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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 スプリット その2

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ディオクレティアヌス宮殿の中心地のペリスティルには、宮殿前庭の他に大聖堂が建っていますが、ここの見学の前に、まずは宮殿内をひと回りしました。



まずは、北にある金の門に向かいました。細い路地が続いています。



脇道の先には、由緒ありげな小広場がありましたが、洗濯ものが干してあるのも、生活の場になっていることが判ります。



金の門に到着し、城外にでました。



金の門の前の広場には、グルグール・ニンスキーの像が置かれています。この像は、クロアチアを代表する20世紀の彫刻家イヴァン・メシュトロヴィッチの作です。グルグール・ニンスキーの左足の親指に触ると幸運が訪れるというので、皆が触って金色に光っています。

なお、グルグール・ニンスキー司教は、10世紀頃の宗教会議においてクロアチアのラテン語化に抵抗し「クロアチア語の父」と呼ばれ、英雄扱いされています。



城外から見た金の門。



金の門の内側にも門が設けられて、防御が固められています。



城壁の内側に沿って延びる小路を通って西側に向かいました。



細い道ですが、大勢が行き交って、メインの通りになっています。





西にある鉄の門を抜けると、ナロドニィ広場に出ました。



ナロドニィ広場には、古い建物が並んでいますが、左は旧市庁舎です。



15世紀のゴシック様式の建物で、1階部分の三連アーチは建築当時の姿を留めており、二階部は19世紀前半に大幅に改築されたものです。





鉄の門をくぐって城内に戻ります。門の脇には鐘楼と時計が置かれています。



鐘楼はゴシック様式で時計はルネサンス様式とのこと。



鉄の門周辺は住居が密集でして、道幅も狭くなっています。



現在では洗礼室になっているユピテルの神殿の前を通り過ぎました。



ペリスティルに戻り、今度は東の銀の門に進みました。



銀の門を出た先には、露天が並んでいました。



城壁に沿っても露店が並んでいました。



銀の門を外から眺めたところ。



門の間から鐘楼の先端が見えていました。



大聖堂の背後にも遺跡がありました。



モザイクの床が残されていました。



ペリスティルの広場に面してクロアタの店がありました。



クロアタは、ネクタイの専門店です。

17世紀に起こった30年戦争の時代、クロアチアの地方では、兵士が戦場に出る時、妻や恋人が愛する人の無事を祈るために首にスカーフを巻いて送り出すという習慣がありました。この傭兵として雇ったクロアチア人のスカーフ姿がルイ14世の目にとまり、おしゃれに敏感であったルイ14世は、これを参考にして現在のネクタイに繋がるものを作らせたといいます。

ドイツ語でネクタイのことをKrawatte、フランス語でもcravate、イタリア語でもcravattaといい、これは「クロアチア人」を意味する「クロアタ(Croata)」が元になっています。

店に入ってみましたが、ネクタイを選ぶとなるとあれこれ迷うことになって、時間も無く買わずに終わりました。


さすらいの風景 スプリット その3

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スプリットの中心地のペリスティルにある大聖堂は、ディオクレティアヌス帝の霊廟として造られたものですが、後の8世紀に教会に改築されました。安置されていたディオクレティアヌス帝の遺体も行方が判らなくなっています。キリストk教迫害者への報復とも考えられますね。



入り口に置かれたスフィンクスは、ディオクレティアヌス帝がエジプト遠征から持ち帰った物とのこと。



ライオン像も置かれていました。唐獅子と違って、足元に踏みつけているのは、子獅子ではなく獲物の鹿のように見えます。



こちらは、足元には何もいません。



大聖堂入り口のアーチの上には、人がドラゴンに捕えられているような像が置かれていました。いわれは判りません。



時間が遅くなっており、大聖堂には入れませんでしたが、鐘楼はまだクローズしていなかったので、さっそく上ることにしました。



鐘楼は13世紀〜14世紀に造られ、高さは60mのようなので上るのにひと汗かかせられそうです。



階段上りが続きました。



鐘楼の上からは、高度感のある眺めが広がっていました。

港方面の眺め。



西方面の眺め。



鉄の門とナドロニ広場が、写真の右寄り中央に見えています。



北方面の眺め。



東の銀の門を見下ろしたところ。



真下にあるペリスティル広場を見下ろしたもの。





階段を下りながら、途中の眺めを楽しみました。



鐘楼から下りて、最後に振り返りました。

高速道路の途中での通行止めによって、スプリットの見学はあわただしいものになりましたが、それでも一通りは見ることができました。

スプリットの見学を終えて、この日の宿泊地のトロギールに向かいました。

さすらいの風景 トロギールからネウム

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スプリット見学の後に、この日の宿泊地のトロギールに向かいました。

トロギールは、スプリットから27kmのそう遠くない距離にあり、城壁に囲まれた小さな街で、世界遺産に選ばれています。ツアーの見学地には含まれていないので仕方のないことですが、ホテルはチオヴォ島の北海岸にあって旧市街地からは離れており、歩いていける距離ではありません。

それでも、夕暮れ近くなってトロギールの旧市街地をかすめて通り過ぎる時、街を垣間見ることができました。

これは、旧市街地へ入るための北門。



通りの奥に見える聖ロヴロ大聖堂の鐘楼。



宿泊したセベティクリツ・ホテルでは最上階の部屋が割り当てられました。三角屋根の関係で、天井が斜めになっているところもありましたが、ベランダがあったので満足でした。



ホテルのあるチオヴォ島は、トロギールの旧市街のある小さな島を介して橋で本土とつながっています。ベランダからは本土の海岸線を眺めることができました。



夜になると、海峡の向こうに連なる街灯りを眺めることができました。



ホテルの外に出てみましたが、周辺は真っ暗なため早々に部屋に戻ることになりました。



5日目、この日はトロギールを出発し、260kmを移動して午後にドブロヴニク観光を行うことになります。クロアチア旅行では、バス移動が長くなり、居眠りをしないで目を開けている努力が必要になります。

一旦、トロギールの旧市街地のある島に戻ります。



中世から続くトロギールの中心部は城壁で囲まれ、城、塔、住居、宮殿など、ロマネスクからゴシック、ルネサンス、バロックといったさまざまな時代の建物を見学できるとのことです。





聖ロヴロ大聖堂の鐘楼は、14世紀の初頭に造られ、高さは47mあります。



再び北門の前にやってきました。17世紀中ごろに建てられたバロック様式の門で、18世紀に改修されました。門の上に立つのは、町の守護聖人の聖イヴァンウルスィ二像です。



トロギールはドブロヴニクに向かう行程上では、スプリットから逆方向に移動した位置にあるので、再びスプリット近くに戻りました。

スプリット郊外にある水道橋を再び眺めることになりました。



アドリア海に沿ってのドライブが続きました。



途中、小さな街を通過していきました。



アドリア海の海辺までディナル・アルプス山脈の岩山が迫っています。ディナル・アルプスは、石灰岩質山地から成り立っており、カルストとして知られる地形がつくられています。



