牛が並んでいるように見えます。踏みつけられてすり減ったムーンスト-ンとは違って形ははっきりしていますが、象以外の三つの動物の区別は難しいです。



お供え物の花を猿が食べていました。



仏塔の周囲にも仏像が飾られていました。



日向から仏塔を見上げると、白く輝いて、目を細める必要がありました。



靴下を履いているといっても裸足で仏塔の周囲を回るのは、足裏が痛くなりました。

信者も日陰でお参りしていましたが、暑さも堪えるようになってきました。再び参道を戻ってスリー・マハー菩提樹脇の駐車場に戻るまでには水を飲みながらの歩きになりました。

スリランカ観光では、猛暑に耐える必要があると覚悟を決めました。

さすらいの風景 アヌラーダプラ その3

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ルワンウェリ・サーヤ大塔を見学した後、バスに乗って少し移動し、イスルムニヤ精舎を訪れました。

イスルムニヤ精舎は、仏教の保護を目的に、デーワーナンピヤ・ティッサ王によって紀元前3世紀に建設されました。岩山を彫って作られているため、ロック・テンプルとも呼ばれます。インドからもたらされ現在ではキャンディの仏歯寺に収められている仏歯も、最初はここに置かれていました。



階段を登った先に御堂が設けてありました。



脇には池。



御堂の脇の岩肌には、象が彫られていました。



また、馬と豊穣の神パリジャニと言われる像も見られました。



階段下には、お決まりのガードストン。



ムーンストンも置かれていました。参拝者に踏まれて摩耗が進んでいるので、レプリカを置いて本物は博物館に収めたらと思うのですが、現役の宗教施設とあってはそうもいかないのでしょうね。



ご本尊。ガラス張りになっているので、外光が反射して、うまくは撮影できません。



脇の像。



コインが岩のくぼみや池の中に散乱していました。御堂の前のテラスから岩のくぼみめがけてお金を投げて、入ると願いが叶うといった運試しのようです。



続いて本堂に向かいました。



本堂には、寝釈迦像が置かれていました。背後には、入滅を悲しむ弟子たちの姿が描かれています。

この寝釈迦を見て、最初に気になるのは、その色彩です。東京の浅草寺の援助で、仏像の塗り直しが行われたといいます。ともすれば、古色蒼然とした仏像に美術的価値を見出しがちになりますが、信仰の対象となると、塗りが剥げたら塗りなおさなければならないということのようです。海外旅行に出たなら、自分自身の美術的センスを考え直す必要があります。



足元から見た寝釈迦。タイやミャンマーの寝釈迦像では足裏に描かれていた仏教宇宙観図は、この像にはありませんでした。



スリランカでは、足指が揃っているのは生前の睡眠時で、揃っていないのは入滅後を現しているといいます。ミャンマーでは、目を開けているものは寝ながら最後の説法をしている姿で、目を閉じているものは既に入滅した姿と、国によって意味合いの異なった像が造られています。



天井には、細かい模様が描かれていました。





頭の部分にも仏像が一組置かれていました。

中の朱色の衣の座像と立像は釈迦像で、向かって右は、高弟サーリープッタ(舎利ほつ)、左は高弟アーナンダ(阿難陀)のようです。中国や日本では、迦葉と阿難の像が飾られることが多いようですが、大乗仏教と上座部仏教との違いでしょうか。



さらに奥にも象が置かれていました。



本殿を出た所の洞窟には沢山のコウモリが住まっていました。

さすらいの風景 アヌラーダプラ その4

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イスルムニヤ精舎では、本堂に続いて宝物館を見学しました。

ここでの一番の見どころは、「恋人の像」(5世紀)です。寺院北側の王宮庭園で発見されたこのレリーフは、紀元前2世紀にこの地を治めたドッタガーマニ王の息子サーリヤ王子とその恋人マーラだと言われています。カーストの低いマーラとの恋は周囲から認められなかったのに対し、王子は自分の身分を捨ててカーラとの結婚を望んだといいます。



ただ、この像については諸説あって、シバ神とその妻パールバーティとする説もあるようです。恋人の像とした方が話としては面白いですが。



もう一つ有名なのが、「王族の像」(5~8世紀の作品)。これはサーリヤ王子とマーラの結婚後のもので、中央にドゥッタガーマニー王とその妻、王の左側にサーリヤ王子、王の妻の右側につつましくマーラが彫り込まれています。



宝物館には、他にもレリーフが置かれていました。

このレリーフは、「王族の像」の中央部と同じポーズですね。



周辺の装飾からして、同じシリーズのレリーフと思われます。



「王族の像」の中央部の像がドゥッタガーマニー王だとすると、後の時代に王の像が幾つも作られている理由が判りません。

推測ですが、やはり「恋人の像」はシバ神とその妻パールバーティで、「王族の像」の中央部はシバ神とその妻パールバーティ。左は礼拝する王で、右端はその妻と考えるのはどうでしょうか。その後に載せてあるレリーフがシバ神と考えると、つじつまが合うように思います。



太鼓腹であることから富と財宝の神クベーラでしょうか。





これは王座のようです。



宝物館を出て、岩山の上に登ることになりました。



登り口には、隙間に岩が挟まった登山用語でいうチョックストーンがありました。



岩山の頂上へは、階段登りが続きました。体力的には問題はないのですが、足裏が痛くてまいりました。



最後に階段を登って頂上へ。



岩山の高さはそれほどないんですが、周囲の展望が広がっていました。



遠くにジェータワナ・ラーマヤが見えていました。





水を満々と蓄えた貯水池も見えていました。



ルワンウェリ・サーヤ大塔は、この方向ですが、木立に阻まれており、写真を拡大してようやく先端部が見えているだけでした。



駐車場に停められていたバスの行き先表示です。一番上はシンハラ語、二番目にタミル語、三番目には英語で書かれていました。なお、スリランカでは、赤いバスは国営で、それ以外の青などに塗られたバスは民営のものです。民営のバスの方が新しくきれいでした。インドのタタ社製の赤いバスとなるとかなりボロで、かえって目を引きつけました。

アヌラーダプラには、他にも多くの遺跡が残されていますが、見学はこれまでとしてシーギリヤに向かいました。

さすらいの風景 シーギリヤ その1

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アヌラーダプラの観光を終えて、シーギリヤに向かいました。2時間程の移動になりました。

平原の上に頭をもたげた岩山が目立つようになってきました。



雨季は終わったようですが、低地には水が溜まっていました。



シーギリヤ地区に到着してホテルに入る前に、「地元の人とのふれあいとして民家にご案内」ということになりました。ツアーの募集要綱では、最終日にコロンボへの移動中に行われるように書いてあったのですが、変更になったようです。

バスを下りて歩いていくと、牛車が現れました。美しい白牛で、観光用のもののようです。夕暮れ時になって、家に戻ってきたようです。



実際に住んでいる家ではなく、古い建築様式を観光客に見せるための民家でした。土壁で屋根にはバナナの葉を載せてあります。



その内部。吹き抜けで少々開放的すぎます。



ロティの作り方を見学することになりました。まず、ココナツの身をすり下ろします。



バナナの葉の上で小麦粉とココナツを混ぜて円盤状に成形します。



これを焼きます。



一方、これはサンボルの作り方。唐辛子に塩を加えてすりつぶします。





続いて、玉ねぎ、ライムを加えてすりつぶします。



さらにココナツを加えます。



焼きあがったロティとサンボルを味見しました。サンボルをロティにつけて食べました。焼き立てで、美味しく食べました。なお、紅茶も出されましたが、コナツの実を半分に割ったものを利用していました。

シーギリヤでは、昔ながらの家庭料理を体験する「ヴィレッジ・サファリ」がオプショナルツアーとして催されているようです。これは先ほど見た牛車に乗って移動し、さらに湖を船で移動した後に民家でカレーを参加者自身で作るというもののようです。

