シシー博物館と王宮を見学した後、ザッハーでケーキを食べてひと息いれた後に、カプツィーナ皇帝納骨堂を訪れました。
ここには、1633年以降のハプスブルク家の皇帝及びゆかりの人物の棺が納められています。
ここに安置されている人から、ハプスブルク家の栄光と没落の歴史を振り返ることにしましょう。
地下に入ると、創設者納骨堂と呼ばれる奥まった小部屋があります。ここには、納骨堂の建設を命じたマティアス皇帝とアンナ皇后の棺が収まられています。
マティアス皇帝の時代に宗教戦争である三十年戦争がはじまりました。
皇帝レオポルド1世の棺。
三十年戦争で衰退した領土を受け継ぎ、全盛期のフランスとオスマン帝国に圧迫されて苦戦を強いられましたが、やがてオスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大し、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築きました。
皇帝レオポルド1世の最初の妻であった皇后マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャの棺。 Mのマークが記されています。
マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャは、スペイン王フェリペ4世の王女で、スペインからウィーンの王宮に婚約者の肖像画として贈られたベラスケスの肖像画が有名です。
名作が集まったウィーン美術史博物館においても、マルガリータの肖像画は代表作になっています。今回の訪問では、ウィーン美術史博物館でベラスケス展が開催されて他の国からの作品も一堂に集められて展示されていました。特別展示室では撮影禁止になっていたので、2011年訪問時の通常展示の写真を掲示します。
ベラスケスの作品が並んでいます。
一番左は、マルガリータの弟の「王子フェリペ・プロスペロ」の肖像画で、左から3歳の時の「バラ色のドレスのマルガリータ王女」、5歳のころの「白いドレスのマルガリータ王女」、8歳のときの「青いドレスのマルガリータ王女」の絵が並んでいます。
15歳のときに結婚式が挙行されましたが、スペインからの随行員がウィーンの宮廷内で打ち解けなかったために、その悪感情はそのままマルガリータに向けられ、何度にも及ぶ妊娠の影響で21歳で亡くなってしまいました。
名門出の皇后にもかかわらず質素な棺は、マルガリータの宮殿内での待遇が反映されたような気がします。
皇帝ヨーゼフ1世の棺。
皇帝ヨーゼフ1世は、レオポルト1世の長男で、弟のカールをスペイン王にするべく、父の時代から続いていたスペイン継承戦争を継続。長男が早世したためにカールが皇帝カール6世として即位し、スペインの王位を断念することとなりました。
皇帝カール6世の棺。
スペイン王カルロス2世が病死してスペイン・ハプスブルク家が断絶したことによって、ウィーンハプスブルグ家のカールとフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ(フェリペ5世として即位)の間でスペイン継承戦争が起こりました。ヨーゼフ1世の病死に伴い、カールはカール6世としてオーストリア・神聖ローマ帝国の帝位を継ぐことになり、スペインの継承は諦めることになりました。皇帝即位後は対外戦争に力を注ぎ、オスマン帝国からベオグラードを奪い、ハプスブルク帝国の最大版図を築き上げました。
皇后エリーザベト・クリスティーネ(愛称白き肌のリースル)の棺。皇帝カール6世との間になかなか子に恵まれず、唯一の男児レオポルトが誕生するも1歳に満たずに夭折し、その後は女児しか誕生せず、長女のマリア・テレジアを後継者にするしかなくなりました。
カール6世は、ハプスブルク家の領地は分割されてはならないこと、継承権のある男子がいない場合は直系の女子に継承権があることを定めましたが、のちにこの詔書によって長女マリア・テレジアが家領の正式な相続者となると、オーストリア継承戦争が引き起こされるました。
女帝マリア・テレジアと皇帝フランツ1世の巨大な棺。
フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンは、マリア・テレジアと結婚し、1740年にカール6世が亡くなると、マリア・テレジアがオーストリア大公に即位し、彼女の決定によりフランツは共同統治者になりました。しかし、列国はカール6世の生前に交わした取り決めを無視してハプスブルク家領を侵略し、オーストリア継承戦争が勃発しました。
