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さすらいの風景 アラ・アルチャ自然公園 その2

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アラ・アルチャ自然公園で見た花のまとめです。日本で見られるのと似た花もあり、見比べることになりました。

フウロの仲間。日本でもフウロの仲間は何種類もあって区別は難しいです。



シロバナのフウロ。



キキョウ科の花。





桃色のシロツメクサ。



青のシロツメクサ。



キンポウゲの仲間でしょうか。





バラ属。



イブキジャコウソウに似ています。





トリカブト属



別の種類のトリカブト属



トリカブト属ですが、花が白いのでレイジンソウということになるでしょうか。



キキョウ科の花





ネギ属。群落になって咲いていました。



花の咲き方が球形ではなく、少し変わっていました。



ハナシノブの仲間。





ヤナギラン





コゴメ属。



コゴメ属でも少し種類が違いますかね。









花の種類は結構あったのですが、一面のお花畑というわけではなかったので、少し地味という感じでした。



バスでゲートに戻る途中、路肩の草地がお花畑状態になっていたので、写真ストップになりました。

















花の名前は日本の山でも難しいですが、海外となるとお手上げです。きれいな花を見られたということで満足しましょう。

さすらいの風景 トクマク その1

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アラ・アルチャ自然公園の散策を終えてからビシュケクに戻って昼食をとり、その後トクマクに向かいました。トクマクは、首都ビシュケクからは東に約60kmの距離にあります。

途中、鉄条網が設けられたカザフスタンとの国境線が道路脇に迫ってきました。日本人としてこのような国境線には慣れていないので、つい緊張してしまいます。



トクマクの入り口には、戦闘機が飾られていました。

トクマクは1830年頃、コーカンド・ハン国の北の前哨基地として建設されましたが、30年後にはロシア人の支配下になり、ロシア人の手によって町は再建されました。現在では、キルギス第二の都市になっています。

現在のトクマクは比較的新しく設立された都市ですが、チュイ渓谷の途中にあって交通の要所であることから、アク・ベシムや11世紀に建設されたブラナの塔などの遺跡が周囲にあります。



道路沿いにイスラム寺院を見ることができました。



郊外に出ると山の眺めの広がりました。



当初の順番と違って、アク・ベシム遺跡の前にブラナの塔にやってきました。入り口のゲートの先にブラナの塔が見えていました。





ブラナの塔は、11世紀初めに造られ、かつては高さ54mあったといいうますが、15、16世紀の地震で先端部が崩れ、現在は24mになっています。1974年に修復されましたが、傾いています。レンガが美しい模様を形作っています。

ここで発見されたアラビア語の石板から、ここは、10世紀から13世紀のカラハン朝の首都の一つのバラサグンと推定されています。



遺跡内には、簡単な博物館が設けられています。左のユルタは土産物店です。

博物館の中は撮影禁止でしたが、仏教、ネストリウス派キリスト教、ゾロアスター教関連の出土品が展示されていました。



周囲の草原には、野草が咲き乱れていました。







ブラナの塔には伝説が残されています。
王は、娘が生まれたとき占い師を集めて娘の将来を占わせた。無事に育って結婚し幸せになるだろうという占いが出たが、その中にあって一人だけ、「あなたの娘は16歳の時に殺されてしまうだろう」と予言した。王は娘を守るために高い塔を築き、娘を塔のてっぺんに幽閉した。16歳の誕生日を無事に迎えたことから、祝宴が開かれたが、娘がブドウをとろうとした時、房に潜んでいた毒虫に刺されて、16歳で死んでしまった。

娘の死亡時の年齢、毒虫がサソリなのか蜘蛛なのか、ネットに出てくる旅行記ごとに異なっておりはっきりしません。



ブランの塔の脇の広場は、石人(バルバル)が並べられている野外博物館になっています。



これらの石人は、キルギスの各地からもってこられたもので、6~7世紀に中央アジアにを支配した遊牧民の突厥の戦士の墓と言われています。



石人が手に持っているのは馬乳酒を入れた杯と言われています。



それぞれが違った表情をしています。



石人の多くは、髭をはやしています。





石人の間を抜ける遊歩道から振り返るとブラナの塔が美しい姿を見せていました。









お地蔵様のような雰囲気です。



もっともユニークな顔つきです。石人は、Tシャツやストラップのデザインに使えば売れそうですけどね。キルギスは、旅行客向けの土産物などのビジネスはまだ発達していません。



文字の刻まれた石碑も置かれていました。突厥は独自の文字を持っていましたが、これはアラビア文字でしょうか。







石臼のようです。



石人の置かれている原の脇にある丘に登ってみました。



丘の上には、発掘跡があり、10~13世紀のカラ・ハン朝の首都の一つのバラサグンの跡のようです。



丘の上からは、天山山脈の雪山を背景としたブナラの塔を眺めることができ、絶好の展望地になっていました。

塔の左手の基部に見えるのは、八角形の霊廟の土台です。



丘から下って、ブラナの塔に上がることにしました。



塔へ上がる螺旋階段は、狭く急ですれ違い困難な状態でした。これは下りの際に、明るい上部で撮影したものですが、取り付き付近は、目が暗闇に慣れていないこともあり、ハンドライトが必要な状態でした。上り下りの際には、声をかけて対向者をストップさせて集団で行動する必要がありました。



塔の上は、絶好の展望台になっていました。



雪山に目がいいってしまいます。



塔の周囲には、緑の原が広がっており、この一帯は肥沃な地であることが判ります。



遺構のあった丘。



丘の脇の原には、石人が置かれています。

ブラナの塔の見学を終えて、アクベシム遺跡に向かいました。

さすらいの風景 トクマク その2

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ブラナの塔の見学を終えて、ブラナの塔の北西6km程の距離にあるアク・ベシム遺跡に向かいました。

途中、鉄道を横断しましたが、線路脇には羊の群れがのんびり草を食んでいました。

キルギスの鉄道は、国のほとんどが山岳地帯であったり、線路幅が違っていたりして発達していないようです。1日に1便程度が運行される程度のようです。



ヒマワリ畑が現れたので、撮影停車になりました。雪山を背景としたヒマワリ畑は、ほかでは見られない風景です。



アク・ベシム遺跡に到着しましたが、入り口のゲートのようなものはありませんでした。

アク・ベシム遺跡は、ブラナの塔のあるバラサグン遺跡と同じく、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として2014年に登録された世界遺産の構成資産の一つになっています。

といっても、バスの中での説明で、添乗員は期待しないようにと予防線を張っていました。



世界遺産にもかかわらず、土産物屋のようなものはなく、観光客は他に見当たりません。



高まりに上がって前方に見えてきたのが、アク・ベシム遺跡です。草の生えた溝があり、これが遺跡のようです。



アク・ベシム遺跡は、仏教寺院跡が発掘されたことから、唐代の砕葉城(スイアーブ)跡と考えられています。

砕葉城(スイアーブ)は、中国からタリム盆地を通り、ベデル峠を越して天山山脈に向かう交易路の交差点に位置しています。玄奘三蔵法師は、天山南路の途中からベデル峠を越してイシク・クル湖の南岸に出て、この砕葉城(スイアーブ)に到って突厥の王から歓待を受けました。

