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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 タリン その8

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ラエコヤ広場から北に向かうことにしましたが、まず聖霊教会を見学しました。

聖霊教会は、市庁舎及び聖霊教団救貧院の礼拝堂として、14世紀に現在の姿がほぼ整った古い教会です。



壁に掛けられた大時計は、1684年にタリンではじめて取り付けられた公衆時計です。



堂内は、天井も低く、薄暗い感じでした。

タリンの他の教会が裕福な貿易商人のためであったのに対し、聖霊教会は下層の人々のためのものでした。



年期の入った説教台。



堂内には、宗教革命の破壊を免れた貴重な文物が保管されていますが、特に有名なのは主祭壇です。



主祭壇は、ベルント・ノトケによって15世紀に造られたものです。木彫で「聖霊の降誕」の場面が描かれています。



この主祭壇も階層状に装飾されています。教会の売店で買った印刷物からの画像を載せておきます。

まず扉絵。



第一面。



展示されていた第二面。



堂内は、二階建になっており、桟敷の壁には、旧・新約聖書の場面が描かれていました。



全体では57枚の聖書の場面が描かれており、これらは字の読めない人々の教化に使われました。

これはエデンの園と楽園追放の場面ですね。



受胎告知とキリストの誕生。



十字架を担うキリスト。

絵が黒ずんでいたり、表面に光が反射したりして、全部を見分けることはできませんでした。



美しいステンドグラスも飾られていました。









ステンドグラスは、細かい模様が描かれているので、比較的新しいもののようです。



聖霊教会の前にある大グルドの会館は、1410年に建てられた大ギルドの集会やパーティー、結婚式に使われてきた建物です。1920年にギルドは解散し、現在ではエストニア歴史博物館として使われています。



通りを進むと、ブラックヘッドの会館が現れました。守護聖人にエチオピア生まれの聖人マリティウスを戴いた友愛会の会館です。ブラックヘッドの友愛会は1399年に組織され、外国人や未婚の若い商人が大ギルドに加わるための準備期として、席をおきました。



16世紀にオランダル・ネッサンス様式に改装された建物の外壁は、さまざまなレリーフで飾られ、守護聖人が飾られたカラフルナなドアは17世紀のものです。



通りを進んでいくと、道が二手に分かれました。左のピック通りへ。



ピック通りは、港から旧市街の中心まで通じる通りです。



横道のヴァイル通りへ。

ヴァイムとは幽霊のことで、オランダ商人が妻を惨殺し、その幽霊が出るようになったといいます。17世紀から正式に幽霊通りと呼ばれてきています。

枯れ枝に覆われて荒れた家があったりして、暗い雰囲気の小路でした。



ヴァイム通りを抜けると、ピック通りと平行に走るライ通りにでます。



ライ通りは、広い通りの意味です。ピック通りが商人たちの通りであったのに対し、ライ通りは職人のための通りでした。



古い家が並んでいます。



リガと同じくタリンでも三人兄弟と呼ばれる建物がありましたが、少々荒れた感じです。


さすらいの風景 タリン その9

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タリンの旧市街地の北のはずれ近くにある聖オレフ教会の下に出ました。

13世紀半ばの記録に残る、ノルウェ-の聖人王を祀った教会です。熱心なカトリック信徒であり、その治世のほとんどを王国のカトリック教化に務めたノルウェー国王オーラヴ2世のことだろうと思います。

雷で何度も焼け落ち、1840年に現在の姿になりました。

124mの高さの塔は、旧市街地で一番の高さになっています。15世紀の塔は、159mの当時は世界一高い塔といわれていたようです。



塔に登ることにしました。長い階段が続きますが、螺旋階段は幅があり、両脇にロープが下がっているため、歩きやすくなっていました。大聖堂よりは一般向きでした。



旧市街の中心になる南方向の眺め。

塔の上からは、高度感のある眺めが広がっていました。



左から聖ニコラウス教会、アレクサンドル・ネフスキー教会、大聖堂。



ライ通りが続くのを眺めることができます。



中央は旧市庁舎の塔、右手前は聖霊教会。



北の港方面の眺め。



北の町外れにある太っちょマルガレータが見えています。



北西の城壁。



聖オレフ教会では、塔の上へ登る観光客は大勢いましたが、堂内を見学している者はあまりいませんでした。



この教会でも立派なパイプオルガンが設けられていました。



ライ通りの北のはずれには、粉挽き小屋がありました。動力には馬を使ったようです。



ピック通りに移ると、三人姉妹の家がありました。

15世紀に建てられた商人の家の集合体です。現在ではホテルになっています。



北の城門であるスール・ランナ門までやってきました。



スール・ランナ門の脇の建物は、海洋博物館になっています。



スール・ランナ門の脇には、太っちょマルガレーテと呼ばれる砲塔が設けられています。

太っちょマルガレーテは、街の最も重要な出入り口を守るため、1529年に造られた直径24m、壁の厚さは4.7mにも及ぶ砲塔です。砲塔の役割が終わった後は兵舎や監獄として使われ、囚人の食事を切り盛りした太ったおかみさんの名前から「太っちょマルガレーテ」と呼ばれるようになりました。



外側から見たスール・ランナ門。タリンの小紋章が飾られています。



目的の旧市街の北端まで歩きましたが、聖ニコラウス教会でのオルガンコンサートを聞くため、急いで戻りました。少し遅れましたが、なんとか聞くことができました。



オルガンコンサートが終わってから、街歩きをもう少し続けることにしました。



トームペアの丘の下を北に向かうと、市街地の北西に続く城壁が現れました。





この塔は、修道女の塔と呼ばれ、ここからも城壁に上がることができます。



まだ開いていたので入場しましたが、修道女の塔はハトのねぐらになっており、糞のために異臭がしていました。観光客も、ここにはあまりこないようです。



北西の城壁の眺め。



キリスト変容教会の眺め。



歩き疲れて、ラエコヤ広場に戻ってきました。



夕食には少し早い時間でしたが、足も疲れたので、ビア・ホールで一杯飲むことにしました。



時間が早いため、店内はがらすきでした。大ジョッキのビールとソーセージで腹ごしらえをしました。



ピック・ヤルク通りを通ってトームペアへ。この道は何度通りましたかね。



前日、じっくりと見なかったデンマーク王の庭にやってきました。



1219年、ローマ教皇とリヴォニア司教が呼びかけた北方十字軍に参加したデンマーク王・バルデマー2世は、エストニアに上陸して土着の首長たちとの戦いを開始しました。バルデマー2世は、トームペアのの砦をなかなか落とせず、敗色が濃厚になってしまいました。王は、最後は神頼みしかないと、神に祈りを捧げました。すると空から赤地に白十字の旗が舞い降りて来て、それに鼓舞された彼らは戦いに勝つことができたといいます。その旗は、のちにデンマーク国旗となりました。

しかし、これはあくまで伝説であり、デンマーク政府は、13世紀初頭にローマ法王が十字軍の標としてクロスを授けたものが由来だと説明しています。

エストニアの観光で、デンマークの国旗について語っているのも、不思議な話ですね。



ホテルに一旦戻って、夜になってから夜景見物に出かけようかと思っていたのですが、小雨が降ってきてしまったため、タリン観光は終わりになってしまいました。

バルト三国の首都は、それぞれの魅力がありましたが、中世都市としての魅力ではタリンが一番でした。

翌日は、フェリーでヘルシンキに戻ることになります。

さすらいの風景 ヘルシンキ その1

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第八日目は、フェリーにタリンからヘルシンキに移動し、ヘルシンキに到着後はヘルシンキの市内観光になりました。最終日の午前中は自由行動でヘルシンキ観光を行うので、1日分をヘルシンキ観光にあてることができます。