プロイセン王フリードリヒ2世との間の第一次シュレージエン戦争やバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの神聖ローマ皇帝・カール7世の戴冠によって窮地に立たせられますが、マリア・テレジアは、ハンガリー議会で演説を行って軍資金と兵力を獲得し、戦う態勢を整えました。カール7世の死後、夫のフランツを神聖ローマ帝国の帝位に付けることに成功し、最終的に1748年のアーヘンの和約によって戦いを終えることに成功しました。
フランツは、異例の恋愛結婚によってマリア・テレジアと結婚しましたが、その家柄から宮廷内もしきたりによって屈辱を味わわされることとなりました。、オーストリア継承戦争が勃発すると、オーストリア宮廷で主導権を握るのはマリア・テレジアで、国政から遠ざけられるようになりました。1745年に神聖ローマ皇帝に即位しましたが、名のみのもので、実権はマリア・テレジアに握られていました。しかし、フランツには財政家もしくは経営者としての手腕があり、七年戦争のための国債の発行の際には、保証人になるほどの財を蓄えていました。
フランツの遺産として、シェーンブルン宮殿の一角にある植物園や動物園、ウィーン自然史博物館に所蔵されている昆虫や鉱石のコレクションが残されています。
女帝マリア・テレジアと皇帝フランツ1世の棺の前には、ヨーゼフ2世の棺が置かれています。
女帝マリア・テレジアと皇帝フランツ1世の間には、5男11女の計16人が生まれていますが、ヨーゼフ2世は四番目に生まれた待望の長男でした。なお、フランス国王ルイ16世の王妃になったマリー・アントワネットは、15番目の子供になります。
ヨーゼフ2世は、父フランツ1世の死後、母マリア・テレジアとともに共同統治を行いました。啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした啓蒙専制君主の代表的人物でした。
文化の発展にも力を注ぎ、特にイタリア人が占めていた音楽の分野で、ドイツ音楽を意識してモーツァルトを宮廷音楽家として雇っていたことでも知られます。映画「アマデウス」においても、モーツァルトの天才を理解しきれぬさまが描かれています。
マリー・ルイーズの棺。
マリー・ルイーズは、フランツ2世の長女として生まれました。フランツ2世は、伯父のヨーゼフ2世に子供が無かったことから王位をつぎました。王位を継いだのはフランス革命のさなかで、ナポレオン戦争に巻き込まれて、神聖ローマ皇帝の地位を失うことになりました。
イギリスとロシアを除く全ヨーロッパを勢力下に置いたナポレオンは、、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚しました。この結婚に際しては、オーストリア宰相メッテルニヒの働きがあったといいます。
1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けました。1814年4月6日にナポレオン1世がフォンテーヌブロー宮殿で退位すると、母マリー・ルイーズと共に、5月21日にオーストリアに帰国しました。ナポレオンは、マリー・ルイーズとナポレオン2世がわが身の元に戻ってくることを待ち望んでいましたが、マリー・ルイーズは、護衛についていたナイペルク伯と恋におちてしまい、パルマに二人で去ってしまい、しかもナポレオンの在命中に子供をもうけてしまいました。さらにナイペルク伯の死亡後には、パルマ統治の補佐役としてやってきたシャルル・ルネ・ド・ボンベルと結婚してしまいます。
一方残されたナポレオン2世は、ナポレオンの残党による誘拐を恐れたメッテルニヒによって、ほとんど監禁同然の身になり、後にライヒシュタット公爵の地位を得ました。
ナポレオンの遺骸は、1840年パリのアンヴァリッド(廃兵院)に埋葬されましたが、その100年後に、ヒットラーがフランスを占領した際、ライヒシュタット公爵の遺体をカプツィーナ皇帝納骨堂からアンヴァリッドのナポレオンの傍らに移しました。
皇帝フェルディナント1世の棺。
オーストリア皇帝フランツ1世の死後に帝位につきましたが、癲癇の持病を持つ病弱で、結婚しても後継をもうけることができないと医師から診断されていました。