海峡の向こうにはブラチ島が広がっています。石切り場が、海岸部に見えています。

ブラチ島産の大理石は、古くからの特産品になっており、スプリットのディオクレティアヌス宮殿、ドゥブロヴニクのスポンサ宮殿や総督邸、イスタンブールのアヤ・ソフィア寺院、ヴェネチアのドゥカーレ宮殿、さらにはアメリカのホワイトハウスの建材にも使われてきたといいいます。



変わりやすい天気でしたが、穏やかな海が広がっていました。



島が海岸線と平行に延びているため、海峡状の地形が続きます。



険しい山が海辺に迫っています。



ドライブ・インでトイレストップ。丁度、青空も出てきて、海岸線の眺めを楽しむことができました。ここはBrelaの手前のようです。



バスでの長距離移動でしたが、トイレストップの際の名も無い街の風景も楽しめました。



ブラチ島も終わって、次はフヴァル島が見えてきました。



山側の狭い耕作地には葡萄畑が広がっていました。





沖合に見えてきたのは、ペリャシャツ半島のようです。



バスは、一旦海岸線を離れて内陸部に進みました。車窓からは、湖沼地帯の眺めが広がりました。



ネレトヴァ川の河口部に形成された湿地帯のようです。





ネレトヴァ川の河畔に出てきました。



平和な眺めを楽しんでいると、突如トーチカが現れて、心がクロアチア紛争の時代に戻されます。

ネレトヴァ川の上流部はボスニア・ヘルツェゴヴィナで、戦略的にも重要な地点であったと思われます。



ネレトヴァ川を渡りました。

ネレトヴァ川というものがどこにあるのか知らなかったのですが、ひと昔前の映画の「ネレトヴァの戦い」で、名前だけは知っていました。

ネレトヴァの戦いは、1943年、ユーゴスラビアのパルチザンに対して、ドイツ・イタリア・クロアチアの枢軸側が合同で行った戦略的な掃討作戦の中で起きました。避難民も含むパルチザン部隊は、ネレトヴァ川の西側の谷間に追い詰められました。枢軸側は、パルチザンをネレトヴァ川の両岸から攻撃する態勢を取っていましたが、パルチザンは自ら東岸に渡る橋を爆破してしまいます。これを、西岸の敵への玉砕攻撃の前兆と判断した枢軸側は兵力を集中すべく大規模な配置換えを開始します。この間隙をぬって、パルチザンは仮橋を架けて修理し、手薄になった東側に渡ってしまいます。再び橋を破壊してしまって追撃を絶ち、パルチザンは包囲網から脱出するのに成功しました。

映画のロケに使われた落ちてしまった橋は、サラエボの南西部に位置するヤブラニツァJablanicaにあるようです。

史記に登場する韓信の行った「背水の陣」の故事を知った上でのもうひとひねりした作戦と思ってしまいます。銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーなら立てそうな作戦です。

映画「ネレトヴァの戦い」のことは、題名だけしか覚えていないので、再び見てみたいと思っています。



ネレトヴァ川の畔には美しい街並みが点在していました。

第7日目には、このネレトヴァ川を遡って、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルを訪れますが、その際には、別な戦いの記憶に出会うことになります。



ネレトヴァ川の河口近くの平野部にはタンジェリンが名産になっています。この時期はオレンジが出荷されており、道路沿いに売店が出ていました。

添乗員さんが買ってくれたので、夜にホテルで美味しく食べました。



尾根を乗り越すことになって、眼下に河口部の平野の眺めが広がりました。



アドリア海の海岸部も望むことができました。ネレトヴァ川の河口部には、プロチャの港町がありますが、この後通過するボスニア・ヘルツェゴヴィナのネウムの街とのからみで名前が出てくることになります。



尾根を越して、再びアドリア海沿岸部に戻ってきました。

さすらいの風景 ネウム

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ドブロヴニク目指してアドリア海に沿って南下していくと、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナとの国境に出ました。ドブロヴニクは、クロアチアの飛び地になっています。

ここの国境の出入手続きは簡略化されています。



ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入るとネウムの街です。ネウムの街の幅21kmだけが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの海岸線になっています。ネウムの街の内陸部は山地になっており、細い道しか通じていません。ドブロヴニクがクロアチアの飛び地になっているように、ネウムは両脇をクロアチアに挟まれた街になっています。



特殊な立地条件のネウムの街ですが、クロアチアに比べて物価が安いということで、観光客向けのスーパーが何軒も開店しています。私たちのバスもトイレ休憩を兼ねてスーパーに立ち寄りました。



スーパーの前のテラスからは、アドリア海に沿って広がるネウムの街を眺めることができました。



ネウムの街は、海沿いの崖にへばりつくように広がっています。





民家の屋上に葡萄棚が美しいテラスがありました。アドリア海を眺めながらワインを飲むのは最高の気分でしょうね。



海の向こうに広がるのはペリェシャツ半島で島ではありません。



海を挟んだ向こうのペリェシャツ半島には、クロアチアのマークが掲示してありました。

このようなネウムに変則的な国境が引かれたのは、古い歴史に由来します。

今から500年前、このアドリア海の沿岸地方は、ダルマチアと呼ばれ、かつてはローマ帝国、その後は東ローマ帝国(ビサンティン帝国)の領域でした。7世紀に始まるスラブ系民族の侵入とビサンティン帝国の衰退に伴って、クロアチア王国が10世紀に誕生しましたが、海岸沿いの港にはベネチアの植民地が残されていました。

11世紀末にクロアチア王国はハンガリー王国に吸収されてしまいます。ベネチアの植民地の中には、本国に反旗をひるがえしてハンガリー王国と手を結ぼうとするものも出てきました。ラグーザ(現ドゥブロヴニク)は、ベネチアからハンガリーへ乗り換えましたが、1390年にセルビアがダルマチアの大半を併合したため、ラグーザは宗主国のハンガリーから切り離されて独立国のようになりました。

その後勢力をのばしてきたのがオスマン・トルコで、1459年にセルビア王国、1463年にボスニア王国を滅ぼしてしまいます。1571年のレバントの海戦でオスマン・トルコが敗れると、機を見るのがうまいラグーザは、今度はオスマン・トルコに貢物を納めることで安全を保障してもらい、引き続き独立国のような地位を維持してベネチアと貿易を競うことになりました。

17世紀にウィーンへ侵入しようとしたオスマン・トルコがオーストリアに撃退されると、ベネチアもトルコと戦争を行ってダルマチア地方を支配下に置きました。その後、ベネチアとトルコ保護下のラグーザとの紛争を防ぐために、ダルマチアとラグーザとの間の海岸線にトルコ領の「緩衝地帯」を作り、両者を引き離すことになりました。このトルコ領の緩衝地帯がネウムの街の始まりです。

オーストリア統治時代を経てユーゴスラビア連邦時代になりますが、トルコやオーストリア統治時代からの歴史的な地域区分をもとにして6つの共和国が作られました。ユーゴスラビア連邦内の各共和国の独立の際に、昔の国境線が復活してネウムはボスニア領、ドゥブロヴニクはクロアチア領になり、変則的な飛び地ができあがりました。