ヘルシンキは、30年ほど前に訪れており、写真は残っているものの、その時の記憶も薄れています。

フェリーを下りて、昼食までに少し時間があるので、ウスペンスキー寺院を訪れました。



ウスペンスキー寺院は、北欧最大のロシア正教の教会で、1868年にロシア人建築家によって建てられました。

あいにくとこの日は曇り空で写真映りが悪く、翌日に再度撮影を行うことになりました。



この教会の十字架は、ロシア正教で見られる八端十字架と少し違って、一般的には下の斜めになった横木が三日月状になっています。八端十字架の下部の斜めになった横木は、足台を表していて、傾きの向きも意味があるようです。一番下の横の十字が三日月型になっているのは、「舟形」と呼ばれ、船のイカリを表して航海の無事を祈る意味を持つといいます。



第八日目の観光ではウスペンスキー寺院に入らなかったので、翌日のスオメンリンナ島観光の後で、再度訪れました。



青空をバックにして見ることができました。



ウスペンスキー寺院の内部は、ロシア正教ならでは重厚な装飾が施されていました。



イコノスタシスも見事です。



ドームの明かり取りから光が差し込んできます。



バルト三国の観光中、幾つかのロシア正教教会に入りましたが、いずれも内部は写真撮影だったので、今回の旅では最初のロシア教会内部の写真ということになります。







ウスペンスキー寺院のテラスからは、ヘルシンキ大聖堂の眺めが広がっていました。



ヘルシンキ大聖堂は、青空をバックいしないと見栄えがしませんね。



続けて、ヘルシンキ大聖堂を見学しました。ネオ・クラシック様式のこの教会は、1852年に30年の歳月をかけて完成しました。当初、ドームは中央のものだけでしたが、後に四方に小さなドームが加えられました。



ヘルシンキ大聖堂の階段上から見た元老院広場。

スウェーデン領であったフィンランドは、ナポレオン戦争の最中に、アレクサンドル1世によってフィンランド大公国が建国され、ロシアの属国となりました。アレクサンドル1世はフィンランドでのスウェーデンの影響を減らすことやサンクトペテルブルクに近いことから、1812年に首都をそれまでのトゥルクに代わってヘルシンキに移しました。

新しい首都の設計をまかされたドイツの建築家エンゲルは、新古典主義の都市計画をすすめ、ヘルシンキ元老院広場を中心にして、周辺にはフィンランド政府宮殿やヘルシンキ大学の本館を配置しました。広場の北側のヘルシンキ大聖堂は、エンゲルスが亡くなった12年後の1852年に完成しました。



ヘルシンキ大聖堂の前の元老院広場に立つのは、ロシア皇帝アレクサンドル2世像です。



アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世がクリミア戦争中に急死したため、アレクサンドル2世が皇帝につきました。アレクサンドル2世は、国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制政治を延命させることが出来るという思想をもって改革に臨みました。

フィンランドは、この開明的な啓蒙君主のもとで「自由の時代」を謳歌し、民族意識も発展していきました。今でもフィンランド人はアレクサンドル2世を敬愛しているといいます。しかし、アレクサンドル2世が暗殺された後、ロシアは中央集権化を進めるために帝国内の各民族への統制を強めていくことになりました。

なお、アレクサンドル2世の暗殺場所には、血の上の救世主教会が建てられ、サンクトペテルブルクにおける欠かせない観光スポットになっていますね。



アレクサンドル2世像の基部には、法,光(科学と芸術),平和,労働を象徴した像が置かれています。



ヘルシンキ大聖堂は、フィンランド福音ルター派の本山になっています。内部は高い天井を持っているものの、内装はすっきりしています。



主祭壇。



説教台



立派なパイプオルガンが設けられていました。



参列者席は、馬尾で表装されていました。これに用いられる馬尾は小便のかからない牡馬のものが用いられていると現地ガイドが説明していました。



白亜のヘルシンキ大聖堂は、やはり青空をバックに見たいものです。最終日の自由行動時に、改めて外観を見に訪れました。





ウスペンスキー寺院とヘルシンキ大聖堂は、ヘルシンキの最大の見どころといえます。

さすらいの風景 ヘルシンキ その2

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ヘルシンキ大聖堂の後は、オリンピックスタジアムを見学しました。



ヘルシンキオリンピックは、1952年に開催されました。

1940年に東京で予定されていたオリンピックは、日中戦争激化を理由に開催中止となり、その代替としてヘルシンキで繰り上げ開催されることになりました。しかし、その後の第二次世界大戦の勃発により、1940年の開催は返上されてしまいました。戦後初となる1948年のロンドンに続いて、1952年にヘルシンキでオリンピックが開催され、日本もこの大会から復帰参加できるようになりました。



オリンピックスタジアムに入り口は、オリンピック関連資料の展示がされていました。



ポスターやチケット。



観客席からスタジアムを眺めました。



このスタジアムは、幻に終わった1940年のオリンピックに合わせて1938年に完成しました。ヘルシンキオリンピック当時70,000人収容でしたが、現在は40,000人収容になっています。

現在、東京オリンピックのための国立競技場の建築が問題になっていますが、スポーツ施設であるという前提が忘れられていると思います。



続けてシベリウス公園を訪れました。



ここには、没後10年を記念して、1967年に製作されたシベリウスの記念碑があります。パイプを組み合わせてオブジェは、パイプオルガンを模したものといいますが、シベリウスの作品にオルガンの曲はないことから、北欧の森林を現しているのではと個人的には思います。



最初はパイプのモニュメントだけが造られましたが、抽象的という批判があったため、脇に頭部の像が加えられました。



続いてテンペリアウキオ教会へ。岩を自然なまま残そうというコンセプトで、1969年に造られたこの教会は、外からでは教会であることが判り難くなっています。



堂内の眺め。



二階席から堂内を眺めたところ。



子供たちがギター演奏の練習を行っていました。しばらく演奏に耳を傾けました。指導者は日本人で、日本の曲も混じっていました。



テンペリアウキオ教会はホテルにも近かったため、自由行動の最後に、再度訪れました。



この日は団体の観光客で賑わっていました。



主祭壇。天井のドームからの光が放射状の線を描いていました。



教会の置かれている岩に上がることができます。



教会の天井のドーム。空飛ぶ円盤の秘密基地といった感じです。



テンペリアウキオ教会からホテルに向かう前に免税店に寄りました。ツアー中、土産物屋に何度も寄るのは迷惑ですが、土産物を買う必要もあります。



日本人向けの店ということで、ムーミングッズが充実していました。ヘルシンキ市内にもムーミングッズ店がありましたが、ここの方が品物は豊富でした。



ホテルにチェックイン後、夕食と翌日の午前中は自由行動ということなので、ヘルシンキの街をさまようことになりました。

さすらいの風景 スオメンリンナ島 その1

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帰国日の午前中は自由行動になりました。団体観光でテンペリアウキオ教会やシベリウス公園を訪れていたので時間に余裕もあることから、スオーメンリンナを訪れることにしました。

スオメンリンナへのフェリーは、マーケット広場から出るため、朝食を終えたところで、早足に歩いて向かいました。ヘルシンキ市内の移動には1日券が利用価値がありますが、ホテルから街中へは歩いていける距離のため、今回は全て歩きで通しました。