玄奘三蔵法師の訪問地としては、高昌国の高昌故城が有名ですが、それと比べると、見るものがほとんどなく、想像力を最大限に発揮する必要があります。

高昌故城はこちら



規則的な溝が掘られているのは、建物の土台跡でしょうか。



歩道として整備されていないので、足元の土を崩して溝に落ちないように注意する必要がありました。



アク・ベシム遺跡見学にあたっては、「世界遺産は必ずしも観光スポットではない」、ということを頭に入れておく必要があります。



トクマクは、玄奘三蔵法師の他にも中国の著名人ゆかりの地になっています。その人物とは、「詩仙」と称される李白。

李白の出自および出身地には諸説ありますが、現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀に移住したと推測されています。

李白の出生地は、中国版Wikipediaの百度において キルギスタン・トクマクと書かれており、この砕葉城(スイアーブ)が出世地である可能性が高くなっています。

ただ、李白の出生地に関しては観光客誘致の利害関係もあって、今後の推移を見守る必要があります。

常識的には、李白は中国人だろと思ってしまうので、ここで中国の歴史を振り返っておきましょう。

玄奘三蔵法師が国禁をおかしてインドへの旅に出たのは、李世民(太宗)が唐第二代皇帝になったばかりで、この時は唐創設まもなく、政情も安定してはいませんでした。太宗は、その後突厥を下したり内政を充実し貞観の治と呼ばれる繁栄の時代をもたらしました。この時に玄奘三蔵法師がインドから戻ってきて、丁重にもてなされました。

その後、則天武后が女帝になるなどの混乱はありましたが、玄宗が皇帝になると開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えました。この時の唐の勢力範囲は中央アジア一帯まで及びました。その結果、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って、タラス河畔の戦いが行われることになりました。唐はこの敗戦によって、勢力はタリム盆地に限定されることになり、中央アジアではイスラム勢力の安定支配が確立しました。この時期に生きた李白がトクマク出身としても不思議はないことになります。

もう一人、この時代の中央アジア出身者の有名人としては、唐の玄宗に対し安史の乱を起こした安禄山がいます。彼は、サマルカンド出身で、ソグド人と突厥系の混血でした。玄宗皇帝の治世前半は、東西の人物交流は思うよりも活発だったのですね。

砕葉城(スイアーブ)のために、李白の代表作である次の詩があげましょう。

静夜思 静夜に思ふ

床前看月光  床前(しょうぜん)月光を看(み)る
疑是地上霜  疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月  頭(こうべ)を挙げては山月(さんげつ)を望み
低頭思故郷  頭を低(た)れては故郷を思う

トクマクで天山の雪山を見た後では、この詩から受ける感じも少し違ってきます。

そのうち、アク・ベシム遺跡に李白の記念碑が立ちますかね。



アク・ベシム遺跡を去り、次の目的地のチョン・ケミン渓谷へと向かいました。

途中、路肩に果物を売る露店があったので、添乗員が差し入れのスイカとメロンを買ってくれました。



メロンも二種類あり、大きいものの方が高かったようですが、味も美味しかったです。メロンは、南の地方から運んできたもので、大きいものは600円ほどのようでした。現地の感覚では高価ですが、日本価格からすれば激安でした。

今回のツアーでは、ツアー会社の方で何回かスイカとメロンを買ってくれて、果物を満喫することができました。



店をのぞいていると子供達が集まってきました。



車窓を眺めながらのドライブが続きました。誰かは判りませんが、銅像も置かれていました。



ある地区では、路肩で茹でトウモロコシを売っていました。日本の日光と沼田を結ぶ沼田街道も、このような店が出ていてトウモロコシ街道と呼ばれており、同じようなことをしていると面白く思いました。

さすらいの風景 チョンケミン その1

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アクベシム遺跡の見学を終えた後、この日の宿のチョンケミンに向かいました。ビシュケクからイシク・クルに向かう幹線道路から分かれる渓谷沿いの山道に進みましたが、急に谷が広がりました。

チョンケミン渓谷と聞いていたので、事前のイメージとは違っていました。



宿泊したのは、ASHU GUEST HOUSE。ゲストハウスという名前ですが、思ったよりも立派な造りでした。西洋人の団体も宿泊していました。



泊まった宿泊棟。この他にも客用の建物がありました。



室内はベッドが置かれているだけの簡素な造りでしたが、シャワーとトイレはあり、寝るには充分でした。

大変だったのは添乗員で、電話が無いため、モーニング・ノックで起こして回る必要がありました。



前庭には石人が飾られていました。石人は、新しいものも造られているのですかね。



ゲストハウスの周囲には畑が広がっていました。



夕食後、山が赤く染まるのを見ることができました。





ゲストハウス周囲を見るために散歩に出かけました。アルマトイやビシュケクは、薄暗くなってからの街歩きは、治安に不安がありましたが、ここは完全な田舎で問題はないようでしょう。

周囲には民家が並ぶだけで、店は一軒もありませんでした。

柵につながられた子牛が、人恋しさで、鳴き声をかけてきました。



野原越しに見たゲストハウス。



部屋の灯りは、灯油ランプ風でしたが、電気でつくものでした。日本でも売れそうですね。



この日も、夜明けの風景を見るために早起きをしました。

山全体が、ピンク色に染まってきました。





太陽が昇って、山も明るく見えるようになってきました。



カメラを持って、朝の散歩に出かけました。



山の斜面が美しい陰影を見せていました。



日本では見られない山の風景です。山全体が放牧地になっているのでしょうか。



とりあえず、川まで歩くことにしました。集落内の道ですが、羊が草を食べていました。



路肩は、お花畑状態になっていました。



畑越しに見た雪山。



ロバ出現。色々な動物に出会いました。



花を見ながらの歩きになりました。









川まで歩いてきました。水が濁っているのは、氷河からの水が流れ込んでいるためのようです。









朝食前に、第一回目のフラワーハイキングを行うことができました。

今回のツアーは天山自然紀行ということで、花を見ることが目的の一つになっていましたが、花の種類は見る場所によって分ける必要がありました。日本で出版されている図鑑のように、「野に咲く花」、「山に咲く花」、「高山に咲く花」に分けて考えるのが適当に思われました。

このチョンケミンでは「野に咲く花」、アラアルチャ自然公園では「山に咲く花」を見ることができ、エーデルワイスなどの「高山に咲く花」はソンクルで見ることになります。

さすらいの風景 チョンケミン その2

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ASHU GUEST HOUSEで手作りジャムなどの並んだ家庭的な朝食をとった後、フラワーハイキング
に出かけました。どこに行くのかと思ったら、集落裏手の山裾でした。ゲストハウスから歩いていくことになりました。



