Quantcast
Channel: さすらい人の独り言
Viewing all 1130 articles
Browse latest View live

さすらいの風景 キナバル山 その8

$
0
0
四日目は、マシラウルートを下ることになります。

6時出発なのでゆっくりと寝ていられると思ったのですが、昨日新たに到着して山頂をめざす登山者が1時頃から起きだして登山準備をしたので、目を覚ますことになりました。静かになったところでもうひと眠りしましたが、寝不足気味です。

朝食は、深夜の食事と遅い朝食の間になるため、弁当をわたされての出発になりました。2時にレストランにいけば朝食を食べることはできるのですが、食い気よりは眠気でした。

ようやく明るくなってきた外の風景を眺めると厚い雲が広がっていました。



歩き出す前にラバン・ラタ・レストハウスの前の広場で山頂を振り返ると、雲がかかっていました。今日の山頂からの眺めは閉ざされているようで、我々は幸運に恵まれました。



登りの際にきつく感じられた急坂も、下りは楽に歩けました。



PONDOK VILLOSAまで下ったところで、朝食になりました。定番のチーズサンドにゆで卵でした。イスラム教の国のため、豚肉のハムが使えず、サンドイッチの具材としてものたりなくなってしまいます。



麓方面の展望が開けてきました。



しかし、山頂方面は雲に覆われていました。



この日は、花を見ながらの歩きになりました。





分岐からマシラウルートに進みました。マシラウルートは、もともとは科学者や研究者が利用していた山道でしたが、1998年10月に正式に開通しました。一般的なTimpohon Gateからのルートに比べて距離が長く、起伏も激しいために上級者ルートとされ、利用する登山客は多くはないようです。



始めはトラバース気味の道ですが、尾根の張り出し部を越すために階段の上下がありました。



マシラウルートは、歩く者は少ないためか、多くの花を見ることができました。特に分岐近くには、大型のウツボカズラを多く見ることができました。



花の写真を撮りながら最後尾からついていくことにしました。











大きなウツボカズラが上からぶるさがっているのに出会いました。これまで見てきたものは、草むらの中にあり、このような形態のものはここだけでした。





マシラウルートは、分岐から登山口までは6km。途中にPONDOK MAGNOLIA、PONDOK LOMPOYOU、PONDOK TIKALOD、PONDOK NEPENTHES、PONDOK BAMBU、PONDOK SCHIMAの六つの休憩所が整備されています。



PONDOK MAGNOLIAに到着すると、西の尾根にTimpohon Gateからの一般登山道沿いにある電波塔を望むことができました。

この先は、「登りには使いたくない」と思わせる一気の階段下りになりました。



花の種類も変わってきました。







尾根上の裸地に出ると、眼下にゴールのマシラウリゾートの建物を望むことができましたが、間には深い谷が入っているようです。



PONDOK LOMPOYOUに到着してひと休み。

ここからは、谷に向かっての急降下になりました。



ウツボカズラもほっそりしたものになってきました。







高度を一気に下げると、周囲には熱帯のジャングルが広がるようになりました。







PONDOK TIKALODまで下ると、谷底まではもう僅かです。



これまで気が付かなかったのですが、あずまやの屋根裏には、タンカが置かれていました。









多くの花が現れましたが、名前が判らないのは残念です。

さすらいの風景 キナバル山 その9

$
0
0
PONDOK TIKALODからは、僅かな距離で谷に降り立つことができました。



標高が下がったためか、キナバル・バルサムの花が再び現れました。







その先で、再び橋が現れ、こちらがWest Masilau Riverの本流のようでした。



川からひと登りで、PONDOK NEPENTHESに到着。この先が、マシラウルート一番の難所の急登になります。





初めはトラバース的な登りでゆっくりと高度を上げていきました。





急斜面が始まったところで、現地添乗員が先に行ってくれというので、自由に歩かせてもらうことになりました。急坂の途中に2.5km標識が置かれており、地図を見ると、2.0km地点で尾根上のPONDOK BAMBUに出るようでした。きつい登りで、休むと足が止まりかねないので、一気に登ってしまうことにしました。

傾斜が緩むと、PONDOK BAMBUに到着したので、ここで皆を待つことにしました。20分近く待って7名の参加者はそろいましたが、肝心の現地ガイドが登ってきませんでした。登山道の下に向かってオーイと声を掛けましたが、返事も返ってこない。どうも体調が悪いようで、二日目の登りでも途中で姿を消していました。仕方がないので、先行しているポーターと合流するため、下りを続けることにしました。



PONDOK SCHIMAに到着し、休んでいたポーターに出会うことができました。英語は通じないようでしたが、現地ガイドの名前を叫んで地図を指さしていると、電話機を出しながら道を戻っていきました。これで何とかなるだろうと思って待っていると、それほどの時間はかからずに一緒に下ってきました。

予期せぬトラブルでしたが、この後は全員揃って下ることになりました。







一気に高度を下げていくと、再びジャングルの中に戻ってきました。



ようやくゴール。休憩時間も多かったですが、6時間45分かかりました。



登山口の管理小屋。現地ガイドが下山の手続きを行っているのか、少し待つことになりました。

無事にキナバル山登山を終えることができました。



これは、キナバル山の登頂証明書。翌日にバスの中で渡されました。有料のようですが、ツアー料金に含まれています。

ちなみに、登頂できなかった場合には、白黒印刷で、登ったところまでの高度が記載されます。



これは、マシラウルートの踏破証明書。



マシウラ・ネイチャー・リゾートは、敷地が広いため、レストランへはバスでの移動になりました。

少し遅くなりましたが、お待ちかねの昼食とビール。ただ、マシウラ・ネイチャー・リゾートは、車が通じているのにもかかわらず、山小屋並みの値段であったのには、少々不満を感じました。



スパイシーなスープ。



肉の煮物。



個々には丸く持ったライスが渡され、これに大皿に盛った料理を載せることになりました。同じように見えますが、肉、魚、ナスの煮物です。



デザート。マンゴーは、日本と違って安いようでたっぷりと出てきました。



食事を終えて外に出ると、別行動でTimpohon Gateに下った負傷者も到着しました。意外に早く下れたようです。

宿泊棟へは、再びバスで移動。コテージ・タイプの宿泊棟が山の斜面に並んでいるため、スーツケースを転がして登るのに苦労しました。



テレビも無い簡素な造りですが、ベッドは寝やすいものでした。お湯がでるまで時間がかかるという説明でしたが、まずはシャワーという気分だったので浴びてしまうと、やはり冷たい水でした。

シャワーを浴びた後は、スーツにしのばせてあったビールで風呂上がりの一杯。登山を終えた気の緩みもあって、眠りに落ち込みました。

いつしか本降りの雨になっていましたが、夕食の時間には上がっていました。結局、登山中には雨に合わないで済みました。



夕食のためにレストランに移動すると、日本の団体も食事をとっていました。翌日Timpohon Gateから登るために、ここで泊まるようです。夕方の雨のため、翌日の天気が気になることでしょう。



料理はビュッフェスタイルで、マンゴーとパイナップルをかなり食べました。

今回の旅行では、日本を出発してからあわただしい行程が続きましたが、ようやく落ち着いて眠ることができました。

出かけてきます

さすらいの風景 キナバル山 その10

$
0
0
五日目は、ボルネオを去る日になります。

マシウラ・ネイチャー・リゾートの駐車場からは、キナバル山の稜線を見上げることができました。今回の旅行では、登山開始の日から通して、キナバル山の眺めを楽しむことができました。



鋸刃状の稜線が続いています。



朝食は、軽く済ませました。ビュッフェスタイルで、食欲があればもっと食べることはできます。



バスが走り出すと、背後にキナバル山の眺めが広がり、撮影ストップになりました。



鋭い岩峰が連なっています。



車が動いていく間もキナバル山が見え続けていました。





キナバル山の山麓の高原地帯には、小さな集落が点在していました。



行きにも立ち寄ったナバル村に戻ってきました。



キナバル山に別れを告げました。



ナバル村には土産物屋が並んでいました。



のぞきましたが、買いたくなるものはあまりありませんでした。



とりあえず、ベタですがキナバル山のTシャツ。



サバ茶。ティーバック入りのものとフレバー入りのもの。

サバ茶は、渋みは少なく味は薄いですが、水分の補給のために飲むには適しています。



ネコも遊んでいました。



ナバル村を出発すると、車は一気に高度を下げていくことになります。

さすらいの風景 キナバル山 その11

$
0
0
キナバル山登山を終えて、コタキナバルの街に戻ってきました。

メインストリートには、新しい建物が並んでいました。キナバル山の山麓は涼しかったのですが、一気に気温が上がってきました。暑さのためか、通りを歩いている者はほとんどいませんでした。