フェリ-乗り場は、前日の夕食時の歩きの際に確認してありましたが、1時間に2~3本と頻繁に出ています。

朝早くの便であったため空いており、眺めを求めて船内を自由に動き回ることができました。



フェリーが出発すると、海辺にある茶色のレンガ造りのオールドマーケットの建物が見えました。



ウスペンスキー寺院。

フェリーは絶好の展望台になっています。





フェリーはエテラ港と呼ばれる湾を進んでいきますが、小さな島が点在しています。





小さな島に家が建っています。住宅なのでしょうか。



前方に見えてきたのがスオメンリンナ島のようです。



スオメンリンナ島は、四つの島からなり、それぞれ橋で結ばれています。



船着き場のある中心になる島が近づいてきました。





15分程の船旅でスオメンリンナ島に到着しました。



桟橋の脇に島へのメインゲートがあります。



島内の地図が置かれているので、一応確認しましょう。南の外れを目指すことになります。



カフェになった家も並んでいます。



スオメンリンナ教会。

スオメンリンナ教会は、フィンランドがロシアの支配下にあった1854年に完成しました。もともとは先が玉ねぎの形をした5つの尖塔を持つロシア正教会でしたが、1918年フィンランドが独立した際に、ロシア風装飾が取り除かれ、現在のシンプルな福音ルーテル教会となりました。また高さが2倍になった教会の尖塔は船や飛行機を先導する灯台としても使われています。



要塞として用いられていたと思われる堅固な壁を持った建物も現れてきました。



南の島に渡る橋が見えてきました。



世界遺産にも選ばれているスオメンリンナ島の核心部はこの先になります。

さすらいの風景 スオメンリンナ島 その2

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フィンランドがスウェーデンの支配下にあった1748年に、ロシアに対する守りをかためるため、スオメンリンナ島に要塞が築かれました。フィンランド戦争中の1808年5月3日に要塞はロシア軍に占領され、1809年のロシア軍によるフィンランド占領の足がかりとなりました。また、1855年のクリミア戦争のときには、イギリス海軍とフランス海軍による艦隊の艦砲射撃で損害を被りました。

スオメンリンナ島は、現在では、世界遺産に認定されるとともに、ヘルシンキ市民の憩いの場になっています。



橋を渡ると、堅牢な壁が続いています。



内部には、狭い門をくぐる必要があります。



門の脇に置かれた世界遺産のプレート。



ゲートを抜けた先の広場には、スオメンリンナ島の要塞化の功労者であるエーレンスヴァルドの墓があります。



時間も早いため人も少なく、ネコがのんびり散歩していました。



ため池も設けられていました。



前方の丘の上に、大砲が見えてきました。



海を見ながらの気持ちの良い歩きになりました。





海に向かって、大砲が並んでいます。



振り向くとヘルシンキの市街地も見えていました。



ズームアップすると、ヘルシンキ大聖堂も。



砲座や弾薬庫も多く設けられていました。



地上を歩いているだけでは判り難いですが、スオメンリンナは星型要塞として築かれています。スオメンリンナは、スオミの城塞という意味で、フィンランドの独立に合わせて改名されました。



海上には小さな島が点在し、航路も限られて、防御の役にたっていたのでしょう。





沖には、ヘルシンキとタリンを結ぶフェリーが見えていました。



道を引き返していくと、南の島への橋のたもとの桟橋に市営のフェリーが到着していました。子供の団体が降りてきて、急に賑やかになってきました。



北の島はホテルになっているようです。乗客を満載したフェリーが到着したので、そのフェリーで引き返すことにしました。朝の静かな時間にスオメンリンナ島を散策できたので満足でした。



大きなフェリーが入港するところでしたが、これはストックホルムとヘルシンキを結ぶシリアラインのようです。



スオメンリンナ行きのフェリーとすれ違いました。満杯状態のようです。



マーケット広場の桟橋に戻ってきました。



前日とうってかわった青空が広がったおかげで、スオメンリンナへのミニ・クルーズを楽しむことができました。

さすらいの風景 ヘルシンキ その3

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スオメンリンナ島から戻って、まず昨日見逃したウスペンシキー寺院の入場観光を行った後、マーケット広場付近を散策しました。

まず、マーケット広場の入り口にあるハヴィス・アマンダ像。



ハヴィス・アマンダ像は、当時パリで活躍していた彫刻家ヴァルグレンによって製作されました。銅像はパリのアートサロンで公開され、好評をはくしました。その翌年、噴水広場のメイン・モニュメントとしてヘルシンキが誘致し、1908年にお披露目されました。現在では、ヘルシンキのシンボルとして親しまれています。

なお、像の名前は、ヘルシンキがハヴィス・アマンダ、「バルト海の乙女」という愛称を持っていることに由来します。



マーケット広場には、観光客向けですが、露天が並んでいます。





広場の中心に立つのは、アレクサンドラ皇后(ニコライ1世の皇后)の訪フィンランド記念碑。双頭の鷲が輝いています。



店をのぞいても買いたいものは見当たりません。今回は、バルト三国訪問が目的であるせいもあります。



マーケット広場で昼食をとる予定であったので、食べ物を売る店をのぞいて回りました。





結局、サーモンスープを食べました。このサーモンスープは、具もたっぷり入っており、昼食に良い量でした。味も気に入って、帰国後に自分で調理してみましたが、家族にも好評でした。



広場の背後は市庁舎。



果物屋。ベリー類が豊富でした。



花屋。



横付けした船の上で魚を売っていました。釣りたてなのでしょう。



レンガ造りのオールドマーケットに向かいました。



内部は整然と店が並んでおり、逆に面白味が少なくなっています。





ここで目を引いたのは、サーモンでした。肉厚のものが並んでおり、買いたい衝動にかられました。結局、空港の免罪店でパック入りのスモークサーモンを売っていたので、土産に買いました。

さすらいの風景 ヘルシンキ その4

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ヘルシンキの街歩きで見た風景です。

宿泊したスカンディックパークは、ヘルシンキの中心部まで徒歩圏内で、自由行動には便利でした。



ヘルシンキ市内は、路面電車をはじめバスや地下鉄の路線が発達しており、1日券もあって便利なのですが、ほとんどは徒歩圏内です。



ホテルを出て中心部に向かうと、シベリウス・ホールがあります。30年ほど前にオール・シベリウスのコンサートを聞いたことがありますが、音響の素晴らしいホールでした。



続いて、国立博物館の建物が見えてきます。



国立博物館は、1902年に建てられ、先史時代から現代までのフィンランドの歴史に関する展示がされています。





マンネルヘイム元帥像。



マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官を務め、戦後に第6代大統領を務めました。



Forumは、大きなショッピングセンターです。



Stocckmannは、ヘルシンキ一番のデパート。



その脇に、3人の鍛冶屋の像があります。この像は、人々の労働と協調の象徴とされています。



ヘルシンキ中央駅。



入り口には、巨人像が飾られています。



ヘルシンキ中央駅の中をのぞいてみましたが、古めかしい感じでした。



プラットホーム。近郊への列車が停車していました。

ヘルシンキからの国際列車は、ロシアで使われている広軌を採用しているため、サンクトペテルブルクやモスクワ行きのロシア方面はありますが、スウェーデン方面の直通列車はありません。