今回は、その簡易版といったもののようでした。

さすらいの風景 シーギリヤ その2

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シーギリヤの宿は、アリヤ・リゾート&スパで、二連泊になります。アリヤとはシンハラ語で象を意味し、館内にはいたるところに象をモチーフとした飾りが置かれていました。二年前に開業したリゾートホテルです。今回のツアーでは、料金が安めであるにもかかわらず、良いホテルに泊まることができました。



二階にあるフロントからは、プールを見下ろすことができました。全体的に暗めの照明になっていました。

このホテルからはシーギリヤ・ロックが見えるとのことで、朝の風景が楽しみになりました。



コテージ・タイプの棟が並んでいました。敷地に余裕があるためか、客室は最大級の広さでした。



壁に飾られていた象の飾り。野菜などを組み合わせて人の顔を描いたアルチンボルドの絵の影響かもしれませんが、少々気味が悪いですね。



ベッドの上には、シンハラ文字の額が置かれていました。読めないけど、詩なのでしょう。

シンハラ文字はまさに丸文字ですね。現地ガイドの話ですが、日本人添乗員は揺れる車中でメモが書けるけれども、シンハラ語では書けないと言っていました。



部屋の中を見て回って驚いたのは、この木製のバスタブでした。久しぶりに風呂に入れるかと思ったのですが、お湯の出がちょろちょろで、湯が溜まるのがどれほどかかるか判らない状態でした。シャワーもついているので、バスタブの中に座り込んで体を洗いました。



通常のシャワーも設けてあったのですが、湯の出口が頭上に固定されており、使い勝手の悪いものでした。

体裁優先で使い勝手が追いついていない所もありますが、細かいところは気にしないことにしましょう。



夕食後に、ホテル内の夜景見物を行いました。



ロビーとレストランのある本館の眺め。



プール。夜も遅くなって、誰も泳いでいませんでした。泳ぐ用意はしてきていたのですが、このホテルでは時間がありませんでした。



夕食の際にホタルがいると聞いたので、撮影を試みました。割り振られた部屋は二階にあり、その廊下から見える木にホテルが集まっていました。木の先端付近にホテルが停まっており、その上にホタルが飛び交っていました。



幸い、今回はミニ三脚を持ってきており、廊下に座り込んでいろいろ条件を変えて撮影を試みました。日本でホタルを見たことはありますが、ホタルの撮影は初めての経験です。



撮影条件は、以下の通りです。

レンズ焦点距離 18mm
無限大部に焦点固定
絞り f3.5
露出時間 10秒
ISO 3200

帰宅後に、一部を切り出して、画像処理を行っています。



白い点は星で、ホタルの光は黄色く写っています。飛んでいるホタルの軌跡は点滅の関係で、破線状態になっています。





適当な方向にカメラを向け、何枚も撮影して、その中からホタルが飛んでいる写真を選ぶということになりました。



朝に撮影した宿泊棟。二階の階段右手の部屋に泊まりました。ホタルのいたのはその背後の木です。



朝食のためにロビーに行くと、プール越しにシーギリヤ・ロックが見えていました。



朝日も昇ってきました。



シーギリヤ・ロックが赤い空をバックに浮かび上がりました。



手前の電線が少々邪魔ですがね。



シーギリヤ・ロックは、スリランカ観光の一番のハイライトになります。岩山の上まで登ることになるので天気が気になっていましたが、この様子なら大丈夫なようです。

さすらいの風景 シーギリヤ その3

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シーギリア・ロックの見学のためには、混雑と暑さを避けるために早い時間のスタートが必要になります。ホテルを7時半に出発し、入口にあるトイレを使った後に、ゲートを8時15分に通過することができました。開場は7時というので、朝一番を目指した入場者もひと段落して、ゲート付近は空いていました。先行の入園者は大勢いましたが、登り階段の途中で体力に応じて適当にばらけており、一か所で渋滞というようなことはありませんでした。



シーギリア・ロックの周辺には、ハスの水路と呼ばれる堀がめぐらされています。



かつてはワニが放されており、ここに落ちた者は助からなかったといいます。

橋を渡ってガイドの説明が始まったとたんに、スリランカ国歌が流れてきて、しばらく清聴することになりました。始業時の国歌演奏とのことでした。歌詞が何番まであるのか、かなり長く続きました。



堀から上がってところには、見張り台の土台跡がありました。



土塁を抜けると、直線的な通路が続いていました。



最初に、水の広場が現れます。



通路の左右に沐浴場跡の池が設けられていました。向かって左は自然なままにされています。



右手は、修復の手が加えられて沐浴場跡の形が良く分かるようになっています。



その先にも左右一対の沐浴場跡が現れます。



当時は500人もの妃がおり、その沐浴姿を王は楽しんだといいます。



ここでようやくシーギリヤ・ロックが姿を現しました。高さ200mの岩山に要害を兼ねた宮殿が造られています。

この岩山に宮殿が造られた経緯については、一つの物語があります。

ここに宮殿を作ったカーシャパは、シンハラ王朝の5世紀、広大な貯水池を作って名君として知られたダートゥセーナ王の長男でした。カーシャパは、母親が平民の出であったことから、王族の血筋の母親から生まれた腹違いの弟モッガラーナに王位の継承権を奪われると思い、王を監禁し、自らが王位につきました。その後、隠した財産をすべて出せと迫ったところ、ダートゥセーナ王は自らが建設した貯水池に案内し、「これが私の財産のすべてだ」と言ったいいます。怒りに震えたカーシャパは、部下に命じてダートゥセーナ王を殺させてしまいました。

弟モッガラーナは、インドに亡命していましたが、カーシャパは弟の復讐を恐れてか、父の殺害に心を乱したのか、都をアヌラーダプラからシーギリヤに移して、岩山に宮殿を立てました。11年後、モッガラーナは、亡命先の南インドから軍隊を引き連れて戻り、兄に戦いをいどみました。戦いの結果、劣勢におちいったカーシャパは自害してしまいました。モッガラーナは、シーギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移しました。

シーギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続しましたが、徐々に衰退し、忘れ去られることになりました。建造から1400年の後、イギリス統治下の1875年に、望遠鏡で岩山をのぞいていたイギリス人によって、岩山に描かれたフレスコ画の"シーギリヤ・レディ"が発見され、シーギリヤ・ロックは新たな時代を迎えることになりました。

この物語は、オペラの題材にもうってつけですね。ヴェルディの「マクベス」なら、ちょっとした読み替え演出で、オペラ「シーギリヤ」ができそうです。マクベス夫人は、カーシャパの母親に変えればよいでしょうか。狂気や流血、裏切りが遺跡の輝きを増すことになるのは、皮肉なことです。

なお、天空の宮殿として、宮崎駿監督のアニメ「天空の城ラピュタ」のモデルになったとも言われています。



ガイドの説明と記念撮影で足が止まりましたが、再び先に進みます。



続いてドライシーズン・パレス地区になります。通路脇は水路も設けられた庭園になっています。



現在でも噴水から水が出ています。



小高い部分に宮殿が設けられていたようです。



いよいよシーギリヤ・ロックも迫ってきました。



逆光で細部が判りにくいので、観光後にもらった登頂証明書の写真で説明することにします。

まずは、岩山の中腹にあたるAの展望テラスまで登ります。ここで高さにして半分ほど登ったことになります。Aの展望テラスからCのミラー・ウォールまでは高さの変化はありませんが、途中でBのシーギリヤ・レディーへはらせん階段の上り下りがあります。ミラー・ウォールを抜けた後、階段をひと登りすると、Dのライオンの足のある広場に出ます。なお、下りは、ライオンの足のある広場の下から別な道を通ることになります。Dのライオンの足のある広場からさらに階段登りを頑張って、ようやく頂上に到着です。

