ヴィリニュス市街地を午前中観光した後、午後はトゥラカイ城を訪れました。ヴィリニウスからトラカイへは約30km程の近い距離にあります。
バスを降りると、湖の中にたたずむトゥラカイ城の眺めが広がりました。城内部の見学は自由行動で行うことになりましたが。この方がゆっくり見学できるので歓迎です。
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人気の観光地とあって、湖畔には足こぎボートも並んでいました。
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美しい城ですが、複雑な歴史を持っているので振り返ってみましょう。
リトアニア大公国の創始者といわれるゲディミナスは、ロシアまで広がる広大な領土を相続しましたが、ドイツ騎士団とリヴォニア騎士団の進攻が脅威になっていました。ゲディミナスはドイツ騎士団との戦いの際にローマ教皇や他のカトリック諸国からの援助や好意的な立場を得るためにキリスト教に興味があるように装い、軍事力の向上や国内統治を進め、国内に多くの城を建設しました。トゥラカイには最初の首都が置かれ、次いでヴィリュニスに首都が移されましたが、彼の息子であるケーストゥティス公が相続してトラカイ公国が発展すると、街は繁栄を迎えました。
ケーストゥティス公によって現在の場所へ街を移されると、ガルヴェ湖上に浮かぶ小島の上にトゥラカイ城の建設が開始されました。
ゲディミナスの死後、7人の息子のうち最年少のヤヴーヌティスは首都のヴィリニュスを相続しましたが、兄によって廃位され、アルギルダスは東方、弟のケーストゥティは西方を分割統治することになりました。アルギルダスの息子のヨガイラは若き女王ヤドヴィガ・アンジューと結婚することによってポーランド国王を戴冠し、後にポーランド・リトアニア連合が誕生します。一方、ケーストゥティスはトラカイ公として君臨しますが、ヨガイラとの覇権争いの末に殺害されてしまいました。
1377年に行われたドイツ騎士団による攻撃で、城は大きな損傷に見舞われました。ケーストゥティの暗殺の後、リトアニア大公の地位をめぐってヨガイラとケーストゥティの息子のヴィータウタスの間で権力闘争が始まり、トゥラカイ城も双方からの包囲を受けましたが、和平成立後はキープ(あるいはドンジョン、天守閣)が加えられるなどさらなる建設が進められることになりました。
さらに15世紀に入ると、入り口の城壁に塔が加えられるなどの増強が施されましたが、17世紀に起きたモスクワ大公国との戦争で、城は損壊され、荒廃の一途を辿ってしまいました。
19世紀中に城の再建計画が立てられましたが、再建工事の大部分が終了したのは1961年になってのことでした。
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入城のためには、橋を渡る必要があります。
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入り口の防御塔は、15世紀に付け加えられました。
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入場口。落とし格子が設けられていたのでしょう。
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門を抜けると入場口となり料金を払うことになりますが、シニア料金があって少し節約ができました。
入場口の先には、中庭が広がっていました。
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中庭の周りには、城壁を兼ねた建物が取りまいていました。
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中庭を囲む建物にも塔が設けてありました。
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広場の真ん中には、処刑に使われたかもしれない首かせも置かれていました。
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城は二重構造になっており、奥に内陣が設けてありました。内陣には高いキープが設けてあります。キープ(あるいはドンジョン)は、外壁が占領された後、守備兵達が立てこもる最後の砦であり、城の塔の中でもっとも堅固に造られました。
天守閣と訳されることもありますが、日本の天守閣は、防戦と指揮という軍事機能よりも,城主の権威の象徴という政治機能が強くなっています。
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内陣の周りには堀が巡らされていました。昔は湖の水が引き入れられていたものと思われます。
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堀に掛けられた橋も引き上げられるようになっていました。
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内陣の中は建物に囲まれた広場になっていました。
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建物内部にも狭い階段が設けてありましたが、外壁には木製の回廊や階段が取り付けられていました。戦いの際にここまで追い込まれた場合には、防御のために木製の回廊や階段は落としてしまうのでしょう。
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城の内部は武具などの展示場になっていました。
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ケーストゥティスあたりの城主でしょうか。
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中庭を見下ろしたところ。
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衣装は東方の雰囲気があります。
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時間も限られており、内部はざっと見て終わりになりました。
内陣から入り口の広場を見下ろしたところ。
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青空も広がってきたので、城の写真を撮影しながら戻ることにしました。
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バス降り場近くの湖畔には土産物屋が並んでいました。
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改めてトゥラカイ城の写真撮影。天気はめまぐるしく変わりました。
