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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 ソン・クル湖 その7

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カルマク・アシュー峠での見学を終えて、再びバス移動を続けました。



谷へと九十九折の道が続いています。



峠付近は、谷の突き上げの草原が広がっていました。



下っていくとお花畑が現れたので、再び停車。



フウロの大群落が広がっていました。





日本の山で一般的に見られるハクサンフウロとは少し違っています。



ウサギギクと似ています。



アザミの仲間でしょうね。

















再びバス移動を続け、谷間に下ってきたところで、再び停車。停車を繰り返していますが、ガタガタ道が続くため、バスを降りてひと息入れる必要もあります。



白き峰々も遠くなりました。



道路脇の川岸で花の観察。



フウロの仲間。



メタカラコウに似ています。



ロゼット状に広がる植物がありました。



白い花も咲いていました。



マイクロバスからアルマトイから乗ってきた観光バスに乗り換え、昼食のためにコチコルに向かいました。コチコルの民宿で昼食をとった後は、一路ビシュケクへ向かいました。

翌日にアルマトイで市内観光を行う予定は残っているものの、キルギスでの自然紀行はここまでになりました。

出かけてきます

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紅葉の季節ですね。
しばらく留守します。

戻ってきました

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10月12日(月)から19日(月)までの8日間の日程で、中国・九寨溝。黄龍他を訪れてきました。天候には恵まれて絶景を楽しむことができました。

あと少し残ったキルギスの旅行記の後に続けますので、お待ちください。。

さすらいの風景 キルギス民族音楽

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ビシュケクの夕食では、キルギスの民族楽器の演奏が行われました。

私たちグループが入った部屋の壁には、民族楽器のコムズが飾られていました。



楽団「ダズダン」の四名が演奏してくれました。部屋が狭いので、演奏する方も、聞くほうも少々窮屈です。



最初に「シャットク(盛り上がる曲)」が演奏されました。

演奏楽器の紹介ですが、左から「チョポ・チョール」という土笛。



二人の女性が演奏するのは、キルギスの代表的民族楽器のコムズ。三弦で、指ではじいて演奏します。



「ドブルバ」と呼ばれる片面太鼓。



続いて「オースコムス」という寂しいという意味の曲。

小型の土笛に持ち帰られていました。



「オオズ・コムズ」という口琴が演奏されました。





次の曲では、「シビズギ」と呼ばれる横笛が用いられました。



やはりキルギス音楽では、三弦の琵琶であるコムスが演奏の主役になっています。



琵琶の原型は、サーサーン朝ペルシア遺跡から出土する工芸品の浮彫り装飾などに見られる「バルバット」と呼ばれる楽器とされています。古代においては、四弦系(曲頚琵琶)と五弦系(直頚琵琶)がありましたが、後者は伝承が廃絶し使われなくなってしまいました。正倉院の宝物として有名な「螺鈿紫檀五絃琵琶」は、五弦系(直頚琵琶)の唯一の残された現物になっています。



コムスを伴奏にした歌もすてきでした。

演奏曲目のリストを書くと

1 シャットク(盛り上がる曲)
2 オースコムス(寂しいという意味)
3 キルギスの女性の歌
4 タンブルブル(鳥の名前、女性二人で演奏)
5 羊の世話をしていた時の歌
6 あなたへ
7 上を向いて歩こう
8 馬に乗ってゲームをする時の曲
アンコール 子守歌

最後の子守歌は、こちらからリクエストしたものですが、日本の子守歌にも似た優しく美しい曲でした。もし、この楽団の演奏を聴く機会があったらリクエストしてみると良いですよ。



「馬に乗ってゲームをする時の曲」では、馬が疾走する情景を表現するために、胴をたたいて蹄の表現を行ったり、楽器の持ち方を変えての曲弾きが行われました。











楽器を肩に背負ったり、前に倒して演奏を行いました。このような曲弾きで思い出すのは、敦煌壁画に描かれ、敦煌の街のシンボルになっている「反弾琵琶像」です。現在では、琵琶を背中に回しての演奏を行える者はいなくなっているといいますが、この人達ならできそうに思えます。

敦煌の反弾琵琶像はこちら



コムスの演奏は、ギルギスでは一般的なもののようで、二日目のビシュケクにおける夕食のレストランで見かけました。



ただ、やはりポピュラー音楽の音楽の方が人気が高いようで、大音量の音楽でプロのダンサーをまじえて踊っていました。

この写真を撮るために近づいたところ、おばさんにつかまって、しばらく一緒に踊らされてしまいました。

ともあれ、キルギス人は音楽と踊りが好きなようです。

さすらいの風景 アルマトイ その1

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第8日目は、いよいよ帰国日になり、ビシュケクからアルマトイへ移動し、市内観光を行った後に深夜の飛行機に乗り込むことになります。

バスに乗って市内を移動すると、大勢の人が通りを歩いているのが目につきました。特に、イスラム教の祈りのためのキャップをかぶっている人が目立ちました。

この日(2015年7月17日)は、ラマダン明けの日でした。早朝から各地のモスクや広場で断食明けの礼拝が行われ、そのあと家族や親戚や友人宅を訪問して、無事に断食を終えたことを祝い合うようです。男性が目立つのは、女性は家で食事の準備をしているためでしょう。

キルギスでは、イスラム教の習慣は緩いようで、これまでの旅行の途中、制限はまったくなく、ラマダン期間中ということにも気が付きませんでした。旅行者や異教徒はラマダンに従う必要はありませんが、レストランなどでビールの提供がなくなるという経験をしたことがあります。



街角の食べ物をあつかうスタンドでも、客が集まっていました。



キルギスからカザフスタンへの通関も、行きと違って窓口は空いており、あっさり通過できました。もっとも、バスが手間取って、1時間近くは、路上で待つことになりました。

カザフスタンに入ってから、行きにトイレ休憩を行ったドライブ・インの食堂で昼食をとり、アルマトイに向かいました。

このような放牧風景も見納めになりました。



ラクダの像が置かれていました。

アルマトイの市内に入ると、とたんに車も多くなりました。



アルマトイの市内中心部に向かう前に、カザフスタン抑留者の墓のある墓地を訪れました。



日本人抑留者の埋葬場所は、一番奥にあり、墓地の管理人に案内されてしばらく歩きました。



道もダートに変わって、薄暗い感じになってきました。



こちらへと案内されて、雑草の茂った原に進みました。この右手は、ドイツ人抑留者の墓地になっています。



石碑の置かれた日本人埋葬地に到着しました。

旧ソ連に戦後抑留された日本人捕虜のうち、カザフスタンには約5万9000人の日本人が送られ、寒さや飢えで1500人近くが亡くなりました。アルマトイ市には201人が埋葬されているといいます。

日本人抑留者によって、元首都であったアルマトイ市内では、カザフスタン科学アカデミー、
カザフ・イギリス大学(旧国会議事堂)、国家警察本部(旧KGBカザフ本部)などが建設されました。

カザフにおける日本人抑留者の死亡率は2.5%と、ソ連全体の死亡率10%に比べるとかなり低い結果に終わりました。

これは、カザフスタンが比較的温暖であったことの他に、家族の元に生きて帰るために異国の地でひたむきに働く日本人抑留者に心を打たれたカザフスタン人が、パンやお菓子を恵んだり、自分の家にお茶に招待したりするなど、日本人抑留者に対して温かく接したことによるようです。