ドゥブロヴニクの飛び地を解消するため、本土から僅かな距離しかないペリェシャツ半島に橋を架けるという計画が出ましたが実現していません。ボスニアは、橋によってネウムに造る予定の港に大型船が入ってこれなくなると反対し、これに対しクロアチアはネレトヴァ川の河口部のプロチェ港のボスニアによる管理を提案しましたが、これにはクロアチア側住民からの反対があったようです。



ドゥブロヴニクの見学を終えてからの移動の際にもネウムに立ち寄りました。今度は別なスーパーでした。時間が早くて店は閉まっていたのですが、他の店に行こうということでバスに戻ろうとすると、店主が急いでやってきて店を開けました。バス一台分の買い物客なので、見逃すわけにはいかないでしょう。



この店の前からも良い眺めが広がっていました。



ネウムの二回の買い物と、クロアチア出国間際のドライブ・インでのクロアチア通貨の使い切りで、チョコレートやクッキーをかなり買い込むことになってしまいました。中央のクラシュ社バヤデラへーゼルナッツ&アーモンドチョコレートが定番土産になっています。他の板チョコも癖もなく口に合う味でした。チョコレートを買いすぎてしまったため、グラーツの空港からの帰国でしたが、オーストリア名物モーツァルト・チョコは、チョコレートは充分ということで買わないことになりました。

さすらいの風景 ストン

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ネウムの街を過ぎると、ボスニア・ヘルツェゴヴィナから再びクロアチアに入国しました。

ペリェシャツ半島の付け根が近づいてくると、山の斜面に長く続く城壁が見えてきました。、



湾には牡蠣の養殖筏が浮かんでいました。この後のストンでの昼食時に生牡蠣を味見することになりました。



ストンの街に到着。ここで昼食をとってからドゥブロヴニクの見学を行うことになります。

この街の紀元はローマ時代に遡りますが、ラグーザ共和国(ドゥブロヴニク共和国)の領域となったことでこの街や要塞が築かれました。



城壁は山越えをした先のマリ・ストンの街まで続いています。14世紀から16世紀にかけて造られた城壁は5kmの長さに及び、ヨーロッパではイギリスにあるハドリアヌスの長城に次ぐものになっています。



街の入り口にも要塞が築かれていました。



小さな街でしたが、古い建物が並んでいました。





観光客向けのレストランが並んでいます。



昼食後の自由時間に塩田を見に行きました。

広場にあるのは、街のお役所のようです。



広場を通り抜けて、街の外に出ます。



車道を挟んだ向こうに塩田が広がっていました。



天日塩田が設けられていました。

ここの塩田で作られた塩は、ドゥブロブニクの最も重要な収入源となっていたといいます。



塩を積んだトロッコが置かれていました。



入り口で塩を売っていたので土産に買いました。



塩田の街中に戻りました。



最後に城壁の眺めを楽しみました。城壁に上がる時間が無かったのは残念でしたが、この後に旅のメインであるドゥブロヴニク観光が控えているとあっては仕方がないですね。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その1

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ストンでの昼食後、ドブロヴニクの街に到着しました。旅の一番の目的地であるドブロヴニクに、五日目にようやくたどり着いたことになります。

旧市街の北側にあるグルージュ港には、人気のほどがうかがわれるように、大型客船が停泊していました。

船名をみると「MSCプレチオーサ」で、日本の旅行社でもこの船を使った東地中海ツアーを募集しています。クルーズ船にもクラスがあるようですが、この船はカジュアルクラスということで、ツアー料金もヨーロッパ方面の通常のツアー代金とそう変わらないようです。

クルーズ船を見るとそそられますが、後で説明するように大きな問題があります。体力が衰えたら参加してみましょう。



ドブロヴニクの旧市街に到着すると、まず高い城壁が目に飛び込んできました。



街を囲む城壁の途中には、防御のための塔が設けられていました。



ドブロヴニクの旧市街への入り口周辺は渋滞しており、車がなかなか進まない状態でした。



東にあるピレ門に到着しました。ピレ門の前の広場でバスを降りましたが、クルーズ船の団体が幾つもの班に分かれて集まっており、大混雑になっていました。

このピレ門の前の広場が、最後に自由行動になった後の集合場所ということで、覚えておく必要がありました。



橋を渡った先のピレ門から入場しました。

ドゥブロヴニクは、中世にはラグーサ共和国と呼ばれ、海洋貿易によって栄え、アドリア海東側ではヴェネチア共和国と競い合いました。オスマントルコの宗主権を認めるなどの巧みな外交を行い、豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけて発展しました。ユーゴスラビアからの独立に際して多大な損害を被りましたが現在は修復されて「アドリア海の真珠」と呼ばれて多くの観光客を招き入れています。



城壁の周りには堀が巡らされていました。



ピレ門を通り抜けるとテラスになっていました。



門には、ドゥブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホの街の模型を持った像が置かれていました。聖ヴラホは4世紀にトルコの「シヴァス」という町の司教でしたが、316年に殉教しました。ドゥブロヴニクの聖職者の夢に聖ヴラホが出てきて、ヴェネチアの襲撃を伝えてくれたため、事前に備えることができたことから、972年に守護聖人となりました

街の至る所に聖ヴラホの像が置かれており、聖ヴラホ教会も街の中心地に置かれています。



壁に開けられた小部屋に大砲の玉が置かれていまいた。



ピレ門を振り返ったところ。



壁に、1991年のクロアチア独立時における砲撃被害の場所が図示してありました。

1970年代、戦争による破壊から守るためにドゥブロヴニクは非武装化されましたが、1991年のクロアチア独立に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され、砲撃により多大な損害を蒙りました。

ドゥブロヴニクは、1997年にユネスコの世界遺産に登録されていましたが、この紛争によって1991年〜1998年には危機遺産に登録されました。紛争後はユネスコのガイドラインによって昔の姿に修復され。2005年に復旧作業が終了しました。



ピレ門から東にメインストリートのプラッツァ通りが延びています。クルーズ船の観光客も混じって大混雑になっており、ちょっとたじろいてしまう状態でした。



プラッツァ通りの開始部の右手には、オノフリアの大噴水があります。

ナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァが1438年に造った大噴水です。12km離れた原泉から水を引いています。

噴水の周りの段は、歩き疲れた観光客の休み場になっていました。



オノフリアの大噴水には顔のレリーフが設けられて、水が流れ出ていました。





人の他に動物(ネコでしょうか)の顔のレリーフも置かれていました。



プラッツァ通りの左手には、フランシスコ修道院の建物が広がっています。

フランシスコ修道院は、もとは城壁の外にありましたが、外敵から守るために14世紀に、ピレ門の入り口近くに移されました。



フランシスコ修道院の鐘楼は、旧市街地の各所から望むことができ、良い目印になっています。



フランシスコ修道院の壁に飾られたレリーフ。



フランシスコ修道院の入り口。

フランシスコ修道院内には、1391年に開業したヨーロッパで最も古い薬局があります。



プラッツァ通りのパーファーマー。



プラッツァ通りの両脇の建物は商店になっていました。



プラッツァ通りの両脇には小路が延びており、カフェやレストランが店を開いていました。左手は山に向かっての坂になっていました。





右手は平坦な道になっていました。



帰りの際に、少し人が少なくなったプラッツァ通りを振り返ったものです。

このプラッツァ通りの200mが旧市街の東西の幅となり、ドゥブロヴニクの旧市街はそう大きなものではないことが判ります。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その2