ヘルシンキ中央駅の隣には、ヘルシンキ国立劇場があります。



ヘルシンキ随一の繁華街のエスプラナーディ通り。



エスプラナーディ通りには、立派な建物が並んでいます。



エスプラナーディ通りにあるマリメッコの店。こういったブランド店に、あまり興味はありません。



歩き疲れてホテルに戻ってきて、少し時間があったので、前のトーロ湾の岸辺のベンチでひと休みしました。湖のように見えますが、海に通じています。



ヘルシンキのガイドブックでは、映画「かもめ食堂」のロケ地が取り上げられています。事前の予習ということでレンタルビデオで見ましたが、「山なし、落ちなし、意味なし(やおいというと別な意味を持つようになっていますが)」そのもので、私には波長が合わず途中から早送りにしてしまいました。映画がオモシロかったらロケ地巡りをしたところですが、その必要はない映画でした。



海に近いことから水鳥も多く遊んでいました。

旅の最後をシベリウスの曲を聴きながらしめくくることにしました。

昼に集合してヘルシンキ・ヴァンター国際空港に向かい、帰国の途につきました。

さすらいの風景 バルト三国とフィンランドのネコ

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ラトヴィアの「ネコの家」に見られるように、バルト三国では、ネコの装飾が多く見られました。

実際のネコは、ノラではなく飼い猫がほとんどのようで、数は少なめでしたが、戸外で見ることができました。



ラトビア・リガのネコ。

ヒゲが立派です。



リトアニア・トラカイ城のネコ。



リトアニア・ビリニュスのネコ。

人なつこいネコで、足にすりすりしてくるため、かえって撮影が難しくなりました。このネコもヒゲが立派ですね。



夜景見物のためにホテルを出ると、同じネコにまた出会いました。



これもリトアニア・ビリニュスのネコ。



リトアニア・カウナスのネコ。



リトアニア・カウナスのネコ。



エストニ・タリンのネコ。



フィンランド・スオメンリンナ島のネコ。

一応、訪問した各国でネコを見ることができました。

さすらいの風景 バルト三国とフィンランドの食 その1

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旅の楽しみの食事。メリトングランドコンファレンス&スパホテルタリンでの朝食。

焼き立てパンとスモークサーモンがうれしかったです。



リガ・デイズホテルベフでの朝食。

ハム類が美味しかったです。

ビュッフェスタイルの朝食は、自分の好みで料理をとってしまうため、内容は人によって違ってきます。



エストニア・タルトゥでの昼食。

ニシンのサラダ。



チキンのチーズリゾット。



ケーキ。

デザートは、甘く多めです。



ラトヴィア・リガでの夕食。

サラダ。



魚のフライ。付け合せポテトで腹いっぱいになってしまいました。



フルーツゼリー。



ラトヴィア・リガでの昼食。

野菜サラダ。



ロールキャベツ。



チョコレートケーキ。



リトアニア・ビリニュスでの夕食。

野菜スープ。



ビーフストロガノフ。

ビーフストロガノフは、ロシア料理の代表的なもので、ロシア文化の影響を知ることができます。



ベリーケーキ。



リトアニア・ビリニュスでの昼食。

スープ。



リトアニア料理のコルドゥーナイ(リトアニア風水餃子)。サワークリームを付けて食べます。

醤油あるいはポン酢を付けた方が食べやすいことは確かですが、現地の味で食べるべきでしょう。



フルーツ。



リトアニア・ビリニュスでの夕食。

野菜サラダ。



豚肉のグリル。



タルトケーキ。



リトアニア・カウナスでの昼食。

チキンサラダ。



リトアニア料理を代表するツェペリナイ。中身が判るように半分に切ってあります。

飛行船の形からツェペリナイと呼ばれ、もちもち感のあるジャガイモ団子の中にひき肉が詰められています。



ゼリーパイ。



ラトヴィア・リガでの夕食は、ホテルでのビュッフェでした。

さすらいの風景 バルト三国とフィンランドの食 その2

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料理の続きです。

ラトヴィア・スィグルダでの昼食。

ひまわりの種入りキノコスープ。



ローストポーク。



チョコレートムース。



エストニア・タリンでの夕食。

スルトゥ(豚の煮こごり)。日本の煮こごりと変わらない味でした。もう少し量があった方が良かったです。





シャーベット。



エストニア・タリンでの昼食。

カリフラワーのスープ。



チキンフィレ・グリル。



ケーキ。



エストニア・タリンでの自由行動での夕食。

ビアホールで、ソーセージ。



夜になってから再度出かけて、もう一杯と思っていたのですが、雨になって出かけるのは止めてしまいました。少し食べたりなかったので、ホテルでペストリーを買いました。北欧のペストリーは美味しいですね。



フィンランド・ヘルシンキでの昼食。

サラダ。



サーモン・グリル。

日本では味わえないサーモンで、これは絶品でした。



ケーキ。



フィンランド。」ヘルシンキでの自由行動での夕食。

フォルムの地下にあるフードコーナーの中華料理で食事をとりました。写真には出ていませんが、料理ができるまで、春巻きとフリッター、ライスはセルフで自由に食べることができるシステムになっていました。メインのカツの肉は硬すぎて料理の選択は失敗でしたが、春巻きだけでもご飯を充分食べることができました。



フィンランド・ヘルシンキでの自由行動での昼食。

マーケット広場で、サーモン・スープ。食べてみる価値のある味でした。



日本に戻ってから、味を忘れないうちにということで、自分で作ってみました。

レシピは、クックパッドの「フィンランド家庭料理♡サーモンスープ♡ 」によりました。生鮭がブロック状のものがなく、切り身状のもので間に合わせたのが少し残念でした。また、この日の買い出しでは、ディルを売っていなかったので、乾燥パセリですましてしまっています。



食事にビールは欠かせませんね。

自由行動での食事は、タリンでもそうでしたが、ビアホールで済ませることが多いですね。



この「Beer House」では、何種類ものビールがありましたが、歩き疲れたこともあって結構酔いがまわって、1種類しか確かめることができませんでした。



「Beer House」のラベルを見ると、オーストリアの技術に基づくと書いてありますね。



ビールにはソーセージが合います。



ヘルシンキからタリンへのフェリー上で、ますエストニアビールのA.Le Coq。



A.Le Coqは、エストニアを代表するビールの一つです。



エストニアを代表するもう一つのビールが、Saku。

タリンから20km南にあるサク市で作られており、日本の佐久市とは姉妹都市とのこと。



スーパーで買った二種類のSaku。



ラトヴィアのリガで飲んだビール。グラスに書いてあるのが、ビール会社のものかは判りませんでした。



リトアニアを代表するSvyturys beer。



グラスでも提供されていました。



ラトヴィアのビールのMezpils Alus。



フィンランド・ヘルシンキで飲んだKrombacher Beer。これはドイツビールですね。

料金も安めのツアーのため、一流レストランでの食事というようなものは含まれていませんでしたが、特徴のある地元料理を楽しむことができました。

さすらいの風景 バルト三国とフィンランド土産

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リトアニアの名物としてまず挙げられるのは、琥珀です。バルト海沿岸部が主な生産地になっており、バルト三国の中では物価が一番安くなっていることから、琥珀の買い物もしやすくなっています。