新築の建物が並ぶ街のいっかくには、バラックの集落が残されていました。



昼食のレストランが開く前に、脇のショッピングセンターに入りました。

春節の休みで、ほとんどの商店が閉まっていました。



現地の衣類を売る店をのぞいて時間を過ごしました。イスラム教の国なので、頭を隠すためのスカーフがそろっていました。



鮮魚を調理するレストランで昼食をとりました。



店の前には水槽が並んでいます。魚介類を選んで調理してもらうことになります。ツアー食なので、お任せの料理ですが。



日本では見かけない貝が並んでいました。





お魚も泳いでいました。



まずはビール。



貝の炒め物。



エビの炒め物。



煮魚。



各人には、丸くライスを盛った皿が渡されました。料理をとって、周りに並べました。



昼食後、土産物用の食べ物を買うため、スーパーのあるショッピングセンターへ案内してもらいました。

ここも春節の飾りが施されていましたが、中央の広場では女性下着の安売りが行われていました。



ドライフルーツの店があったので、マンゴーとパイナップルを買いました。



帰国は、まずはクアラルンプールへ。



コタキナバルの空港は、小規模なものでしたが、民芸品の店もありました。





コタキナバルからクアラルンプールへのフライト中には、食事が一回でてきます。



料理はおいしいのですが、辛いのでビールが欲しかったです。



コタキナバルと違ってクアラルンプールは大きな空港です。



キナバル山で負傷して車椅子に乗った女性に同行していたため、空港職員に先導されて通関や荷物検査も優先入り口から一気に通り過ぎることになりました。



クアラルンプールから成田へ。



一回目の食事は深夜のためサンドイッチでした。ビールが飲めたので良しとしましょう。



二回目の食事。朝食相当ですが、おかずが少量のためご飯は全部食べることはできませんでした。

天候に恵まれてキナバル山登山は無事に終えることができました。

キナバル山の難易度ですが、国内の登山ツアーと海外旅行を行っている旅行会社(クラブツーリスト)のレベルが意外に合っているような気がしました。

この会社のレベルによれば、キナバル山は登山中級B。これはどのようなものかというと「本格的な登山コースです。登山入門・初級コースを経験してからのご参加をお願いします。 1日の歩行時間 7時間以上 標高差 700m以上 」となっています。

日本百名山でいうと、富士山登山中級A、槍ヶ岳登山中級B、赤石岳登山中級Bとなっています。さらに難易度の高い山としては、トムラウシ山登山上級、飯豊山(本山と大日岳)登山上級(!)があります。

新潟県人に馴染みのある山でいえば、えぶり差岳に日帰り登山できる体力があれば、キナバル山は余裕で登れると思います。ただ、慣れない海外旅行と高所体験による消耗については注意が必要になります。

さすらいの風景 成田からヘルシンキ

$
0
0
五月連休も終わってツアー料金も安くなったところで、最近人気の出てきたバルト三国に行ってきました。

今回のツアーのタイトルと行程は、以下のようなものでした。旅行会社の配った日程表とは見学の順番などが少し違っています。

「日本航空往復直行便利用 麗しきバルト3国とフィンランド大周遊10日間」

2015年
第一日目 5月11日(月)
 成田発 10:30(JL-0413)ヘルシンキ着 14:50 時差6時間
 ヘルシンキ市内観光(エスプラナーディ通り)
 ヘルシンキ発 19:30(タリクシャトル)タリン着 21:30
  (タリン メリトングランドコンファレンス&スパホテルタリン泊)

第二日目 5月12日(火)
 タリンからタルトゥ (約185km)
 タルトゥ観光(ラエコヤ広場、聖ヨハネ教会、タルトゥス大学、大聖堂、悪魔の橋、天使の橋)
 タルトゥからリガ (約245km)
  (リガ デイズホテル ベフ泊)

第三日目 5月13日(水)
 リガ歴史地区観光(中央市場、ユーゲントシュティール様式の建築群、市庁舎広場、ブラックヘッドの会館、聖ペテロ教会、自由記念碑、猫の家、大聖堂、火薬塔、スウェーデン門、三人兄弟の家、リガ城)
 リガからパウスカ (約70km)
 ルンダーレ宮殿観光
 パウスカからヴィリニウス (約230km)
  (ヴィリニウス エコテルヴィリニウス泊)

第四日目 5月14日(木)
 ヴィリニウス歴史地区観光(杉原千畝記念碑、大聖堂、アンバーミュージアムギャラリー、聖アンナ教会、夜明けの門、ゲディミナスの丘、聖ペテロ・パウロ教会)
 ヴィリニウスからトラカイ (約30km)
 トラカイ城観光
 トラカイからヴィリニウス (約30km)
  (ヴィリニウス エコテルヴィリニウス泊)

第五日目 5月15日(金)
 ヴィリニウスからカウナス (約110km)
 カウナス市内観光(旧日本領事館、カウナス城、旧市庁舎、大聖堂、ペルクーナスの家、アレクソトス展望台)
 カウナスからシャウレイ (約145km)
 十字架の丘見学
 シャウレイからリガ (約140km)
  (リガ デイズホテル ベフ泊)

第六日目 5月16日(土)
 リガからスィグルダ (約50km)
 スィグルダ観光(グートゥマニャ洞穴、トゥライダ城、スィグルダ城跡)
 スィグルダからパルヌ (約197km)
 パルヌ散策(エリザベート教会、タリン門)
 パルヌからタリン (約130km)
  (タリン メリトングランドコンファレンス&スパホテルタリン泊)

第七日目 5月17日(日)
 カドリオルク宮殿、歌の広場、タリン歴史地区観光(アレクサンドル・ネフスキー大聖堂、大聖堂、トームベアの丘、聖ニコラス教会、旧市庁舎、聖カタリーナの小路)
 午後 自由観光
  (タリン メリトングランドコンファレンス&スパホテルタリン泊)

第八日目 5月18日(月)
 タリン発 10:30(タリクシャトル)ヘルシンキ着 12:30
 ヘルシンキ市内観光(ウスペンスキー寺院、ヘルシンキ大聖堂、オリンピックスタジアム、シベリウス記念碑、テンペリアウキオ教会)
  (ヘルシンキ スカンディックパーク泊)

第九日目 5月19日(火)
 出発まで自由観光(スオメンリンナ島、マーケット広場)
 ヘルシンキ発 17:25(JL-0414)

第十日目 5月20日(水)
 成田着 9:00

参加人数は、総勢34名(男性14名+女性20名)の大グループでした。ツアー料金が安いのでしかたがないですね。

このツアーではヘルシンキからフェリーでバルト海を渡ってタリンに入るのが特徴になっています。一般的なツアーでは、ヘルシンキ乗り換で飛行機でヴィリニュスに入り、バスで北上してタリンからヘルシンキ乗り換で帰国することになります。今回のツアーでは、バルト三国を周回してタリンに戻ってくるために移動距離も長くなりますが、見学地も多くなってくるのは好都合です。



ヘルシンキへは、フィンランド航空とJALが飛んでいますが、今回はJALの利用でした。

航空機は、ボーイング787で、2012年のモスクワ便以来ということになります。座席配列は2+4+2の中型機でほぼ満席でした。ヘルシンキ乗換でヨーロッパの各地に向かうツアー客もめだっていました。

JALはWebチェックインであらかじめ座席指定ができるのですが、三日前の開始直後にアクセスしたところ、指定できる座席は僅かで、翌日アクセスするとほとんど埋まっていました。行動が速かったため通路側席を手に入れることができ、移動が楽になりました。

帰りの席は、家族に頼んでおきましたが、ヘルシンキ空港がWebチェックインに対応していないのかWebチェックインできないとのメールが届きましたが、座席は確保できていたようです。

いつものように京成成田のAPAホテルに泊まりましたが、ここも中国人の団体が目立っていました。
 


飛行機は、離陸すると関東平野を北上し、南会津から新潟に向かいました。



新潟が近づくと、豊富な残雪をまとった飯豊を眼下に見下ろすようになりました。



JALはサービスも良く、まずはドリンクサービス。つまみは、新潟の亀田製菓のあられでした。

フィンランドのビールが欲しかったのですが、残念ながら日本のビールだけでした。ならばと、普段飲めないエビスビールをもらいました。



つづいて食事。「アジア風チキンライス&焼き鳥」の食事を頼みました。今度のビールは、サントリープレミアム。続けて二本のビールを飲んで、酔いも回りました。



日本からヘルシンキへは、シベリア北部を通過していきます。

フィンランド訪問ということで、シベリウス作曲の交響曲1~7番、クレルヴォ交響曲、ヴァイオリン協奏曲、フィンランディア他の管弦楽曲を聞きながらすごしました。



眼下には、凍土に覆われた原野が広がっていました。



ヘルシンキ到着2時間前に、二回目の食事が提供されましたが、モスバーガーでした。



説明書を見ながら、肉やタマネギ、トマト、ソースを載せてハンバーガーの完成。少々面倒です。

おいしかったですが、通常のものより小さくてものたりなく感じました。挟んだタマネギやソースがこぼれ落ちるので、パンだけでもひと回り大きくしてくれると良いのですが。

10時間20分の飛行時間で無事にヘルシンキに到着。日本から一番近いヨーロッパです。



フィンランドへの入国手続きを終えて、エストニアの首都タリンへ渡るため、バスでフェリー乗り場に向かいました。

なお、今回の訪問地のフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアはシェンゲン協定加盟国に入っているため、入国審査はヘルシンキ空港のみで済みました。バルト三国における陸路での国境越えは、出入国審査の建物も全くなかったり閉鎖されていました。

時間調整のため、ヘルシンキ中心部のデパートのストックマンの前でバスを降りました。ストックマンの地下の食料品売り場の見学と合わせてトイレを使わせてもらいました。後日の自由観光の際にも、ここのトイレを利用させてもらうことになりました。