この石碑の日本語部をよく見ると、字体も稚拙で、文章もおかしなものになっています。日本語をあまり知らない現地の人が彫ったようです。



こちらは抑留会が設置したもののようです。



もうひとつ石碑が置かれていました。雑草に完全に覆われており、このように全体像を見るためには、雑草を除く作業が必要でした。

「第二次大戦後に当地で亡くなられた日本人抑留者の英霊を悼むとともに墓地改修を支援いただいたアルマトイ市並びに本墓地を守っていただいているカザフスタンの方々に感謝いたします。」と書かれています。



埋葬者の墓石ですが、雑草を払って、ようやく見ることができました。一区画に数人分の遺骨が納められているようです。



隣のドイツ人抑留者の墓地には、石碑が置かれていました。



ドイツ人墓地でも日本人墓地と同じ墓石が使われていました。



現地の人々のお墓を見ながら戻りました。

少し古い墓では、ロシア正教の八端十字架が置かれていました。



星型が取り付けられているのは、ソ連時代のもののようです。



この墓地はロシア正教信者の墓が主だといいますが、イスラム教徒と思われる三日月マークがつけられて墓もありました。



墓地の入口付近には、立派な墓が並んでいました。ソ連時代の高官の墓のようです。



これは、建設関係のお偉い人の墓のようです。

この後は、市内での観光を行いました。

さすらいの風景 アルマトイ その2

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アルマトイ市内に戻り、最初に泊まったホテル・OTRARにバスを置き、まずは中央バザールに歩いて向かいました。

残念ながら、バザールの中は写真撮影禁止。様々な食べ物が売られていました。特に肉類が豊富で、羊や鶏など種類毎にコーナーが分かれていました。興味深かったのは、馬肉が大々的に売られていたことでした。カザフスタンでは、遊牧民として馬の飼育も盛んであったことの名残りのようです。

土産物用にドライ・アプリコットを買いました。



続いて、パンフィロフ将軍率いる28人戦士の記念公園に向かいました。公園の入口には、大砲が飾られていました。



まずは、公園内にあるカザフ民族楽器博物館を見学しました。1908年に建てられた、釘を一本も使わない木造建築です。



国立民族楽器博物館にはドンブラ、コブズなどカザフスタンの民族楽器や各国の民族楽器が展示されていました。



公園の中央部に向かうと、大きなパンフィロフ将軍の像が現れました。

パンフィロフ将軍は、大祖国戦争(第二次世界大戦の対ドイツ戦)でモスクワ防衛に参加して戦死しました。この公園は、パンフィロフ将軍と将軍率いる28人の戦士を記念して造られたものです。



像の前には、永遠の火が燃えています。





広場の両脇にも、巨大な像が置かれています。





さらに進むと、ゼンコフ正教会が見えてきました。



ドーム状の屋根を持つ本堂の脇に尖塔が設けられています。



ロシア正教会ならではの、カラフルな色に飾られています。



観光もこの教会が最後になるため、じっくりと写真を撮ることにしました。







堂内に入ると、立派なイコノスタスが設けられていました。イコノスタスは、内陣と信者の礼拝所を区切る、イコンで覆われた壁です。



時間があったので、広場の脇に回ってみました。右手の尖塔部に入口がありますが、建物の全体像を把握するには、この方面からの方が良いですね。



別な出口から公園を出ましたが、ここにも大砲が置かれていました。

今回の旅では、キルギス観光が主で、カザフスタンについては、利用航空機の便の都合による簡単な観光で終わりました。ただ、アルマト宿泊後の朝、天山山脈の眺めを楽しむことができたので、一通りの観光ができた気がしました。

この後夕食をとった後に空港に向かい、特に問題もなく帰国できました。

さすらいの風景 カザフスタンン・キルギスの食 その1

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旅の大きな楽しみは、食事です。特にカザフスタンやキルギスといったあまり知られていないような国では、どのような食事ができるのか、楽しみとともに不安もありました。

これは、アルトマイ・OTRARでの朝食。ビュッフェ・スタイルで、通常の海外旅行におけるホテルと同等の食事ができました。ビシュケク・AK KEMEホテルでの朝食も同じようなものでした。

なお、暖かい飲み物は、ほとんどのホテルにおいて紅茶だけで、コーヒーはあってもインスタントコーヒーだけでした。



これは、チョンケミン・ASHU GUEST HOUSEにおける朝食。ゲストハウスということで期待はしていませんでしたが、手作りジャムや蜂蜜などでパンを美味しく頂きました。



この他にミルク粥も出ました。他のホテルでも出たことがありましたが、これはにがてです。



これは、ビシュケクのレストランでの夕食です。宴会風なテーブルセットでは、このようにパンなどを食卓いっぱいに並べるようです。



昼食や夕食では、前菜として一般的に、一皿は生野菜、もう一皿は炒めた野菜のサラダ二種が出てきました。(これは他のレストランでの写真)



他には、甘いチャクチャクも最初に置かれていました。

チャクチャクは、中央アジアの人々の間で作られる菓子で、発酵前のパン生地を油で揚げて、蜂蜜をかけたものです。日本のカリントウに似た味です。



いろいろな形のものがあります。



チャクチャクは気に入ったので、最終日に寄ったスーパーマーケットで売っていたので、土産に買って帰りました。



主食は、丸いナンでしたが、その他に揚げパンのボルソッコもよく出てきました。



六日目のカラコルからソンクル湖へ行く途中のユルタでの昼食の際に、ボルソッコの作る過程を見ることができました。



パン生地を延ばします。



まず短冊状、次いで長方形にカット。



油に投入。



膨れて狐色になったら完成。



できたてを食べさせてもらいましたが、美味しかったです。

ここまでは、キルギスの食事の共通点をならべましたが、以下は、それぞれのメイン料理です。



ビシュケクのレストランでの昼食。まず、スープ。



肉ジャガ。



ダパンジ。肉ジャガとうどんが分かれてでてきたので別々に食べたのですが、肉うどん風にして食べるようです。うどんだけでも美味しかったですがね。



ビシュケクのレストランでの夕食。メイン料理がなかなか出てこず、待ちくたびれた感じになりましたが、ジャイロミックス(ジャイロは放牧という意味)という、ユルタ風のパイ包みの中に肉のグリルが入っているという凝ったものでした。



パイ包みを開くと、中から肉が現れました。



ボリュームのある料理でしたが、待っている間にサラダ類でパンを食べてしまっており、ここまでで腹が満たされてしまっていたのは残念なことでした。



デザートのタルト。



ビシュケク二日目の昼食。まず、ショルボ(スープ)



レストラン名はプロフセンターということで、メインはプロフ。プロフは大皿で出されるので、見た目のインパクトがあります。

トルコ起源のピラウが、中央アジアに伝わってプロフになりました。イタリア料理のピラフもこの料理がもとになっています。

ウズペキスタンのサマルカンドで食べたプロフも、懐かしく思い出しました。

さすらいの風景 カザフスタンン・キルギスの食 その2

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ビシュケクを離れてからは、田舎料理あるいは家庭料理に近いものになりましたが、美味しく食べることができました。