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ドブロヴニクの市街地見学の続きです。ツアーでの案内と自由時間での見学の際の写真が混じっています。

プラッツァ通りの東端にやってきました。



北側にはスポンザ宮殿があります。



スポンザ宮殿は、1561年に造られ、当初は貿易物資や資材の保管所でした。17世紀になって税関としての役割が減ると、学者や知識人の集まる文化サロンに変わりました。現在は、ドブロヴニクの歴史文書や裁判記録を保管する古文書館になっています。



スポンザ宮殿のドアは閉まっていたのですが、ここに併設されているドブロヴニクの紛争時の被害展示室の見学のために中に入れてもらいました。

奥は結婚式の披露宴かなにかのようで、テーブルセットが行われていました。



入り口脇の部屋に紛争時の被害が展示されていました。114人が死亡したとされており、顔写真が掲示されていました。



プラッツァ通りの東端から南に大通りが延びており、その角部はルジャ広場と呼ばれています。



広場の中央にローラント像が置かれています。ローラントは、ヨーロッパの都市の自由と独立の象徴になっている伝説の騎士です。中世文学「ローランの歌」で知られています。ドイツ・ブレーメンのマルクト広場に置かれているローラント像が特に有名ですね。

「ローランの歌」は、レコンキスタの初期の戦いである、シャルルマーニュ率いるフランク王国とイベリア半島のイスラム帝国の戦いを描いたもので、古フランス語を用いて書かれています。

ローラント像は、北ドイツのハンザ同盟都市で人気があると思っていたので、アドリア海の自由都市に置かれているのは意外でした。遠く離れたハンザ同盟都市と貿易上のつながりがあったのでしょうか。



この像は1418年に造られたもので、右腕の肘から手首までの長さの51.2cmが、商取引のための基準になっていました。



ルジャ広場の南に聖ヴラホ教会があります。18世紀に建てられたバロック様式のものです。



教会の上に、この街の守護聖人である聖ヴラホの像が置かれています。街の各所に置かれていますが、この像が一番立派ですね。



自由時間になってから聖ヴラホ教会の中に入ってみました。



ルジャ広場の東側にはオノフリオの小噴水があります。西側のピレ門入り口近くにあるオノフリオの大噴水と同時期に造られたものです。



ルジャ広場から南に延びる通り沿いには総督府が広がっています。



総督府の壁際に置かれていたブロンズ像は、誰かは判りませんが、触るとご利益があるのか鼻が光っていました。



総督府は、ラグーサ共和国の総督の住居であったと同時に、評議会や元老院など行政を司る期間が集まっていました。ラグーサ共和国の総督は、ヴェネチア共和国が終身制であったのに対し、任期は1ヶ月で象徴的な役職であったといいます。

総督府は、15世紀の初めにゴシック様式で建てられましたが、30年後に近くで火薬の爆発があり、ルネサンス様式による修理が行われ、さらに1667年の大地震の際の修復によってバロック様式の装飾も加えられました。



総督府内部は、文化歴史博物館になっており、絵画や陶磁器の展示が行われています。部屋の中は撮影禁止であったため、入り口のホールの写真のみです。



総督府の二階の窓からは、向かいの大聖堂の眺めが広がっていました。



大聖堂の東面。



総督府前からスポンザ宮殿を振り返ったところ。奥にはスルジ山が広がっています。翌日にこの山頂からドブロヴニクの街の眺めを楽しむことになります。



総督府の前の奥にグンドゥリチ広場があります。露店やカフェが並んでいました。



この広場の名前は、18世紀時代のドブロヴニクの著名な詩人イワン・グンドリックに由来し、ブロンズ像が置かれていました。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その3

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旧総督邸の南に聖母被昇天大聖堂があります。



聖母被昇天大聖堂は、1192年に英国のリチャード王が創建したと伝えられており、17世紀にバロック様式で再建されたものです。

獅子心王リチャード1世が第三次十字軍の遠征からの帰国途中のこと。アドリア海を通っている時に大嵐に合い、救われたなら教会を奉納しようと聖母マリアに祈ったことからこの教会が建てられたといわれています。



聖母被昇天大聖堂の内部は、比較的シンプルナな造りでした。主祭壇には、15世紀にティツィーナによって描かれた聖母被昇天の絵が飾られています。



脇祭壇の絵。



聖母被昇天大聖堂前の広場。



世界遺産の街とあって、干してある洗濯物も絵になっています。



ポンテ門をくぐると旧港に出ます。



旧港には観光船が停泊していました。



旧港の南側には聖イヴァン要塞が守りを固めています。



旧港の北側は聖ルカ要塞が設けてあります。



旧港の埠頭は、観光船の客引きや観光客で賑わっていました。



旧港からルジャ広場への入り口。六日目の昼食は、右手のレストランでとることになりました。



ここの門にも聖ヴラホの像が飾られていました。



メインストリートであるプラツァ通りの北側に並行して走る細い通りにも土産物屋やレストランが並んでいます。



細い通り沿いにあった古い教会。



この細い通り沿いに、ガイドブックに紹介されているハンドメイドの刺繍屋がありました。



テレビの旅番組にも出演していましたが、日本語でのダジャレが続きました。あいにくと自由時間も限られていたのが残念。



とりあえず買ったのがこの刺繍。ネコの足跡がモチーフとのことです。



プラツァ通りに戻るとスポンザ宮殿の前で刺繍の実演を行っていました。



作品が売られていました。



マリアさまの刺繍が気に入ったので買いましたが、なにやら証明書を付けてくれました。ユネスコマークが付いているので調べると、無形文化遺産「クロアチアのレース編み」でした。

ユネスコの権威付けは気に入らないのですが、この場合は良いと思って買ったものが無形文化遺産であったということに自己満足の気持ちもわいてきました。

出かけてきます

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しばらく留守します。では。

戻ってきました

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カナディアンロッキーを見てきました。簡単なハイキングでしたが、山と花の眺めを楽しむことができました。

クロアチア旅行の報告がもう少し続きますので、カナダ旅行記はその後で。

写真は、モレイン湖とテン・ピークスの眺めです。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その4

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ドゥブロヴニクの城壁巡りは見学二日目に予定されていましたが、到着初日に歩いておくことにしました。天候が不順なため、雨の降っていないうちにということです。