登山のグレードでいうなら、初心者向き程度の体力は必要になります。



岩山の下に到着し、ここから階段登りが始まります。



脇には、僧院として使われていた石窟寺院があります。



先も長いので、ゆっくりペースで登っていきます。



途中にも、石窟が現れます。



第一アーチと呼ばれる大岩の間の隙間を通ります。防御の役にたっていたようです。



大岩の下には瞑想につかわれていた台座が残されていました。



この先は、テラスの庭と呼ばれ、昔は花や木が植えられていた花壇がテラス状に整備されています。その中を階段が高みに向かって続いていました。



気温が早くも上がってきて、汗だくの登りになりました。



展望テラスまでは、個人個人のペースで登ることになりました。日頃、ハイキング程度の歩きを行っていないと辛い思いをすることになると思います。



展望テラスまであともうひと頑張り。



階段を振り返ったところ。



展望テラスでは、大勢が休んでいました。グループの場合は、ここで後続を待つ必要があります。





展望テラスからは、水の広場を見下ろすことができました。頂上までの半分近くを登ってきたことになります。

さすらいの風景 シーギリヤ その4

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展望テラスで汗をぬぐいながらひと休みした後は、岩壁巡りになります。トラバース後に、らせん階段を登ります。岩に昔の通路の土台と見られる窪みが見られますが、どのような設備が設けられていたのでしょうか。



上り下りの専用らせん階段が設けられており、垂直の岩壁を一気に上がります。金網に囲まれているので危険性は無いものの、高度感はかなりあります。



らせん階段を登ったところで、シーギリヤ・レディーと呼ばれる壁画が描かれた洞窟に出ます。

スリランカ旅行でもこのシーギリヤ・レディーは最大の見どころになっていますが、今年になってから壁画の保護のために写真撮影が禁止になってしまっていました。仕方のないことなので、絵葉書の画像を載せておきます。

私が到着した時は、観光客も途切れており、絶好の撮影条件だったのですがね。



シーギリヤ・レディーは、フレスコ画の手法で描かれており、五世紀に描かれてから時を経ても、美しい色彩が残されています。かつては岩山の壁に300人ほどの絵が描かれていたといいますが、現在残されているのは18人のみになっています。



カーシャバ王は、殺害してしまった父の霊を慰めるために、シーギリヤ・レディーを描かせたといわれています。シーギリヤ・レディーは、天国に住む妖精アップサラ、あるいは貴人の像(裸の女性が貴人で、服を着ているのが侍女)、さらにアップサラに王の侍女が仕えているところと、様々に考えられています。描かれている女性は、肌の色や顔つきからアフリカや中国など世界各国から来ていることが判ります。

写真撮影ができないので、この妖艶な女性像をゆっくり眺めることにしました。



らせん階段を下りていく途中、これから進むミラーウォールが下に見えてきました。岩壁がオーバーハングになっており、水が当たらないようになっていたようです。



シーギリヤ・レディーの洞窟まで結構上ったのですが、再び展望テラスのレベルまで下りてきてしまいました。



ミラーウォールからせん階段を振り返ってところ。



ミラーウォールは、鏡のように磨き上げられた壁を持つことから名前が付けられています。かつては、向かいあう岩壁にも女性像が描かれており、ミラーウォールが鏡のように絵を写していたといいます。



ミラーウォールには、古いいたずら書きが見られます。これらは、興亡物語の叙事詩や壁画の乙女たちの姿や岩山の雄大さを湛えた詩で、シンハラ語とシンハラ文字の推移を知る手掛かりになっているといいます。



ミラーウォールの先は、再び上り階段が続くようになります。途中で、下界の眺めを見ながら一息つきました。登山を趣味としている私には、足にくる登りではないにしても、暑さが堪えるようになってきました。

水の庭園と中央の通路が見えていますが、その右手の木立に囲まれた大岩は、像の背中に似ていることからエレファント・ロックと呼ばれています。



上りの途中、岩山の脇にテラスが設けられていますが、防御施設として使われていたようで、崖の上に敵に向かって落とす岩が置かれています。



下山方向への道を分けると、すぐ先でテラスに出ます。ここには、巨大なライオンの爪の彫刻が残されており、ライオンの入口と呼ばれています。かつてはライオンが大きく口を開けて座った姿になっていたといいます。

シンハラ語で、ライオンは「シン」、のどは「ギリヤ」といい、「ライオンののど(シンギリヤ)」が、ここの地名のシーギリヤの語源になっています。



巨大な爪の彫刻を見ると、頭部があった時代の迫力を想像せずにはいられません。

ここのテラスは、風が吹き抜けて心地よく、他のメンバーの記念撮影を待つ間にひと息つくことができました。



頂上へ続く階段上りも目でおうことができました。

なお、夏には、この岩場にススメバチの巣ができてしまうといいます。ライオンの入口には、スズメバチを避ける避難小屋も設けてありますが、山頂への道は閉鎖になるといいます。どうしても行きたいという人には、スズメバチの駆除にも使われる全身を覆う防御服も借りることができるようですが、猛暑の中、防御服を着てこの階段を登るのは相当の覚悟が必要そうです。



最後の上りの途中から見下ろしたライオンの入口前の広場。なかなかの高度感です。



もう少しで山頂。



階段を上り終え、後続を待ちながら周辺の眺めを楽しみました。シーギリヤ・ロックと向かい合うこの山は、ピドゥランガラといい、ここにも石窟寺院があるようです。

さすらいの風景 シーギリヤ その5

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後続のメンバーがそろってから、シーギリア・ロック頂上の宮殿跡の見学に向かいました。



最高点は、広場になっていました。かつては、ここに王宮が建てられていたのでしょう。



標高差200mのシーギリヤロックの階段数は、1200段と言われていますが、これが最後の2段になります。記念写真のお立ち台になっていました。



頂上部は、レンガを積み上げて整地した段々になっていました。



下界の眺めも、水の庭や中央の通りが一望でき、さらに高度感を増していました。



頂上部には、宮殿の多くの部屋や庭が設けられていたようです。



さらに、沐浴場として用いられていた貯水池も設けられており、現在でも水をたたえていました。



岩山の縁に進むと、溜池の眺めが広がっていました。



「エレファント・ライド」として、観光客を乗せた象も見えていました。



岩山の山頂が段々に整地されており、かつての建物が立ち並んだ威容を想像することができます。



通路を辿って山頂部を一周しました。





岩山の頂上に貯水池があるのは奇跡的に思えます。籠城戦への備えかとも思いますが、この水を使うようになったら最後は間近でしょうね。



緑に覆われたステージ状の広場は、踊りに使われたようです。



広場を見下ろすように王座が設けてありました。ここから美女の踊りを楽しんだといいます。

父を殺して手に入れた王座だから、せめて楽しまなければね。復讐を恐れて岩山の上に宮殿を立てたのも、復讐による最後は近いと恐怖におののいていたのでしょう。



小さなトカゲが崖際にとりついていました。隠れているつもりなのか、皆が写真を撮っていてもじっとしていました。



山頂部の見学を終えて、下山にうつりました。階段の途中からは、ライオンの足の広場を真下に見下ろすことができました。



ライオンの足の広場のすぐ下からは、ミラーウォールには向かわず、専用の下山路に進みました。





ミラーウォールを外から眺めたものですが、垂直の崖によく通路を作ったものです。



下山路の方は、すぐに緑地帯に下りることができました。



猿も現れました。アヌラーダプラで見たのとは違っており、スリランカの固有種であるトクモンキーのようです。



トクモンキーの子供。スリランカは、文化遺産の見学が目的でしたが、野生動物も多く見られました。



カーシャパ王が会議を開いた場所のようです。



この岩屋は、僧が瞑想に用いていたアサナ礼拝堂。



岩をぬうように続く階段を下っていきます。



その形からコブラ岩と呼ばれています。



その下にも岩屋がありました。



フレスコ画が少し残されていました。瞑想の邪魔になるということで消されたようですが、残念なことです。



下りは楽で、一気に駐車場に出ることができました。



一旦バスに乗って、シーギリヤロックの展望スポットに移動しました。

東側からの眺めで、朝方の眺めとは少し違っています。



山頂に立つ人の姿も見分けることができました。

岩山の上に建つ宮殿は、まさに天空の宮殿といった眺めであったでしょうね。



バスの中で、シーギリヤ・ロックの登頂証明書をもらいました。標高200mの山なので、登れて当たり前という感じですがね。

シーギリヤ・ロック訪問で、この日の観光意欲は満腹状態になっていましたが、この日はさらにポロンナルワ観光とサファリが予定されており、さらに観光の意欲を持続する必要がありました。