チョンケミン・ASHU GUEST HOUSEでの夕食。

じゃがいものスープ。



鶏肉のハンバーグとそば粉の煮物。



チョンケミン・ASHU GUEST HOUSEでの昼食。

鶏肉のスープ。



スパゲッティ。



イシク・クル湖畔・ROYAL BEACHでの夕食。

レンズ豆のスープ。



スパゲッティ。

スパゲッティが二食続けて出てきたのは、少々がっかりでした。ASHU GUEST HOUSEの方がおいしかったし。



カラコルのレストランでの昼食。

ボルシチ。



マントゥ。

ロシアと中国の料理の組み合わせが不思議に思うかもしれませんが、中ソ国境近くに位置するカラコルの事情を反映しています。カラコルは、中ソの国境警備の軍事都市と栄え、また中国との国境から逃げてきたウィグル人やドンガン人(中国系ムスリム)も住んでいるため、両国の料理が普及しているようです。



カラコル・GREEN YARDでの夕食。

肉と野菜のカフカス。



デザート。



イシククル湖南岸のユルタでの昼食。

スープ。



オロモ(練って薄く延ばした小麦粉に油をまぶして肉や野菜の具を入れて巻き込んだものを、蒸したもの)。



ソンクル湖のユルタでの夕食。

ドゥンダマ。肉じゃがですね。



コチコルでの民宿での昼食。

スープ。



クルダク(牛肉とじゃがいもの炒め物)



ビシュケクのレストランでの夕食。

ラグマン。キルギス民族音楽の写真を撮りながらの食事だったので忙しかったです。



カザフスタンに戻ってからのドライブインでの昼食。

羊と牛のハンバーグ。

一般的な食堂での一品料理の例として、興味深いものでした。



ビシュケクでのレストランでの夕食。

スープ。



鶏肉炒め。



クレープ。

カザフスタンでの食事回数が少なかったため、ギルギス料理との差は判らずに終わりました。



西遊旅行社とキルギスの現地旅行社の差し入れのおかげで、スイカとメロンを堪能することができました。



大きめのメロンの方が、値段も少し高かったようですが、おいしかったです。



さしいれのブラックチェリー。奥の赤いチェリーは、コースとして出てきたものですが、ブラックチェリーの方が美味しかったです。



桃。



キルギスは、イスラム信者の多い国ですが、長年のソ連支配の影響もあってか、アルコールについては制約はありませんでした。

ビシュケクでの夕食でのことですが、ビールをたのむと、ジョッキに入れストローをさしてもってきました。キルギスでは、女性はストローをつかってビールを飲むということです。

大学生時代、新入生に酔いが回るようにストローでビールを飲ませたことを思い出しました。当時は金もなく、ビールがもったいないので、一緒に乾杯をすることはあっても、一気飲みなどはさせませんでした。



ロシアから入ってきているのか、いろいろなメーカーのビールがありました。



これは、珍しい1Lのペットボトル入りのビール。

チョンケミンのホテルでは白人グループも泊まっており、通常のビン入りビールが売り切れになってしまい、残るはこのペットボトル入りビールだけになってしまいました。醤油のボトルのようにも見えますね、



翌日の昼食も、仕方がないので、1Lのペットボトル入りビールになってしまいました。別なメーカーのものです。

昼から1Lもビールを飲めないので、他の人にも飲んでもらいました。

日本でも、2015年7月よりビール容器にペットボトルを採用したというニュースが流れましたが、これは通常のペットボトルと比べて酸素や炭酸ガスのバリア(遮断)性を向上させた三菱樹脂の「ハイバリアPETボトル」というものです。キルギスでそういった最先端技術のペットボトルを使っているとは思えませんが、味の方は、喉も乾いていたし、美味しかったです。







ビールをおいていないところもあって、添乗員さんが店に買いに行ってくれるというご迷惑をおかけもしました。



なぜか、トルコのエフェソスビールを出すレストランもありました。



カザフスタンでの最後の夕食は、大ジョッキ。昼食でビールを飲まなかったので、カザフスタン通貨のテンゲが余ってしまっていました。

今回のカザフスタン・ギルギス旅行では、最初のナンとスープ、サラダでかなり腹が膨れてしまいました。料理も素朴ですが、食べやすいものが多かったです。

さすらいの風景 キルギス・カザフスタンの土産

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キルギスというと馴染みも少なく、土産物も思いつかない状態ですが、それなりの買い物ができました。

カラコルのJICA支援の一品一村の店で買った、ユルタと山ヤギの親子、羊の置物。フェルト製です。



フェルトのチェアーマット。模様は山ヤギの角がモチーフになっています。



フェルトのスリッパ。



ビシュケクの国立博物館の売店で買った壁掛け。



アルマトイの空港で買ったフェルト製のポシェット。



民族音楽のCD。

上は、ビシュケクのレストランでの演奏時に買った楽団「ダスダン」のキルギス民族音楽。下段左は、カザフスタン・アルマトイの楽器博物館で買ったカザフスタン民族音楽。ロシア音楽なのか、かなりアレンジが入っています。下段右は、カザフスタン・アルマトイの中央バザール前の路上のCD売りから買った民族音楽。CDRにコピーしたMP3音源でした。開発途上国ではCDRの方が簡単に作れるので結構普及しており、これが正規なものかコピー品なのかは不明。



カザフスタン・アルマトイのスーパーで買ったナン。



キルギス・イシククル湖の露店で買った蜂蜜。かなりの量で、食べでがあります。



蜂の巣。



カザフスタン・アルマトイの中央バザールで買ったアンズ。そのまま食べても美味しかったですが、ジャムを作りました。



カザフスタン・アルマトイのスーパーマーケットで買ったチャクチャク。日本のおこしと同じような味で、美味しかったです。これはおすすめです。



クルダク(牛肉とじゃがいもの炒め物)のもとだと思うのですが。



カザフスタン・アルマトイのスーパーマーケットで買ったお菓子類。ロシアでお馴染みのメーカーのものも売られていました。下から二段目は、ばらまき土産にまとめ買いしましたが、ロールケーキ状で、かなり甘かったです。



カザフスタン・アルマトイの空港売店で買ったチョコレート各種。パッケージがカザフスタン風でした。

(これにて、カザフスタン・キルギス旅行記は終了。お付き合い頂きありがとうございました。次回より、中国・九寨溝黄龍旅行記を始めます。)

さすらいの風景 成田から成都

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政治問題や環境汚染によって、中国旅行には躊躇するところがありますが、それでも中国は見どころの多い国です。かねてから訪れたいと思っていた九寨溝・黄龍に、紅葉の季節を狙って出かけることにしました。

九寨溝・黄龍のツアーは、観光あるいはハイキングのどちらかに重点を置くものが催されており、選択に迷うことになります。観光の起点が成都になることから、三国志ファンとしては、諸葛孔明を祀り、劉備玄徳の墓のある武候祠はぜひとも訪れたいところです。

もう一つ考慮するべきは、日本から成都へは、ANAの直行便を利用するか、中華航空の北京乗り換えになるかという点。北京乗り換えは面倒なようで、やはり直行便を利用したいものです。

さらに成都から九寨溝への移動に、九寨黄龍空港までの飛行機を利用するか、バス移動を行うかという点。飛行機利用なら半日の移動で、午後は九寨溝の観光ができ、翌日のまる一日の観光と合わせれば、一日半の観光が行えます。ただ、この便は、欠航・遅延も多いようで、思わぬ計画変更に合う可能性も高いようです。バス移動は、まる一日かかりますが、その途中に、少数民族の街を見学できます。

結局、ANAの直行便で成都に移動でき、成都周辺の観光が充実した以下のツアーを選びました。

【九寨溝・黄龍・峨眉山・楽山8日間】(クラブツーリスト)

2015年
第一日目 10月12日(月)
 成田発 17:25(NH0947)成都着 22:20
(成都 芙蓉麗庭酒店泊)