菜の花が盛りでした。



菜の花畑越しに雪山を望むことができました。7月という季節を考えると不思議な風景です。



道沿いの花を眺めながら歩きました。



墓地のある丘の下まで案内されて、後は自由散策になりました。



馬に乗った少年が下ってきました。観光地ではない、のどかな風景です。



一面に花が咲いていました。



牛がのんびりと草を食んでいました。



馬もたたずんでいました。



一面のお花畑が広がっていました。



この花は、ネットで調べると、シソ科のPhlomis pratensisというようで、フロミスという名前で、この種類の園芸植物が日本でも栽培されているようです。



この花も大群落を作っていました。



紫のお花畑の中に白色を加えていました。







お花畑の広がる尾根には、踏み跡が続いていたので、それを辿って丘に上がりました。

ツアー客のうち、ここまで上がってきたのは一部で、あとは引き返してしまいました。この丘のお花畑と眺めを体験しなかったのは、もったいないというしかありません。



足先で花をよけながの歩きなりました。



丘をひと登りすると牧草地の広がる台地にでました。その先しばらくは花が刈り取られていたので、進むのはやめて周辺の花を眺めることにしました。





トウダイグサの仲間のようです。





少し登っただけですが、展望が広がりました。





窪地は花で埋まっていました。



紫のお花畑できわ立つ黄色の花。



チョンケミンは、峡谷というには広すぎる谷間です。



踏み跡を見失しなわないように下りました。











「野に咲く花」のレベルでは、最高級のお花畑を楽しむことができました。

この後は、昼食をとった後にイシク・クル湖に向かうことになりました。

さすらいの風景 イシク・クル湖 その1

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チョンケミンで昼食をとった後、国道に戻って、イシク・クル湖へのドライブを続けました。

山あいをぬって、良く整備された道が続きました。



山腹にキルギスの国旗が描かれていました。



道は、チュイ川に沿って緩やかに下っていきました。手前の線路は、ビシュケクからイシク・クル湖西岸の町バルクチまで通じているようですが、列車はまれにしか運行されていないようです。



ついにイシク・クル湖が見えてきました。



バルクチの町に到着。ソ連時代には、ここに検問所があって、外国人の立ち入りが厳しく禁止されていたようです。

政府要人の別荘やサナトリウム、保養所などがあって、湖岸でいちばんの避暑地として栄えていたようですが、現在では、北岸中央部のチョルポン・アタに避暑地の中心は移っているようです。



バルクチの町を過ぎると、イシク・クル湖の北岸に沿ってのドライブが続きました。真青な湖面が印象的です。



イシク・クル湖は、東西約180km、南北30~70km、周囲は688km。面積は6,236 km²で琵琶湖の9倍、山口県とほぼ同じくらいの広さを持っています。最大深度は668mで、透明度とともにバイカル湖に次いで世界第二位。標高は1,606mという高地にありますが、冬になっても凍らないことからイシク・クル「熱海」と呼ばれています。また、周囲から流れ込む河川は118もありますが、流出河川はありません。



イシク・クル湖は、天山山脈に囲まれており、北側の山脈はクンゲイ・アラトー(キルギス語で太陽の当たる山)、南側の山脈はテルスケイ・アラトー(キルギス語で太陽の当たらない山)と呼ばれています。

湖越しに、テルスケイ・アラトーの銀嶺を眺めることができました。



これは、北側のクンゲイ・アラトーの眺め。



このイシク・クル湖沿いにはシルクロードが通っており、1300年前にインドに赴いた玄奘三蔵はタクラマカン砂漠から天山山脈の険路を越え,イシク・クル湖岸にたどり着きました。

大唐西域記に曰く、「山を行くこと四百余里で大清池についた。周囲千余里,東西に長く南北は狭い。四面山に囲まれ,多くの河川はここに集まっている。色は青黒みを帯び,味は塩辛くもあり苦くもある。大きな波が果てしなく,荒い波が泡立っている。往来する旅人は供え物をして福を祈る。魚類は多いが,あえて漁をして捕獲するものもない」。



シルクロードの旅でまず一番に参考にしているのは、1980年代前半と1988年から1989年に放送された「NHK特集 シルクロード」ですが、この中にイシク・クル湖が含まれています。幸い、家の近くの市立図書館にビデオが備えられており、いつでも借りてみることができます。

この中から、印象的なナレーションを幾つか。

「天山の銀嶺に彩られたイシク・クル湖がはじめてその姿を見せた。ソビエトはこの湖の周辺への外国人の立ち入りを一切拒んできた。まさに幻の湖であったのである。私たちシルクロード取材班は、特別な計らいで取材を許されたのである。

現在、イシク・クル湖の周辺には幾つかの町もあるという。しかし、中ソ国境に近いこの地域での都市の取材は一切許されなかった。

現在のイシク・クル湖は、不思議な伝説や血なまぐさい歴史を忘れたような山里である。」

ビデオ中の潜水調査では、石臼や剣の塚、住居跡の土塁、人骨などを湖底で見ることができ、イシクル湖には集落が沈んでいることが示されました。

また、敦煌やローランなどの西域小説で、シルクロードへの憧れを目ざまさせた井上靖氏も、イシク・クル湖を訪れる事を熱望しましたが、外国人の立ち入りを厳しく禁止していたことから果たせず、「私を、目隠しをしてもいいから連れて行ってくれ。」とまで言わしめたといいます。

現在のイシク・クル湖がどのような姿を見せてくれるのか、期待が高まりました。

さすらいの風景 イシク・クル湖 その2

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イシク・クル湖北岸のドライブが続きました。

湖畔に海水浴場ならぬ湖水浴場が現れました。



宿泊用のユルタも並んでいました。

ロシアやカザフスタンからの観光客が訪れているようですが、リゾートホテルはまだ少ないようで、民家の部屋貸しが一般的なようです。



道沿いには、浮き輪を売る店もありました。海の無い内陸国なので、泳げる人は少ないでしょうね。



イシク・クル湖で一番賑わっているリゾート地のチョルポン・アタが近づくとモニュメントらしきものも現れました。



立派なモスクも新しく作られたもののようです。



チョルポン・アタの船着場から遊覧船に乗りました。思ったよりも立派な船で、我々グループの貸し切りでした。



入り江には、ヨットを含めた多くの船が停泊していました。



湖畔には湖水浴を楽しんでいる姿を見ることができました。子供を連れた家族連れが多いようです。



日差しが厳しいため、パラソルが並んでいました。この日の気温は上がっており、船の上で当たる風も心地よく感じられ、絶好の湖水浴日和りになっていました。



船尾側に見える北側の山脈はクンゲイ・アラトー。



船首側に見える北側の山脈はテルスケイ・アラトー。イシク・クル湖の対岸はかすかにしか見えません。思っていたよりも大きな湖で、波の静かな海をクルーズしているような気分になりました。