レヴリン要塞近くの入り口から入場しました。



城壁の一周は、およそ2kmあり、1時間近くかかります。



レヴリン要塞を間近に見ることができます。レヴリン要塞は、15世紀に完成し、16世紀にさらに強固なものに改築されました。

城塞都市としてのドゥブロヴニクの様子を見るには、市街地観光だけでは不十分で、城壁巡りを行う必要があります。



風景を眺めながら歩いていきます。



沖合に浮かぶロクルム島が見えています。手前は、旧港の入り口をレヴリン要塞と共に守る聖イヴァン要塞。



フランシスコ修道院の鐘楼。



城壁の外側の眺め。



オレンジの屋根の広がりが印象的です。







奥は大聖堂、手前右は聖ヴラホ教会のドーム。



城壁の外の西側に設けられたロヴリイェナツ要塞が見えてきました。



城壁最高点のミンチェ要塞に向かっての上り坂が続きます。



市街地もかなり下に見えるようになってきました。



ミンチェ要塞が近づいて高度が上がると、市街地が箱庭のように見えるようになりました。



時間が気になって早足で歩いていることもあって、汗を流しながらミンチェ要塞に到着。

城壁巡りの途中には、カフェや売店が店開きしていますが、水を持参する必要があります。



ミンチェ要塞の塔の上からのパノラマ。

ミンチェ要塞は、1319年に建造され、15世紀に改築されました。



歩いてきたレヴリン要塞方面の眺め。



市街地左寄りの眺め。



市街地右寄りの眺め。



これから進んでいくピレ門方面の眺め。



ミンチェ要塞からは、急な下りになりました。



ピレ門を入った先にあるフランシスコ会修道院の鐘楼が近づいてきました。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その5

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ミンチェ要塞から城壁の上の回廊を下っていくと、ピレ門が近づいてきました。



城壁は、ピレ門から先は再び上り坂になっています。



ピレ門の上からは、ドゥブロヴニクのメインストリートであるプラツァ通りを見下ろすことができました。



プラツァ通りは、夕暮れが近づいてきて、少し人が少なくなってきたようです。



ピレ門を入ったところにあるオノフリオの大噴水を見下ろしたところ。



ピレ門の外の広場は、迎えの車を待つ団体で混雑していました。



城壁外に設けられたロヴィリイェナツ要塞も近づいてきました。



公開はされていないようですが、修道院の中庭のようです。



城壁の南西の角を守るボカール要塞とロヴィリイェナツ要塞。



城壁の南面に向かって、再び上り坂になりました。



ドゥブロヴニクの南面は海に向かって切り落ちた崖が続いています。



海に突き出た岬に設けられたロヴィリイェナツ要塞。



ミンチェ要塞を振り返ったところ。



ロヴィリイェナツ要塞も歩くうちに姿を変えていきます。



ミンチェ要塞に近い高さまで上り返してきました。



海を見下ろしながらの歩きが続きます。



海面まではかなりの距離があります。



ドゥブロヴニクの南側は民家が広がっており、城壁の上からは庭を見下ろす
ことができました。



洗濯物も干してありました。



城壁の途中には、大砲を置くためか、小広場が設けられていました。



バスケットのコートも設けられていました。ドゥブロヴニクは、遺跡ではなく、現在でも人が生活している街であることが判ります。





城壁の外の海との間の僅かなスペースにカフェが設けられていました。



旧港が近づいてきました。



旧港の守りを固めている聖イヴァン要塞に出ました。





旧港とレヴェリン要塞の眺め。

聖イヴァン要塞からは階段を下るのですが、うっかりしてそのまま外に出てしまいました。僅かな距離ですが、城壁歩きを省略することになってしまったのは残念まことでした。

ドゥブロヴニクが城塞都市であることを把握するには、城壁歩きが欠かせません。ドゥブロヴニクのツアーを選ぶ際には、城壁歩きが含まれている、あるいはそれに必要な自由時間のあるものを選ぶべきでしょう。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その6

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旅の六日目は、前日に続きドゥブロヴニク観光を午前中行い、午後はモンテネグロのコトルを訪れることになりました。

この日の天気は変わりやすく、ホテルを出る際には小雨も降りましたが、ドゥブロヴニクに到着すると太陽も顔をのぞかせるようになりました。



まずは、街の背後に聳えるスルジ山にロープウェイで上がって、ドゥブロヴニクの市街地を上から眺めることにしました。



乗り場の前には列ができていましたが、ピストン状態で運行しており、それほど待たずに乗ることができました。



スイス製のロープウェイのようで、入り口にカウベルが飾られていました。

このロープウェイは、クロアチアの独立戦争で破壊され、再建されたのは2010年7月のつい最近のことです。ロープウェイが運行されていない時は、タクシーで山頂まで上がっていたようです。



なんとか窓際に陣取ることができました。



ドゥブロヴニクの街の眺めが眼下に広がるようになりました。







アドリア海の眺めも広がってきました。



一気に標高412mのスルジ山の山頂に上がることができました。



ロープウェイの山頂駅にも展望台が設けられているのですが、建物を出て少し歩いた先の十字架の下が、絶好の展望台になっていました。この十字架はナポレオンに贈られたといいます。



ドゥブロヴニクのガイドなどでお馴染みともいえる眺めが広がっていました。



旧市街地が城壁に囲まれている様子が良く判ります。ズームアップしながら眺めていきましょう。



旧港の眺め。



旧港の北の守りを固めるレヴェリン要塞。



聖母被昇天大聖堂(奥)と聖ブラホ教会(手前)



旧市街地の南側。



旧市街地の西側。写真下の円塔はミンチェタ要塞。



旧市街地の北西部には、ホテルなどが立ち並ぶ新市街地のラパッド地区が広がっています。



ロープウェイの山頂駅の展望台も賑わっていました。



ロープウェイの山頂駅の展望台からの眺めは、ケーブルが写ってしまうのが難点ですが、ゴンドラと旧市街地を一緒に写すには良い場所です。



スルジ山からは歩いて下ることもできますが、団体行動とあってロープウェイで下ることになりました。







一気に麓まで下りてしまいました。



北側にあるブシャ門から旧市街地に入りました。



坂道を下って中心地に向かいました。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その7

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スルジ山の見学の後は自由行動で、当初の予定では城壁巡りを行うことになっていましたが、これは前日に終えていました。旧港からのミニクルーズで、ドゥブロヴニクを海から眺めることにしました。

旧港では、スタンドを出して観光船の客引きを行っていました。ツアーの全員が参加することになって、1隻を貸切ることになりました。



ミニクルーズの船が到着しました。



旧港を後にして出発。



旧港の南を守る聖イヴァン要塞。



ミンチェタ要塞が、旧市街の上に聳えています。



聖イヴァン要塞を回り込んで、城壁の南に沿って進んでいきます。



黒雲が流れて天候不順な状態でしたが、アドリア海は波も無く穏やかでした。



海に向かっても高い城壁が築かれています。



城壁の途中には、円塔状の砦が築かれています。



ドゥブロヴニクは、海からの攻撃に対して守りを固めているのが判ります。

ドゥブロヴニクは、かつてラグーサ共和国として自治を得ていましたが、これは大国の宗主権を認めて貢納金を治めることによって維持されていました。1389年にオスマントルコに貢納金を納めるようになると東方貿易が発展し、17世紀まで続く繁栄期を迎えるようになりました。ここでライバルになったのが、かつて支配を受けていたヴェネチア共和国でした。