さすらいの風景 シーギリヤ その6

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シーギリヤ・ロックの見学後、ポロンナルワに向かう前に、近くのバティック工房をトイレ休憩を兼ねて立ち寄りました。

バティックは、アジア地域で作られるろうけつ染めの布のことで、特にインドネシアのジャワ島のものが有名なため、日本ではジャワ更紗とも呼ばれます。

製作法は、模様のうち染めない部に、筆などで溶かした蝋を布に塗ります。次いで染料にてその布を染色し、蝋を落として水洗いすると、蝋を塗った部分は白く染め抜かれます。複数の染色のためにはこの工程を繰り返すことになります。

工房では、染の過程を見学することができました。

まず、布に下絵を写し取ります。



布に蝋を塗っているところ。



どこを染めるのかを見極めるのは慣れが必要そうですね。



染色。



手を休めて、染めた布を見せてくれました。この段階では、どこが染まっているのかは判りませんね。



続いて、湯で蝋を洗い流します。



染めあがった図柄が現れてきています。この過程を繰り返して、他の色を加えていくことになります。



見学の後は、買い物タイム。



壁に掛けられたバティック製品。象やムーンストン模様がスリランカらしいですね。記念に一枚買いましたが、ツアーの一向にはシーギリヤ・ロックの疲れが出ているようで、あまり売れてはいなかったようです。

さすらいの風景 ポロンナルワ その1

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午前中にシーギリヤロックの見学を終え、午後はポロンナルワの見学になりました。ツアーではほとんどがこのようなスケジュールになるようです。ポロンナルワは、シーギリヤの東に位置し、1時間ほどのバス移動になります。

その途中の車道南側にはミンネリヤ国立公園が広がっており、野生象に注意の看板も立てられていました。車が渋滞していると思ったら、野生象が道路を歩いていました。



停まったバスの脇を野生象が通り過ぎていきましたが、なかなかの迫力でした。夕方に行う野生象見学のサファリの期待が高まりました。



道路沿いには水を湛えた湿地帯が広がっていました。雨季が終わったところなので、乾季には草原になっているのかもしれません。



道路沿いには、干し魚を売る露店が出ていました。



ポロンナルワが近づくと湖が見えてきましたが、これは人工的に造られた貯水池で、パラークラマ・サムドラと呼ばれています。10世紀から11世紀にかけて、南インドのチョーラ王朝は大軍を送ってシンハラ王朝の首都アヌラーダプラを占領し、やむなくシンハラ王朝は都をポロンナルワに移しました。歴代の王は、灌漑を進めて国の発展を図り、また仏教の普及に力を注ぎました。パラークラマ・サムドラは、12世紀にパラークラマ・バーフ1世によって造られました。



ポロンナルワの遺跡見学の前にトイレ休憩を兼ねて、木彫の店を訪れました。木の染色法など興味深い説明もあったのですが、売り物が本格的な仏像で、土産物に買いようなものがありませんでした。



ポロンナルワでは、まずクワトラングルの見学を行いました。

クワトラングルとは四辺形の意味で、城壁に囲まれた方形の庭に11の建物が集まっています。



東側の入口からクワトラングルに入りました。



様々な遺跡が目に入ってきますが、まずは南端のトゥーパラーマから見学しました。



トゥーパラーマは、しっくいとレンガで造られた仏堂で、2mもの厚さのある壁に囲まれています。



靴を脱いで薄暗い堂内に進むと、外の猛暑と違ってひんやりしていました。



正面の祭壇は、空の状態でした。



両脇に仏像が置かれ、花も供えられていました。



立像では右手が失われているのは、どうしてなのでしょうね。





かつては、天井の小窓から差し込んだ光が仏像の頭部に付けられた水晶に当たって反射するようになっていたようです。



トゥーパラーマの入口から来た方向を振り返ったところ。左手に見えているのはラター・マンダパヤ、正面奥はアタダーゲです。



右手には、円形のワタダーゲが広がっています。



ラター・マンダパヤでは、仏教の中心地としての整備を進めたニッサンカ・マーラ王が僧の読経を聞いたといいます。



ハスの茎をかたどった石柱が並んでいます。柱は、曲線を描いており、ハスの茎が風に揺れる様を現しているといいます。



中央には、小さな仏塔状のものが置かれていました。



ラター・マンダパヤの前には、小さな仏像が雨ざらし状態で立っていました。



続いて、クワトラングルの中でも印象的なワタダーゲの見学を行いました。

さすらいの風景 ポロンナルワ その2

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ワタダーゲの前には、アタダーゲとハタダーゲの二つのお堂跡が並んでいます。

これはアタダーゲ。11世紀にウィジャヤバーフ1世によって造られ、当時は柱の上に木造の建物があり、仏歯を奉納していました。アタダーゲとは、「八つの遺宝の家」という意味とのこと。

クワドラングルには、ダーゲという名前の遺跡が多くありますが、○○の家という意味のようです。



奥には、仏像が一人たたずんでいました。



柱には凝った彫刻が施されていました。



隣のハタダーゲ。



ハタダーゲは、12世紀にニッサンカ・マーラ王によって造られた仏歯寺跡です。





奥に置かれた仏像は、かなり損傷されています。





外壁にはライオンの像が飾られていました。



碑文も書かれていました。



いよいよ一番気になっていたワタダーゲへ。



西側からのワタダーゲの眺め。



北側からワタダーゲに入場しました。

ワタダーゲは、円形の仏塔で、ポロンナルワが首都になる前の7世紀頃に建てられました。中心にあるダーガバ(仏塔)はアヌラータブラのキルテイ・スリー・メーガワンナ王によって建てられました。壁に彫られた彫刻は、後にニッサンカ・マーラ王によって施されました。



入口には、他の寺院と同じようにガードストーンとムーンストンが置かれています。



階段左手のガードストーン。

ガードストーンは、悪霊を遠ざけるためのものですが、優しい姿をしています。中国や日本で同じ目的で置かれる仁王像とはどこで枝分かれしたのでしょうね。



階段右手のガードストーン。



西側左手のガードストーン。

同じ構図ですが、表情は少し違っています。



西側右手のガードストーン。



ここのムーンストーンは、模様が良く残されていました。



外側のスワンは、「純潔」を現しています。象は「誕生」、馬は「死」を現しています。ポロンナルワの都が造られた時代にはヒンドゥー教も普及していたため、「老齢」を現す牛は省かれています。また、「病気」を現すライオンは、王位の象徴でもあるため、ムーンストーンから省かれて別扱いになっています。