湖の沖に出ていくにつれ、テルスケイ・アラトーの奥に聳える雪山がよく見えるようになってきました。





広大な湖のため、船が移動していっても風景はあまり変わらず、のんびり日向ぼっこといったモードになっていきました。



湖水の透明度は高く、場所によっては湖底の砂も見えていました。



1時間ほどのクルーズのため、湖の適当な所で引き返しになりました。



真青な湖面の向こうに雪を頂いた天山が広がる眺めを堪能でき、絶好の天候に感謝しました。これが雨でも降っていたら悲惨な体験になってしまうところです。



4000m級の山が並んでいますが、これくらいの山はいくらでもあるため、名前を知ることはできません。





静けさを破って、水上バイクとモーターボートが走り抜けていきました。



ビキニの女性に思わず目をみはることになりました。一応、ここはイスラム教の国なのですがね。

幻の湖イシク・クル湖は、現在、大きく変わろうとしているようです。

さすらいの風景 イシク・クル湖 その3

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第四日目の宿のROYAL BEACHへは、遊覧船の船着場のあるチョルポン・アタから来た道を戻ることになりました。

途中、露店があったので、停車しました。



まず目を引くのは、つるされた魚でした。イシク・クル湖でとったものでしょうが、思ったよりも大きな魚です。

イシク・クル湖に生息する魚は5種類のみで、かつて新たに3種類の魚を放流しましたが、いずれも繁殖しなかったとのこと。おそらく湖水に塩分が含まれているためでしょう。なお、チョウザメも生息する5種類の中に入っているようです。



少し小さな魚。



単なる干物ではなく、燻製されているようです。



魚の他に、蜂蜜やキノコも売っていました。



蜂蜜入りの蜂の巣。

巣箱の中に収められる枠ごと売られているものは初めてみました。

結局、ビン入りとパック入りの蜂の巣を買いました。



チェリー類も売っていました。黒いチェリーをガイドさんが買って差し入れてくれ、ホテルでも赤いチェリーが出されましたが、黒いものの方が美味しかったです。

皆がかなりの買い物をしたので、玉状の乾燥ヨーグルトを味見させてくれましたが、これは口にあいませんでした。



数軒の露店が並んでいましたが、猛暑の中とあっては、毛皮製品の店は誰ものぞこうとしませんでした。



ROYAL BEACHは、宿泊棟やコテージの並ぶ近代的なリゾートホテルでした。日本のツアーでも定宿になっているようで、他にも日本のツアーが泊まっていました。



敷地内には花壇が設けられて、花が美しく咲いていました。

到着時間も遅くなっており、部屋に入ってひと休みした後に夕食になりました。



夕食後、ようやく敷地内の見学を行うことができました。

ホテルの敷地内には専用ビーチが設けられているようなので岸辺へ向かうと、子供用のバルーンの遊び場が現れました。あやしげなドラエモンが飾られていました。おそらく中国製なのでしょう。



岸辺は砂浜になっており、パラソルが並んでいました。南国リゾートといっても通りそうな風景です。



イシク・クル湖で是非行いたかったことに湖水浴がありました。最終案内が届いてROYAL BEACHのことを調べると、専用ビーチがあることが判り、敷地内をそのまま歩ける短パンスタイルの水泳パンツを持ってきていました。部屋で着替えて、上はTシャツ、クロックスのサンダル履きで、岸辺にやってきました。

誰も泳いでいないのが少々気にかかりましたが、泳いでみることにしました。

予想外に暖かい水でした。地元日本海の海水浴場で、昼間は冷たい水が夕方には昼間の暑さで温まっているのと似た感じでした。ただ、夕食でビールを飲んだ直後なので、岸辺近くを少し泳いだだけでやめておきました。

顔はつけませんでしたが、口に入った水は、少し塩味を感じました。

他のツアーメンバーで泳いだ者はいませんでした。ホテルには午後の早い時間に到着して、夕食の前に泳ぐ時間が設けてあったらと思いました。



課題であった泳ぎも果たしたので、夕景の撮影を行うことにしました。



ボート遊びをまだ行っている者もいました。



夜もふけてからもう一度岸辺に行ってみましたが、ライトアップはされていませんでした。



翌朝、朝の散歩に出ました。敷地内に並ぶコテージには車で乗り付けることができるようです。宿泊代もけっこうするでしょうね。



再び岸辺にやってきました。



湖水浴用の桟橋。水面に下りる梯子が設けてあります。



空は茜色に染まり、白い山頂を持つ天山の山稜が広がっていました。



桟橋の先端から岸辺を振り返ったもの。



入り江の向かいには、別なリゾート施設があるようです。



花壇の花を眺めながら敷地内を歩きました。



入口近くで、ナンを焼いていました。自炊を行っているコテージ客用のもののようです。

この後の朝食で焼き立てのナンを食べられると期待したのですが、残念ながらこれは出てきませんでした。出ないとわかっていれば個人的に買ったのですがね。



朝食を終える頃には、雪山も朝日をあびて輝きはじめました。

こちら側の山脈が、クンゲイ・アラトー(キルギス語で太陽の当たる山)と呼ばれるのが判りますね。





花壇の花も良く管理されていました。



朝食後、もう一度岸辺の眺めを楽しんでから、五日目のツアーへと出発しました。

さすらいの風景 イシク・クル湖 その4

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第5日目は、イシク・クル湖の北岸を通過して、カラコルへ移動することになります。

宿泊したROYAL BEACHを出発し、前日に遊覧船に乗ったチョルポン・アタの街に向かい、その山側にある岩絵野外博物館を訪れました。



入口にある看板の裏に、敷地内にある岩絵の地図が表示されていましたが、岩絵は900もあるようで、この地図も覚えきれません。園内を歩いて岩絵を探すことになります。



道路沿いにはフェンスが設けられており、入場料も取られるようです。



園内は岩が転がる原っぱが広がっており、この中で岩絵を探すことになります。



入口近くにある代表的な岩絵。岩絵の多くは、4000年ほど前に遊牧民によって描かれたもののようです。



山ヤギを追う狩人が描かれています。山ヤギを襲っているのは、狩猟犬なのか、狼でしょうか。



散策のための踏み跡が付けられているので、それに従って奥に進んでいきました。



岩絵であることは判っても、絵柄がはっきりしないものも多いです。







スキタイ・サカ族の墓と説明板に書かれていました。



岩絵の脇には、このような説明板が置かれていることが多いので、見つける助けになりました。



岩絵の説明を一通り聞いた後は、自由時間となって、岩絵を探し歩くことになりました。



岩絵を見つけるこつは、岩の表面が黒くなっているものを探すことでした。













太陽と山はいたずら書きのようです。



岩絵野外博物館は高台にあり、イシク・クル湖とテルスケイ・アラトーの雪山の眺めが広がっていました。



岩絵野外博物館の見学を終え、イシク・クル湖北岸沿いのドライブを続けました。



イシク・クル湖の東端が近づいたところで、車道脇にあるクルガンを見学しました。

クルガンは、スキタイ・サカ族の墳墓で、日本で見られる古墳に似た感じの小山になっていました。



クルガンは、野草の花畑に覆われていました。





踏み跡を辿って、丘に上がりました。



丘の頂上部には窪地ができていましたが、これはスキタイ・サカ族の埋葬品目当てに盗掘された跡のようです。



このクルガンについては、「NHK特集 シルクロード 第八集 湖底に消えた道 ~幻のイシク・クル湖に潜る」中でも、クルガンで発見された黄金人間についても触れていました。