政治的にうまく立ち回ってきたラグーサ共和国にとっては、ヴェネチア共和国の攻略に備える必要があり、このように街を要塞化する必要があったのでしょう。ヴェネチアの中心地のサンマルコ広場が、海に向かって開けた無防備な広場であるのとは対照的です。



城壁の西端に近づくと、城外に設けられたロヴィリイェナツ要塞が見えてきました。



ロヴィリイェナツ要塞は海に飛び出した岩山の上に設けられ、小ぶりながら堅固な造りです。



ここで船は沖に向かいます。



ドゥブロヴニクの新市街地のラパッド地区に大型ホテルが立ち並ぶのが見えます。



ドゥブロヴニクを沖から見ると、まさに要塞といった感じです。



どうやったらこの要塞を落とすことができるだろうと考えてしまいます。

この要塞を船の大砲で攻撃することは無理でしょうね。要塞からの砲撃で船の方が破壊されてしまうでしょう。ドゥブロヴニク周辺の海上と海岸線を封鎖して、スルジ山の山頂を占領すれば降伏に応じてくるでしょうね。

クロアチア独立時のセルビア・モンテネグロ軍によるドゥブロヴニク包囲では、同じような攻撃が行われたようです。



丁度通りがかった大型の観光船の大きさと比べると、城壁の高さが改めて認識することができます。



船は、ロクルム島の沖に回り込んでいきます。



カヌーの講習を行っていました。



ロクルム島では岩場の海岸線が広がっており、海に下りるために金属製の手すりが設けられていました。



ロクルム島では、一般的なビーチの他にヌーディスト・ビーチも設けられているといいますが、季節の問題か、それらしい人はいませんでした。



旧港からの連絡船の船着き場のようです。



ロクルム島の沖合を回って、再びドゥブロヴニクに向かいました。沖合には大型の観光船が停泊していました。



ドゥブロヴニクの東の海岸線も高級なホテルが並んでいます。





ドゥブロヴニクの旧市街地も近づいてきました。



城塞の外に設けられているこの建物は旧検疫所跡です。アドリア海沿いの都市には、ペストの蔓延を防ぐために必ず検疫所が設けられています。



海辺で、結婚式の記念写真を撮影していました。こちらに顔が向かなかったのは残念でした。



旧港に戻ってきました。



ミニクルーズによって海から眺めることができ、改めてドゥブロヴニクの要塞都市としての姿を把握することができました。

さすらいの風景 ドゥブロヴニク その8

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ドゥブロヴニクの旧港に面したレストランで昼食をとり、午後はモンテネグロのコトルを見学することになりました。



バスに乗るため、プロチェ門に向かいました。レヴリン要塞の下を抜けていきます。



城壁とレヴリン要塞の間は橋が架けられており、旧港を見下ろすことができました。







外門に通じる橋は15世紀に架けられました。



ドゥブロヴニクの城壁の外に出てバスを待ちました。



コトルに向かう車道は高い所を通過しており、ロクルム島を良く眺めることができました。



少し走った所の高台で、ドゥブロヴニクを眺めるためにバスを停めてくれました。ここからは、スルジ山とはまた違った眺めを楽しむことができました。





限られた時間でしたが、ドゥブロヴニクを多方面から眺めて、城塞都市の様子を把握することができました。

さすらいの風景 ボカ・コトルスカ

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ドゥブロヴニクを出発してアドリア海の沿岸を南下すると、モンテネグロに入りました。通関に時間が掛かる場合もあるようですが、停車も僅かで入国できました。

モンテネグロに入ると海辺に開けたヘルツェグ・ノヴィの街に出ました。



ヘルツェグ・ノヴィは、夏のリゾート地として開けているようです。



また、この街は、ボカ・コトルスカと呼ばれる内湾の入り口の戦略的要所になるため、城壁で囲まれ、支配者も幾度も交代しました。



アドリア海から奥に向かって、ヘルツェグ・ノヴィ湾、ティヴァット湾、リサン湾さらにコトル湾が連なっており、これら4つを総称してボカ・コトルスカと呼びます。



ボカ・コトルスカは、北欧のフィヨルドを思わせる風景を見せており、大型の観光船も入ってきていました。



フェリーが見えてきました。



ティヴァット湾とリサン湾を結ぶ海峡は幅が狭く、カメナリとレペタネの間でフェリーが運航されています。このフェリーを使えば、コトルまでの走行を短縮できますが、行きは風景を眺めるために湾岸に走り、帰りにフェリーに乗りました。



対岸のレペタネの街。



海岸線に沿って走ってリサン湾に入ったところで、写真ストップになりました。岩山に囲まれた湾に二つの小島が浮かぶ風景が広がっていました。



小島の一つには岩礁のマリア教会が建てられています。15世紀、小さな岩礁で漁師が聖母のイコンを発見し、聖なる地として十字架を立てました。その後、住民たちは、岩などを沈めて少しずつ埋め立て、やがて島が出来上がったといいます。17世紀には教会が完成し、中は絵画で埋め尽くされているといいます。



もう一つはセント・ジョージ島で修道院がありますが、一般人は立ち入り禁止とのことです。



対岸には、ペラストの街が広がっています。湾を囲んで黒々とした岩山が聳えていますが、これがモンテ・ネグロ(黒い山)の国名の由来になっています。



ペラストは、現在では、岩礁のマリア教会観光の起点となるだけの鄙びた街ですが、中世の頃にはヴェネチア共和国の海軍学校を擁し、軍事・商業の要衝として栄えていたといいます。



リサン湾を大きく回り込んでいきます。



先ほどの展望地の反対側に回り込んできました。



セント・ジョージ島も木立に遮られずに良く見えるようになってきました。



ペラストを通過しました。



湾には魚の養殖筏が浮かんでいました。

この後でコトルに到着するのですが、帰りに使ったフェリーの様子も合わせて載せておきます。



帰りはレペタネからフェリーに乗りました。



バスでフェリーに乗り込んだ後は甲板におりて見学することができました。



対岸のカメナリの街。



海上から振り返ったレペタネの街。





遠くにペラストの街を望むことができました。



フェリーは、短い間隔で運行していました。



10分ほどの航海でカメナリの街に到着しました。

なお、このボカ・コトルスカの一部は、「コトルの自然と文化歴史地域」として世界遺産の構成資産になっています。

さすらいの風景 コトル その1

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コトルに到着してバスを降りると、まず堀を巡らせた城壁が目に入ってきました。