階段の側面にライオンが大きく描かれています。



また、基壇の側面には、小人状の神様とライオンが彫られています。



ワタダーゲの上段には、四方に向かって四体の仏像が置かれていました。



表情は微妙に異なっていました。







東入口近くには、ガルポタ(石の本)と呼ばれる、字が彫り込まれた石碑が置かれています。



ニッサン・マーラ王の命令によって、インドの侵略者のことや、ポロンナルワ周辺の小国との外交関係、ニッサン・マーラ王への称賛の言葉が彫り込まれています。



クワトラングルの北東の隅には、サトゥマハル・プラサーダと呼ばれる7階建ての塔が立っています。この塔はタイから来た建築家が建てたものと言われており、この塔が建てられた12世紀頃には上座仏教の中心地になっていて、タイやビルマから僧が訪れたといいます。



サトゥマハル・プラサーダの壁に飾られている像。損傷が進んでいますが、ガードストーンの像と似たポーズをしています。



サトゥマハル・プラサーダの脇にはヴィシュヌ神の寺院跡もあり、ヒンドゥー教浸透の跡も見られました。

クワトラングルの見学はこれで終わりになり、次のガル・ヴィハーラへバスで少し移動しました。

さすらいの風景 ポロンナルワ その3

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クワトラングルからガル・ヴィハーラへ移動する道路沿いには、商店跡の遺跡が続きました。ポロンナルワが繁栄した都であったことがうかがわれます。



ガル・ヴィハーラの駐車場でバスを下りると、林の奥に白い仏塔が見えていましたが、これはキリ・ヴィハーラのようです。パラークラマ・バーフ1世の妻の一人のサバドラ女王が建てたものとされています。



実際に見学したのは、このガル・ヴィハーラのほうです。



巨大な花崗岩に仏像が彫られています。左から順に見ていきましょう。



左の瞑想しているブッダ座像の高さは4.6m。日本人にも受け入れやすいお顔をしています。



蔵像の右上には、小さな仏像が隠しアイテムよろしく彫られています。



また、右下には炎に包まれたライオンが彫られており、これは強い動物、すなわちどんな人も死ぬということを現しているといいます。



座像の右手には僧院窟があります。



中の仏像。猿避けの金網とガラスで見にくい状態になっていました。



続いて立像。高さは7m。悟りを開いて7日目、瞑想中に影を作ってくれた菩提樹に祈りをささげているとか、弟子のアーナンダの像などと諸説あるようです。



右端には涅槃像が置かれています。前長15m。



全体を眺めるため、脇の岩に上がりました。



両足の親指が揃っていないので涅槃像であることが判ります。スリランカの寝釈迦像見学では、生前のものか死後のものかを見分けるため、足の親指を見る癖がついてしまいました。



涅槃像の顔。



枕に描かれた像。炎を吐き出したようなライオンの像、あるいは太陽との説があるとガイドブックに書かれていましたが、スリランカの寺院のいたるところで見られる、ヒンドゥー教の動物神カーラ由来ではないのかなと思ってしまいます。カーラは、建物の入口を守る働きをするとされている他に死の神でヤマ(閻魔大王)の別名であるともいいます。



ガル・ヴィハーラの周りにも猿が沢山いました。大中小と並んでいますが、どういった関係なのでしょうね。



遺跡見物は猛暑でバテ気味になって、駐車場の脇の売店でキングココナッツを飲みましたが、量もあって美味しかったです。



午前中はシーギリヤロックの登山で、午後はポロンナルワ観光を行って、ハードナスケジュールになっており、喉も乾いていました。ツアーでは、ここでココナッツを飲むのが定番になっているようです。



ポロンナルワの町外れには、陸軍の基地があり、入口には機関砲が飾られていました。

平和に見えるスリランカですが、このような軍隊施設を見ると、スリランカ内戦が終わってからさほど時間が経っていないことを思い出さずにはいられません。

スリランカ政府とタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) による内戦は、1983年から2009年の26年にわたって続きました。スリランカでは、総人口のうち7割を仏教徒で多数派民族であるシンハラ人が、2割弱をヒンドゥー教徒のタミル人が占めており、タミル人は主に島の北部・東部を中心に居住しています。イギリス植民地時代にタミル人を重用する分割統治政策がとられましたが、独立後にはその反動として、1956年のシンハラ語公用語化を始めとするシンハラ人優遇政策がとられたことにより、民族間の対立が高まっていきました。

民族対立が深まる中、1972年にはヴェルピライ・プラバカランによって武力を用いてスリランカからの分離独立を目指すタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) が結成されました。LTTEのテロに対し反タミル人暴動も勃発し、政府軍とLTTEの間で内戦状態になりました。インドの武力介入やノルウェー政府の仲介などよって何度か停戦が実現しましたが、それも長くは続かず交戦状態に陥りました。

LTTEは、陸軍の他に海軍・空軍も用い、さらに自爆攻撃も行って、双方の総力戦になりましたが、LTTEの幹部の殺害によって、スリランカ内戦は終わりました。

現地ガイドの話では、ほとんどの人が近い親族に戦スリランカ内戦による死者がいるという話でした。

タミル国独立運動の拠点であったスリランカ東部・北部地域は、内戦中は外国人の立ち入りが困難でしたが、現在では観光整備が進められて注目スポットになってきているようです。

さすらいの風景 サファリ

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午前はシーギリヤロック、午後はポロンナルワ観光と充実した時を過ごしてきましたが、最後にもうひと頑張りしてサファリを行うことになりました。

ポロンナルワから戻る途中、道路上で再び象にであいました。写真には撮れませんでしたが、もう一頭を道路沿いの藪の中に見ることができ、この一帯には野生の象がかなり生息していることがうかがわれました。



サファリのため、ジープに乗り換えました。

サファリ中は、トイレのためでも車から降りられないとか、野生象に出会ったらいつでも逃げられるように車を回転してから見学するなどと説明を受けました。



ミンネリヤ国立公園は雨期明けで水浸し状態のため、森林側のエコー国立公園に向かいました。

荷台のベンチに座りましたが、シートベルトのようなものは無く、支柱のパイプを握りしめて揺れに抵抗することになりました。体が大きく左右に揺れる悪路の走行が続きました。しかも時々木の枝を避けるため、頭を下げる必要がありました。写真は、揺れの少ない場所で撮影しているため、実際には大変な悪路です。



ジープの運転手は、悪路の運転のかたわらでも周囲に目を配って、動物を探して教えてくれました。

ミナミカンムリワシ(Crested Head-eagle)のようです。



トカゲ。ギザギザの背中がなかなか格好良いです。



鳥やトカゲよりは、やはり野生象を見たかったですが、なかなか現れずに悪路のドライブが続きました。ようやく象が現れましたが、藪の中で良くは見えず、すぐに離れていってしまいました。



野生象なので会えないこともあって、これで終わりかと思いましたが、ドライバーがすれ違った他の車と情報交換して、さらに悪路の藪の中に入っていきました。



ついに野生象の群れに遭遇できました。



スリランカにいるのはアジアゾウで、アフリカゾウに比べるとやや小型です。牙はオスでも2m以下が普通で、メスは更に短く外部からは見えないという特徴を持っています。

雌と幼獣で群れを作り、雄は単独あるいは雄同士で群れを作って生活します。



眺め続けていると、藪の中から子供の象も現れてきました。



目の前を象の群れが通過していきました。



象を眺めていると、夕日が沈んでいきました。

象は、昼間は森の奥でじっとしており、夕方になってから食事で移動し始めるとのことです。観光を終えてからのサファリなので、体験が目的の簡単なものなのかなと思ったのですが、予想以上に本格的なものでした。



群れを追って少し移動しました。



この場所の方が、象を間近に見ることができました。



中くらいの大きさの象も現れました。



群れのボスなのか、巨大な象も現れました。



小さな水たまりがあり、水を飲んでいました。



藪の奥から次々に象が現れてきました。



熱心に草を食べていました。



巨大な象が草を食べているうちに、車のすぐそばまで近づいてきてしまいました。運転手から声を出さずにじっとしているようにと指示が出ました。象は横目で見て、こちらを明らかに意識しているようでした。