カザフスタンの国立中央博物館に収められている「黄金人間」は、クルガンの中央から少し外れたところに埋まっていたため、盗掘されないですんだようです。



丘の上からは、素晴らしい眺めが広がっていました。



周囲に点在する小山もクルガンのようです。

花に包まれた墓は、ステップを駆け巡った戦士の墓にふさわしい感じがしました。

さすらいの風景 カラコル その1

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昼になって、ようやくイシク・クル湖の北岸を走り終え、東岸に移ることができました。



カラコルの街に入る前に、その7km手前にあるブルジェヴァルスキー博物館によりました。



ロシアの探検家のプルジェヴァルスキーの資料を展示する記念館も設けてありましたが、時間がないとのことで、素通りになりました。



入口から通りを進んだ突き当りにブルジェヴァルスキー記念碑が置かれていました。

ニコライ・プルジェヴァリスキーは、ロシア帝国の地理学者で中央・東アジアの探検家として知られています。最終目的地としたチベットのラサまではたどり着くことはできなかったものの、チベット北部や青海そしてジュンガリア(現在の新疆ウイグル自治区北部)など西洋世界に知られていなかった地域を旅し、中央アジアの情報をヨーロッパ人に伝えました。

野生馬や野生のフタコブラクダをはじめとする動植物の発見といった業績が挙げられますが、ロシア帝国が中央アジア一帯を植民地として我が物とするための情報収集が裏の目的であったようです。



プルジェヴァリスキーは、「さまよえるロプノール」論争の一方の当事者として忘れることができません。

「さまよえるロプノール」については、まず井上靖著「楼蘭」から話を始めましょう。

「大国の漢と匈奴とにはさまれた弱小国楼蘭は、匈奴の劫掠から逃れるために住み慣れたロブ湖畔(ロプノール)の城邑から新しい都城に移り、漢の庇護下に入った。新しい国家はぜん善と呼ばれたが、人々は自分たちの故地を忘れたことはなかった。数百年後、子孫がその地を奪回しようとするが、かつての都は砂漠の中で姿を変えていた。」というのが、おおまかな内容です。

1876年から1877年にかけて中央アジアの冒険旅行を敢行したプルジェヴァリスキーは、タリム川の下流が南東ないし南に向かって流れており、砂漠の南部にカラ・ブランとカラ・コシュンという2つの湖を形成しているのを発見し、これがロプノールであると主張しました。

これに対し、「シルクロード」という語を最初に提唱したドイツの地理学者リヒトホーフェンは、これらが淡水湖であることからまだ生まれて間もない新しい湖に違いなく、塩湖であるとされるロプノールはタリム川の東へ向かう支流の先にあるはずだから、どこかで支流を見落としたのだろうと指摘しました。

リヒトホーフェンの弟子で、スウェーデンの地理学者、中央アジア探検家であったスヴェン・ヘディンは、19世紀末から20世紀初頭にかけてこの一帯を踏査し、1900年にカラ・コシュンのはるか北方で楼蘭の遺跡を発見しました。その北側には東西方向に伸びる干上がった川床も見つかったことから、ヘディンはタリム川がかつてはこの川床を東に向かって流れており、楼蘭の東から南にかけて広がっている低地に注いでいたに違いないと考え、これこそがロプノールであると確信しました。

ヘディンによって、「ロプノールの周辺地域は標高差がわずかしかなく、堆積や侵食作用などによってタリム川の流路が大きく変動するために、湖の位置が南北に移動する。ロプノールはいつかきっと元の位置に戻ってくる」とする「さまよえる湖」説が提示されました。それからわずか20年後の1921年には、タリム川の流れが変わって湖が復活したことを自身の目で確かめることができ、予言は実現しました。

ヘディンに敗北した形のプルジェヴァリスキーですが、彼がいなければ、謎に満ちた「さまよえる湖」の論争も盛り上がらなかったことでしょう。



5回目の探検に出発する直前にプルジェヴァリスキーは、イシク・クル湖畔のカラコルでチュイ川の水を飲んでチフスに感染し、1888年11月1日に死亡しました。この時に皇帝は彼を偲んでカラコルの町の名をプルジェヴァリスクと変えさせました。

キルギスの独立に際して、もとの名前のカラコルに戻しましたが、Googleマップでもプルジェヴァリスクという名前が使われているので注意が必要です。



記念碑の脇からは、イシク・クル湖を望むことができました。プルジェヴァリスキーがこの丘に埋葬されたのも、彼の遺言によるものです。

プルジェヴァリスキーが眺めたイシク・クル湖の風景は、この風景と同じであったでしょうか。



カラコルに到着。メインストリートですが、平屋が並んでいました。これでも、カラコルは、キルギス第4の都市ということのようです。

カラコルに到着して、まずは昼食ということになりました。



昼食を終えて、ドゥンガン・モスクを見学しました。



中国系イスラム教徒(ドゥンガン人)が、1910年に建てた木造のモスクです。



建設の際、中国より職人を呼び寄せて作らせたといいます。一般的なモスクというよりも仏教寺院のように見えます。



本堂の脇には、ミナレットも設けられています。ここからアザーンが流されると、少し不思議な感じがしますね。



内部には入れませんが、入口から眺めることができました。

正面には、メッカの方向を示すミフラーブが設けてあります。信者が座る絨毯はイスラム風ですが、柱や天井飾りは中国風です。



壁に掛けられているのは、一日五回の礼拝時間を示す時計のようです。



太陽系の惑星が描かれていますが、イスラム教との関係は不明。



アラビア書道も飾られていました。



屋根には、中国で見られる走獣を単純化したような飾りが施されていました。中国人建築家は、屋根飾りを施さないとものたりなく思ったのでしょうか。



緑や臙脂の碁盤模様がユニークです。



屋根の上に置かれた三日月マークがイスラム教のモスクであることを示しています。



ドゥンガン・モスクの見学を終えてから土産物屋に立ち寄ることになりましたが、運転手が場所を知らず、しばらく右往左往しました。



通りがかった公園には、誰か判らない人の像が立っていました。



訪れた土産物屋は、JICAが行っている一村一品運動の店でした。



商品の多くは、フェルト製品でした。キルギスでは、まだ観光客用の土産物屋は発達していないので、ここで土産物を買いました。



ホテルは町はずれにありましたが、その途中で見る民家は、ロシアのスーズダリで見たのと似た窓飾りを持っていました。



一旦ホテルに入った後、郊外へ花の見学に出かけました。

さすらいの風景 カラコル その2

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カラコルでの宿のGREEN YARDに荷物を下ろし、二台のマイクロバスに分乗してカラコル渓谷に向かいました。山に向かって移動していくと、国立公園のゲートのようなものが現れました。