リトアニアのビリニュスでアンバーミュージアムを訪れたので、土産に買いました。日本での相場を知らないのですが、リトアニアではおそらく安いのでしょう。



別の土産物屋で買ったネックレス。



琥珀のブローチ。



自分用には、琥珀を使ったハリネズミ人形。



琥珀を使ったマグネット。



リトアニアの露店で買った木組みの鍋敷き。現在、家で使っています。



リトアニアのカウナスで買ったネコ模様のランチョンマット。



ラトヴィアのスィグルダで買ったネコ模様のマフラー付き帽子。使いこなすのは難しそうです。



エストニアを代表するKALEV社のチョコレート。ベリー類の入っているチョコが揃っています。



ラトヴィアのLaima社のチョコレート。ばらまき土産用に大量購入しました。



ラトヴィアのリガのスーパーで見かけた猫舌チョコレート。ウィーンのデメルの物が有名ですが、他でも出しているのですね。



タリンからヘルシンキへのフェリー内の免税店で買ったファッツェル(Fazer)社のチョコレート。特に、ピンクの箱の「Geisha(ゲイシャ/芸者)」は、その名前の由来通りにあまーく、また買いたいと思う美味しさでした。



リトアニア・カウナスの杉原記念館で買ったチョコレート。

チョコレートばかり買ってしまいました。



ラトヴィアのリガの中央市場で買った干しアンズ。ジャム作り用です。



ラトヴィアの民族音楽CD。いかにもフォークソングといった、踊りたくなるようなのりの曲でした。



リトアニアの夜明けの門の礼拝堂のお土産用イコン。



ヘルシンキの土産物店で買った、ムーミンの70周年記念のぬいぐるみ。



ムーミンのマグカップ。



リトルミーとフローレンの付いたキーホルダー。



ムーミンのティーバック。



ムーミンのクッキー。



空港の免税店で買ったウォッカ。



スモークサーモン。

結構、土産を買いこみました。

バルト三国は、北欧に比べると物価は安く、これからますます人気の高まる観光地になるだろうと思います。

(これにてバルト三国旅行記は終わり。長い間おつきあい頂きました。次はキルギス旅行です。)

さすらいの風景 成田からアルマトイへ

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7月は高山植物のシーズン。昨年はカナディアン・ロッキーに行ったので、今年も自然度の高い国へと考え、訪問国を増やす目的もあって、中央アジアのキルギスへ行くことにしました。

キルギスは、シルクロードとも関係の深い国ですが、歴史的遺構は多くないので自然風景と合わせて見学することになります。

申し込んだのは、以下のツアー。パンフレットとは、順番や内容が少し違っています。

「キルギス・カザフスタン天山自然紀行」(西遊旅行社)

2015年
第1日目 7月10日(金)
成田発 13:30(OZ-103)ソウル着 16:00
ソウル発 18:10(OZ-577)アルマトイ着 21:55 時差-3時間
 (アルマトイ OTRAR泊)

第2日目 7月11日(土)
アルマトイからビシュケク
ビシュケク市内観光(国立博物館、アラ・トー広場、オシュ・バザール)
 (ビシュケク AK KEME泊)

第3日目 7月12日(日)
アラ・アルチャ自然公園、トクマク(ブラナの塔、石人)、アク・ベシム遺跡
 (チョンケミン ASHU GUEST HOUSE泊)

第4日目 7月13日(月)
チョンケミンフラワーハイキング、イシク・クル湖クルーズ
 (イシク・クル湖畔 ROYAL BEACH泊)

第5日目 7月14日(火)
岩絵野外博物館、スキタイ人の墓、プルジェヴァルスキー記念碑、ドゥンガンモスク、カラコル渓谷
 (カラコル GREEN YARD泊)

第6日目 7月15日(水)
バルスクーン峡谷、鷹匠見学、花の観察、
 (ソン・クル湖 ユルタ泊)

第7日目 7月16日(木)
花の観察、ソン・クル湖からビシュケク
 (ビシュケク AK KEME泊)

第8日目 7月17日(金)
ビシュケクからアルマトイへ
アルマトイ市内観光(中央墓地、中央バザール、パンフィロフ公園)
アルマトイ発 23:10(OZ-578)

第9日目 7月18日(土)
ソウル着 7:50
ソウル発 9:00(OZ-102)成田着 11:10

ここのところ世界各地でテロが頻発して、海外旅行にも不安要素が増しています。悪いことに5月から6月にかけて韓国でMERSが蔓延しているのに、カザフスタンのアルトマイへは仁川乗り換えということになります。韓国便は空いているだろうと、楽観的に考えて出かけることにしました。

もう一つの問題は、カザフスタンのビザ免除の問題でした。このビザ免除期間は、2014年7月15日~2015年7月15日までということになっていました。6月の終わりに近づいても、期間延長が行われるかの発表がありませんでした。ビザ取得が必要になった時のために、パスポートを旅行会社に送っておくことになりました。結局、ビザ免除は継続になりましたが、その発表がいつであったかは判らず仕舞いでした。



まずは、アシアナ航空を利用して、仁川に向かいます。

今回のツアーの参加者は、東京より10名、大阪より2名、福岡から2名の総勢14名でした。私たちグループの添乗員は大阪から出発して仁川で合流することになり、成田から仁川へは、行き帰りが同じ行程になる別のツアーの添乗員に引率されることになりました。

仁川空港は度々訪れていて、乗り継ぎに添乗員の助けが無くともなんとかなるはずですが、他のグループと一緒のため、仁川空港で再集合するまで我々のグループの参加者を把握することができませんでした。

飛行機に乗りこんでみると、中型機が使われていることもあり九割ほどの乗車率でした。



成田から仁川へは2時間半のフライトですが、一回の食事が出ます。メインは、チキンの照り焼きで、美味しく頂きました。

ビールを飲みながら食事を終えると、間もなく仁川に到着しました。



定刻通り仁川空港に到着し、トランジットの荷物検査を終えて出発ゲートに向かいました。空港は空いており、MERSの影響が出ているようでした。

私も、個人旅行で他のルートが選べるなら、仁川乗り換えは選択しなかったでしょうね。



アルマトイへは夕刻の出発になりました。

驚いたことに、西遊旅行社の2コースの他に、ユーラシア旅行社とクラブツーリストの団体が行き帰りに同じ飛行機でした。各ツアーは、内容が少し違っていましたが、所々で出会うことになりました。

キルギスって、そんなに人気のある国なの?



アルマトイへの便の乗車率は八割ほどで、通路側の席を選んだところ、隣りの窓側が空いており、外の眺めを楽しみながら二席を占めることができる理想的な展開になりました。



黄海を横断し、天津付近で中国に入りました。



フライト時間もたっぷりあるので、まずはドリンク・サービス。



続いて、夕食。これも美味しく頂きました。



最近の飛行中は、iPODの音楽を聞きながらフライトマップを見ながら過ごしています。映画は、レンタルビデオを家で見た方がゆっくり楽しめます。

北京の北側を通過した後は西へと向かいました。途中からブラインドが下ろされましたが、時々外を眺めました。

シルクロードであった河西回廊沿いに進んできて、敦煌あたりを通過しているようです。



外を眺めると雪山が見えていました。進行方向に向かって右側に座っていたので、北山山脈でしょうか。

いよいよシルクロードの舞台である西域に入ってきました。





さらに進んでいくと、タクラマカン砂漠の北側に沿うボロボロ山脈が見えてきたようです。



西に向かっているので日没は遅れていましたが、いよいよ空が赤く染まってきました。



到着1時間前に、夜食としてピザが出てきました。暖かく美味しかったです。



雲がかかっていますが、高山が並んでいるようです。



アルマトイ着陸直前に湖のように見えたのは、幅広になったイリ川のようでした。



アルマトイには定刻に到着しました。カザフスタンには入国書類が必要ですが、旅行会社の方で用意してくれていました。スタンプを押してもらったこの書類は、翌日キルギスへの出国時に提出することになります。