フランツ・カール・フォン・エスターライヒ(左)とゾフィーの棺。間には、死産であった男児の棺が置かれています。
フェルディナント1世が1848年に退位した際は、弟のフランツ・カール・フォン・エスターライヒが帝位継承権第1位でしたが、政治的野心とは無縁の人物であったため、長男のフランツ・ヨーゼフに帝位をゆずりました。
ゾフィーは、お見合いで出会ったフランツ・カールが鈍重で魅力のない男だと知りましたが、オーストリア皇帝フランツ1世が世継ぎを望めないことから弟のフランツ・カールに帝位が回ってくると判断して、結婚に同意しました。フランツ・カールは帝位にはつかなかったものの、長男のフランツ・ヨーゼフに帝位が譲られて、ゾフィーは保守主義の庇護者として、オーストリア帝国の政治に絶大な影響力を及ぼすことになりました。
ミュージカル「エリザベート」でも、ゾフィーはエリザベート(シシー)を宮廷内でいびり倒す「宮廷内のただ一人の本物の男」として演じられていますが、若い時は美人として知られており、異母兄ルートヴィヒ1世がニンフェンブルク宮殿内に作った美人画廊に肖像画が飾られていたほどです。
ニンフェンブルク宮殿内の美人画廊
ゾフィーvsシシーの確執も、政治的立場の違いに加えて、新旧の美貌対決が大きな原因だったのではないですかね。
メキシコ皇帝マクシミリアンの棺。
フランツ・カール・フォン・エスターライヒとゾフィーの間に生まれた、フランツ・ヨーゼフ1世の弟です。フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、傀儡政権であるメキソコ帝国の皇帝に即位しましたが、フランス軍が撤退すると、マクシミリアンは捕らえられて処刑されてしまいました。
マクシミリアンの死は、ハプスブルグ家の没落の象徴的事件の一つになっていますね。
なお、マクシミリアンは、ゾフィーとライヒシュタット公(ナポレオン2世)の子供であるという噂もありましたが、歴史家の研究によって退けられています。
カプツィーナ皇帝納骨堂で最も注目されているフランツ・ヨーゼフ1世の棺。左には皇妃エリザーベト、右にはオーストリア皇太子・ルドルフの棺が並んで置かれています。
フランツ・ヨーゼフ1世は、フランツ・カール大公とバイエルン王女であるゾフィー大公妃の長男として生まれました。18歳の若さで即位し、在位期間は68年にも及び、その間には、ハプスブルク帝国をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割したり、帝国内の民族問題や汎スラブ主義の展開への対応に苦慮し、ハプスブルグ家の悲劇といえるルドルフの自殺、皇妃エリザーベトの暗殺、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺などにあって、第一次大戦中に亡くなりました。
皇妃エリザーベトの棺。多くの花が飾られていて、人気のほどがうかがわれます。
オーストリア皇太子・ルドルフの棺。
ルドルフはベルギー王レオポルド2世の次女ステファニーと1881年に結婚しましたが、16歳のマリー・ヴェッツェラと出会って、1889年1月30日にマイヤーリンクで情死事件を起こしてしまいます。今回の旅では、情死の現場になったマイヤーリンクを訪れることになりました。
なお、ステファニーの棺も皇太子妃として、ルドルフの脇でなくともカプツィーナ皇帝納骨堂に収められていても良さそうなものですが、ここには無いようです。夫のスキャンダラスな死に方のせいでウィーン宮廷から遠ざかることになり、さらに、後にハンガリー貴族と身分違いの結婚をしてしまいました。二人は幸せな生活をおくり、ハンガリーのパンノンハルマの大修道院で亡くなったようです。
カール1世の胸像。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で皇位継承者に指名されていたフランツ・フェルディナント大公は、ベーメンの伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと結婚したため、貴賤結婚を認めないハプスブルク家の家法により、その子孫の皇位継承権をすでに放棄していました。そのため、早い時期からカールが皇位継承者として考えられていましたが、、1914年にサラエボ事件でフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されると、正式に皇位継承者に指名されました。