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トゥラカイ城は、見ても美しい城でしたが、実践的な防御機構として興味深い仕掛けが数多く施されていました。
バスを降りると、湖の中にたたずむトゥラカイ城の眺めが広がりました。城内部の見学は自由行動で行うことになりましたが。この方がゆっくり見学できるので歓迎です。
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人気の観光地とあって、湖畔には足こぎボートも並んでいました。
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美しい城ですが、複雑な歴史を持っているので振り返ってみましょう。
リトアニア大公国の創始者といわれるゲディミナスは、ロシアまで広がる広大な領土を相続しましたが、ドイツ騎士団とリヴォニア騎士団の進攻が脅威になっていました。ゲディミナスはドイツ騎士団との戦いの際にローマ教皇や他のカトリック諸国からの援助や好意的な立場を得るためにキリスト教に興味があるように装い、軍事力の向上や国内統治を進め、国内に多くの城を建設しました。トゥラカイには最初の首都が置かれ、次いでヴィリュニスに首都が移されましたが、彼の息子であるケーストゥティス公が相続してトラカイ公国が発展すると、街は繁栄を迎えました。
ケーストゥティス公によって現在の場所へ街を移されると、ガルヴェ湖上に浮かぶ小島の上にトゥラカイ城の建設が開始されました。
ゲディミナスの死後、7人の息子のうち最年少のヤヴーヌティスは首都のヴィリニュスを相続しましたが、兄によって廃位され、アルギルダスは東方、弟のケーストゥティは西方を分割統治することになりました。アルギルダスの息子のヨガイラは若き女王ヤドヴィガ・アンジューと結婚することによってポーランド国王を戴冠し、後にポーランド・リトアニア連合が誕生します。一方、ケーストゥティスはトラカイ公として君臨しますが、ヨガイラとの覇権争いの末に殺害されてしまいました。
1377年に行われたドイツ騎士団による攻撃で、城は大きな損傷に見舞われました。ケーストゥティの暗殺の後、リトアニア大公の地位をめぐってヨガイラとケーストゥティの息子のヴィータウタスの間で権力闘争が始まり、トゥラカイ城も双方からの包囲を受けましたが、和平成立後はキープ(あるいはドンジョン、天守閣)が加えられるなどさらなる建設が進められることになりました。
さらに15世紀に入ると、入り口の城壁に塔が加えられるなどの増強が施されましたが、17世紀に起きたモスクワ大公国との戦争で、城は損壊され、荒廃の一途を辿ってしまいました。
19世紀中に城の再建計画が立てられましたが、再建工事の大部分が終了したのは1961年になってのことでした。
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入城のためには、橋を渡る必要があります。
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入り口の防御塔は、15世紀に付け加えられました。
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入場口。落とし格子が設けられていたのでしょう。
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門を抜けると入場口となり料金を払うことになりますが、シニア料金があって少し節約ができました。
入場口の先には、中庭が広がっていました。
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中庭の周りには、城壁を兼ねた建物が取りまいていました。
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中庭を囲む建物にも塔が設けてありました。
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広場の真ん中には、処刑に使われたかもしれない首かせも置かれていました。
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城は二重構造になっており、奥に内陣が設けてありました。内陣には高いキープが設けてあります。キープ(あるいはドンジョン)は、外壁が占領された後、守備兵達が立てこもる最後の砦であり、城の塔の中でもっとも堅固に造られました。
天守閣と訳されることもありますが、日本の天守閣は、防戦と指揮という軍事機能よりも,城主の権威の象徴という政治機能が強くなっています。
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内陣の周りには堀が巡らされていました。昔は湖の水が引き入れられていたものと思われます。
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堀に掛けられた橋も引き上げられるようになっていました。
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内陣の中は建物に囲まれた広場になっていました。
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建物内部にも狭い階段が設けてありましたが、外壁には木製の回廊や階段が取り付けられていました。戦いの際にここまで追い込まれた場合には、防御のために木製の回廊や階段は落としてしまうのでしょう。
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城の内部は武具などの展示場になっていました。
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ケーストゥティスあたりの城主でしょうか。
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中庭を見下ろしたところ。
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衣装は東方の雰囲気があります。
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時間も限られており、内部はざっと見て終わりになりました。
内陣から入り口の広場を見下ろしたところ。
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バス降り場近くの湖畔には土産物屋が並んでいました。
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改めてトゥラカイ城の写真撮影。天気はめまぐるしく変わりました。
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トゥラカイ城は、見ても美しい城でしたが、実践的な防御機構として興味深い仕掛けが数多く施されていました。