ストックマンの前から、エスプラナーディ公園が始まっています。

本格的なヘルシンキ観光は後日ということにして、フェリー乗り場に向かいました。



ヘルシンキからの帰国は特に問題なく終わりましたので、合わせて載せておきます。



帰国は夜発のJAL便です。



飛び立ってまずはドリンクサービス。帰国便では、普通のビールだけになっていました。



第一回目の食事。「牛肉の細切り炒め」を頼みましたが、肉が堅かったのがマイナス要素でした。付け合せの、ひさしぶりの日本食のうどんが美味しく感じました。



二回目の食事はホットサンド。あまり美味しくありませんでしたが、早朝の食事ということで料理内容とは関係ないでしょう。

ヘルシンキから成田へは、9時間35分のフライトで済みました。

さすらいの風景 タリンクシャトル

$
0
0
ヘルシンキからタリンへは通常は飛行機で移動しますが、今回のツアーではタリンクシャトルと呼ばれるフェリーを利用します。このツアーを選んだ理由に、このフェリー乗船がありました。

エストニアの首都タリンへのフェリー乗り場は、ヘルシンキ中心部の南西部にあります。

フェリーターミナルに到着すると大きな船が見えてきましたが、乗船するのはこのBaltic Queen号ではありませんでした。



港の入り口には謎の巨大像が置かれていました。ベルギーの小便小僧なら笑って見ていられますが、これは限界を超えているような気がします。

帰国後にネットで調べると、高さ8.5mで、以前はマーケット広場に置かれていたようですが、目立たない場所に移されてしまったようです。



チェックイン後の待合室。空いていますが、車で乗船する者の方が多いようです。



Baltic Queen号が先に出発していきました。



乗船するのは、Superstar号。2008年にイタリアで建造されたばかりの高速船で、タリンクシャトルとして、ヘルシンキ~タリン間に就航しています。総トン数:36.400トン、乗客定員:2080人、搭載車数:450台。

ちなみに利用したことのある新潟と北海道を結ぶ新日本海フェリーは、総トン数:18.229トン旅客定員:892名、車両積載台数:トラック/146台・乗用車/58台なので、タリンクシャトルは倍以上の大きさをもっています。

タリンクシャトルの船で、ストックホルムとヘルシンキを結ぶシリヤシンフォニーは、総トン数: 58.376トンとさらに大きくなります。なお、後日見ることになるバルト海クルーズのリーガル・プリンセス号は142,229トンとさらにさらに巨大になります。



乗り込んだSuperstar号の客室の船首部は、吹き抜けになった展望席で、ソファー席が雛段状に並べられていました。



さらにカフェテリア席も並べられており、座って休む席は充分に余裕があります。



船は静かに出発しました。音楽やドラは無かったので、動き始めたのには気が付きませんでした。

いそいで甲板に出て、ヘルシンキを振り返りました。残念ながら港はヘルシンキ中心部の南西部に位置するため、名所のヘルシンキ大聖堂やウスペンスキー寺院を眺めることができませんでした。



小さな島が点在する海を進んでいきます。



ヘルシンキからタリンへは、フィンランド湾を横断することになります。

フィンランド湾は、バルト海東部のフィンランド、ロシア、エストニアに囲まれた東西約400kmの細長い湾です。



快晴ですが風が冷たく、甲板に長居することはできませんでした。



船内には、ブランド品の免税店やスーパーがありました。

箱売りのビールが並んでおり、安売り酒店といった風景です。空港の免税店では見られない、重量制限の無い船便ならではの光景です。



フィンランド人がこのフェリーに乗る目的の一つに、免税の酒を買うことがあるようです。
実際にヘルシンキの下船の際には、数箱の酒を運んでいる乗客を見かけました。



ツアーには、この日の夕食が含まれていなかったので、カフェテリアで食べ物を買うことにしました。



サンドイッチとビール。海を眺めながら美味しく食べました。ただ、合わせて10ユーロ越えなので、税金のかからないはずの国際航路としては高いですね。節約のためと思って、日本からおにぎりと調理パンを調達してきていましたが、やはり現地の物を食べたくなってしまいます。

タリンからヘルシンキへの帰りの船では、タリンのコンビニで買ったビールを持ち込んで節約しました。



船首部の展望席に戻ると、海原の眺めが広がっていました。



途中で、STAR号とすれ違いました。Superstar号よりも少し小さく、タリンからヘルシンキへの帰りにはこの船を使うことになりました。



9時近くになっていますが、まだ明るい状態です。



先に出発していったBaltic Queen号を追い抜きました。



展望室からタリンの街が見えてきました。



甲板に出ると、空が赤く染まっていました。時間は9時過ぎ。



航海中の眺めを楽しむため、5月中旬におけるヘルシンキの日没時間を調べてからツアーの日程を決めたので、想定通りの眺めです。



タリンの街に初お目見え。エストニアの首都のタリンは教会の塔が立ち並び、城壁を巡らせた中世都市です。

幾つもの塔が見えていますが、主なものとしては、右に聖オレフ教会、その奥に大聖堂の塔が見えています。中央部のロシア風の塔がアレクサンドル・ネフスキー聖堂。左手に聖ニコラウス教会、その右手前に聖霊教会の塔が見えています。



フェリーターミナルが見えてきました。到着は、9時30分。まだ明るい状態でした。

2時間の航海は、あっという間でした。飛行機での移動よりは楽しめました。

タリン到着後、バスでホテルにむかい、旅の第一日目は終わりました。



タリンからヘルシンキへの航海の様子も合わせて載せておきます。

タリンのフェリーターミナル。



今回は、STAR号に乗ります。



停泊しているヴィクトリアI号は、ストックホルム~タリンを航海している船です。



STAR号では、後方の甲板だけが解放されていました。



雨のタリンを後にしました。



クルーズ船も三船停泊していました。

手前は、バルト海クルーズのリーガル・プリンセス号(142,229トン)。でかいですね。



タリンよさようなら。



STAR号に展望席は無かったので、カフェテリアの席に座りました。



スーパー。土産のチョコレートを買い足しました。



ヘルシンキに到着。

タリンクシャトルは、ドル箱路線のようで、観光客よりも大型トラックの利用が多いようです。

ヘルシンキ・タリン間の移動は、一般ツアーでは飛行機を使うことが多いですが、船旅はそれなりの楽しみがあるので、利用価値があります。

さすらいの風景 タルトゥ その1

$
0
0
長旅を終えてエストニアの首都のタリンに到着しましたが、旅の第二日目はバスでタルトゥへと移動しました。タリンへは第六日目の夜に戻ってきて、第七日目に観光を行うことになります。タリンではいずれの日もメリトングランドコンファレンス&スパホテルタリンに泊まりましたが、ホテルの外観などは後日に掲載します。



バスは田園地帯と進んでいきましたが、民家の脇の高い場所にコウノトリが巣を造っているのを度々みかけました。





昼にタルトゥに到着。まずは昼食をとってから観光を行うことになりました。



タルトゥは、エストニア第二の都市で、エストニア最古の大学があることから「エストニアの精神的首都」と言われています。

タルトゥは、ロシアとドイツ騎士団の間で支配権が争われましたが、1280年代には、ハンザ同盟に加盟し、ドイツ人中心の都市となりました。リトアニア大公国、ポーランド・リトアニア共和国領、スウェーデン王国領を経て、1700年より始まった大北方戦争のロシアの勝利によってロシア帝国の統治下に入ってしまいました。

エストニアの歴史については、タリン観光の際に詳しく触れるとしましょう。



通りにあったKalevは、エストニアの1806年創業の老舗チョコレート店です。フィンランドやラトビアでも、その国で有名なチョコレート店があり、土産にそれぞれ買ったため重い荷物になりました。



ラエコヤ広場にやってきました。



ラエコヤとは市庁舎ということで、広場には市庁舎が美しい姿を見せていました。



市庁舎の前には、男女が抱き合ってキスをしている「キスの噴水」が置かれています。由緒あるものかと思ったら、1998年設置の比較的新しいもののようです。エストニアでも相合傘という風習があるのでしょうか。



ロシア支配のタルトゥでは木造以外の建築は認められていませんでしたが、1775年の大火で町の大半を焼失してしまいました。その後方針が変わって石造りで街は再建され、バロック建築や新古典主義の建築が整然と並ぶようになりました。

広場には、レストランの屋外席が並んでいるおり、天気も良いのでビールを飲んだら気持ちが良いでしょうね。残念ながら観光を進めていかなくてはいけません。



土産物屋の店先にあった顔出し看板。外国ではあまり見かけない気もするのですが。



同じく土産物屋の装飾。民族衣装はロシアの影響を受けているようです。





子供の一団と遭遇しました。



路面が赤く染められているのはかつて建物があった部分で、黒味を帯びた部分はかつての道路部分だといいます。



聖ヨハネ教会にやってきました。

聖ヨハネ教会は、14世紀後半にリューベックの商人によって建てられました。塔の形など、リューベックなどの北ドイツの雰囲気があります。



この教会は、度重なる戦争で破壊されて、修復がかなり進んできたところです。



煉瓦造りですが、木で補修されているところもあります。



教会内部は多数の素焼きの塑像で装飾されていましたが、多くは失われてしまっています。





修復作業が行われていました。



素焼きの塑像が棚に並べられていました。





教会の外に出て、尖塔を見上げました。塔には登れるようですが、時間がありませんでした。

さすらいの風景 タルトゥ その2

$
0
0
聖ヨハネ教会を出てタルトゥ大学の本館にやってきました。

タルトゥ大学は、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって、1632年に「アカデミア・グスタヴィアナ」という名前で設立された。スウェーデンでは、ウプサラ大学に次いで古い大学です。現在では、エストニアの最高学府になっています。