なお、サラエボ事件で二人同時に亡くなったフランツ・フェルディナント大公夫妻は、貴賤結婚のためにカプツィーナ皇帝納骨堂には入れないことから、居城であったアルトシュテッテン城内の納骨堂に埋葬されました。
1916年、第一次世界大戦中にフランツ・ヨーゼフ1世が86歳で死去し、カールは29歳で皇帝に即位しました。秘密裏に連合国側との平和交渉に着手しましたが、独墺間の離反を謀ったフランス側によって暴露され、ドイツの信用も失う結果となってしまいました。同盟国側の戦線崩壊と共に各民族が相次いで離反し、1918年11月11日には、シェーンブルン宮殿内の「青磁の間」において、退位表明である国事不関与の声明を出した後、宮殿を去りました。ここに700年余りに及ぶハプスブルク家のオーストリア支配は終焉を迎えました。
ハンガリー王国における主権を取り戻そうとしたカール1世の復帰運動が失敗に終わった後は、ポルトガル領マデイラ島に亡命し、1922年4月に肺炎のため死去しました。
カール1世の遺体はマデイラ島に埋葬されているため、カプツィーナ皇帝納骨堂には胸像だけが置かれています。
ツィタ・フォン・ブルボン=パルマの棺。
ツィタは、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の皇后です。帝位継承者フランツ・フェルディナント大公とゾフィー・ホテクの間に貴賎結婚の問題が生じたため、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、フランツ・フェルディナント大公の次の帝位継承者と目されていたカール大公に身分相応の相手と結婚することを望み、スペイン・フランスの両ブルボン家の末裔である名門出のツィタとの結婚が押し進められました。
1916年、皇帝フランツ・ヨーゼフの崩御とそれに伴うカール1世の即位で皇后となりました。しかし1918年にはオーストリアは第一次世界大戦に敗北し、帝国は解体され、カール1世も退位に追い込まれてしまいます。ツィタは、貴族特有の選民思想が強く、夫が退位を決意した際にも最後まで反対し続け、いつの日かハプスブルク家に再び君主の座が戻ってくると信じて疑わなかったといいます。
1989年にスイスで亡くなった後、オーストリア国内の反対論を押し切る形で、ウィーン市内のシュテファン大聖堂で葬儀が行われ、カプツィーナー納骨堂に皇族として葬られました。
オットー・フォン・ハプスブルクの棺
オットーは、カール大公・ツィタ夫妻の長男で、ハプスブルク家の最後の皇太子になりました。カール1世が皇帝の地位を失って亡くなった後は、ハプスブルク家の当主になりました。ヒトラーがオーストリアを併合しようとする動きに対し、ヒトラーをウィーンから遠ざけておくにはハプスブルク家の再興しかないとして運動を行いましたが、第二次世界大戦中、オーストリアはナチス・ドイツに併合されてしまいました。ナチス体制はオットーを死刑にすることを宣告したため、オットーはポルトガルを経てアメリカに亡命することになりました。
大戦後には、オーストリア共和国への敵対行為を行わないこと、帝位継承権を放棄することを誓約して、国外追放処分を解除されました。その際に、オーストリア帝位継承権は放棄したものの、その他のハンガリー国王などの継承権は保持し続けました。戦後はヨーロッパの統合を提唱し、欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合国際会長を務めるなど、政治家として活動を続けました。
2011年7月4日にドイツにて98歳で死去すると、故国オーストリア・ウィーンのシュテファン大聖堂において葬儀が行われ、遺体は同市のカプツィーナー納骨堂に安置されました。この葬儀の様子は、軍楽隊員の列が続き、王宮騎士団やドイツ騎士団、軽騎兵が従って、時代絵巻のような光景だったようです。
現在のハプスブルク家の当主は、オーストリアの政治家になっているカール・ハプスブルク=ロートリンゲンで、名目上はオーストリア皇帝、ハンガリー国王などの君主位の請求者を引き継いでいます。
今後、カプツィーナー納骨堂の空いたスペースがうめられていくのかには興味が持たれます。
カプツィーナー納骨堂は、歴史を振り返る上で興味深い所ですが、死の臭いが漂っています。ミュージカル「エリザベート」のトート(黄泉の帝王)も、このカプツィーナー納骨堂からインスピレーションを得ているような気がしてなりません。