コトルの起源はギリシャ時代に遡ることができますが、15世紀以降ヴェネチアの支配下の要塞都市として発達しました。



城壁の高さは、最高で20mあり、背後の山の上まで4.5kmも延びています。中腹には、救世聖女教会が置かれています。



コトルの西門前に出てきました。観光客で賑わっていました。



西門は、海の門とも呼ばれ、海からの訪問者の正門でした。



西門の脇の城壁には、ベネチア共和国のシンボルの聖マルコの有翼獅子のレリーフが飾られていました。



西門の上部に飾られているのは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国章です。5つの松明を、「29-XI-1943」と書かれた青いリボンで束ねられた麦のリースで囲み、その上に赤い星を配置しています。5つの松明はスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人という5つの主要民族を表したもので、1960年代後半からはムスリム人が加えられて6つの松明になっています。

今回の旅でも、ユーゴスラビアの国章を見るのは初めてでした。



入り口のアーチの上に飾られた人物像は、素性は判りませんが、面白い表情をしています。



西門の中にの通路には、聖母像が飾られていました。



西門から城内に入ると時計塔が目に飛び込んできます。



時計塔の下には、小さなピラミッド状のモニュメントが置かれています。



コトルでは、主要な建造物にはこのような説明板が取り付けられており、見学の助けになりました。時計塔は17世紀に造られたとのこと。



通過してきた西門を振り返ったところ。



西門の脇には防御のための塔が設けられていました。



城壁には部屋やバルコニーが設けられています。



西門を入ったところのオルジャ広場は、古い建物で囲まれています。

コトルは、1979年に地震によって大きな被害を被り、世界遺産と危機遺産を同時に認定されましたが、現在では完全に復旧されています。



背後の山を見上げると、救世聖女教会を眺めることができました。そこまで登ってみたいのですが、自由時間は限られており、そこまで行けませんでした。



コトルの街を反時計回りに歩いて見学しました。この日の天気は変わりやすく、雨が時折り降ってきました。



ベスクツァの館。15〜18世紀にかけて造られました。



小路を歩いていくと広場に出ました。



ピマの館。17世紀の建物です。窓枠が青く塗られているのが印象的です。



入り口に飾られた天使のレリーフ。



団体の観光客で賑わっていました。



聖トリフン大聖堂が現れました。コトルはローマ・カトリック教会と東方正教会の文化圏の境にあたり、街には両方の教会があります。こちらはローマ・カトリック教会のもの。ロマネスク様式の建物は塔の部分をのぞいて1160年の創建当時の姿を留めています。

残念ながら、内部は見学せずにそのまま通過でした。



教会前の広場には、レストランが店開きしていました。



続けて海洋博物館が現れました。18世紀のバロック様式の建物を利用しています。



入り口には昔の大砲が飾られていました。



小路は城壁に沿うように緩やかなカーブを描きながら続いていきます。



昔の井戸が現れました。



観光客は大勢いましたが、雨のせいか地元住民はあまり見かけず、時が止まったようにひっそりした感じでした。

さすらいの風景 コトル その2

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コトルの街歩きを続けていくと、スヴェタ・ニコラ広場に出ました。



スヴェタ・ニコラ広場には二つの教会が建ち、こちらは聖ニコラ教会。16世紀から続くセルビア正教会のドミニコ会修道院が19世紀の大火で焼失し、その跡地に教会が建てられ、1909年に完成しました。屋根には、セルビア正教会の八端十字架が立っています。



入り口の上に飾られたモザイク画。



もう一つは聖ルカ教会で、セルビア正教会に属し1195年の創設です。





美しく飾られた窓。



建物を補強するためか、小路の両側をつなぐアーチが設けてありました。



聖母マリア教会の門。聖オザナの生涯が描かれています。聖母マリア教会は、コトル最古の教会とされる6世紀の教会跡に建てられたロマネスク様式の教会で、完成は1221年です。



城壁への入り口に出ました。



門には面白いレリーフが飾られていました。



門の脇の建物は、薬局だったようです。



壁にドクロが飾られています。



門の脇には城壁歩きの地図が置かれていました。



自由時間も僅かで山の上までは行くことはできませんが、見晴の良い所までということで、入場料を払って登り始めました。



途中には門も設けられていました。



登るにつれてオレンジ瓦の屋根を望むことができるようになってきました。



雨で濡れた石畳は滑りやすく、階段を辿って歩くことになりました。



コトル湾も望むことができるようになりました。



九十九折の道の登りは、結構息が切れました。



石積みの壁には小部屋が設けられていましたが、中をのぞくとゴミだらけでした。



かなり登ってきて、コトルの街やコトル湾を見下ろすことができるようになりました。

時間が気になるので、ここで引き返すことにしました。



風景を眺めながら、坂を下っていきました。



再集合の西門前のオルジャ広場に戻ってきました。

コトルは、もう少し時間を取ってもらって、自由に街歩きをしたいところでした。

コトルは、午後の半日を使ってドブロヴニクから日帰り観光を行うというのが一般的になっていますが、往復のバス移動に時間がかかる割にコトルの見学時間が少ないので、コトル観光はやめてドブロヴニクに留まるというツアー参加者も多いと聞きます。私の感想では、バス移動中のボカ・コトルスカの眺めも良いし、コトルも一見の価値がある街なので、コトル観光は機会があったら訪れてみるべきだと思いました。

さすらいの風景 スラノ

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スラノは ドブロヴニクの北27kmの所にある寒村です。一般的な観光地ではありませんが、ドブロヴニク観光のために、二泊しました。

5日目の午後にドブロヴニク観光終えた後夕食をとってスラノに向かう途中、日が沈んできました。



ドブロヴニクとスラノの間は小さな島が点在し、アドリア海の眺めを楽しめる区間でした。



夕日が海に反射して光りました。







ホテル・アドミラルに到着。



本当はドブロヴニク地区のホテルに泊まりたかったのですが、料金も低めのツアーのため、不便な場所での宿泊になりました。ただ、このホテル・アドミラルが今回泊まったホテルの中では一番設備が整っており、朝食も充実していました。



ホテルは、スラノの入り江に面しており、眺めを楽しむことができました。



夜の村を歩いてみました。



スラノには海辺のキャンプ場もあるようですが、シーズンオフとあって、人にはほとんど会いませんでした。



レストランも開店休業状態でした。



村の教会。



闇が濃くなると、村の灯りが明るく輝くようになりました。



ホテルの浜辺はプライベートビーチになっており、あずまやも設けられていました。



屋外と屋内のプールも設けられていました。事前にホテルの施設を調べて、水泳パンツは持ってきてはいたのですが、水温が低すぎて泳げませんでした。



六日目の朝。



名のある観光地ではありませんが、美しい風景です。



六日目のドブロヴニクとコトルの観光を終えてホテルに戻る途中、再びアドリア海に沈む太陽の眺めを楽しむことができました。





ホテルの浜辺からから夕暮れの風景を楽しみました。



七日目の早朝、部屋のバルコニーに出ると、明けの空と海が薔薇色に染まっていました。



アドリア海の眺めを楽しんできましたが、これから後のモスタル、プリトヴィッツェ湖、グラーツへの旅は内陸部を移動していくため、アドリア海の眺めはこれで見納めになります。