本館の裏手の小公園に、スウェーデン王グスタフ2世アドルフの像が置かれていました。

グスタフ2世アドルフはスウェーデン王国最盛期の国王で、ロシア、ポーランドと戦いバルト海制覇をほぼ実現しました。続いて、神聖ローマ皇帝を中心とするカトリック勢力を弱めることによって北ドイツのスウェーデン領を安定させようとして、ドイツの新旧諸侯間で生じた三十年戦争に介入しますが、1632年11月のリュッツェンの戦いで戦死してしまいました。



グスタフ2世は対外戦争を続ける一方で、国内の司法・行政制度を整え、商工業を奨励し、教育の振興にも努めました。名君として、近世ヨーロッパ史に最も大きな影響を及ぼした人物の一人と評価されています。



トーメの丘に登っていくと、大聖堂が現れました。

13世紀後半から建築が始められ、15世紀に完成しました。

建築中は悪魔によって邪魔され、朝になると前日の工事がだめになっていたといいます。仕方なく処女を犠牲にしてこれをなだめたと伝えられています。



16世紀の宗教改革以後は廃墟になっていましたが、現在では東側は図書館に改築されています。



西側は、崩れた梁が並ぶ廃墟の姿を見せています。





丘に上がってくる道路をまたぐ陸橋がありますが、これは悪魔の橋と呼ばれています。悪魔の橋は、ロシアのロマノフ朝300周年を記念し、1913年にロシア皇帝アレクサンダーに捧げられて建造されました。ロシアへの反感もあってか、天使の橋に対になるような名前が付けられたようです。



悪魔の橋に対し、これは天使の橋。1838年に建造され、タルトゥ大学の初代学長に奉げられました。

願い事をしながら息を止めて渡ると、願いがかなうというので、実際にやってみました。長い橋でもないので、そう難しいことではありません。



天使の橋を渡った先に、旧天文台の建物が見えていました。この建物は、世界遺産に認定されている「シュトルーヴェの測地弧 」の構成遺産のひとつになっています。

シュトルーヴェは、ドイツ系ロシア人の天文学者で、1813年から1820年の間、タルトゥ天文台で働き、1820年には所長となり、二重星の観測を行うとともに、子午線弧長の測量のための三角点群の整備を主導しました。これは、「シュトルーヴェの測地弧」と呼ばれ、ノルウェーのハンメルフェストから黒海に程近いスタラ・ネクラシウカに至る約2,820 kmにわたる子午線弧長の測量のための三角点が置かれました。タルトゥ天文台も、測定点になっています。

タルトゥ天文台の前には、シュトルーヴェの記念碑が置かれているようですが、残念ながら案内されませんでした。せっかくの世界遺産なのですがね。ガイドの案内でも触れられず、他のツアー参加者も気にとめる者はいませんでした。



大砲も置かれていました。



トーメの丘を下って、市街地に戻ってきました。

建物の壁に大学本部の絵が描かれていました。むこうに本物の建物が見えています。



ラエコヤ広場に戻ってきました。



街中のレストランの看板を見ていて、「ヤクザ寿司」と書かれているのを見て驚かされました。ボッタクリされそうで怖くて入れませんね。

どうも、バルト三国方面でチェーン展開している日本料理店で、オーナーが日本のやくざ映画のファンだったことから名前が付けられてようです。いつか、日本の旅番組あたりで取り上げられるかもしれませんね。

君は入りたいか「ヤクザ寿司」?



タルトゥを出発すると、再び田園風景が広がるようになりました。



ラトビアのリガに向かうには、途中、国境の町のヴァルガを通過することになります。おそらくここがヴァルガの街で、見えている教会の尖塔は、聖ヨハネ教会のものだろうと思います。

ソ連からエストニアとラトビアが独立した後には、この街中に引かれた国境線が問題になり、国境の検問も行われていたようですが、現在ではどちらもEUに加盟したため、国境検問も無くなってしまいました。

バスもどこが国境か判らないままにラトビアに入ってしまいました。



地球の歩き方の写真をみると、これはヴァルガのラトビア側にあるルガジ教会ではないかと思います。



タンポポが咲いて、草原が黄色に染まっているところもありました。

眠気と戦いながら、車窓風景を眺め続けました。

さすらいの風景 リガ その1

$
0
0
ラトビアの首都のリガには、7時過ぎに到着。移動距離が長い割には道路が良く整備されており、順調な移動でした。

ラトビアには、バルト三国周辺の異教徒達を服属させカトリックに改宗させることを目的として、13世紀初めに僧正アルベルトによって率いられたリヴォニア帯剣騎士団が進攻しました。リガは、この騎士団の本拠地として整備されたのが始まりです。

リヴォニア帯剣騎士団は後にドイツ騎士団に吸収合併されますが、宗教改革の結果騎士団は弱体化し、この後はポーランド・リトアニア連合国、スウェーデン、ロシア帝国によって支配されていくことになりました。

第一次世界大戦後に独立を宣言しましたが、ソ連に併合。第二次大戦中にはナチス・ドイツに併合され、大戦末期にはソ連が再占領。1991年8月21日に独立宣言を行い、諸外国からの国家承認もなされて事実上の独立を達成しました。



市街地に入ると、立派な建物が並んでいましたが、像やレリーフなど建物の装飾が目立っていました。



アレクサンドル・ネフスキー教会のようです。



新市街地のレストランで夕食をとった後に、デイズホテルベフにチュックインしました。このホテルには、リトアニアのビリニュスまで南下した後に戻ってきて、再度宿泊することになります。

観光の中心になる旧市街地まで遠いのは残念でしたが、すぐ脇にショッピングセンターがあり、買い物ができました。



三日目は、リガの市内観光ということで、まず中央市場に向かいました。

これはショッピングセンターを併設したリガ駅です。



駅の向こうに、モスクワで見かけるスターリン・クラシック様式の高層ビルが威圧的に聳えていました。現在では、科学アカデミーの建物になっています。



スターリン・クラシック様式の高層ビルは、スターリンの意向によって、ソ連では1933年から1955年の間に建てられました。社会主義の発展と革命の達成を摩天楼で表現し、労働者を鼓舞することを狙ったものとされています。ソ連と東ヨーロッパ諸国をはじめとする共産主義国家で、この洋式の建物が見られます。



ダウガヴァ川の川岸に出ました。



煉瓦造りの倉庫が並んでいました。



中央市場は、このかまぼこ型の建物に入っています。



かまぼこ型の建物が並んでおり、それぞれ、魚、野菜、肉など売り場が分かれています。

この中央市場は、20世紀初頭に造られ、当時ラトビア国内にあったドイツのツェッペリン型飛行船の格納庫が移転されて用いられています。なお、世界遺産にはリガの旧市街地の歴史地区とともにこの中央市場も含まれています。



市場の中に入ると、魚売り場が広がっていました。



生の鮭が売られていました。



燻製の魚も多く見られました。



日本では見かけない燻製の魚が並んでいました。





試しに買って帰りたいところですが、旅の序盤とあっては諦めるしかありません。



続けて野菜売り場。



豊富な野菜が並んでいました。旅行中の食事でも前菜はサラダということが多かったです。





肉類の売り場。ドイツの影響の強い国なので、ハムやソーセージも種類豊富です。



生肉の売り場。



スパイスとドライフルーツの売り場。



チーズ売り場。





見学していると何か買いたくなり、結局干しアンズを買ってしまいました。家でアンズジャムを作るつもりです。



外に出ると、近くの鉄橋を列車が通過していました。近郊を結ぶ列車のようです。



バスに戻ってダウガヴァ川の川岸を走っていくと、像が置かれていました。川の方を向いており、これは裏側からの眺めです。

「クリストファーの像」と呼ばれ、巨人クリストファーは川の渡し役でしたが、ある夜彼が運んだ子供が翌朝には黄金になっており、そのお金でリガの町が創設されたという伝説が残されています。



また、川岸に設けられたリガ港には、バルト海クルーズ船が停泊していました。Costa Pacificaで、2009年4月就航、総トン数 114,500トン、乗客定員3780人です。

リガ港は、リガ湾からダウガヴァ川を遡ったところにありますが、このような大型船も入ってこられるということは、昔から良港として使われていたのでしょうね。

さすらいの風景 リガ その2

$
0
0
中央市場の見学を終えて、次はユーゲント・シュティール建築群の見学を行うことになりました。

ユーゲント・シュティールは、ドイツ圏において19世紀末から20世紀の初頭にかけて広がった芸術活動を示す語で、フランス・ベルギーのアール・ヌーヴォーに相当します。

ユーゲント・シュティールは、「構成と装飾の一致」を理念とし、美や快楽と実用性を融合させることを主たる目的とし、動植物や女性のシルエットなどをモチーフとし、柔らかい曲線美を特徴とします。先日ウィーンで見たウィーン分離派の芸術家のクリムトやオットー・ワーグナーも、この芸術運動の推進者として含まれます。