第二日目 10月13日(火)
 成都から九寨溝移動(途中、松藩古城散策)
(九寨溝 千鶴国際大酒店泊)

第三日目 10月14日(水)
 九寨溝観光
 Op.チベット民族舞踊ショー鑑賞
(九寨溝 千鶴国際大酒店泊)

第四日目 10月15日(木)
 九寨溝から黄龍移動(途中、雪山梁子見学)
 黄龍ハイキング
 (茂県 国際飯店泊)

第五日目 10月16日(金)
 都江堰見学、成都観光(武候祠、錦里散策)
 (成都 芙蓉麗庭酒店泊)

第六日目 10月17日(土)
 成都パンダ繁殖研究基地、楽山大仏
 峨眉山・報国寺見学
(峨眉山 峨眉山華生酒店泊)

第七日目 10月18日(日)
 峨眉山観光
 (成都 芙蓉麗庭酒店泊)

第八日目 10月19日(月)
 成都発 09:05(NH0948)成田着 15:25

なお、日程表に含まれていた桃坪羌塞見学は、道路の土砂崩れによって迂回路に進んだために中止になりました。

写真は、帰国の際に成都の空港で撮影したANAの機体。成田空港は、ゲートの位置が悪く、写真が撮れませんでした。この写真からも、成都の大気汚染がひどいことが判ります。



成田に到着して集合時間まで待っていると、中華航空の受付カウンターが長蛇の列になっていました。北京行きのようですが、この列を見て、成都への直行便で良かったと思いました。10月1日から一週間続く国慶節も終わったところで、中国人旅行者も少なくなっていると期待していたのですが、甘かったことを後に思い知ることになりました。



ANAでは、事前に席のネット予約ができるのですが、ツアー会社の方で、あらかじめ通路側を確保していてくれました。2+3+2の座席配列のため、夫婦連れは窓側の二席が確保されていました。いつもこうしてくれるとありがたいのですがね。

搭乗ゲートの案内を見ると、成都はそのまま読めますが、英語表記のCHENGDUとなると、どこのことなのか思いつくことができません。



離陸して、30分ほどして、まずはドリンクサービス。



ANAでは、写真の載ったメニュー表で、料理を選ぶようになっていました。ウェスタン・オア・ジャパニーズとか、ミート・オア・フィッシュなどと聞かれるよりは良いですね。



「洋食屋さんのカツカレー」を選びました。カツが温めなおしでふやけているのが残念でしたが、美味しくいただきました。ビールもサントリーのプレミアムをゲット。

ドリクサービスと食事の間隔が短いため、二本のビールを続けさまに飲んで、酔いも回りました。



成田から成都へは、5時間55分のフライトなので、酔いが回ってひと眠りすると到着しました。



定刻に成都に到着。荷物の受け取り所脇には、パンダの人形が飾られていました。



空港から外にでると、暖かい空気が襲ってきました。今回の旅行では、訪問地ごとの気温の差が大きく、調整のできる重ね着が必要になりました。



成都の宿になる芙蓉麗庭酒店には、周辺の観光を行うため、一泊ずつ、合計三泊することになりました。

ホテルが中心部に出ることが難しい場所にあるのは残念でしたが、実際には夜歩きを行う時間はありませんでした。



入口のホールは、中国風に飾られていました。

ホテルは少し古びた感じはしましたが、寝るのに問題はありませんでした。



ホテルの売店では、夜も遅いにもかかわらず、ビール10元、水2元と紙に書いて売っていました。

部屋に入って落ち着いたところで、成田空港のコンビニで買ってきた調理パンとビールで夜食をとりました。

夕食が機内食という場合、ホテルに到着した時に腹が空いていることが多いので、軽く食べるものを用意することにしています。空港にコンビニがあるのは助かります。





帰国は問題なく終わったので、あわせて載せておきます。

成都空港の国際ターミナルは、こじんまりしており、搭乗手続きも比較的短時間で終わりました。

空港内の売店も、小型の店舗が並んでいました。



中国から離れて、ほっとひと息のビール。日本のビールが美味しく感じました。



帰りの機内食は親子丼を選択。



中華料理は慣れ親しんでいるはずなのですが、いつもの海外旅行以上に日本食が美味しく感じました。

さすらいの風景 成都から九寨溝へ その1

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6時のモーニングコールでしたが、外はまだ薄暗い状態でした。中国は、広大な領土を持っているにもかかわらず、標準時は一つに統一されているため、西に行くほど夜明けが遅いことになります。この明るさからすると、1時間遅れの5時頃といった感じです。

さらに大気汚染もひどく、少し遠くのビルは霞んでいます。

成都の気候については、「蜀犬(しょっけん)日に吠(ほ)ゆ」(略して蜀犬)ということわざがあります。これは、蜀は山地で雨の降ることが多く、太陽の出ている時間は少ないので、日が出ると犬が怪しんでほえるということに由来し、転じて「無知のために、あたりまえのことに疑いを抱く」たとえになっています。

雨も降らないのにどんよりともやっているのは、大気汚染によるものですが、中国人は、これがあたりまえと思っているようです。まさに蜀犬状態といってよいでしょう。



ホテルを出発する時は、道路は空いていましたが、すぐに通勤ラッシュに遭遇するようになりました。車も多いですが、ものすごい数のバイクが走っていました。



成都を離れると、やがて岷江沿いの走行になってトンネルが連続するようになりました。



険しい渓谷沿いの道になりました。



対岸の崖に「5.12ぶんせん特大地震 原国道213線遺址」という看板が現れましたが、これは日本では「四川大地震」と呼ばれる地震の災害跡を示すものです。2008年5月12日にぶんせん県で起きたマグニチュード8.0級の大地震によって、死者は6万9197人、負傷者は37万4176人にのぼり、1万8222人がなおも行方不明となっているといいます。インドプレートとユーラシアプレートのぶつかり合いによって、この地方では、度々大地震が起きています。この地震では、家屋だけでなく、耐震基準の甘さと手抜き工事の横行によって学校の倒壊が起きて、生徒に多大な死者がでてしまいました。

現地ガイドの話によれば、成都ではほとんど被害は出ず、これは成都が盆地の中の砂地の上にあるので、地震の衝撃が和らいだためだと説明していました。地震の際の液状化現象というものを知らないのかなと、この現地ガイドの説明に疑念がわいてきました。帰国後の日本では、マンションが傾いたことから、基礎杭が岩盤まで届いていないケースが続々と現れて大騒ぎになっていますが、日本でもこのありさまでは、中国の建物では基礎杭はきちんと打たれていそうにもありません。願わくば、この旅行中に地震が起きませんようにと祈るばかりでした。



看板のすぐ先の土砂崩れ現場。いかにも崩れそうな崖が広がっています。日本だったら普通のコンクリート吹き付けや落石防止ネットの跡が見られません。地震後の復旧で、対岸に新しく道路が開かれていますが、崖についてはあいかわらず放置のままです。

危ない道だなと思ったところ、心配が現実になってしまいました。成都への戻りの時には、土砂崩れによって大迂回することになり、この道は走ることができませんでした。



地震による被害によって集落全体が移転することになって、道路沿いに新しい建物が続くような所も結構ありました。



この地震の被害地では、壊れた建物と新しい建物が隣り合っていました。



岷江沿いのレストランでは、鯰料理の看板を出したレストランが多く見られました。



比較的大きな町を通過しました。新しい建物ばかりで、古い建物は地震ですべて破壊されてしまったようです。



民族衣装を着た人を見かけました。この地方には、羌族(ちゃんぞく)と呼ばれる少数民族が暮らしています。



一回目のトイレ休憩。長時間のドライブとあって、2時間弱ごとにトイレ休憩となります。このトイレはまだましでしたが、中国奥地では、まだニーハオ・トイレといったものが残っているので、体調管理には注意を払う必要があります。許されるなら青空トイレといったものの方が、まだましです。