アドリア海は、美しい眺めとともに、歴史の舞台として興味のある場所でした。



このアドリア海を舞台にした映画としては、「紅の豚」があげられます。



「紅の豚」は、宮崎駿が「魔女の宅急便」に続いて製作した劇場アニメです。

世界大恐慌時のイタリア・アドリア海を舞台に、飛行艇を乗り回す空賊(空中海賊)と、それを相手に賞金稼ぎで生きるブタの姿をした退役軍人の操縦士の物語です。

ジブリ映画では、「風の谷のナウシカ」のパキスタン・フンザ、「魔女の宅急便」のスウェーデン・ストックホルム、「千と千尋の神隠し」の台湾・九ふんなど、その舞台の参考にされたといわれる場所があります。この「紅の豚」は、ドブロヴニクが参考にされたといわれていますが、この付近のアドリア海の眺めは、確かに劇中の風景と似た感じでした。

「紅の豚」は、大人の男性向けの童話として、宮崎駿の作品の中でも好きな作品です。

好きな言葉。「飛ばねえ豚はただの豚だ!」

さすらいの風景 モスタル その1

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七日目は、モスタルを途中で見学して、プリトヴィッツェ湖まで移動することになります。移動距離は、510kmにも及びます。

ボスニア・ヘルツェゴビナのネウムを通過して再びクロアチアに入り、ネレトヴァ川沿いの道に進みました。



ネレトヴァ川は重要な河川であるため、川岸に要塞のような塔が見られました。



クロアチアから再びボスニア・ヘルツェゴビナへと国境を越しました。ネウムの国境とは異なり、ここの通関は書類審査に少し時間がかかりました。

ボスニア・ヘルツェゴビナに入ると、イスラムのモスクが現れました。

ボスニアヘルツェゴビナというと、まずボスニア紛争という言葉を思い浮かべるように、この国は複雑な歴史を持っています。これからのモスタルの見学の予備知識として、歴史を少し長くなりますが振り返ることにしましょう。

ボスニア・ヘルツェゴビナは、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入り、その後6世紀後半からスラヴ人が定住し始めます。この地域は地理的環境から、カトリックと正教会の激しい布教争いの最前線となり、多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求めるようになりました。

15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入り、正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くは、このときイスラム教に改宗しました。このほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んだイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まりました。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国やヴェネツィア共和国と戦争を行った際には、ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしました。

19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となりました。1908年のオーストリアによるボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合は、セルビアの大セルビア主義や、汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となりました。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となりました。

第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれ、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受けましたが、これに対抗したセルビア人の民族主義者によっても民族浄化の応報が繰り広げられました。

パルチザンの活躍によってユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生しました。この時代は、長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進みました。言論や文化的活動に関しては、他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められ、1984年には平和の象徴でもあるサラエボオリンピックが開催されました。

1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武装が進みました。

1992年、ボシュニャク人(旧ムスリム人)が主体のボスニア政府は、セルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定しました。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って武装も進めて対抗しました。三者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられました。このボスニア紛争は、1995年に国際連合の調停でようやく終結しました。

ようやく平和が訪れた現在の姿をモスタルで見ることになります。



ネレトヴァ川沿いの丘の上には、古城が見られました。ライン川沿いのような風景ですが、観光地化はされていないようです。



葡萄酒ようのブドウ畑も広がっていました。



モスタルに入ると、日の丸マークを付けた市バスを目にすることができました。これは、「モスタル市公共輸送力復旧計画」ということで無償資金協力を行い、紛争中に破壊されたバスを贈ったことによります。



モスタルに到着してバスを降りると、脇にはカトリック系の聖ペーター教会の塔が聳えていました。この教会は16世紀に造られましたが、紛争中に破壊され、2000年に再建されました。塔の高さは、モスタルの街のどこからも眺めることができるように、100m以上あります。



モスタルの見学を終えてバスに戻る際、ミサが終わったところでドアが開いていたので、中をのぞかせてもらいました。内部は、シンプルな造りでした。



通りにでると、紛争中に破壊された建物が現れました。



モスタルの中心地に入るところの交差点脇の建物にも、銃痕が残されていました。

この交差点付近が民族同士がぶつかる最前線になっていたといいます。



交差点脇の空き地にはユダヤ教のシナゴーグがあったといいます。ここはまだ再建されていませんでした。



廃墟になった建物は、所有者に再建の費用が無いことや、死亡などによって所有者が判らなくなっていることで、そのまま残されているようです。また、負の遺産として、観光に生かそうという思惑もあるようです。、



歩いていくうちに、土産物屋も出てきて、観光地の雰囲気になってきました。





土産物屋をのぞく観光客で賑わってきました。



トルコでも見かけた、タイル飾りが売られていました。



ランタンもトルコで見たものと同じです。



通りから見下ろすと、小さな石の橋が見えました。

この橋は、モルタルの最大の見どころであるスターリ・モストの建築を命じられた建築家が、本番前の試作に造ったものと言われています。



アラブ風バザールといった雰囲気の通りを進んでいきます。



脇に入ると、アラブ風浴室のハマムの建物がありました。



メイン通りから川に向かって下っていきました。



ネレトヴァ川の川岸に出ると、スターリ・モストの眺めが広がりました。

スターリ・モストは、全幅 4 m、全長 30 m 、川面からの高さは 24 m あります。橋の両脇には、防御のための塔が設けてあります。

スターリ・モストとは古い橋の意味で、1557年にスレイマン1世が当時あった不安定な木製の吊り橋に替えて作るよう命じて造らせたものです。9年かかって完成したといいます。この橋は、建造当時では世界唯一のシングル・スパン・アーチであったと考えられています。

伝説では、建築家は前代未聞の橋を作らねば死刑にすると申し渡されていた為に、橋が完成して足場を撤去する日には、自身の葬式の準備をしていたといいます。



橋の欄干の上に立っているのは、橋から飛び込むダイバーです。飛び込むそぶりはするのですが、なかなか行いませんでした。かなりの金額のチップをもらわないと飛び込みはしないようです。



再び通りに戻ってきました。



スターリ・モストの入り口にやってきました。橋のこちらがわにはタラ塔が設けてあります。



黄色い郵便ポストが取り付けてありました。



タラ塔には、「ダイバー・クラブ」として先ほど見た橋の上からのダイバーの詰所が設けてありました。



スターリ・モストの上は、観光客で賑わっていました。滑りやすいため、横板を踏みながら歩く必要がありました。



橋の上からは、川沿いに広がるバザールやコスキ・メフメド・パシャ・モスクの眺めが広がっていました。ネレトヴァ川の東側は、ムスリム人の居住区になっており、アラブ風の眺めです。



コスキ・メフメド・パシャ・モスクのミナレットの上に人が見え、後で登ることにしました。



東側から振り返ったスターリ・モスト。



スターリ・モストの東側には、ヘレビヤ塔が設けてあります。

モスタルでは、ここまでのバルカン半島の旅で出会ったものとは全く違う風景が広がりました。
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