入国審査の部屋は、列もはっきりしない大混雑状態になっていました。カザフスタン人は、列を作って順番を待つという習慣が無いようです。



入国をなんとか無事に終えて到着ロビーに出ると、日本への留学経験があって日本語堪能な女性ガイドのエリーさんが出迎えてくれました。空港の外に出ると、熱気がおそってきました。

今回のツアーの乗客はガイドも含めて16人にもかかわらず、使用したのは大型バスでした。一人が二席を使ってもあまる状態で、長いバス移動であったので助かりました。もっとも、座席の幾つかは壊れていて座ることができませんでしたが。

バスに乗ってアルマトイ市内に向かい、ホテルに入って第一日目の旅は無事に終わりました。





日本への帰国は特に問題なく終わりましたので、合わせて載せておきます。

出国手続きを終えて進んだ待合室は大混雑になっていました。ゲート番号も判らない状態で、出発時間になると、チケットを見せた後人についていって乗り込むことになりました。



待合室の周囲には、小規模ですが売店が設けてありました。これはキルギスの民芸品や食べ物を売っている店で、土産を幾つか買いました。



一般的な免税店もありました。



ブランド品よりも、酒の方が面積を占めていました。ロシア人旅行者が多いためでしょうね。



深夜便のため、最初にサンドイッチが出てきました。飲み物は、お盆に乗せられてソフトドリンクが配られました。



コーラでは物足りないので、ビールをもらいました。黙っていたならもらえなかったところです。



5時間ほどのフライトのため、うつらうつらしてようやく寝つこうとすると、朝食が配られ始めました。もう一品のスクランブルエッグは食べたくなかったのですが、選んだ魚の方も食欲がおきませんでした。



仁川空港は、土曜日というせいもあるのか、行きよりは人が多い感じでした。



仁川から成田へはジャンボジェットでしたが、ほぼ満席でした。



最後の機内食。残念ながら食欲が起きないままでした。

アシアナ航空の機内食は、早朝で食欲が無い点を別にすれば、内容的にはまずまずといった感じがしました。

さすらいの風景 アルマトイからビシュケク

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アルマトイで宿泊したホテルのOTRARは、ソ連時代の国営旅行社直営ということで、少々古びてきていました。地球の歩き方には4つ星ホテルと紹介されています。もっとも他に5つ星が超高級ホテルと紹介されているので、少し良いホテルといったところになります。

場所的には、28人のパンフィロフ公園前で中央市場にも近いので、立地条件は最上ということになります。ツアーの最後に戻ってきて、アルトマイの市内観光を行う際には、ここのホテルにバスをおいて、トイレも使わせてもらった後に、徒歩で出かけることになりました。



割り振られた部屋からは、28人のパンフィロフ公園側と逆でしたが、ホテル付属の不思議な建物が見えていました。



翌朝、朝食会場に入ると、部屋から見えていたのは、ドーム状の天井を持ったホールであることが判りました。これは、遊牧民の住居のユルタを模したもののようです。



ホテルからの展望を確かめるために最上階のエレベーターホール前のテラスに出ると、雪を頂いた山の眺めとゼンコフ正教会の塔を眺めることができました。雪山を見て、旅の期待が高まりました。



せっかく泊まったアルマトイですが、市内観光は戻ってきた最終日に行うことにして、キルギスの首都のビシュケクに向かいました。今回の二つの訪問国のうちでは、キルギス観光がほとんどで、カザフスタン観光は付けたしといった状態になっています。これは、キルギスに入るためには、カザフスタンのアルマトイへの航空機を利用するのが一番便利という理由からです。

アルマトイの街を抜けると、雪山が街の背後に広がっていることが判りました。

2022年の冬季オリンピックは、北京とアルマトイの一騎打ちになり、2015年7月31日の投票で北京に決まりました。この雪山を見ると、雪山があるのかと疑問のわく北京よりも、アルマトイに決まって欲しかったと思います。



見えているのは天山山脈の支脈で、カザフスタンとキルギスの国境にもなっています。まずはこの山脈に沿って西に向かい、高度を落とした丘陵地を超えてキルギスに入ることになります。



アルマトイは、ソ連時代に計画的に造られた都市で、朝のラッシュ時には郊外の団地から市内に向かう車で渋滞状態になっていました。



郊外に出ると、カザフスタンの民族英雄らしい銅像が立っていました。ガイドのエリーさんの説明では、ケンサリとのことでしたが、ネットで調べてもどんな人物だったのかは不明でした。



白き峰々の眺めに、車窓から目をはなせなくなりました。



二人連れの銅像。カザフハン国の創立者のケレイとジャニベクでしょうか。



丘の上にモスクが見えていました。



村のように見えますが、お墓の集まりです。



山も次第に低くなってきました。



途中で、トイレ休憩。有料トイレでしたが、カザフスタンのお金を持っていないこともあり、ツアー会社の方でまとめて払ってくれました。キルギスから戻ってきた際には、ここの食堂で昼食になりました。立派な道路ができていますが、ドライブインといったものは、まだ少ししかありません。



広大な牧草地が広がっていました。



馬や羊の放牧も各所で見ることができました。



行きは、山を見たかったので南側の席に座りましたが、帰りは北側に座りました。北側には、遥かまでさえぎるもののない平原が広がっていました。光線の関係で、風景の色調が違っています。



アルマトイから4時間ほど走って、国境の街のカルダイに到着しました。



国境は撮影禁止のため、車内から国境に向かう人を撮影。

ここで荷物を全部持って、出国審査を行うことになりました。通路の舗装ががたがたで、スーツケースを転がして運ぶのに苦労しました。出国審査場は大混雑で、割り込んでくる者を後ろに追いやるのに苦労しました。カザフスタン人なのかキルギス人なのかは判りませんが、「列を作って順番を待つという習慣がない」と再びいらつこくとになりました。

なんとか、カザフスタンの出国を終え、国境のチュー川を渡ると、今度はキルギスの入国審査になります。これはパスポートをまとめて事務所にもっていき、スタンプを押してもらったパスポートを受け取って、審査は簡単に終了しました。



キルギス側に入って、車内の検査を終えて国境を通過してくるバスを待ちました。

この国境越えが、この日一番の大仕事になりました。



出入国審査が手間取ることもあって、路肩には飲み物や食べ物を売る店が並んでいました。同じような大型のスーツケースを引きずっていて団体だと判りそうな我々にも、タクシーの客引きが声をかけてきました。



少し走った先の両替所で、ドルをキルギスのソムに交換しました。プレハブ小屋で、これが両替所かと思ってしまいますが、ガイドが言うのなら大丈夫でしょう。中国だったら、偽札をつかまされそうですが。

ビールと土産のためと思って100ドルを交換しましたが、使いでがありました。日本でのドルの交換レートも関係しますが、1ソム=2円程と考えれば良いようです。

一つ失敗したのは、1000ソム札をメインで受け取ったことでした。少額の紙幣を混ぜてもらうべきでした。2000円ほどのお札ですが、ビールの支払いの際につりがないため、添乗員さんに1000ソム札を渡しっぱなしにして、足りなくなったら言ってということになってしまいました。こちらとしては、いちいち支払う必要がなくて楽でしたが、添乗員さんは余計な仕事が増えてしまいました。毎食時に飲める所ではビールを頼みましたが、キルギス内ではこの1000ソム札ですんでしまいました。