バスを降りると、さっそく目の前に華麗な装飾を施した建物が現れました。



壁には女性の像が飾られていました。

さっそく写真を撮っていると、ガイドからこれはユーゲント・シュティール建築ではないといわれました。



通りを歩いていくと、異彩を放つ建物が現れました。これも、ユーゲント・シュティール建築ではないといいます。

リガでは、ユーゲント・シュティール建築に影響されて、その後も装飾の多い建物が造られ続けたようです。



ここからようやくユーゲント・シュティール建築群が現れてきました。



屋根や窓枠を飾るのが、ユーゲント・シュティール建築群の特徴のようです。

この建物を含め、この一帯のユーゲント・シュティール建築の多くはミハイル・エイゼンシュタインによって造られました。

なお、ミハイル・エイゼンシュタインは、「戦艦ポチョムキン」で有名な映画監督のセルゲイ・エイゼンシュタインの父親です。ただ、ミハイルはロシア革命で共産主義を嫌って白軍に加わったのに対し、セルゲイは赤軍に参加し、政治的には敵味方に分かれました。

ソ連時代のユーゲント・シュティール建築は、「ブルジョワ芸術」としてほとんど顧みられることがなく、荒れ果てていたといいます。リガでは、スターリン・クラシック様式の建物も同時に見られ、見比べると面白さが増します。



美しい女性像や漆喰装飾で飾られています。



隣りの建物も、色違いで、ほぼ同じ趣向です。













通りの角には、塔を持った特徴のある建物がありました。



この建物にはユーゲント・シュティール博物館が入っていますが、入り口だけの見学。



入り口の奥に小ホールがあり、螺旋階段が設けてあります。



曲線や淡い照明など、ユーゲント・シュティールの特徴が出ています。



ホール天井のランプ。



天井部の装飾。



アルベルタ通りに進みます。通りでは、建物を見上がてガイドの説明を聞いているグループを見かけました。





青レンガが印象的な建物です。



華麗な装飾が施されています。



力のシンボルのライオン像が飾られています。



赤レンガガアクセントに使われている建物。



最も完成度が高いと言われているエイゼイシャタイン作の建物。





中央のファサードの上には、二頭のライオンと三つのメドゥーサの頭が飾られています。








赤タイルのラインが加えられた建物。





ドラゴンの像が置かれた建物もありました。



エリザベテス通りにあるこの建物は、最も異彩を放っています。



ファザードの両脇には人面像が飾られています。



エイゼンシュタインの最後の建築物です。



彫刻群で飾られています。

ユーゲント・シュティールの建物は、見ているのは面白いですが、飾られている像などは夜見ると不気味ではないだろうか。



建物を見上げながら歩いてきましたが、地上に目を戻すと、ここにもヤクザ寿司の店がありました。

さすらいの風景 リガ その3

$
0
0
リガの旧市街地に向かい市庁舎広場の駐車場で車を降りましたが、まずリガ大聖堂を見学しました。

リガ大聖堂は、騎士団が占領したリヴォニアの宗教的中心を果たしてきた教会です。1211年に僧正アルベルトが建設を始め、その後増改築が加えられて18世紀後半に現在のような姿になりました。

高さ90mの塔は、1776年に立て直されたものですが、修理中でネットが被られていました。



教会内は、高い天井を持っています。



主祭壇は、プロテスタントのため、すっきりしたものになっています。



この教会で見どころになっているのは、ステンドガラスです。19世紀にミュンヘンで造られたものとのこと。





リガの歴史を描いたステンドグラスが飾られています。

左は「ティゼンハウゼン一家(ステンドグラスの寄付者)と聖母マリア」、右は「アルベルト僧正による大聖堂の創設」



「ティゼンハウゼン一家(ステンドグラスの寄付者)と聖母マリア」の中央部分。



「アルベルト僧正による大聖堂の創設」の中央部分



左は「1525年、リーガ市長に信仰の自由の宣告書を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」。右は「1621年、スウェーデン王グスタフⅡアドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」



「1525年、リーガ市長に信仰の自由の宣告書を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグ」の中央部分。



このステンドグラスの上には、マルティン・ルターの像が飾られています。



「1621年、スウェーデン王グスタフⅡアドルフを迎える大聖堂前のセレモニー」の中央部分。



その他にも美しいステンドグラスが飾られていました。









左は天国の鍵を持っていることからペテロ。右は、目を閉じた姿で描かれているので、パウロ。





左は石板を持ち、頭から二本の光線が立ち上がっていることからモーセ。右は、巡礼の杖を持っていることから大ヤコブっでしょうか。



バラ窓。



大きなステンドグラスも設けてありましたが、工事のためか足場が組まれていました。



教会内の壁には、寄進者の貴族の紋章が飾られていました。





大聖堂の奥には、修道院であった回廊が附属していました。



中庭の周りに回廊が巡らされています。



回廊から見た教会の塔。



回廊には、古い大砲などが置かれていました。





古い銅像。



塔の上の鶏の像は1985年に付け替えられましたが、これは以前に飾られていたもの。



鐘が並ばれていましたが、塔の上に設けてあったカリヨンでしょうか。比較的新しいもののようなので、塔の工事のために仮置きされているのかもしれません。

プロテスタンの教会は、質素な飾りで、見ても面白くないことが多いのですが、リガ大聖堂は美しいステンドグラスがあって楽しめました。

さすらいの風景 リガ その4

$
0
0
リガ大聖堂の見学を終えて、繁華街を歩いていきました。





ガラス張りの建物は、市庁舎の裏側のようです。



市庁舎広場に戻ってきました。

広場にあってひと際目を引く建物は、ブラックヘッドの会館です。未婚の貿易商人の友愛会であったブラックヘッドのメンバーによって、コンサートやダンスパーティーのための大ホールとして15世紀に造られました。1941年にドイツ軍の空襲によって破壊されましたが、リガの創設800周年を記念して2000年に再建されました。



ブラックヘッドの会館の前にはリガの守護神であるローラント像が置かれています。

ローラント像は、中世文学「ローランの歌」に登場する、イスラム勢力と勇敢に闘ってその後伝説化された英雄ローラントを現したものです。石像は自由都市としての尊厳を象徴しています。



ブラックヘッドの会館の壁には、左から、ハンザ同盟都市のリガ、ブレーメン、リューベック、ハンブルグの紋章が飾られています。その下に飾られているのは、ギリシャ神話の神々ですね。最高神ゼウスの代わりにポセイドンがいるのは、海上交易都市であるためでしょう。





彫金と彫刻で飾られた大時計は、月、日、時間、月齢を現します。

言い伝えによると、この時計を造った職人は、二度と同じものを造れないように目をくり貫かれてしまったといいます。よくある話ですが。





広場の反対側には市庁舎があります。この市庁舎も再建されたものです。



続いて、聖ペテロ教会へ。



聖ペテロ教会は、13世紀に最初の教会が建てられ、18世紀にほぼ現在の姿に改築されました。塔は、第二次大戦後の再建され、塔の高さは123.25mあります。



聖ペテロ教会の内部は、高い天井を持っていますが、すっきりした姿をしています。



主祭壇。



マルティンルターの肖像画が飾られていました。



ここのステンドグラスは、簡素なものでした。



教会内には、ローラント像と思われる古い像が置かれていました。



古い建物の破片のようです。



聖ペテロ教会脇の小広場はチューリップが満開状態でした。

左手の建物は、リヴォニア騎士団の城の一部として建てられた、リガで最も古い建物です。13世紀終わりに住民によって壊され、残された南側部分が聖ゲオルギ(ユラ)教会として使われてきました。



聖ヨハネ教会脇に出てきました。聖ヨハネ教会は、13世紀に建立され、16世紀に再建されたゴシック様式の教会です。

聖ペテロ教会には、災いから守るために二人の修道士が壁に塗り込められたという言い伝えがあり、19世紀の修理の際に壁の中から屍が発見されたといいます。



また、外壁上部には小窓が設けられて修道僧の顔の像が置かれています。かつては、この内側に小部屋があって、そこから外部に聞かせる説教が行われたといいます。

小さくて判り難いですが、写真において、左側の窓の右手と右側の窓の左手に設けてあります。



聖ヨハネ教会脇には、ブレーメンの音楽隊の像が置かれています。ハンザ同盟として姉妹都市の関係にあるブレーメンから贈られたものです。



しかし、この像は凶暴な顔をしています。鼻の先端は、願い事のために触るため光っています。



ネコの拡大像。化け猫のようです。

ブレーメンの音楽隊はこちら

どうみても本家ブレーメンのものの方が良いですね。



ブレーメンの音楽隊の前の広場では、土産物を売る露店が並んでいました。



小路から聖ペテロ教会を振り返ったところ。

さすらいの風景 リガ その5

$
0
0
聖ヨハネ教会を出て歩いていくと、ワーグナーが住んでいた家がありました。通り過ぎたところでガイドの説明があり、振り返って写真を撮りました。現在はコンサートホールになっているようです。

ワーグナーは、1837年から二年間、リガに住んでいました。ドレスデンからリガにやってきて、1839年でパリへ引っ越していきました。この時代のワーグナーは借金まみれで、夜逃げを繰り返していました。