沢沿いの未舗装の道を上がっていきました。



スキー場のロッジに到着したところで、バスを降りました。



スキー場のゲレンデ脇で花の観察になりました。「カラコル渓谷でのフラワーハイキング」
とはイメージが異なっており、ちょっと期待外れでした。





トリカブトが多く見られました。



これは別な種類のトリカブト



花の名前は判らないので、写真だけを載せておきます。















フウロの仲間。



これは別の種類のフウロのようです。









この花は、外は白一色ですが、内部には青と茶の模様が描かれています。花が下を向いているので、撮影は難しかったです。











花はそれなりに見られましたが、ゲレンデ脇でなく、もう少し自然度の高い場所に案内してもらいたかったと思いました。時間も限られていたので、一気に高度を上げることのできるスキー場に案内したのかもしれません。

さすらいの風景 カラコル その3

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スキー場からカラコルの街に戻る途中、道路脇にお花畑が広がっていたので停車しました。



チョン・ケミンでも見たフロミス・プラテンシスでした。



この花も大群落を作っていました。



渓谷を流れる沢。



車を降りて見学していると、羊の群れがやってきました。



見学の対象は羊になってしまいました。



車で移動して、花の美しいところで、再度、停車になりました。







谷を振り返ると、雪をまとった山が奥に見えていました。スキー場は右手のピークまで延びているようです。





谷間の草原には、養蜂家が巣箱を並べていました。



カラコルでの宿のGREEN YARDは、町外れにあったため、中心地へ出歩くことはできず寝るだけになりました。



ホテルで夕食をとった後、建物にあった非常階段を上ると、赤くなった夕空をバックにした天山を眺めることができました。



翌朝、朝日に染まった天山を眺めるため、早起きをしました。



朝の散歩に出かけ、見晴らしの開けたところを探しました。



民家が途切れたところまで歩いて、ようやく遮るもののない山の眺めが広がりました。

散歩に意外に時間がかかって、急いで朝食に間に合うようにホテルに戻りました。

さすらいの風景 バルスクーン渓谷

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旅の第6日目は、カラコルからイシク・クル湖の南岸を通ってソン・クル湖への移動になりましたが、その途中、バルスクーン峡谷や鷹匠の見学を行っていくことになります。



車窓からは、テルスケイ・アラトーの雪山が、姿を変えながら見え続けました。





途中、羊の群れに出会って、バスが徐行する場面も現れました。



菜の花畑も現れて、春のような眺めです。



イシク・クル湖の南岸に近いことから、標高はさほど高くはないと思いますが、それでも3000mは軽く超えていると思います。日本だったら、なんとか名山といってもてはやされるところですが、ここでは名も無いピークとなっています。



イシク・クル湖の向こうに広がるクンゲイ・アラトーの峰々は、この日は少し霞んでいました。





バルスクーン(バルスコーン)の町から南に分かれる道に進みました。この道は、未舗装ですが、奥に金山もあって路面は平坦になっていました。中国との国境近くの高原部を通ってカラコルへと続く幹線道路になっています。



美しい渓谷が延びていますが、この奥にはクムトール鉱山という金鉱山があります。クムトール鉱山は、世界屈指の露天掘り金鉱山で、キルギス経済を支えています。キルギス政府とカナダの合弁会社が採掘を行っていますが、キルギスにとって不利な契約になっていることもあって、民族主義者が国有化を主張して政治的緊張が生じています。また、1998年にはクムトール鉱山に向かうトラックが横転して1,700Kgものシアンソーダが川に流れだし、下流に住む住民が川の水をのんで死亡するなど、多くの村民が健康被害を受けた事故も起きています。

未舗装の道から立ち上る砂埃をしずめるため、散水車が通っていましたが、それなら舗装道路に変えればと思ってしまいます。



渓谷の両脇には、高い山が聳えていました。



三段の滝も現れましたが、ユキヒョウの滝と呼ばれているようです。



道路脇の草原にはソ連の宇宙飛行士ガガーリンの像があり、バスを降りて見学しました。

バルスコーン渓谷の入口にあるタムガには、ソビエト時代に国防軍の高級将校の保養所として開設されたサナトリウムがあり、ガガーリンなども利用していました。ガガリーンは、このバルスコーン渓谷を気に入って訪れていたことから、ここに彼の像が置かれました。

なお、サナトリウムの中にある泥治療の診療所は、日本人抑留者が建設に関わっていたといいます。



1961年4月12日、ガガーリンは、世界初の有人宇宙飛行に成功しました。無事帰還するとガガーリンは一躍「時の人」となり、ソ連の宇宙計画の広告塔として世界を旅して回りました。ガガーリンは激変した自分の環境によって徐々に精神的に弱り、酒におぼれ、自傷行為を起こしもしました。ここを訪れたのは、その治療期間であったのでしょうか。
その後立ち直ったガガーリンは、飛行指揮官になるために訓練を再開しましたが、1968年に飛行中墜落し、34歳で亡くなりました。

ガガーリンの死亡事故の原因については、陰謀説も含めて不明な点が多く残されているようです。

子供の頃のことになりますが、有人宇宙飛行に成功したガガーリンは英雄になりました。それと同時に、ガガーリンの成功した宇宙飛行の前には、死刑囚が乗せられて失敗したという都市伝説に近い暗い噂が流れていたことも思い出しました。



ガガーリンは、この美しい風景に心を癒されたのでしょうね。



川沿いには、もうひとつのガガーリン像が置かれていました。この顔は怖いですね。新しい像が作られたのも納得がいきます。



ガガリン像の近くには、観光客の食事のためらしいユルタも置かれていました。



谷奥には、雪山の美しい眺めが広がっていました。



しばらく周辺を散策しました。





放牧地帯になっているので花は少なかったですが、何種類かは見られました。







バルスコーン渓谷のもう一つの興味点は、玄奘三蔵のキルギス入りのルートであったということです。

シルクロードの一般的なルートの一つである天山南路は、敦煌から天山の南麓に沿って進み、カシュガルからパミール高原に至るルートでした。しかし、玄奘三蔵は、西域の高昌国と西突厥の庇護を受けるため、その途中から天山の山岳を超える道を選んでキルギスタンに向かいました。

玄奘三蔵は、タクラマカン砂漠北縁中間部のアクスーで雪解けをまって、3月にいよいよ山越えに挑みました。中国の西域から西トルキスタンへ入るには、標高4284mのベデル峠を超える必要があります。従者の3、4割が凍死するという多大の犠牲者を出したすえに、ようやく峠越えに成功しました。ベデル峠からは、このバルスコーン渓谷を下ってきて、大清池(イシク・クル湖)に出ました。

玄奘三蔵は、峠越をした後にバルスコーン渓谷に出た時には、どのような思いをしたでしょうか。

玄奘三蔵の通った道としてベデル峠を訪れたいと思いますが、中国とキルギスの国境地点として閉鎖されており、一般人が訪れることはできません。中国側は峠近くまで道路が通じているようですが、キルギス側は人馬が通れるほどの道しかないといいます。パキスタンから中国に入るクンジュラブ峠(4733m)は、警備が厳重といっても一般観光客も通過することができるので、ベデル峠も開放して欲しいものです。

この道の果てにはどのような眺めが広がっているのだろうという思いを胸に、バルスコーン渓谷を後にしました。

さすらいの風景 鷹匠

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バルスクーン渓谷からイシク・クル湖の南岸道路に戻り、ドライブを続けました。