険しい渓谷沿いの道が続きます。



塔が立ち並ぶ集落が現れました。これは、羌族(ちゃんぞく)の集落で、見張り塔として建てられたものです。



羌族(ちゃんぞく)は、漢代から続く古い民族です。三国時代には、魏と蜀の国境地帯で勢力を保ち、魏あるいは蜀に時の趨勢によって従いました。唐の時代には、羌族の中のタングート族が西夏を建国しますが、チンギス・ハーンの勃興時に滅ぼされた以降は目立った政治活動は見せることのないまま現在に至っています。

現地ガイドから、蜀の五虎大将軍の一人である馬超は羌族であったと説明を受けましたが、違和感を覚えたので、調べてみると少し違っていました。

馬超の父は馬騰。馬騰は、馬超が曹操に対して反乱を起こしたことによって処刑されたことから良く知られています。この馬騰の父が馬平。馬平は、家が貧しく妻がなかったため、遂に羌の娘を娶り馬騰が生まれました。馬超に羌族の血が入っていることから、漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かったといいますが、この血統からは羌族とはいえないでしょう。正確な説明をしてほしいものです。三国志については、中国人よりも日本人の方がこだわりが強いようです。



羌族の建物の特徴としては、見張り塔の他に、屋根の四隅に三角形のつの状の飾りを取り付けるという点があげられます。



新しく再建された建物でも、羌族の建物の特徴が再現されていました。



車窓から見かけた羌族の集落。城塞都市といった趣です。

これらは、○○羌塞と呼ばれ、観光の対象になっているようです。予定では、桃坪羌塞を成都への戻りの際に見学することになっていましたが、道路の土砂崩れによる通行止めによって見られずに終わってしまいました。

車窓からいくつもの羌塞を見ることができたので良しとしましょう。バス移動であったから見ることのできた風景です。



丘の上に建つ羌族の見張り塔。



おそらく羌族の女性。



茂県を過ぎたところで、昼食になりました。この国際飯店は、黄龍見学後に泊まることになります。

さすらいの風景 成都から九寨溝へ その2

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茂県のホテルでの昼食後、再び岷江沿いのドライブが続きました。



茂県に入ると、川幅が広がって、畳渓湖(畳渓海子)が現れました。この湖は、1933年8月25日に起きたマグニチュード7.5の強い地震(茂県地震、畳渓地震)によって川がせき止められてできました。

湖のでき方は別にして、美しい風景が広がっているため、道路沿いにはドライブインのような休憩所が幾つも設けられていました。



その一つに停車。トイレ休憩も兼ねています。



道路を渡った先の湖を見下ろす広場では、真っ白なヤクが並んでいました。



有料ですが、乗って記念写真を撮ることができます。ヤクはおとなしいようでほとんど動かず、ぬいぐるみのように見えます。



店先では、ドライブルーツやナッツ、果物を売っていました。



行きでは買い物をする気が起きなかったのですが、帰りに寄った時は、土産用のドライフルーツと、夜食に食べるリンゴを買いました。朝食では果物も少しはあるのですが、昼食や夕食に生野菜や果物は出てこないので、栄養バランスを考えて果物を補給することにしました。



畳渓湖(畳渓海子)の上流部で、再び川幅は狭まりました。



見張り塔が現れましたが、その周囲の民家の形が羌族(ちゃんぞく)のものとは違ってきていました。



屋根は瓦葺で、これはチベット族の建物のようですす。



渓谷を取り巻く山も険しさを増してきました。





瓦葺の家が並んでいます。



突如といった感じで、橋脚の列が現れました。これは、成都と九寨溝を結ぶ高速鉄道のもので、さらに蘭州へ延びるようです。2017年に開通予定とのことで、この鉄道が開通すると、成都から九寨溝へは二時間半ほどで移動できるといいます。

中国人ガイドが、中国の高速鉄道は、距離は世界一、速度も日本を抜いて世界一と自慢げに説明を始めました。パクリ新幹線の自慢かいとひややかに聞くことになりました。

鉄輪式世界最高速度の記録は、フランスTGVの特別編成列車による574.8km/h。磁気浮上式なら、日本の603 km/h。営業運転なら、日本の新幹線、フランスのTGV、ドイツのICEが320 km/hが、現在のところ最高速度になっています。

中国の高速鉄道は、パクリ元の車両が400km/h以上の最高速度を達成していることから最高時速350km/hで営業運転を開始しましたが、2011年7月の衝突・転落事故後に安全のために300km/hにおさえたといういきさつがあります。しかし、周辺国への高速鉄道技術の輸出をにらみ、技術力の“高さ”を最高速度アップによって誇示するために、再び350km/hにアップする計画が持ち上がっているようです。

四川省のような地震の多発地帯での中国高速鉄道の安全性はどうなのでしょうね。東日本大震災発生時には、早期地震検知システムが地震を検知して列車を停止させましたが、中国でそのようなシステムが導入されるとは思えません。



鉄道建設の資材のための工場のようです。ただ、2017年に開通予定というには、ひっそりしています。ドライブ中にも、工事用トラックには出会いませんでした。

銀行資金がひっ迫して、中国の高速鉄道の工事は中断しているというニュースもネットの検索で出てくるので、この建設現場も鬼城(ゴーストタウン)化するのだろうか。



民家の間にチベット仏教の仏塔や旗が見えていました。



これはチベット仏教のお寺と思って撮影したのですが、写真を良く見ると、屋根の上の飾りに三日月が取り付けられていました。イスラム教のモスクの清真寺のようです。ピントが甘くて判りにくいですが、塔に掲げられた額に「清真古寺」と書かれています。



この中国風の塔はイスラム建築でいうところのミナレットで、ここから礼拝の呼びかけのアザーンが流れるのでしょうか。

さすらいの風景 成都から九寨溝へ その3

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車窓を眺めていると、丘の上に延びる城壁が見えてきました。



町を囲む城壁も現れました。



松藩古城に到着しました。地図を確認すると、これは東門です。



バスを降りて、松藩古城の見学に向かいました。



北門の前の広場には、ソンツェン・ガンボと文成主の像が置かれていました。像の周りは観光客で大混雑になっていました。いかにも新しく作られた像というのが少し残念です。



7世紀の初めにチベット(吐蕃)を統一し、唐帝国と対抗したソンツェン=ガンポ王は、唐に対し公主(皇帝の娘)との婚姻を要求しました。唐の太宗(李世民)がそれに応じなかったため、638年に唐の国境を攻撃しました。641年に太宗は、懐柔のため、ソンツェン=ガンポに文成公主(皇帝の娘を公主と言いますが、この場合は実の娘ではありません)をチベットに降嫁させたました。

そのような公主を和蕃公主といい、匈奴の単于に嫁いだ同じく漢の元帝の時の王昭君などが有名ですね。

ソンツェン=ガンポは王位を子のグンソンに譲っていたので、文成公主はグンソンの王妃になりました。ところがグンソンは落馬がもとで若くして死んでしまい、ソンツェン=ガンポが王に復位しました。チベットやモンゴルでは、先代の王の妃は次の代の王の妃となる習わしがあったため、文成公主は今度はソンツェン=ガンポの王妃となりました。