また、逆にカザフスタンに再入国した際、その日の昼と夜のビール代と思って、数ドルを交換しようとしたら、1ドル札は受け取ってもらえず、10ドルの交換になってしまいました。また、キルギスのソムは硬貨を含めた小銭でも交換可能だったので、僅かな金額でしたが交換してしまいました。最終日のビール代は、キルギス・ソムを少し残してカザフスタン・テンゲに交換した方が、余計な両替をしなくてすんだことになります。



一応、レートはしっかりと書いてあります。キルギスでは、大金は交換する必要はないので、レートの変動は気にする必要はないでしょう。



キルギスの旅を終えるまでに、ソムの硬貨をひと通り揃えることができました。ソムの下にティンという補助単位があり、50、10ティン硬貨が発行されているようですが、それは見かけませんでした。

1、3、5、10ソムの硬貨がありますが、3という硬貨は珍しいですね。

仮定として、9ソムと9円の支払い方を、それぞれ考えてみましょう。キルギスでは、支払いの際に、どのような硬貨を組み合わせるかを、財布の中の硬貨を見て迷うことになりそうです。



硬貨の裏面には、いずれもキルギスの国章が用いられています。

旭日マークが描かれていますが、これにはいちゃもんをつけないのかな、某反日国家。



ビシュケクが近づくと、再び雪山が見えるようになりました。



国境からビシュケクへは、30分ほどの距離ですが、ビシュケクの街に入る直前で道路工事のためにバスが通過できない状態になっていました。引き返した上に大回りをすることになって到着は少し遅れました。

昼食のレストランは、ウズベキスタンのイスラム建築を思わせる装飾の門が設けられていました。

食事の内容は、最後にまとめることにします。

昼食の後に、ビシュケクの市内観光を行うことになりました。

さすらいの風景 ビシュケク その1

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昼食を終え、ビシュケクの市内観光として、まず国立歴史博物館を訪れました。

キルギスの首都のビシュケクの中心地になっているアラ・トー広場の奥に国立歴史博物館はあります。

アラ・トー広場の見学は後回しにして、まず国立歴史博物館に入場しました。



国立歴史博物館の脇には、キルギスの各地で見られる石人が展示されていました。



石人は、翌日に訪問するブラナの塔周辺に集められたものが見られるので、詳しい説明はそちらにて。



国立歴史博物館の館内の撮影は有料でしたが、当然撮影しました。



正面階段の踊り場には、労働者の団結といった風なソ連時代を思わせる像が置かれていました。



二階部分は、ソ連時代の展示が行われていました。

ソ連時代からキルギスタン共和国の誕生までの歴史を振り返ってみましょう。

コーカンド・ハン国は、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部を支配していましたが、1876年にロシア帝国に併合されました。1922年にソビエト連邦が成立すると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の一地域となりました。1924年に中央アジアに位置する共和国の国境が整理されると、ソビエト連邦内のカラ=キルギス自治州となり、後にソビエト連邦を構成するキルギス・ソビエト社会主義共和国となりました。1991年8月31日 にクーデターにより独立を果たし、キルギスタン共和国(1993年にキルギス共和国に改称)が誕生しました。

独立後、「チューリップ革命」や「2010年キルギス騒乱」と呼ばれる政変が起こっていますが、現在は安定しているいるようです。



マルクス(左)とエンゲルス(右)像。



中央に立っている髭の人物がマルクスだとすると、階級闘争を象徴して現しているのでしょうか。でも、マルクスは、大砲には縁が無かったと思いますが。



資料展示コーナーの壁に、なぜかカタカナで「レーニン」と書いてありました。



労働風景。



人民団結のための合唱風景。歌によって団結と政治スローガンをアピールするというのが、共産主義者の昔からの常套手段ですね。



レーニンの演説風景。



レーニン像よりも、天井画のほうに目がいってしまいます。



戦艦ポチョムキンの反乱。



十月革命。

ロシアの首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の冬宮(現エルミタージュ美術館)へボリシェヴィキが突入し臨時政府のメンバーを逮捕した十月革命が描かれていると思います。

ソ連崩壊後、共産革命関連の像は、廃棄されて他では見られなくなっています。ただ、歴史的価値が増すには、もう少し時間が必要な気がします。

さすらいの風景 ビシュケク その2

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国立博物館の三階には、キルギスの歴史が展示されていますが、手前の踊り場にはユルタが置かれていました。

ユルタは、キルギスの国旗の図案にも一部が取り入られているように、この国のシンボルになっています。



内部には、沢山の毛布が積み重ねられていますが、多くの客を招き入れた時用のためということです。



時代に沿って展示が行われているので、キルギスの歴史を振り返ってみましょう。

シベリアを流れるイェニセイ川上流域で遊牧生活を行っていたキルギス人は、 匈奴、突厥、唐、 回鶻、モンゴル帝国の支配下に入りましたが、16世紀頃に現在の天山を中心とした地域に住むようになり、17世紀頃には近隣の民族の影響を受けてイスラム教に改宗しました。19世紀初頭にキルギス民族はウズベク系のコーカンド・ハン国の支配下に入り、このことによって後にソ連へ併合されることになりました。

遺跡や発掘物を見る際に、スキタイとか突厥とかの古代民族が出てきても、これらはキルギス人ではないとことから頭が混乱してくることになります。



土器の時代。



スキタイ・サカ族の展示。

今回は訪れませんでしたが、カザフスタン国立中央博物館で展示されている紀元前5世紀のスキタイ戦士の墓から発掘された、4000枚以上の黄金のピースを身体中に付けている黄金人間(展示物は複製)は有名です。

スキタイの古墳からの金銀の発掘物は、エルミタージュ美術館の黄金宝庫に所蔵されている「ピョートル・コレクション」でまとまって見ることができます。

エルミタージュ美術館の黄金宝庫はこちら



スキタイ・サカ族の武器。



スキタイ・サカ族の馬具。



イシク・クル湖の湖底からの発掘品。潜水調査によって、紀元後7世紀~15世紀にかけての住居址と生活用品が発見されています。

NHK特集シルクロード「湖底に消えた道 ~幻のイシククル湖に潜る」でも紹介されており、旅の四日目にはいよいよイシク・クル湖を見ることができます。



石人。突厥の戦士の墓標とされています。

突厥は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家で、中央アジアのシルクロードを利用して東西交易を活発に行いました。



上の写真を見ると、人骨も発掘されており、墓であったようですね。



翌日見学することになるブラナの塔の復元模型のようです。現在では、頭の部分が地震で崩れ落ちています。



これも翌日に見学予定のアク・ベシム遺跡の説明図。唐代の砕葉城(スイアーブ)の跡と思われています。





織物の展示も行われていました。















民族衣装。







キルギスの叙事詩「マナス」の本。世界で最も長い詩とされ、マナスチと呼ばれる語り手によって語られました。勇士マナスから始まる8代に渡る、クタイ(中華系)人とカルマク(オイラト族)人との戦いが叙事詩の主要なテーマになっているといいます。



三階から見た館内。



結婚の場面を描いた天井画。



最後に土産物屋をのぞいて、買い物を少々しました。

さすらいの風景 ビシュケク その3

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国立歴史博物館を出て、アラ・トー広場を見学することになりました。

道路を挟んでコの字型に広がる建物には、商店が入っています。



広場の中央に立つのは、マナス王像です。ソ連時代はレーニンン像、2011年までは自由の女神像が置かれていました。海外旅行の際にはガイドブックとして地球の歩き方を買うのですが、今回はウズベキスタン旅行のために買った11~12年版を使ったところ、アラ・トー広場の写真では、自由の女神像が立っているのに後で気が付きました。