ワーグナーの作品リストを見ていくと、リガでの生活時期には、歌劇「リエンツィ」がおおよそ完成されています。初演されたのは、ドレスデンのゼンパー・オーパーにて1842年10月20日のことになります。全曲が上演されることはほとんどありませんが、序曲だけは良く演奏されていますね。



家には、ワーグナーの名前が書かれたプレートが取り付けられていました。



この通りは、ワーグネラ通りと名前が付けられています。



通りを横断する際に、自由記念碑が見えました。

自由記念碑は、1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられました。高さ51mの記念碑で、塔の上には、女性ミルダがラトヴィアの三つの地域の連合を現す星を掲げています。

ソ連時代には、壊されはしませんでしたが、近づくとシベリア送りになると噂される、悲劇の象徴になっていました。



美しいリーブ広場に出ました。





広場の片隅に見えるのは、小ギルドの会館です。



小ギルドの会館の脇には大ギルドの会館が並んでおり、その前に猫の家があります。



猫の家には、かつて裕福なラトヴィア商人が住んでいました。大ギルドに入りたいと思いましたが、ラトヴィア人であることからドイツ人が支配しているギルドの入会は拒否されてしまいました。怒った彼は、塔の上に大ギルド会館に尻を向けて猫を取り付けました。ギルドは怒りましたが、猫がどのように振舞おうと勝手であると反論しました。その後、大ギルド会館がコンサートホールに変わると、音楽に引かれて会館の方を向くようになったといいます。



この猫のポーズは可愛いですね。



猫の家の一階は、猫マークのレストランになっていました。



続いて現れたのは、火薬塔。14世紀に建てられ、1650年に再建されて火薬の保管に使われました。高さ25.5mで、外壁の厚さは3mあります。現在はラトヴィア軍事博物館になっています。



トゥァルニャ通りに進みます。



城壁が現れました。リガの街は、かつては城壁に囲まれていましたが、防衛の重要性が無くなるとともに、城壁は壊されて建材として使われてしまいました。この城壁は、後に再建されたもので、かつては28の塔があったといいます。



城壁に開いているのは、スウェーデン門と呼ばれるリガで唯一残された城門です。当時、向かいの兵舎に住んでいたスウェーデン兵士がよく利用したことから名前が付けられています。

この門には伝説が残されています。かつてラトヴィアの娘たちは外国人と会うことが禁じられていました。しかし、一人のラトヴィアの娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門でひそかに会うようになりました。しかしある時、娘は捕えられ、罰として門の壁の中に塗り込められてしまいました。それ以降、真夜中にここを通ると、娘のすすり泣きが聞こえるといいます。

残念ながらリガでの自由時間は無かったので、この伝説を確かめることはできませんでした。



門の装飾。



スウェーデン門を抜けると聖ヤコブ教会が見えてきました。



聖ヤコブ教会の前の建物はラトヴィア国会ですが、一般道に面しており、オープンです。



続いて、三人兄弟が現れました。兄弟のように3棟並んでいることからその名があります。



右から15世紀、16世紀、17世紀の建物になっています。黄色い建物の「次兄」の時代は、窓税がなくなったため「兄」に比べて窓の大きい見栄えのする造りですが、その後「弟」の時代になると、今度は「間口税」が課せられたため、間口の狭い窮屈な作りになっています。

三人兄弟は、細い道路に面しているため、三軒を一緒に撮るのは難しい状態でした。



三人兄弟から歩いていくと聖母受難教会が見えてきました。



茶色のレンガ造りの教会を見てきたので、白とブルーの教会は新鮮に見えました。



これは英国教会のようです。観光の対象になっているものの他にも多くの教会があります。



円塔が現れましたが、これはリガ城です。



1297年から1330年にかけてリヴォニア騎士団とリガ市民の間で激しい衝突が起き、敗北した住民は破壊された最初の城の代償にこの城を造りました。最初は軍事目的が強かったものが、ポーランド、スウェーデン、ロシアと支配者が代わると宮廷として使われるようになり、18世紀から19世紀にかけて根本的な改修が加えられて現在の姿になりました。現在では、北側がラトヴィア歴史博物館、南側は大統領官邸として使われています。



リガ城近くのレストランで昼食をとり、これでリガ観光は終わりになりました。通りでバスを待っていると、聖母受難教会が美しい姿を見せていました。

さすらいの風景 ルンダーレ宮殿 その1

$
0
0
リガの観光を終えてヴィリニウスに向かいますが、その途中、パウスカの街近くにあるルンダーレ宮殿を観光することになりました。

リガからは、約70kmの移動でパウスカに到着しました。

バウスカは三つの川の合流点にあり、15世紀にリヴォニア騎士団はこの地の丘に巨大な城を建設しました。その後は、リトアニアとの貿易の中継地として発展しました。

現在のバウスカは小さな街で、それに見合ってバ、ウスカ市庁舎もこじんまりしたものでした。



ロシア正教会。



ムーサ川を渡る時に、バウスカ城が見えました。バウスカ城は、15世紀の城址部分と16世紀後半にクールランド公が建てた宮殿部に分かれています。城址部分は、1706年の大北方戦争時代にロシア軍によって破壊されて廃墟になっています。見えているのは現在は博物館になっている宮殿部です。



パウスカの街の郊外にルンダーレ宮殿があります。駐車場の脇には、タンポポ満開の草原が広がっていました。



駐車場からは、しばらく並木道を歩いていくことになりました。



ルンダーレ宮殿の入り口に到着。



「バルトのヴェルサイユ」と呼ばれるバロック様式の宮殿です。



ヴェルサイユ宮殿と似ていますが、閑散としているのは大違いです。リガとヴィリニュスの間には、ルンダーレ宮殿と十字架の丘があり、一般的なツアーでは十字架の丘を訪れてルンダーレ宮殿は省かれることが多くなっています。今回のツアーを選んだのも、ルンダーレ宮殿が含まれていることからでした。



門の上に置かれたライオン像。



ルンダーレ宮殿は、ロシアの女帝アンナの愛人になって、貧しい貴族からクールランド大公に上りつめたビロン公の夏の宮殿として、1736年に建築が開始されました。

この宮殿はイタリア人建築家ラストゥレリによって設計され、彼は エカテリーナ宮殿やサンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館本館になっている冬の宮殿を手がけました。

女帝アンナが死亡した後の1741年に、宮廷で憎まれていたビロン公は、財産を全て没収されてシベリア流刑になってしまい、宮殿の建築も中断されてしまいます。失脚してから22年間のあいだ、歴史の表舞台から姿を消していましたが、1762年に親ドイツ派のピョートル3世が即位すると、ビロンは宮廷に呼び戻されました。さらに、1763年にはエカチェリーナ2世が彼をクールラント公に復帰させました。工事は再会され、ルンダーレ宮殿は、1768年に完成しました。



建物に掲げられた紋章。上にある双頭の鷲はロマノフ王朝のものでしょう。下にはユニコーンとグリフィンが置かれています。クールランド大公の紋章を調べると、鹿とライオンが描かれているので、コンピューターゲームのRPGよろしくユニコーンとグリフィンにクラスチェンジしたのなら面白いですね。



宮殿内では、保護のために靴にカバーを付ける必要があります。



いかにも宮殿といった階段。



まずは緑の間。陶器製の暖炉が置かれています。



続いて、宮殿で最も豪華な黄金の間。公の戴冠式が行われたといいます。



天井には、イタリア人画家によって、知恵、力、知恵のテーマが寓話的に描かれています。





窓際の柱も美しく飾られています。



金箔が張られた漆喰像も飾られています。



黄金の間に隣接する小部屋には、陶器が飾られていました。



ヨーロッパの宮殿を訪れると、角の小部屋には中国や日本から運ばれた陶器が飾られていることが多いですが、ここでもその形にならっています。



黄金の間からは、グランド・ギャラリーが続いています。



ここの壁にもフレスコ画が描かれています。





奥からグランド・ギャラリーを振り返ったところ。



グランド・ギャラリーの先には白の広間があります。ここでは舞踏会が行われ、白の色は女性のドレスの色を引き立てるためといいます。



白の広間の壁は、農村風景や動物、神話を描いた漆喰彫刻で飾られています。









白の広間の脇には、楕円形の磁器の間があります。



滝をイメージしてツリー状に置かれた台に陶器が置かれています。

ルンダーレ宮殿は小ぶりながら趣のある宮殿です。

さすらいの風景 ルンダーレ宮殿 その2

$
0
0
ルンダーレ宮殿の見学を続けていきます。

ズボフの部屋

絵画が飾られて、プライベートの区域に入ってきたようです。









バラの間。



ピンクの大理石の壁に花飾りが付けられています。



オランダ風絵画の間。



一族のポートレートの間。



ビロン公の肖像。この宮殿の主です。



ビロン公を愛人とした女帝アンナの肖像。

愛人として使えるのも大変そうです。





ビロン公の寝室。



ビロン公の謁見室(あるいは赤の書斎)。



イタリアン・サロン。



公の食堂。



テーブルセットも展示されていました。





シュヴァロフ伯の部屋。



この先は公婦人の部屋全体を含む「長いコース」が続きますが、ツアーは「短いコース」のため、見学はここまでになりました。



階段を下っていきます。



一階部の廊下には、レリーフが施された石板が展示されていました。



宮殿の背後には庭園が広がっていますが、ここも残念なことにツアーの見学には含まれていませんでした。自由時間があれば、料金を払って中を見たかったのですが。



庭園の様子は、宮殿の窓からの眺めである程度は知ることができました。



幾何学的模様の施されたフランス式庭園が設けられていました。バラが美しいといいますが、花の時期には少し早いようです。







駐車場に戻る際に宮殿を振り返ったところ。



ルンダーレ宮殿の見学を終えて、パウスカからヴィリニウスへは約230kmのバス移動になります。

パウスカからはそう遠くない距離で国境ですが、知らない間に通過してリトアニアに入りました。

眠気に耐えながら車窓の風景を眺めていると、菜の花畑が一面に広がるのに出会いました。



ルンダーレ宮殿を出発したのは4時40分頃で、ヴィリニュスには8時過ぎに到着しました。日の長い時期なので車窓風景を楽しめましたが、日の短い時期だと真っ暗な中のバス移動になってしまったところです。