文成公主の降嫁に伴い、中国の技術者もチベットに移り住んだことから、中国の文物がチベットにもたらされ、とりわけ仏教を崇拝した文成公主はラサに寺院を建てチベットに中国の仏教を伝えました。

ソンツェン=ガンポは、もう一人の妃をネパールから迎えており、彼女はネパール(インド)の仏教を伝えました。こうしてチベットには中国とインドの仏教が混合した独自のチベット仏教が成立することになったといいます。

このような像が置かれているので、松藩古城にソンツェン=ガンポと文成公主が住んだのかと思ってしまいますが、「王の使いが文成公主への挨拶に向かうためにここを通ったと言われています。」ということだけのようです。



北門には、「松州」という額が掲げられています。

松藩は古くから争奪戦が繰り返された要衝で、618年の唐代に、この地に松州が置かれました。その後は、少数民族との茶馬貿易の集散地として栄えてきました。

城壁と城門は古びて歴史を感じさせます。



門の入口には、騎馬兵士の像が置かれていました。



城壁の上にも像が置かれていました。



城門から入場しますが、城壁はかなりの厚さを持っています。



城内に入ると、メインストリートが延びていました。



偉い人のようですが、名前は不明。



北門を振り返ったところ。



自由時間になりましたが、30分ほどなので、軽く見て引き返す必要があります。



通りに面して並ぶ建物は、新しく建築されたもののようです。1976年四川松潘地震や2008年四川大地震の被害から再建されたものなのか、観光開発されたものなのかは判りません。



土産物屋の店先で目立つのは、大きな毛皮です。犬の毛皮ということですが、かなりの大型犬ですね。



一番奥まで行ってみたいところですが、時間が足りないようです。



中央部の十字路で引き返しました。



通り沿いには、漢方薬店が目立ちました。



店先にでひときわ目立っていたのは、このヒトデ状の物体でした。冬虫夏草とのこと。

冬虫夏草は、蛾の幼虫に寄生するキノコの一種で、漢方の生薬や、薬膳料理・中華料理などの素材として用いられます。非常に高価なもののようです。

犬の毛皮にしても冬虫夏草にしても、日本への土産としては、買う気がおきません。



再び走り出すと、通り沿いにはヤクの干し肉を店頭に並べた店が目立ちました。



新しそうなイスラム教のモスクも現れました。



道路沿いには、「海抜3000mヤク肉」と書かれた宣伝が掲示されていました。ヤクが多く飼われているようです。



険しい岩山も見えてきました。樹林限界を越しているようです。



チベット仏教の寺も現れました。



高山帯に見られる湿地も現れてきました。



松藩古城を出発して走るうちに標高3000mを超えたようで、周囲の山も高山の趣を見せてきました。この付近にある四川九寨黄龍空港は、標高3500m近くあるようです。飛行機を使って一気に標高3500mの高地に降り立つと高山病の症状がでるのかもしれませんが、バスを使って徐々に高度を上げているので、体調に変化はありませんでした。



九十九折りを繰り返す一気の下りになりました。



車道脇に民家が現れるようになると、巨大な仏像が現れて、驚かされました。



えらくケバケバしいところにやってきたと思ったら、これは新しくできたテーマパークのようなもので、九寨溝の入口までは、もう少し走る必要がありました。さすがに世界遺産の九寨溝の入口付近には作れなかったようです。(写真は、4日目に九寨溝から黄龍へ移動する際の朝に撮影したもの)



九寨溝のホテル地域に到着すると、ヤクの角を売る土産物屋が目に飛び込んできました。

ホテルまであと僅かというところで、渋滞に巻き込まれました。九寨溝の観光を終えて帰る観光客を乗せたバスで渋滞が起きていました。

成都から九寨溝への丸一日のバス移動でしたが、幸いなことに通行止めのようなアクシデントもなく終えることができました。

さすらいの風景 九寨溝 その1

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8時間、総走行距離480km、丸一日のバス移動で、成都から九寨溝に移動することができました。長時間でしたが、渋滞や通行止めにも合わず、順調なドライブでした。

九寨溝のホテルは、千鶴国際大酒店でした。



昼間の写真。

九寨溝では、山合いの谷間に沿った道路沿いにホテルが並んでいます。



ホテル入口のホール。中国の僻地ということを考えれば、そこそこに良いホテルでした。九寨溝では、人気の観光地ということで、ホテルの整備が進んでいるようです。



ホテルでの夕食を終えて部屋に戻ったのがまだ8時であったので、夜歩きに出かけました。

メイン通りは薄暗かったものの、内側で平行に走る道に進むと、商店やレストランが並んでいました。



派手なネオンサインが中国的です。





レストランの店先には、生きた魚や鳥が置かれていました。



驚いたのは、吊るし切り状態の肉の塊でした。



大きな角を持った頭がついているので、ヤクでしょうか。



別の店でも、肉が吊るされていました。食欲をそそるための展示のようですが、日本人は逆にひいてしまいますね。



果物屋。



種類も豊富でした。



アクセサリーの露店も並んでいましたが、時間の関係もあってか、買い物客はおらず閑散としていました。



ヤクの角を使った装飾店もありました。

翌日は、メインの九寨溝観光。しっかり寝て、明日に備えることにしました。

さすらいの風景 九寨溝 その2

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紅葉の盛りということで大勢の観光客が訪れるため、九寨溝の入口付近での乗客の乗り降りは禁止されており、観光バスは少し離れた駐車場に停めて、そこから歩くことになっていました。泊まったホテルは、その駐車場からさらに少し遠い所にありますが、バスに乗っても乗り降りに時間がかかるだけという微妙な距離のため、ホテルから歩き出すことになりました。

歩いていくうちに観光客の団体で混雑するようになってきました。

施設の入口が見えてきたので、ゲートに到着かと思ったら、観光客を誘導する土産物屋街でした。道路脇の歩道は、ここだけ無くなっており、この土産物屋街を通らなくてはならないようになっていました。行きはともかく、帰りは観光客で押し合いへし合いになっており、買い物どころではなく酸欠状態が心配になりました。



公園の入口まではもうひと頑張り。



遊歩道脇には川が流れていましたが、九寨溝から流れ出る水は真青で、道路沿いに流れてきた茶色の水と色が違うのは印象的でした。



35分ほど歩いて公園入口に到着すると、この大混雑状態を目にしました。えらい所にきてしまったと思いました。10月初めの国慶節の連休は終わっているのにもかかわらず、予想以上の大混雑です。それでも、九寨溝では入場人数を毎日2万8000人に制限しているといいます。この数が適切なものかは判りませんが。

中国人ガイドが切符を買ってくる間にトイレをすませました。

ところで、ここで気になったことは、切符を買うために、中国人ガイドがパスポートを集めてもっていったことでした。中国では、ホテルにチェックインする際にパスポートの提示が必要になりますが、切符を買うのにも必要なのかと不思議に思いました。この後の旅行中、切符を買う際には毎回パスポートを集めていき、ゲートを通過すると、切符を回収していました。

中国の観光地では高齢者料金の設定があって、切符を安く買えることが、ネット上の情報などで判りました。九寨溝の入場料は、通常期220元(1元は約20円)ですが、60~69歳の人は110元、70歳以上は無料のようです。記念にと返してもらった切符にも110元と記載されていました。今回訪れた観光地における高齢者料金の有無ははっきりとは判りませんが、峨眉山でも一般は185元、60~69歳は90元、そして70歳以上は無料となっているようです。