キルギス共和国が、国を挙げて「マナス1000年祭」を祝ったのは1995年のことだったというので、2011年の自由の女神との交換のいきさつを知りたいものです。



マナス王像の脇には、国旗が掲揚されています。



国旗の下では衛兵が立っています。



一定時間ごとに衛兵交代が行われており、バスに乗って移動する際に一瞬ですが眺めることができました。



アラ・トー広場から撤去されたレーニン像ですが、国立歴史博物館の裏手に移動されていました。そう悪い場所ではありません。



ソ連からの独立運動の際には、倒されて破壊された像が多い中で、このレーニン像は幸せなリタイア生活といったところです。

さすらいの風景 ビシュケク その4

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アラ・トー広場の後は、オシュ・バザールを見学しました。市場は、その国の庶民の生活を垣間見ることができ、欠かせない観光スポットです。

オシュ・バザールは、市民の台所になっており、大混雑でした。



まずは周囲の通り沿いの売り場から見学しました。雑貨類が売られていました。



花嫁用の衣装ケース。綿も置かれていたので新婚所帯用の布団も売られているのでしょう。



市場の中央に移動すると、ちょっとした坂道で車が上れなくなっており、人々が押していました。こういったお助けには、野次馬的に人が集まるようです。



衣類の店。イスラム風のかぶり物も売っていました。



ナッツやドライフルーツの店。





丸く厚みのあるナンも並べて売られていました。



肉屋。冷凍庫のために建物の中にありました。



羊肉が並んでいました。



調味料や乾物類。



DVDの店。タイトルはロシア語のようで、ロシアから入ってきたもののようです。



入り口まで戻った所で、自由行動可となりましたが、迷子になりそうな混雑のため、添乗員の後についていくことになりました。



果物と野菜のコーナーに出てきました。



巨大なメロンに目が引き付けられます。



野菜も大きいものが並んでいます。



キャベツも巨大です。



なんだろうと思いましたが、蜂蜜をかけて作るチャクチャクと呼ばれるデザートの材料でした。日本のかりんとうあるいはおこしに似た感じの食べ物で、ツアー中の食事の際に、この種のデザートが出されました。



春雨でしょうか。



花屋のコーナーに出てきました。



リボンで花を飾りたてるのが、キルギス風のようです。





日本では見かけない花が多いです。



花の写真を撮りまくっていたら、女性店員さんがポーズをとってくれました。キルギスの民族模様なのかきれいな服です。



豆腐が売られていました。キルギスにも多い朝鮮族用でしょうか。



穀物類。



イチゴも沢山売られていました。ジャム用のようです。



パスタ類。ひと袋が大量です。



スパイス類。名前が書かれて整然と並んでいますした。



何種類ものスパイスが売られでいますが、キルギス料理には、あまりスパイスは使われていない感じでした。



売り子の顔つきにも興味が引かれます。日本人と変わらないような顔つきの人もいます。





キルギス族の老夫妻。いい表情をしています。帽子は、カルパックと呼ばれるキルギス族伝統の帽子で、白色は天山の雪山を現しているといいます。

「大昔、キルギス人と日本人は兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚を好きな者は東に渡って日本人となった。」という伝説があるようです。確かに、キルギスの街中では、日本人の顔つきはとけこんでしまいます。もっとも、写真を撮りまくっているので、「ジャパン?」と何度も聞かれることになりましたが。

さすらいの風景 ビシュケク その5

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ビシュケクの宿はAK KEMEでしたが、ここも日本人ツアー客の多いホテルのようでした。今回のホテルの中では、ここが一番設備が整っていました。ただ、街の中心地から南に外れており、自由時間に歩き回ることはできませんでした。



部屋のテラスから見ると、雪山の眺めが広がっていました。



展望の点からは恵まれた部屋でした。



プールもありましたが、泳ぐ時間がありませんでした。水着は用意してあったのですがね。



ホテルの夜景。



夜明けの山を眺めるため、早起きをしました。キルギス時間で5時40分、山の頂上が茜色に染まりました。

早起きといっても、日本との時差は3時間なので、いつもなら朝食も終えた時間です。夜明けの風景を楽しむため、しばらくは日本時間で過ごすことになりました。



裏山といった近さですが、雪の状態からして4000~5000m峰でしょうか。





日が昇ってから屋上に上がってみました。このホテルの屋上には展望レストランがあり、丁度掃除中で外に出ることができました。

部屋からの眺めを邪魔しているビルは最近完成したようです。



部屋からは見えなかった中央の山を眺めることができました。



太陽が昇った後の朝の山の眺めを楽しんだ後、観光に向かいました。

さすらいの風景 アラ・アルチャ自然公園 その1

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旅の第3日目の午前中は、アラ・アルチャ自然公園を訪れました。

アラ・アルチャ自然公園は、ビシュケクから30kmの近場にあります。アラ・アルチャ峡谷が平野部に出たところにできた扇状地にビシュケクの街があります。

バスは、雪山に向かっていきました。



ビシュケクの街は、標高750~900mの位置にありますが、雪山が近く見えます。



アラ・アルチャ自然公園の入り口。



渓谷沿いの道を10分程進んだところで、一般車終点部のアルピニスト・センターに到着しました。標高は2000m程あるようで、バスを降りると肌寒く感じました。



遊歩道の開始部には、ユキヒョウの像が置かれていました。



向かい合って、山ヤギの像。



雪山を正面に見ながら歩きを開始しました。公園は天山山脈の一部であるアラ・トー山脈に接しています。



渓谷の周囲には4000~5000mの峰々が並んでいるようです。



カローナ峰(4692m)をはじめ登本格的な登山コースも設けられているようですが、今回は入り口付近の未舗装の道を歩くだけでした。

今回のツアーの歩きは、いずれもハイキング未満の散策程度のものだったのが少し残念でした。ゴアの雨具の上下も持っていったのですが、雨対策としては折りたたみ傘と簡単な防水性のあるウィンドブレーカー程度で充分でした。もっとも快晴に恵まれ、雨具は全く必要としなかったのはラッキーでした。



アラ・アルチャ自然公園は、上高地の梓川沿いの遊歩道と似た感じがあります。



枝が分かれた変わった姿の木がありましたが、脇の看板には願い事をするために布をつるさないようにという注意が書かれていました。キルギス人の信仰は、スンニ派ムスリムですが、イスラム化の時期が遅かったことからシャーマニズム信仰が残っているようです。



遊歩道は渓流に沿って続きました。



川岸には、ヤナギランが群生していました。花を探しながらの歩きになりましたが、花の詳細については、別項目にて。



雪山の山頂も大きく見えるようになってきました。つい登山ルートを探ってみますが、雪渓を登るには急そうです。



天気も良く、歩いているうちに暑くなってきました。



渓流の水は白濁していますが、これは氷河が削った細かい砂が混じっているためと思われます。



水の流れは勢いがあります。



歩くうちに暑くなってきて、渓流を吹き抜ける風が心地よく感じました。



川が二本合わさる広河原に出て、ここが引き返し地点になりました。この先は本格的な登山道になるようです。



ユルタも置かれており、キャンプ場にもなっているようでした。



谷奥には、険しい峰が聳えていました。許されるなら、もう少し先まで歩いてみたいところです。



アラ・アルチャ自然公園の名前は、アルチャと呼ばれるヒノキの一種に由来します。



このアルチャは燃やすと良い香りがするため、お香のように玄関先で燃やすというガイドさんの説明でした。実際にレストランの玄関先で見ることができました。
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