象が襲ってきたらどうしようという恐怖がわいてきました。象にのしかかられたら、このジープはひとたまりもありません。まさにリアル・ジュラシックパークの状態で、ティラノサウルスに襲われるジープの場面が思い出されました。けっしてテーマパークのアトラクションでは得られない恐怖体験でした。事前の話ではすぐに逃げられるように車を回転してから見物するということでしたが、車の回転はしておらず、後ろに二台が停まっているので、象が暴れたら先頭車の私たちは逃れることができません。

幸い、しばらくすると、象は草を食べながら離れていきました。



子象もやってきました。二頭をつれているようです。



小さな水たまりですが、象の水飲み場になっていました。





群れは再び藪の中に去っていきました。

見学も終わりということで、帰路につきました。



途中、別な群れに遭遇しました。公園内には幾つもの群れがいるようです。



サファリを満喫することができましたが、野生象を見ることのできる可能性はかなり高いようです。

スリランカは、自然動物も豊富なことが改めて認識されました。


さすらいの風景 ダンブッラ その1

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第四日目は、ダンブッラを見学した後、キャンディへ向かいました。

ダンブッラは、アヌラーダプラ、ポロンナルワ、キャンディの三都市を結ぶ文化三角地帯のほぼ中央の幹線道路沿いにあります。

ここでの見どころの石窟寺院は、この小山の山頂近くにあります。、



ダンブッラ石窟寺院の登り口は、この巨大な黄金大仏のある広場からになりますが、脇道を中腹まで上がってから歩き出すことになりました。

昨日のシーギリヤ・ロック登山で足に疲労が出ていて、助かった人も多かったようです。



歩き出すと、すぐに正規の参道に出ました。緩やかなカーブが付けられていて歩きやすくなっていますが、結構足にきます。



ひと汗かいて、石窟寺院の入口に到着しました。



岩山の山頂も間近に迫ってきていました。



結構登ってきています。



裸足になって境内に進みます。

紀元前1世紀、シンハラ朝第19代国王のワラガムバー王は、タミル人の手によってアヌラーダプラから追放されました。王は、修行僧の住処であったダンブッラの洞窟に保護され、15年後にアヌラーダプラへ帰還した後、感謝の念を持って寺院を建立しました。その後も、ダンブッラの寺院には多くの増築が施され、黄金寺院と呼ばれるまでになりました。、キャンディ王国の時代まで増築が施されて、現在は5つの石窟によって構成されるようになっています。現在では、各石窟の前に回廊が設けられて結ばれています。



まずはデーワ・ラージャ・ヴィハーラ(神々の王の石窟)と呼ばれる第一窟に入ります。



入口からは一部しか見えていませんが、第一窟には涅槃像が収められています。壁と同じ自然石に彫られており、約14mの長さがあります。

確かに、外からこの巨大な像を持ち込むことはできませんね。




足の裏は赤く塗られています。足の親指が揃っていないので涅槃像であることが判ります。



薄暗い中で見る仏像は神秘的あるいは不気味にも見えます。



堂内には他に五体の仏像が置かれていますが、左の赤い衣の像は釈迦の弟子のアーナンダとのこと。

なお、大乗仏教では沢山の神様の像が祀られているのに対し、上座部仏教(小乗仏教)では信仰の対象が釈迦如来だけのため、祀られる仏像も変化のつけようがないようで、数は沢山あっても単調なものになっています。その中で、例外的に釈迦如来の脇にアーナンダ(阿難)像が置かれていることがあります。アーナンダ(阿難)は、釈迦が死ぬまでの25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていたため、釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれました。

アーナンダ(阿難)の像は、敦煌の莫高窟でも見られますが、迦葉の像と対をなすように置かれています。若い美青年として描かれる阿難に対し、皺だらけの老人として描かれる迦葉のコントラストが、仏像製作者の腕の見せ所になっています。日本に中国経由で入ったのが大乗仏教であったことは、芸術の点からすれば幸運なことであった気がします。



壁いっぱいにフレスコ画が描かれています。ただ、石窟内は涅槃仏でいっぱいになっており、壁画まで鑑賞するには狭すぎます。



入口の上の天井画。



釈迦とその弟子が描かれています。



第一石窟の脇には、小さなヒンドゥー教の寺院が設けられていました。ヴィシュヌ神が祀られているようです。



入口の壁には、ヒンドゥー教の神々の絵が飾られていました。

これは、シヴァの息子のムルガン(スカンダ)のようです。インドラ神から神軍最高指揮官の地位を譲られた戦いの神で、インド南部のタミル人社会や、その移民の地であるスリランカで信仰されています。



これはヴィシュヌ神。



これもヴィシュヌ神。



蓮の花の上に立っているのでヴィシュヌ神の妻のラクシュミーでしょうか。この絵では、男女の違いが区別できませんけど。

仏教国のスリランカですが、ヒンドゥー教もかなり浸透しているようです。

さすらいの風景 ダンブッラ その2

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ダンブッラの第二石窟は、マハー・ラージャ・ヴィハーラ(偉大なる王の寺)と呼ばれ、五窟の中でも最大規模のものになっています。

ここでいうところの「偉大なる王」は、この石窟を作ったワッタガーミニ・アバヤ(ワラガムバー)王のことです。

石窟に入ると、思わずこれはすごいというため息がでました。



ただ、照明のコントラストが強すぎて、全体に光が回っていないのが残念です。



ここには56体もの仏像が収められていますが、ほとんどが釈迦如来像です。







寝釈迦象も置かれています。まずは鑑別のために足指を見ますが、揃っています。



ということで、この寝釈迦像は、生前のまどろんでいる姿を現しています。



これが特別に仏旗で飾られており、本尊のようです。5世紀造立と推定されています。

脇侍の右は、観音菩薩で、左は、弥勒菩薩とのこと。釈迦三尊像ということになるのでしょうけど脇侍に弥勒菩薩が出てくるのは珍しいのでは。



なお、手が赤いのは、紀元前5世紀にスリランカの最初の王になったウィジャヤ王がインドから到着した時、彼の掌が赤かったことに由来するといいます。



金網に囲まれた中に置かれた壺に、天井から水滴が滴り落ちています。

ダンブッラは、ダンブ(岩)+ウーラ(湧き出す)で「水の湧き出す岩」という意味で、この湧水が、地名のいわれとなっています。この水は聖水とされ、重要な儀式の際に僧だけが飲みます。



内部にはストゥーパ(仏舎利塔)も置かれています。



仏像の他に、このストゥーパと壁画が石窟に特別な雰囲気を与えています。



ストゥーパの脇に置かれた釈迦の頭上に蛇が頭を持ち上げて覆いかぶさっています。これは、釈迦が悟りを開く際に、背後に立って日陰を作って助けたという逸話にもとづいており、蛇(ナーガ)は仏法の守護神として扱われています。



天井から壁一面に描かれた絵も見ごたえがあります。



釈迦の瞑想の邪魔をして、悪魔たちが悟りの妨害をします。



異様な姿の悪魔たちが描かれています。



下部には、鉄砲を構えている者も描かれています。

この第二石窟が造られた当時は、鉄砲はまだ発明されていませんでした。信仰の対象になってきたダンブッラ石窟では、壁画が傷むとその都度修理が行われてきましたが、その際、必ずしも忠実に描きなおされたわけではなかったため、新時代の武器が書き込まれてしまったわけです。