さすらいの風景 ヴィリニウス その1

$
0
0
エストニア、ラトヴィアを横断して、三国目のリトアニアの首都のヴィリニウスまでやってきました。バルト三国の南下も終わり、ここで折り返すことになります。

ここの宿は、エコテルヴィリニウスでした。今回泊まった4ヶ国のホテルの中では、ここの設備が一番劣っていましたが、旧市街地になんとか歩ける距離にあったので、文句はありません。また、ヴィリニウスでは二泊の連泊になるので、1泊での移動と異なって、一息つくことができました。



事前に地図上でホテルの位置を確認していたので、朝食前にネリス川の川岸まで歩いてみました。

ゲディミナス塔の立つ丘が見えていました。この丘の下に旧市街地が広がっているはずなので、そこまで歩ける距離であることが確認できました。



川の反対側。こちらが上流部です。

ネリス川は、ベラルーシに源を発してネマン川(リトアニア語ではネムナス川)に合流してバルト海に出ています。



ヴィリニウスの市内観光では、まずネリス川の川岸にある杉原千畝の記念碑を訪れました。旅行日程には含まれていなかったので、個人的に訪れてみようと思っていたので、時間の節約になりました。

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に、日本の通過ビザを大量に発行し、その結果6000人にのぼるユダヤ人の命を救いました。「日本のシンドラー」と呼ばれることもあります。



記念碑には、ユダヤ人を救ったビザも掲示されています。

この記念碑は、2001年に早稲田大学よりヴィリニュス市に寄贈されました。杉原千畝は、早稲田大学を中退していますが、出身者ということになっています。記念碑の周囲は、小さいながら桜が植えられた公園になっています。

当時領事館の置かれていたカウナスで、改めて杉原千畝の功績について詳しく触れます。



ビリニュスの市内観光は、まずビリニュスの中心地といえる大聖堂の見学から始まりました。

ここには雷(ベルクーナス)の神殿がありましたが、13世紀に十字軍騎士団の圧力から逃れるためにキリスト教を受け入れたミンダウガス王によってキリスト教会が建てられました。ミンダウガス王は暗殺されて、この場所も自然崇拝の聖地に戻されてしまいましたが、1387年にヨガイラ王によってリトアニアは再びキリスト教化されて「、教会が再び建て直されました。

その後、増改築が繰り返されて、18世紀の大改造によって現在の姿になりました。



大聖堂の上には、三体の聖人の像が飾られています。



聖スタニスラウス、聖ヘレン、聖カジミエルの像で、これら三聖人の像は、ソ連時代の1996年には一旦撤去されてしまいました。

これら三聖人は、あまり知られていないので少し触れましょう。

聖スタニスラウスは、クラクフ司教になり、ポーランド王ボレスワフ2世の戴冠式を司りました。しかし、ポーランドのキリスト教化の助けとなるよう、ベネディクト会派修道院をポーランドに設置するよう王に働きかけたところ、土地を巡る争いから両者は仲たがいし、スタニスラウスは殺害されてしまいました。

聖ヘレンは、古代ローマ帝国の皇后でコンスタンティヌス1世の母です。ゴルゴタに巡礼し、キリストが磔になった十字架を発見したとされる伝説を持つことから、キリスト教会の聖人になっています。

聖カジミエルは、リトアニアと若者の守護聖人です。詳しくは後ほど。

聖人像が飾られているというのも、エストニアやラトヴィアとは違って、リトアニアはカトリックが普及していることによります。エストニアやラトヴィアで普及しているプロテスタントでは、聖人というものを認めていません。



鐘楼は、53mの高さで、鐘楼の基礎部分は13世紀の城壁の塔が使われているといいます。



大聖堂の外壁には、聖人の像が飾られています。





これはモーゼでしょうね。



鐘楼の脇には、人間の鎖と呼ばれる独立運動の起点になった「Stebuklas(軌跡)」と書かれた基盤がうめられています。

人間の鎖は、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年になる1989年8月23日、ソビエト連邦の統治下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)において、独立運動の一環として行われたデモ活動です。およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600km以上の人間の鎖を形成しました。

現在の日本でも、政治的抗議活動として人間の鎖なるデモが行われますが、それとはスケールが違うものです。東京から新大阪間は、新幹線で545kmなので、その長さが判ると思います。



外壁沿いに置かれていたこの像は、王子カジミエルでしょうか。



大聖堂の中に入りました。



祭壇。



プロテスタントの教会よりも華やかさを増しています。



大聖堂は、高い天井を持っています。



大聖堂の主祭壇の脇には、聖カジミエルの礼拝堂が設けてあります。

カジミエルは、ポーランド王・リトアニア大公カジミェシュ4世の次男として生まれ、トルコの侵略からキリスト教世界を防衛することを熱望していたこともあって、マーチャーシュ1世に不満を持つハンガリー貴族の一派からハンガリー王位に就くようとの請願を受けました。ハンガリー王位の獲得に失敗しましたが、長男ヴワディスワフがボヘミア王位についたため、次男カジミェシュがポーランド王位の相続人と見なされました。しかし、結核によって25才の若さで亡くなってしまいました。リトアニアと東方教会に属するモスクワ大公国との戦いで、リトアニア軍の前に彼が姿を現したという奇跡を起こしたことから列聖され、リトアニアの世襲領主であったことからリトアニア国家の守護聖人とされました。



礼拝堂には、聖カジミエルが祀られています。



中央に聖カジミエルの肖像画が飾られています。



絵の上に金属プレートが被せられてイコン状になっているのですが、右手が二本あります。三本目の手は、画家が何度消しても現れてきたといいます。



礼拝堂は大理石が張られて、8体の王の像が置かれています。



天井にも絵が描かれています。



天井はドーム状になっています。



王子カジミエルが亡くなった場面を描いているようです。

聖カジミエルの礼拝堂は、小さいながら豪華に装飾されて、リトアニアの人々の信仰の厚さがうかがわれます。



大聖堂には、立派なパイプオルガンも設けてありました。

大聖堂の他の見所としては地下墓室があり、そこには絶世の美女のバルボラ・ラドヴィライテ妃をはじめとする棺が納められていますが、そこは残念ながら見学できませんでした。

バルボラ・ラドヴィライテ妃については、後ほど触れることになります。



大聖堂の前の広場には、ヴィリニュス創設神話の主人公であるゲディミナス大公の像が置かれています。

ある日トゥラカイ城から狩りにでたゲディミナス大公は、二つの川に挟まれた丘の近くに野営を張った。その夜、彼は不思議な夢を見た。それは丘の上に立ち、大きく吠える鉄の鎧を来た狼の夢であった。祭祀は、その夢を神の信託と判断し、喜んだ大公はその丘に城を築くことにした。

像には、少し可愛らしいですが狼も取り付けられています。



大聖堂の脇には、再建が進められている王宮があります。



カテドゥロス広場を後にして、繁華街のビリエス通りに進みました。

さすらいの風景 ヴィリニウス その2

$
0
0
カテドゥロス広場からヴィリニュスの繁華街であるビリエス通りに進みました。

時間が早いため、開店準備や貨物車が入っており、通りの雰囲気を味わうにはあまり良い状態ではありませんでした。



通りの奥に見えてきたのは、聖ヨハネ教会の一部のようです。



ビリエス通りをさらに進むのかと思ったら、脇道に入りました。石畳の敷かれた小路も趣があります。



この小路にアンバーミュージアムギャラリーがありました。



地下が琥珀の展示場になっていました。



琥珀の原石が展示されていました。

琥珀は樹脂が地中で固化してできるもので、バルト海沿バルト海の南岸・東岸地域で多く産出されます。





その中で珍しいものとして、虫入り琥珀が展示されていました。琥珀は樹脂が地中で固化してできるものであるため、石の内部に昆虫(ハエ、アブ、アリ、クモなど)や植物の葉などが混入していることがあり、それらは珍重されています。



確かに虫が入っているのを確かめることができます。



映画の「ジュラシックパーク」では、、琥珀に閉じ込められた蚊の吸った血から恐竜のDNAを抽出し、恐竜を復活するという場面が描かれていましたね。実際には、実現不能なようですが。