私の場合でも、九寨溝と峨眉山だけで、4000円ほどが浮いている勘定です。これだけの差額があるとなると、ツアー料金も、高齢者の場合には割引になって当然と思えます。

この差額が、中国の旅行会社に入るのか、中国人ガイドの役得になるのかは不明です。食事の際に飲むビールは、どこでも30元(600円)のボッタクリ価格になっていましたが、これは中国人ガイドへのチップ代わりと思うことにしていました。ただ、入場料についてはやり過ぎでと思ってしまいます。中国旅行では、この他にも、車内での土産物品の販売や販売店への連れ込みなど、なくしてもらい点が多くあります。



ゲートを通過してから振り返ったところ。入口の広場は人で埋め尽くされていました。

思ったよりも早く入場できましたが、これは、ガイドが切符を買ってくるのを待っている中国人観光客が多く並んでいるため、追い越すことができたためです。



公園内では、天然ガス利用の低公害型バス「九寨溝グリーンバス」が運行されていますが、長蛇の列になっていました。我々は、貸切りのマイクロバスを利用することができました。このツアーの参加者が20名であったのも、マイクロバスの乗車定員による制限があったためのようです。



バスの車窓からは、チベット族の集落が見えてきました。九寨溝の名も、チベット人の村(山寨)が9つある谷であることから付けられたものです。

九寨溝の全体像は、Y字型をしており、入口から樹正溝を進んでいくと、日則溝(右)と測査窪溝(左)に分かれます。今回は、1日かけてバス移動をしながら見どころを見学していくことになります。



最初に、諾日朗瀑布(だくじつろうばくふ)の見学を行いました。諾日朗とはチベット語で「男神」を指し、「壮大、雄大」の意味があるようです。

高さ25m、幅320mと九寨溝では2番目に大きい滝です。



水しぶきが勢いよく上がっていました。







人気の観光スポットということで、展望台は、大混雑になっていました。写真撮影も、自撮り棒をかいくぐり、空いた場所にすばやく入り込む必要がありました。



続いて、日則溝に進んで、まず鏡海(きょうかい)を見学しました。湖面が鏡のように風景を写すことから名前が付けられたようです。朝の波が立たないうちに見学することになりました。



確かに、鏡のように反転した風景を眺めることができました。







さざ波が起きて、風景も少しゆがみました。



日則溝を上っていき、箭竹海(ぜんちくかい)で下車しました。この先は原始森林景区になるのですが、1日観光のため引き返しになりました。湖の周囲にパンダの大好物の箭竹が沢山生えていることから名前が付けられました。



標高は2587mで、静かな湖面が広がっていました。ただ、この眺めとはうらはらに、バスを降りて下流方向に歩いて向かう中国人団体が多く、遊歩道は大混雑になっていました。



湖の上流部には湿原も形成されていました。



湖面が木々を写しこんで、水の色は判らなくなっています。

再びバスに乗り込んで、通り過ぎてきた日則溝の見どころを見学していくことになります。

さすらいの風景 九寨溝 その3

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箭竹海に続いて、日則溝の下流部にある熊猫海(パンダカイ)を訪れました。昔はパンダが水を飲みにきていたのでこの名前がついたといいます。

しかし、パンダカイというなら大熊猫海でないといけないのでは。本来、熊猫は発見の早かったレッサーパンダの方をさしています。



この湖も、鏡のように周囲の風景を写していました。



箭竹海からの遊歩道が設けられているようです。



熊猫海からは、熊猫海瀑布が落ちていますが、熊猫海の展望台は観光客で大混雑になっており、時間が無くて見にいけませんでした。



民族風の女性は、グリーンバスのガイドなどの公園スタッフのようです。



続いて、五花海に移動しました。

順序は前後しますが、これは箭竹海への移動の際に撮影した、高台からの写真です。大型バスのすれ違いの関係で、しばらく停車しましたが、五花海を見下ろすのに良い場所でした。

湖畔には遊歩道やテラスが設けられて、大勢の観光客で賑わっているのが見えます。



さらに左にカメラを回した写真。右手の遊歩道から、このテラスまで歩くことになりました。



バスを降りて五花海に向かうと、真青な湖面が姿を現しました。

「九寨溝一絶(九寨溝にしかない)」と呼ばれる九寨溝を代表する風景です。



青い湖面に周囲の木立が反射して、複雑な眺めになっています。



九寨溝では、真青な水が特異的な景観を作っています。これは、水中に飽和状態で溶け込んでいる炭酸カルシウムが微細な浮遊物を核として沈殿するため、極度に透明度が高くなっていることが原因になっています。水は、可視光の内、長波長の成分(赤い光)を吸収する性質があるため、深みでは、水面から入射して湖底で反射した光の内から青い光だけが眼に多く届くようになって、結果として青い水に見えるといいます。

浅い湖に見えますが、これでも深さは5mあります。



神秘的ともいえる静かな山あいの湖の風景が広がっていました。しかし、実際の環境は大きく違っており、遊歩道の橋の上は満員電車並みの大混雑になっていました。



湖底に木が沈んでいるのが見えます。木の表面に石灰分が付着し、いつまでもその形を留めていることが独特の景観を生んでいます。



湖畔のテラスも大賑わいです。



浅い所では、湖底の藻の色を反映して黄色味を帯びていました。



奥に進むと、湖面の色も変わってきました。





奥のテラスまで足を運んでから引き返しました。





橋に戻って、下流方向を眺めました。こちらも美しい風景が広がっていました。



湖底に沈んだ倒木が浮かんでいるように見えますが、湖の深さはかなりあるはずです。

九寨溝に似た景観は、同じカルスト地形であるクロアチアのプリトヴィツェ湖群国立公園でも見られますが、湖面の青さという点で九寨溝の方がより印象的です。もっともこれは、絶好の撮影日和といえる快晴に恵まれたことがあるかもしれません。

さすらいの風景 九寨溝 その4

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五花海の見学を終えて、珍珠灘(ちんじゅたん)へバス移動しました。

滑滝状態になっています。



木道を歩いて対岸へと移動します。



緩やかに下っていく先は、珍珠灘瀑布になっています。



滝の脇に続く階段を下っていきます。滝の名前のように、水しぶきが珠のように見えます。



勢いよく水しぶきが上がっています。





滝の落差さは最大40mで、九寨溝で最も迫力のある滝と言われています。



水しぶきが霧になって流れています。



ここも人気スポットで、大混雑。



孫悟空の恰好をしたコスプレーヤーが記念撮影の客引きをしていました。珍珠灘瀑布では、以前に西遊記の撮影を行ったとのこと。水簾洞(すいれんどう)の場面に使われたのでしょうが、確かにふさわしい眺めです。中国中央電視台の作品だろうと思いますが、見てみたいものです。



滝の下の遊歩道を歩いてバスに戻りました。



これで午前中の観光は終わりになって、諾日朗ビジターセンターで昼食になりました。九寨溝の公園内では昼食をとれるのはここだけなので、大勢の観光客が集まっていました。ただ、レストラン代を節約するため、売店で売っている軽食や持参した弁当を食べている人が目立ちました。



食事券を売っている入口のホール。ビュッフェスタイルのレストランで、ランクも並、上、特上とあるようです。電光掲示板を見ていると、60元、98元、138元と出ていました。我々ツアー客は、当然、並。それでも1200円もするのは、高いですね。