ユネスコの世界遺産に認定された後では、遺跡の修復も変わってくるのでしょうか。



釈迦の周りを美女が取り巻いています。



武力での威嚇が通じないということで、今度は色仕掛けで瞑想の邪魔をしているということでしょうか。



ついに悟りを開いて、弟子の阿羅漢たちが集まって祝福を行っている場面と考えればよいのでしょうか。

なお、頭の上に描かれている尖ったものは光を現し、光輪に相当するものです。



パターン化された仏が描かれているところもありました。



この寺の創設者で、仏像の寄進者でもあるワッタガーミニ・アバヤ王の像



続いて第三石窟、マハー・アルト・ヴィハーラ(偉大な新しい王の寺)を見学しました。



釈迦像がずらりと並んでいます。





第三石窟でも寝釈迦像が置かれていました。



足が揃っているので、生前のものですね。



ご本尊。



頭の上にカーラのような像が置かれています。



壁画もご本尊と同じような装飾が描かれていました。



キャンディ王国の最後の王であるスリー・ウィクラマ・ラジャシンハ王の像。

この王については、キャンディの訪問時に再度触れることになります。

さすらいの風景 ダンブッラ その3

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続けて、第四石窟、パッツィーマ・ヴィハーラ(三人の王の寺)を見学しました。キャンディ王朝末期に造られた、比較的小さな石窟です。



仏塔(ストゥーパ)の奥に、新しく黄色に塗られた釈迦座像がありますが、以前、観光客がこの像に座って記念写真を撮ったため大問題になりました。法力が失われたとして、石窟はしばらく閉鎖されて、仏像も新しく塗りなおされたといいます。スリランカの寺院では、仏像に尻を向けて記念写真を撮るなという看板が随所に置かれており、仏像に敬意を払って見学する必要があります。。





第四石窟、デワナ・アルト・ヴィハーラ(二番目の新しい寺)。 1915年に作られた最も新しい石窟です。狭い石窟に寝釈迦像が窮屈そうに収められています。



足指が揃っているので、生前の像です。



新しく造られたということもあり、前の石窟の像よりは神秘性が薄い感じがします。



蛇に守られた釈迦像。



壁画も見劣りがします。



石窟から出て、回廊を振り返りました。



前庭を通って入口に戻りました。



池には水連が咲いていました。水連は、スリランカの国花になっています。



入口に戻って、再び靴を履きました。



下りを始めようとすると、オオトカゲが現れました。インド・リクオオトカゲで、1m程の大きさがありました。普段はおとなしいですが、尾による攻撃はかなり強烈なようです。、



緩やかな階段が続きます。



もやっていましたが、シーギリヤ・ロックがそう遠くない距離に見ることができました。



参道には猿が沢山いました。犬もいましたが、特に喧嘩もしておらず、犬猿の仲というわけではないようです。



母猿の毛つくろいをする子猿。



下山を終えて黄金仏を振り返りました。



塗り直しを行っているようです。



制服の白い服を着た子供が行きかっていました。





スリランカでは、日曜日学校が開かれて、道徳の授業が行われています。これは仏教関連施設ですが、キリスト教などの他の宗教でも日曜学校が開設されているとのこと。



日曜学校用に、立派な施設が設けられていました。



バスに乗ってキャンディに向かいましたが、車窓からも、お寺の前庭で子供たちが授業を受けているのが見えました。



少し走ったところで、スパイス・ガーデンに立ち寄りました。ダンブッラ周辺には同じような施設が幾つもあるようですが、私たちが寄ったのは、リージェントスパイスガーデンでした。

スパースガーデンというので、植物園あるいはスパイス農園というものを予想していたのですが、期待はずれのものでした。

駐車場脇の木の下で、木からとれるオイル類の説明が始まりました。



ココアは食用ですが、ここでは、アーユルヴェーダーに用いられる薬草やオイルの商品説明が続きました。



木の植えられた園内もそう広くはありませんでした。



あずまやに移って、脱毛クリームの実演も行われましたが、ツアーの年齢層からいったら脱毛よりも増毛の方が必要だろうと内心でつぶやきました。

商品番号と説明の書かれたプリントが配られました。薬効をうたっているものもあり、成分もはっきりせず、日本では薬事法的に認められないでしょうね。

アーユルヴェーダーとは「生きる知恵」という意味の伝統医療です。健康のバロメーターの一つであるスリランカの平均寿命はどうなのだろうと疑問がわいてきました。WHOの2015年の統計によれば、スリランカは194国中68位。日本とスリランカの間には9才ほどの差があります。平均寿命には医療体制、経済、食習慣などが複雑にからみあっていますが、このデーターからみてアーユルヴェーダーの効果を信じることは私にはできません。

ここのスパースガーデンで昼食をとりましたが、ビュッフェスタイルの料理は、他と同じカレー味で、肉料理がなかったのが唯一の特徴でした。単に安く済ませているともとれます。

さすらいの風景 キャンディ その1

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キャンディに到着して、まずトイレ休憩を兼ねて衣料品の店に寄りました。スカーフやサリーなどを売っていましたが、Tシャツが激安だったので買いました。

道路が混雑している中心部に入って、まずはキャンディ・マーケットを見学しました。



マーケットは中央が吹き抜けになった二階建てで、下が食料品で、上は衣類関係が売られています。ツアーでは、一階部分を見学しました。



南国のフルーツに目がひきつけられました。

パイナップルが山積になっていました。



不明。



マンゴー。



バナナは何種類もありました。



下は、ランブータン。



スターフルーツ。



スイカ。



マンゴスチン



きれいに果物を積み上げている店もありました。



ココナッツ。



不明。



多くの種類の野菜が売られていました。







バナナの花で、サラダに使われるようです。



肉を扱うコーナーもありました。羊肉のようです。

スリランカで広まっている仏教では、食物に関するタブーはそれほど多くは存在しませんが、土着の精霊信仰、迷信、ヒンズー教の影響も強く受けていて、食肉に関する禁忌事項も多くなって、牛や豚肉を食べない人は多いようです。



鶏肉のようです。



キャンディは内陸部にありますが、生魚が並んでいました。



干し魚が多く売られているのに目がひきつけられました。



スリランカでは、日本以上に干し魚が料理に使われているようです。





主食が米であるため、多くの種類の米が売られていました。



スパイス類のようです。



ジンジャーかな。



不明。



水牛のヨーグルト。



お菓子屋。





煙草類の店。噛み煙草のような嗜好品のキンマが売られていました。



キンマの葉に、ビンロウジを薄く切って乾燥させたものと水で溶いた石灰を塗り、これを口に含み噛みます。アルコールに酔った様な興奮を催し、ビンロウジには依存性があることから何回も用いると次第に手放し難くなるといいます。

噛んでいる間に渋みが広がり、大量に口中に溜まる唾はビンロウジの赤い色に変わりますが、そのツバを吐き出すために、不潔な習慣とされて廃れつつあります。



マーケットを出てバスを待っている間に見えたクラッシクな建物は、刑務所跡とのことでした。

さすらいの風景 キャンディ その2

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キャンディ・マーケットに続いては、仏歯寺を見学しました。キャンディの街の中心地といえるクイーンズ・ホテルの前で車を降りました。クイーンズ・ホテルは、1895年創業のイギリス統治時代を忍ばせるコロニアルスタイルの老舗ホテルで、ベラヘラ祭りの際には、ここが見学の一等地になります。



クイーンズ・ホテルの前が仏歯寺の入口ゲートになります。ここでは、靴はまだ履いたままで良いのですが、簡単な持ち物検査があります。



入口からは直線的な参道が設けられています。仏歯寺が見えていますが、その手前にある子供の像は、キャンディ王国終焉の際の悲劇を物語っています。



台座には、見落としたのですが、「ライオン・ハートのチャイルド・ヒーロー、ムッダマ・バンダラ、9歳 1814年5月17日、処刑者の刃を前にして、怯える兄に向い『兄さん怖れないで、僕がどんな風に死に向かうのか見せてあげる』と言った」と書かれているようです。