展望台のようなものがあったので、停車しました。



あらためて、イシク・クル湖を南岸から眺めました。対岸にはクンゲイ・アラトーの山稜が広がっています。



この日も静かな湖面が広がっていました。



ドライブの途中、湖底が透けて見えているところもありました。イシク・クル湖は高い透明度を持っていることが判ります。



赤い崖が湖畔に迫るようになってきました。ここでも停車しました。



この一帯は地層が少し違っているようです。





イシク・クル湖の南岸は、北岸ほど開けていませんが、それでも湖水浴場も点在していました。



湖畔のALMALUU村のユルタで昼食になりました。南岸沿いには大きな町がほとんどないため、民家が大型のユルタを設けて、ツーリスト用の食事を提供しています。

ここでは、キルギス風揚げパンであるポールソクの調理を見学することができましたが、食事関係については、改めて別項目にて。



昼食後、再び南岸道路の移動を続け、草原を見下ろす丘の上に出たところで停車しました。



ここで鷹狩りの見学を行うことになりました。

鷹狩りは、現在世界に広がっていますが、紀元前3000年から紀元前2000年ごろの中央アジアないしモンゴル高原が起源と考えられています。

カザフスタン、キルギスタン、モンゴルでは狩猟にメスのイヌワシが用いられ、キツネやオオカミなど大きな獲物を狩猟しています。娯楽・スポーツ目的や食糧目的の狩猟ではなく、毛皮の獲得を目的としているようです。

夏の間の観光客に見せる鷹狩りは、冬の狩猟期に備えての訓練の意味合いもあるようです。



鷹匠は、キルギス帽の似合う穏やかな顔つきをしたおじさんでした。



グローブをはめた手で鷹を高く持ち上げるのが決めポーズのようです。



鷹には、平常の時は目隠しがしてあります。



しばらくは、鷹匠と鷹の撮影会になりました。



アシスタントの少年が兎を持って登場。かなりの大きさです。



眼下の草原に兎を持っていきました。



兎を離して、少年後退。



鷹が放たれました。低空で飛行し、背後から接近しました。兎は気づかないのか動きもしませんでした。



兎の捕獲。鷹は兎をついばんでいるようです。遠くのため細部は見えませんが、血なまぐさい光景なので、これくらいの距離の方が良いでしょう。



鷹匠が鷹を回収しました。兎の肉はどうなるのでしょうね。



目隠しが外された鷹の顔を見ることができました。やはり猛禽類といった険しい顔つきをしています。



この後は、ツアーメンバー全員が、このように鷹を持ってポーズをとらせてもらいました。鷹を持つときに、あれこれ指図されるのですが、鷹匠は特にキルギス帽の被り方にこだわりを持っていて手直しをしていました。鷹を持ち上げると、かなり重く、手が震えるほどでした。

チップが必要かと思いましたが、要求されませんでした。ツアー会社の方でまかなってくれたようです。

さすらいの風景 ソン・クル湖 その1

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長いドライブの末、イシク・クル湖の西岸に到着しました。対岸に見えるのは、バルイチクの町のようです。

ドライブの間、現地ガイドのエリさんからキルギスの誘拐婚についての話がありました。

キルギスでは、アラ・カチューと呼ばれる誘拐婚が現在でも行われています。このプロセスは、まず.花婿の家庭で花嫁も決まっていない状態で結婚式の準備を行います。花婿とその仲間が、女性が一人で歩いている時や家にいる時を狙って誘拐します。花嫁を自分の家に連れて帰ると、花婿の家庭の女性が花嫁に結婚を迫ります。joolukという白いスカーフを被せられると結婚を了承したとみなされしまいます。花婿の家族が花嫁の家族に結婚の事後承諾を得て、正式な結婚の手順を行って夫婦になります。

女性が拒み続ければと思いますが、一度男性の家に入ると、純潔ではないと見なされ、実家の家族に恥をさらしてしまうという理由で結婚を受け入れる女性たちが多いといいます。この誘拐婚は、法律で禁止されていますが、警察も裁判官も黙認しているため、いまだ続けられています。

実際に、結婚適齢期のエリーさんも誘拐婚に合わないかの恐怖心を持っているようです。

外部の人間がとやかく批判することは難しいですが、女性の地位の向上という面で、誘拐婚の習慣は無くなるとよいですね。



イシク・クル湖の南岸道路から南に向かう道に進みました。それほど走らないうちに湖が現れました。早くもソン・クル湖に到着かと思いましたが、これはオルト・トコイ貯水池でした。



景色も良いので、停車して見学しました。





谷間を進んでいくと放牧風景も見られました。



雪山も迫ってきていました。この道は天山を越して中国のカシュガルに続いているようです。



Sari Bulakでマイクロバス二台に乗り換えました。スーツケースは残し、一泊に必要な荷物だけを持っていくことになりました。ソン・クル湖の標高は3016mの高所にあるため、夜の防寒対策としてフリースセーター、マイクロダウン、ジャケットを持っていきましたが、夜は冷え込んだので正解でした。

この先は、未舗装のガタガタ道を進むことになりました。



道路の周りには、荒涼とした岩山が聳えていました。



小さな峠を越えると、小さな集落が現れました。



ソン・クル湖への道沿いで、これが最後の集落になりました。



赤茶けた岩肌が見られるところもありました。



谷を進むと、草原も広がるようになってきました。



メタカラコウの仲間でしょうか。



さらに高度を上げていくと、道路脇に花が見られるようになって、バスを降りて花の見学になりました。



フウロにマメ科の花。



この花は大群落を作っていました。





色変わりのものも。





タカネナデシコといったところですが、白花というところが違います。



アザミの一種。













ここまで見てきた花とは種類も違っており、高山帯に入ってきたことが判ります。

さすらいの風景 ソン・クル湖 その2

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ソン・クル湖に向かって谷奥に進んでいきました。





大きなカーブを交えながら高度を一気に上げていく道になりました。



未舗装の道で大きく揺れるため、写真撮影も大変です。



進んできた谷を眼下に見下ろすようになりました。



稜線も低く見えるようになってきました。



お花畑が広がるようになったので、再び停車しての観察になりました。



フウロが大群落になって咲いていました。



紫だけでなく白花もありました。













黄色のポピーが咲いていました。



キク科アザミ属シュマルハウセニア・ニュドランス(Schmalhausenia nidulans)。これは天山の固有種です。

ソン・クル湖からの戻りの途中、この花の群落に出会いましたので、詳しくはその際に。















ウスユキソウ属の花も現れました。



午後も遅くなって、お花畑が日陰になっていたのは残念でした。



標高3450mmのカルマク・アシュー峠も近づいてきていました。

さすらいの風景 ソン・クル湖 その3

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ソン・クル湖に入るためには、標高3450mmのカルマク・アシュー峠を越す必要があります。