ここには、琥珀の売店も設けられていました。



ここでかみさんへの土産に琥珀を買いましたが、品質保証書もついてきました。値段は少し高めといわれていますが、日本での相場自体が判りません。ラトヴィアやリトアニアでは、露天の土産物屋でも、安い値段で琥珀を売っていましたが、品質のほどは不明です。



アンバーミュージアムギャラリーのある小路の奥には、聖ミカエル教会の塔が見えていました。



聖ミカエル教会の脇を抜けると、聖アンナ教会が見えてきました。右隣に見えるのは、聖ベルナディン教会です。



聖アンナ教会は、15世紀末に造られた後期ゴシック様式の教会です。その曲線的美しさはフランボワイアン(火焔式)ゴシック建築の傑作と言われています。

1812年にロシアへ攻め上がるナポレオンがヴィリニュスに入城した際には、この教会を見て「我が手に収めてフランスに持ち帰りたい」と語ったといいます。



建設には33種類もの異なった形のレンガが用いられています。







聖アンナ教会を見学したところで、一旦バスに戻り、ビリニュスの南に位置する夜明けの門に移動しました。

夜明けの門は、ヴィリニュスに9つあった城門のうち、唯一残されているものです。





門の上には、リトアニアの国章にもなっているヴィーティス(追跡者)と呼ばれる騎士像が飾られています。ソ連時代には、このリトアニアの紋章は、ここだけでしか見られないものだったといいます。



この騎士像は、リトアニアのユーロ硬貨にも描かれています。これは2ユーロ硬貨。ユーロ硬貨は、国ごとに異なるデザインが採用されています。この2015年に発行されたばかりのリトアニアの硬貨は、今年になってからリトアニアを訪問した人以外は目にしたことは少ないはずです。



門の両脇には、短い区間ですが、城壁が続いていました。



夜明けの門からは、夜明けの門通りが始まっています。



この夜明けの門通りは、市庁舎広場に出て、ビリエス通りを経てカテドゥロス広場に続きます。



内側から夜明けの門を振り返ったところ。

夜明けの門の二階は、礼拝所になっています。



窓を通して、礼拝堂に置かれたイコンが見えています。



二階に上がって、礼拝堂を見学しました。参列者が歌いながらのミサを行っている最中で、小部屋の中は満員状態でしたが、見学のために前に進ませてくれました。



美しい女性が描かれたイコンが置かれていました。



このイコンは、1363年にアルギルダス公がクリミア半島に遠征して持ち帰ったもの、あるいはバルボラ妃をモデルに描いたものと言われています。

このイコンには奇跡を起こす力があると言われています。



再びバスに乗って、北側のゲディミナス塔に向かいました。

途中で、卵型のモニュメントが置かれていました。

さすらいの風景 ヴィリニウス その3

$
0
0
ヴィリニュスの南に位置する夜明けの門から、反対の北にあるゲディミナス塔の見学のために移動しました。最初に見学した大聖堂はこの丘の下にあるので、いったり来たりになっています。

ゲディミナス塔のある丘は、14世紀、大公ゲディミナスがトラカイからヴィリニュスに遷都した際に、城が築かれた場所です。19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在は監視塔として使われていたゲディミナス塔のみが残っています。



丘の上には歩いても昇れますが、我々はケーブルカーを使いました。



ケーブルカーを下りた城跡は、遠足の子供達で賑わっていました。



塔への入場料は自分持ちでしたが、当然登ることにしました。



塔の上は、それなりの広さのある展望台になっていました。



まずは、ネリス川とケーブルカー乗り場。



東側の眺め。城跡が僅かに残っています。その向こうは、3つの十字架の丘。



3つの十字架の丘では、この地で殉教したフランチェスコ修道会の僧を悼むため、17世紀初めに木製の十字架が建てられました。その後、改修や撤去を経て、1916年にコンクリート製の記念碑が置かれましたが、旧ソ連時代に破壊され、1989年に復元されてビリニュスのシンボルになっています。



南東には、美しいレンガ造りの聖アンナ教会が見えていました。左は、ベルナルディン教会です。



南方面の眺め。赤い屋根が並び、所々に教会の塔が立っています。右寄りには、聖ヨハネ教会が見えています。



ビリエス通りが見えています。



丘の麓にある王宮。



その隣にある大聖堂。



ネリス川の眺め。



塔を下りてから見上げると、子供たちが手を振っていたので、私も振り返しました。

さすらいの風景 ヴィリニウス その4

$
0
0
ツアーでのヴィリニュス観光の最後は、聖ペテロ&パウロ教会になりました。

聖ペテロ&パウロ教会は、1668年から7年間かけて建設されましたが、この教会の見どころは30年かけて造られたその内装です。

外見だけならば、数多くある教会とそう変わりはありません。



教会の中に入ると、思わず見とれてしまうことになります。



壁や天井の一面に聖書や神話の漆喰彫刻が施されています。2000以上もの彫刻が施されているといいます。



天井からは、ノアの方舟を象ったシャンデリアがつるされています。



説教台にも彫刻が施されていました。



中央祭壇には「聖ペテロとパウロの告別」と題する絵画が飾られています。



白一色の中、珍しく彩色された彫刻がありました。これは、高名な神学者の聖アウグスティヌス。





聖書の場面でしょうか。



「十字架を運ぶキリスト」の場面ですね。



「キリストの磔刑」。槍を持った騎士が描かれていますが、キリストの死を確認するために槍で刺したというローマ帝国の百卒長ロンギヌスでしょう。馬に乗っているのは少しおかしく思いますけど。

ロンギヌスの槍というと、エヴァンゲリオンに出てきたアイテムとしての方が有名になっていますかね。



細かい部分を見ていくと、面白い像が見られます。怪しい女性像。セイレーンあたりでしょうか。



びっしりと彫刻で埋め尽くされていますが、細かい所を見ていくだけの時間は無いのは残念です。



脇の回廊には、4体の聖人像が置かれています。

聖アポロニア

ローマ帝国時代のアレクサンドリアで殉教したキリスト教徒で、彼女は歯を全て乱暴に引き抜かれるという拷問を受けました。絵画や彫刻では、歯を抜くための鉗子を持った姿で描かれ、歯医者の守護神になっています。



聖マグダラのマリア(聖マリヤ・マグダレナ)

マグダラのマリアは、イエスに従いイエスの磔刑や復活の場面に居合わせた女性です。美術的には、情感あふれた「罪深い女」として描かれることが多いですが、キリストと結婚して娘をもうけたという異論も出ています。これは小説「ダ・ヴィンチ・コード」のもとになっています。

なお、この像だけが他の三体と違って製作当時の服装をしているのは、彫刻家の一人であったペレッティの奥さんをモデルにしたためです。



聖カタリア(アレクサンドリアのカタリナ)

ローマ皇帝マクセンティウスにキリスト教徒迫害をやめるように説得しますが、牢獄に入れられてしまいます。彼女には車輪に手足をくくりつけて転がされるという拷問が命じられましたが、カタリナが車輪に触れるとひとりでに壊れてしまったため、最後には彼女は斬首刑にされました。 絵画や彫刻では、「カタリナの車輪」と呼ばれる壊れた車輪をシンボルとして持っています。



聖女バルバラ

トルコのニコメディア(現在のイズミット)の裕福な家に生まれました。求婚者たちから美しい娘を遠ざけようとした非キリスト教徒の父によって塔の中で生活することになりますが、その幽閉生活の中で彼女はキリスト教への信仰に目覚めました。ある日、2つの窓のある浴室が塔内に建設されることになった際、バルバラは窓を3つに増やさせました。この理由を三位一体を表すためとしたことから、娘がキリスト教徒であることを知った父は激昂し、手にかけようとしました。その瞬間、岩が2つに裂け、バルバラを包んで連れ去ってしまいました。羊飼いによって発見されたバルバラは密告されて捕えられてしまいます。キリスト教を信仰したかどによって、火で身体を焼かれるなどの拷問を受けましたが、翌日には美しい姿に戻ってしまいました。最後は、剣によって殺害されて殉教しました。

この像では、シンボルの塔を持っています。





リトアニアの国章にもなっているヴィーティス(追跡者)と呼ばれる騎士像を発見。







これは、「世界をこの手にもつ子供のキリストを抱く聖クリストファー」

クリストファーは、世界で最も強い人に仕えたいと願い、王様や悪魔の家来を経て、最後に大きな川の渡し守をしながら、いちばん強い王様に出会うチャンスを待つことにしました。。クリストファーは、少年に姿を変えたキリストの頼みを聞いて、そうとは知らずに背負って川向こうまで運びますが、その少年(キリスト)は世界のすべての罪と苦しみを背負っていたため、だれよりも重かったといわれます。



入り口の扉の内側には、死神が描かれていました。



立派なパイプオルガンも設けられていました。



堂内から中庭に出ると、入り口脇に墓石が置かれています。これは、教会建設の資金を出した当時の将軍パツァスのもので、「ここに罪人眠る」と書かれています。

これで午前の観光は終わり、教会脇のレストランで昼食をとり、午後はトゥラカイ城に向かいました、

ヴィリニュスの市内観光は、これで終わりということになりますが、地図を見ると市街地中心部は訪れていません。トゥラカイ城からは早い時間に戻ってくるようなので、個人的に歩くことにしました。
Viewing all 1130 articles
Browse latest View live