まず、キャンディ王国の歴史を振り返ってみましょう。

シンハラ王朝は、紀元前にアヌラータブラに最初の都を設けましたが、南インドからの侵略を受けて南に遷都を繰り返すことになりました。ポロンナルワなどを経て、1474年にキャンディに都を移すと一応の安定が得られました。しかし、近代に入ると外国からの圧力を受けることになりました。1505年に植民地支配を始めたポルトガルは、キャンディ王国から分離した西海岸のコーッテ王国を滅ぼした後に、キャンディ王国を正当な王権として認めました。しかし、香料貿易の利権を巡って対立するようになると、キャンディ王国は、植民地支配を狙っていたオランダと組んでポルトガルを追放しました。オランダは、はじめキリスト教を広める一方で仏教も保護する政策をとり、この政策の下でキャンディ王国は繁栄を極めました。しかし、ポルトガルと同じように貿易権を巡って対立するようになり、キャンディ王国は、今度は当時インドを支配していたイギリスと手を結んでオランダを追放しました。

しかし、コロンボ周辺を支配していたイギリスは、セイロン島で唯一残された独立王国のキャンディ王朝に対し強硬な政策をとり、1815年には、王朝に起こった内紛に乗じてキャンディ王朝を滅ぼして全島を植民地化してしまいました。

この子供の像は、キャンディ王朝滅亡のきっかけになった内紛の際に起こった悲劇に基づくものです。

キャンディ王国最後の王、スリー・ウィクラマ・ラジャシンハは、キャンディ王朝が既にイギリスの政治介入で黄昏時にあった19世紀のはじめ、18歳で戴冠しました。しかし、宮廷内は、
結束するどころか親族や大臣、族長たちが王位と利権を狙う蛇の巣になっていました。前前国王のスリ・ラジャディ・ラジャシンが非常に知的で聡明な人物だったせいもあり、無名の若い王子はいかにも頼りなさげに見られ、野心家であった大臣が、彼の傀儡として王子を使うために王に選んだとも伝えられています。

大臣はキャンディ・イギリス側双方に暗躍し、互いに戦争を始めさせるように工作活動を続け
、ついに20歳そこそこになったばかりのスリ・ヴィクラマ王に宣戦布告させるまでに至りました。この戦争は12年間続く長く陰惨な争いになり、キャンディで王座を巡る虐殺が繰り広げられました。

自身の領地で非常に尊敬されていた有力な領主アハリポラが反乱を起こすと、王はそれを制圧し、彼を処刑するため追跡しますが、アハリポラはコロンボのイギリス占領地内に逃げ込んでしまいます。

スリー・ウィクラマ・ラジャシンハ王は兵をアハリポラの家族のもとに向かわせ、領主の妻、赤ん坊を含めた3人の子供を拘束し、イギリス側に領主を引き渡すよう通告しますが、3週間たっても返事がなかったため、処刑が行われてしまいました。

この像は、兄弟が処刑される際に発せられた言葉を現したものです。男子兄弟は、斬首あるいは臼ですりつぶし殺されと言われており、母と小さな娘二人は重りをつけてキャンディ湖に沈められました。この残酷な家族の処刑が、民衆の心を王から離れさせる決定的な契機になったといいます。

家族を殺されたアハリポラは、イギリス軍にキャンディを攻撃するよう説得し、1815年、イギリスはキャンディを王の暴政から解放するとして進軍し、キャンディ王国は終焉を迎えました。拘束されたスリー・ウィクラマ・ラジャシンハ王は、処刑されることなく、数多くの南インドの権力者が収容されたインドのベロールフォート砦に送られ、そこでわずかな生活費を支給され52歳で世を去りました。

なお、アハリポラはイギリス支配下で重用されましたが、二年後に起きた大反乱の首謀者として囚われて、最後はイギリス統治領のモーリシャスで亡くなりました。

仏歯が収められた仏教の聖地で、このような悲惨な処刑が行われたのは、歴史の皮肉としかいえません。



参道脇に、ホウガンボク(砲丸の木)がありました。名前の通りに、砲丸のような大きな実がついていました。この木は、サラの木とも呼ばれ、サラ(沙羅)は、日本では沙羅双樹として知られています。二本並んだ沙羅の木の下で釈尊が入滅したことから、沙羅樹は沙羅双樹とも呼ばれるようになっています。

釈迦が生まれた所にあった無憂樹、釈迦が悟りを開いた所にあった菩提樹、釈迦が亡くなった所にあった沙羅双樹は、仏教三大聖樹とされています。



サラの木(ホウガンボク)の花。

沙羅双樹については、「齢80歳でブッダがクシナガールの地から涅槃に向かったとき,彼は二本の「沙羅の木」の間に横たわっていた。ブッダの入滅の際,周囲の沙羅の木は一斉に薄い黄色の花を白く変えた。」という言い伝えがあります。

平家物語の有名な冒頭の「祇園精舎の鐘の聲(声)、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。」も、この言い伝えに基づいています。

ただ問題なのは、ホウガンボクは日本では育たず、日本では代わりに白花を咲かせるナツツバキが沙羅の木とされています。さらに本家のインドでは、白い花を咲かせるフタバガキ科のサラの木が沙羅の木とされています。タイでは、スリランカと同じくホウガンボクが沙羅とされていますが、これは、仏教とともにスリランカから伝わったようです。

話はややこしくなっていますが、国によって沙羅の木が異なるのも興味深いところがあります。



参道の途中で足が止まりましたが、仏歯寺の前にやってきました。



入口には、八角堂が設けられています。



お馴染みになった像が飾られていました。



仏旗が並んでいました。



脇の小屋で靴を預けて、裸足になって入場します。



入口の両脇には、通常ならばガードストンが置かれているところですが、象のレリーフが飾られていました。



入口の階段下にはムーンストーン代わりの半円状のレリーフが置かれていました。



階段を上ったところに、ガードストーン風のレリーフが飾られていました。



仏歯寺の周囲には堀が巡らされていました。戦の際の防御施設としての役割もあるのでしょうか。



入口から入るとホールが設けられていました。



キャンディで行われるペラヘラ祭りの際には、ここまで象が入ってきて、一段上のテラスから仏歯を入れた舎利容器を象の背に載せるようです。



壁には、ペラヘラ祭りの様子を描いた絵が飾られていました。

ペラヘラとは、祭りの際に、ご神体を担うか象の背中に載せて行進することをいいます。特に7~8月にキャンデで行われるペラヘラ祭りは、仏歯寺に保管されている仏歯を舎利容器に入れて象の背中に載せ、数多くの踊り手や100頭にもの象も参加して行進することから、スリランカを代表するお祭りにになっています。

この絵では象の他に、縄や火の演技をする人や楽団が描かれています。





ご神体の仏歯を載せた象が描かれています。



ペラヘラを構成する人々は、ムチ打ち、旗持ち、太鼓奏者、象厩舎長、ダンサー、副在家総代、仏歯寺の象、在家総代、ウェスダンサー、キャンディ王国の各守護神殿総代、ラーンドーリと呼ばれる輿など多岐に及ぶといいます。宗教・政治それぞれの権威に交じって、音楽や踊りを受け持つ者も一緒に行列するところが特徴になっています。



絵からもペラヘラ祭りの盛大さがうかがわれます。

仏歯が行列に加わるようになったのは、1775年以降で、それ以前はキャンディに祀られていた国の四大守護神、すなわちナータ(弥勒菩薩)、ヴィシュヌ(スリランカと仏陀の守り神とされるヒンドゥー神)、カタラガマ(ヒンドゥー神シヴァの息子ムルガン)、パッティニ(疫病を祓う女神)をを中心とする祭祀であったといいます。
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