車道が通過している峠ですが、標高が高いため、車道脇にも残雪が見られました。



上がってきた谷を振り返ったところ。



冬の間にかなりの雪が積もるようで、ソン・クル湖一帯に入れるのも夏期だけになっています。



峠からは、放牧場になっている草原を緩やかに下っていきます。



ようやくソン・クル湖が見えてきました。



ソン・クル湖は、東西25km、南北7kmで、琵琶湖の半分程の広さを持ち、キルギスではイシク・クル湖に次ぐ二番目の大きさを持っています。標高3016mの高山帯に広がっています。



ソン・クル湖の湖畔にたどり着いたものの、南岸に沿ってのドライブが長く続きました。



日も陰り初めてきました。



南側には、山の眺めが広がっていましたが、座った座席が湖側であったので、翌日を期待することになりました。



湖の南岸の半分近くを走ったところでユルタが並ぶ宿泊地に到着しました。



一つのユルタに3~4人が泊まることになりました。内部には簡易ベッドが置かれ、掛布団がかけられていました。



宿泊地の背後には、丘が広がっていました。翌朝、ご来光をみるために上がることにしました。



残照に湖面が光っていました。



空も茜色に染まりました。





大型のユルタに食堂が設けてあり、ここで夕食と朝食をとることになりました。食事内容については、別項目にて。



夕食を終えた後は、夕暮れの風景を眺めることになりました。



ユルタに灯りがともりました。





山も夜のとばりに包まれていきました。



持参していたウィスキーを飲みながら星が輝き始めるのを待ちました。



月は出てこず、星空の観察条件は整っていました。



星空を見た後は、することもないので早々と寝ることになりました。

さすらいの風景 ソン・クル湖 その4

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日の出を見るため、まだ暗い中ユルタを出て、丘を目指しました。丘の斜面には草地が広がっているのでどこでも登れるのですが、家畜の糞が落ちているので、踏まないようにヘッドランプで足元を照らす必要がありました。登る途中でヘッドランプの灯りもいらなくなりました。直登は急なため、右手の尾根に回り込んでピークを目指しました。

薄明るくなったところで、露岩帯になったピークに到着しました。登ったのは標高差にして100m少々といったところでしょうか。ソン・クル湖が標高3016mということなので、3000m峰登頂ということになります。

ピークの先は緩やかな尾根になって奥の稜線に続いていますが、時間がないので、ここで夜明けを待つことにしました。

夜になってから冷え込みが厳しくなっており、寝ている間もフリース、マイクロダウン、ゴアの雨具を着込んでいました。太陽を登るのを待つ間は少々寒かったですが、風が全く無かったのが幸いでした。



太陽はなかなか姿を現しませんでした。空が茜色になったところで、ようやく朝霧の中から姿を現しました。



残念ながら真っ赤な朝日は拝めませんでした。



周辺も良く眺められるようになりました。時間があれば先の稜線まで進みたいところです。



白く雪を頂いた峰々が、その頭を見せていました。



泊まったユルタが眼下に見えていました。ソン・クル湖の対岸は、朝霧に隠されていました。



西側にも、ツーリストキャンプ場らしいユルタが並んでいました。

朝霧のためにぼんやりとしていましたが、これはこれで美しい風景です。ソン・クル湖も草原からでは水面が確認できるだけであったので、丘に上がってようやく眺めを楽しむことができました。



ピークの奥は台地になっており、馬が放牧されていました。



時間をおいて見直すと、全く姿勢を変えていないのに気がつきました。

馬は、草食動物の習性で、いつ肉食動物に襲われても逃げられるように、立ったまま寝るようです。太陽が登って明るくなると、動いて草を食べ始めました。



ピーク周辺は露岩帯になっており、草原とは違った背丈の低い花が見られました。



小型のマンテマです。















この日の出発は早かったため、朝食の時間に合わせて、風景と花を眺めながら丘を下りました。









下りの途中から眺めたユルタ。影が長く伸びていました。







草原まで下ってきました。朝霧がまだ広がっていました。





ユルタ周辺の花を改めて探しました。





ウスユキソウ属の大群落が広がっていました。





ガイドブックや旅行会社からは、エーデルワイスと紹介されていますが、エーデルワイスや日本のハヤチネウスユキソウと比べると、花は小型です。日本で見られるものでは、ヒナウスユキソウ相当といって良いでしょう。花が小さいという不満の声も聞こえていたので、エーデルワイスと呼ぶのは、誤解を生む表現ですね。



朝食をとった後、出発しましたが、もう少し周辺を歩きまわりたかったですね。丘に上がったのも、他には女性一人だけでした。丘からのソン・クル湖の眺めを楽しまなかったのは、ガタガタ道に揺られてはるばるやってきたのに、もったいないとしか言えません。

さすらいの風景 ソン・クル湖 その5

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ソン・クル湖からの戻りは、山側を眺めながらのドライブになりました。

放牧民のユルタから朝食の準備の煙が上がっていました。



雪山を望む別天地ですが、放牧民のように夏中過ごすとなると大変ですね。



ソン・クル湖を取り巻く山は、4000m級でしょうか。つい、登山ルートを探して目で追ってしまいます。





羊の大群が現れたので、停車して見物になりました。



日本では見られないスケ-ルの大きな放牧風景です。





パノラマ写真で判るように、羊の群れは視野の180度分に広がっていました。







これまでの一生で見た数よりも多くの羊を一度に見ました。



湖に流れ込む小川も現れました。



小さな池もできていました。





再び羊の群れ。



小川で水を飲む馬。景色が良いので、再び停車しました。





砂埃を立てて走っていく先頭車。峠も近づいてきました。



馬に乗った少年に遭遇。



ガイドのエリーさんが、馬をかりて乗り回してみせました。



それを見て我慢できなくなってか、ドライバーさんも馬に乗りました。

遊牧民の末裔だけのことはあって、キルギスでは馬に乗れるのは普通のことのようです。



馬をとりもどした少年は、颯爽と馬を走らせて去っていきました。



ソン・クル湖では、放牧風景をまとまってみることができました。

さすらいの風景 ソン・クル湖 その6

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カルマク・アシュー峠に戻ってきました。



峠の周辺には、雪をまとったピークが手に届くような近さに見えていました。少し登れば、4000m峰登頂になるのですが、残念です。



バスを降りて、峠周辺の花を観察しました。



お馴染みのタンポポにしかみえませんが、高山性の種類なのでしょうね。



ウスユキソウの仲間もありましたが、ソン・クル湖の湖畔で見たものと同じなのかどうか。



ここでも何種類もの花を見ることができました。

















峠から、雪壁の残っている所へ少し移動しました。



雪には3300mと書かれていました。峠の標高は3450mmと書かれているものもあります。



ソン・クル湖へと上ってきた谷が一望できました。



あのピークに登りたいと、心が揺れます。





キルギスの天山山脈の固有種であるSchmalhausenia nidulans(シュマルハウセニア・ニュドランス)の群落が、車道脇に広がっていました。



この花は、5年程生きたのち花を咲かせて枯れるといいます。群落の中で、成長の各段階を見ることができました。





ようやく咲いた花。







峠付近の花を楽しんだ後、バス移動を続けました。
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