並クラスのビュッフェは大賑わいでしたが、席数も多いので、空いた座席は見つけることができました。



正直言って、食事を楽しむというよりは、お腹を満たすことができるというだけの内容でした。



土産物店もあったのでのぞいてみようと思ったのですが、大混雑のために退散。



午後は、測査窪溝の観光から始めることになって、まずは長海に向かいました。



長海は、標高3100mに位置し、奥行きは約8kmある九寨溝最大の湖です。観光ルートもここまでになっています。

この眺めは、カナディアン・ロッキーの湖と似た感じがあります。



谷奥の山には雪渓が見られます。



バスを降りた展望台は高台にあり、湖畔まで遊歩道が通じているようですが、そこまでいく時間はありませんでした。



湖も美しいですが、周囲の山にも目がひきつけられます。





長海の見学後、バスに乗って五彩池に向かいました。

さすらいの風景 九寨溝 その5

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長海に続いて、その下部にある五彩池(ごさいち)を訪れました。



五彩池は、最深部6.6m、長さ50mほどの小さな池ですが、その特徴的な青さによって、五花海と並んで九寨溝を代表する観光スポットになっています。



湖畔へ降りる階段は大混雑になっていました。

神秘的な池といいたいところですが、現実には、人をかき分けての撮影になりました。テレビの旅番組では絶対に出さない風景です。



場所や時間によって五色の色を見せるといいますが、この日は青さが勝っていました。



さざ波によって、湖底の風景に細かい波模様が加わっていました。



南海のサンゴ礁をのぞいているようにも見えます。



透明度が高いため、池の深さが全く判らなくなっています。



五彩池の眺めもこれで終わり、遊歩道を歩いてバス乗り場に向かいます。



待機していたバスに戻ってきましたが、あまりの混雑で一名行方不明になってしまいました。ツアー参加者の方でも、この混雑の中では、はぐれないようにという危機感が必要なのですがね。



待つ間に周囲の眺めを楽しみました。山が美しい姿を見せていました。



駐車場のすぐ下からは、上季節海の眺めが広がっていました。季節によっては水がなくて、湖の姿は見られないとのことです。



迷子のおかげで、おまけの湖を見物できました。

幸い、それほど待つことなく、行方不明者が現れました。



バスに戻って測査窪溝を下っていくと、チベット族の村の則査窪寨が現れました。



独特の仏塔や旗で飾られています。



並んでいる建物はお寺ではなく土産物屋のようです。





犀牛海(さいぎゅうかい)が見えてきました。

もうひと頑張りして、樹正溝沿いの見学を行うことになりました。バスの乗り降りばかりですが、滝の下まで下ったり、車道まで登り返したりで、かなり足にも疲労がたまってきました。



犀牛海でも写真ストップ。犀牛海は長海に次いで大きな湖です。周囲の木立が美しく色づいていました。



犀牛海の湖畔には、チベット族の小屋が並んでいました。

なお、九寨溝地区では、チベット仏教(マニ教)よりもボン教が盛んで、この写真で見られる
水車で廻す水転経も、チベット仏教の右回りと逆の左回りになっています。

ボン教は、チベット土着のアミニズムがもとになっており、その宗教体系を作っていく過程で、インドから伝来した仏教用語を取り入れたため、チベット仏教との違いが判りにくくなっています。一見して判る違いは、マニ車の回転方向だけということになります。

さすらいの風景 九寨溝 その6

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犀牛海に続いて、老虎海(ろうこかい)を見学しました。



湖面に映る紅葉。



老虎海から流れ落ちる樹正瀑布沿いの遊歩道を下りました。



個々の段差は小さいのですが、長い斜面に滝が広がっているので、勢いよく水しぶきが上がっています。







下部は滑滝状態になっています。



樹正群海に注ぎ込んで滝は終わりました。、



樹正群海(じゅせいぐんかい)は、木立の中に小さな池が広がっています。



チベット族の粉挽き小屋のようです。ここで車道へと上がりました。



車道脇の展望台から見下ろした樹正群海。



木立と池の取り合わせが印象的です。



特色のある湖が並ぶ九寨溝ですが、この樹正群海も独自の魅力を持っています。



再びバスに乗って、火花海(かかかい)へ移動。



遊歩道を進むと、火花海から水があふれて落ちていく様子を眺めることができました。



湖の水中を横から眺めることができました。



滝が落ちる先は、双竜海。

双竜海へと下った後、バスに戻って九寨溝の見学は終わりました。



九寨溝のゲートに戻ってきました。見学を終えて下ってきた観光客で、朝ほどではないものの混雑していました。ゲートからホテルへの帰りは、足もくたびれてきており、結構辛い歩きになりました。

九寨溝の美しい眺めを堪能することができましたが、これも天候に恵まれたおかげです。

九寨溝では、多くの湖を見学するため、名前を記憶するのも容易ではありません。私の場合は、記録をまとめるから良いものの、観光客のほとんどは、旅行から戻ったらどこを見学したかは忘れているでしょうね。

さすらいの風景 蔵謎 その1

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九寨溝の見学で疲れも出てきていましたが、もうひと頑張りして、チベット族のショーを見に出かけました。

タイトルは「蔵謎」。日本語ではクラナゾ、英語ではTibetan Mysteriesと呼ぶようです。

中国の有名どころの観光地では、大規模な専用劇場を造ってショーを見せることが流行っています。



「蔵謎」は、中国を代表する国家一級の舞踊家のヤン・リーピンがプロデュースした舞踏劇で、日本のオーチャードホールでも来日公演されています。

ヤン・リーピンのことは知らなかったのですが、ユーチューブでもその代表作の「月光」や「孔雀」を見ることができます。コンテンポラリー・ダンスの範疇に入るのでしょうが、それほど前衛的ではないため、一般受けする親しみやすい舞踏です。

残念ながら、九寨溝の「蔵謎」の公演では、ヤン・リーピンが踊るパートは、そのままカットされていました。



劇場に入ると、舞台には巨大なマニ車が並べられていました。



チベット僧役が、開幕までの時間を知らせるためか、ときどきラッパを鳴らしていました。



舞台は五体投地する人々の風景で始まりました。

日本公演における紹介では、次のように記されています。


「物語はチベットに古くから伝わる伝記。
五体投地で聖地ラサを目指す一人の老婆。彼女が三年という歳月をかけて旅をする中で見聞きしたチベット族の歌や舞、宗教儀式、伝統祭典が、芝居を交えて舞台上で展開されていく。
そして、季節は巡り、寒い冬のある日。志半ばで命を落としてしまう老婆の悲しい運命。そして、そこに待ち受けていたものとは・・」



老婆の連れたヤギも物語の重要な役目を果たします。ヤギは、良く飼いならされており、その場にあった演技をしていました。





老婆は、ブッダに導かれて、聖地ラサを目指します。



六弦琴の演奏。



楽器に歌声と足踏みが加わり、迫力のある演奏でした。







続いて、弦子舞。民族衣装の長い袖を利用した舞でその舞姿は敦煌の壁画にも見られるといいます。









男性の踊り手も加わりました。



男女入り混じっての群舞。



華やかな踊りで楽しめます。



チベット音楽。





老婆の巡礼は続いています。



打阿カツ。ポタラ宮など寺院の修復工事のための器具を打ち鳴らしながらの労働歌。









夏拉舞。





迫力のある踊りが続き、九寨溝の歩きで疲れていたにもかかわらず、眠気も訪れずに見続けることができました。
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