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Channel: さすらい人の独り言
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ヨルダンのネコ

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岩合光昭の「世界ネコ歩き」に負けじとヨルダンでもネコの写真を撮りました。ネコの写真も観光の片手間に撮影するには難しく、じっくりと時間をかける必要があるようです。

まずは、カラク城で出会ったネコ。



我が縄張りとばかり場内を巡回していました。





ペトラ遺跡のネコ。





ペトラ遺跡の中は、結構ネコがいました。



泊まったホテル・ペトラゲストハウスの中庭にて。



ペトラ遺跡の入り口広場にて。



飾り窓の子猫。

死海のモーベンビックホテルの中庭にて。子猫が窓枠に座っていました。



同じく、モーベンビックホテルの中庭にて。



モーベンビックホテルの中庭には、アラブ風のコテージが並んでおり、ネコが遊んでいました。





ジェラシ遺跡のネコ。



アズラック城のネコ。



アンマン城のネコ。





日もさしてきて、遺跡の中でネコも気持ちよさそうにしていました。

海外旅行の際にネコを眺めていますが、日本のネコとの違いは見られませんね。

さすらいの風景 ヨルダンの花

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ヨルダンは砂漠の国というイメージがあったのですが、道端に多くの花を見ることができました。

ガラク城にて

日本の花で該当するものが思い浮かばないものが多いです。







アヤメ科の花でしょうか。



ワディラムにて

砂漠にも花が咲いていました。



ウンム・カイスにて

シクラメンの原種でしょうか。

シクラメンは、元々地中海沿岸、トルコからイスラエルにかけて原種が自生しているといいます。





ブラックアイリス。

この花は、ヨルダン・ハシミテ王国の国花にされています。

5種類のブラックアイリスが自生しているようで、この花は地域的にみて国花に選ばれている種とは違うようです。3月中旬から4月上旬が花の時期というので、この花を見ることがでkたのはラッキーなことでした。









ポピー

この花は、日本のタンポポ並みに道端に良く咲いていますね。







オドリコソウに似ていますね。



ジェラシ遺跡にて。

フウロの一種のようです。





アムラ城にて。



アズラック城にて。



アンマン城にて。

海外ツアーで、高山植物を見るものは多いですが、道端の野草を眺めるツアーというものがあっても良いのではないでしょうか。

さすらいの風景 ヨルダンの食 その1

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今回のヨルダン旅行は、良いホテルに泊まることができたので、食事の点では充実していました。

ペトラゲストハウスでの朝食。オーダーによりオムレツを作ってくれました。

ビュッフェ・スタイルなのでもっととることはできますが、朝はあまり食べないもので。



死海・モーベンビックでの朝食。

パンは充実していますが、ハムやソーセージには豚肉が使われないので、味がものたりない感じがします。



カラク城のレストランでの昼食。ビュッフェ・スタイルでした。



デザートのケーキ。ケーキにシロップが浸してあります。激甘。



ペトラゲストハウスでの夕食。ビュッフェ・スタイルでした。ナンとスープ、サラダを前菜として、肉料理がメインといったところです。ビュッフェ・スタイルだと、判っているものしかとらないので変わりばえがしなくなります。



前菜のサラダとパスタ類は充実していました。



パンも充実していましたが、ナンがあるならそちらを選びます。



驚いたのは、ケーキが充実していたことです。



幾つものケーキが並んでおり、ケーキ・バイキング状態でした。



ただ、不満だったのは、夕食にはコーヒーや紅茶はついておらず、別会計であったことです。改めて注文するのも面倒なので、ビールを飲みながらケーキを食べていました。





ペトラ遺跡内・バシンにおける昼食。ここもビュッフェ・スタイルでした。ちょうと空いている時に入店しましたが、その後で団体が入って混雑してきました。



味は悪くはないのですが、ビュッフェ・スタイルだと同じものを食べ続けて飽きてきます。

ここの飲み物代はえらく高かったことと、この後にエド・ディルまでの山登りが控えていたので、ツアー会社の方からテーブルにセットされた水を飲んで、ビールは我慢しました。



ここもデザートは充実していました。



ワディラム・ジャバルラムキャンプでの昼食。



デザートには、アワメ。

小麦粉を揚げた丸いドーナツにシロップをたっぷりとかけたもの。



死海・モーベンビックでの夕食。ここもビュッフェ・スタイル。



ケーキ・コーナー。



大ジョッキのビールもしっかり飲んで、ケーキも食べました。



マバダでの昼食。



マンディ。

アラブ諸国で食べられているご飯料理。ピラフに鶏肉が乗っています。

中央アジアのブロフやスペインのパエリャと同じ系統の料理です。



デザート。大きなケーキで、食べきれませんでした。

さすらいの風景 ヨルダンの食 その2

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アンマン・ル・メリディアンでの夕食。

サラダ類。



ヨルダンの伝統食であるマンディ。

スペインのパエリャに似ています。



この日もホテルのビュッフェ料理だったのですが、添乗員さんがちらし寿司を作って差し入れてくれました。美味しく頂きましたが、食べるものも豊富な一流ホテルだったので、無くても良かったかなとも思います。僻地の旅だったら、もっと感激することになったのでしょうけど。



ちらし寿司も食べて、満腹になりました。



このホテルもケーキは充実していました。



イスラム社会ではアルコールを飲まない代わりに、甘党が多くなっているようです。



ジェラシでの昼食。レストランの前では、ナンを焼いていました。ナンの生地を広げるパフォーマンス。焼きたてのナンは美味しいですね。



メインの食事はそこそこのものでした。



アンマン・ル・メリディアンでの夕食の二回目は中華料理になりました。

春巻き。



コーンスープ。



肉団子。



シュウマイ。



焼きそば。



チャーハン。



肉と野菜の炒め物。



肉と野菜の炒め物。

中華のコース料理としては、品数も揃っているのですが、食べていると物足りなさを感じるようになりました。イスラム社会のために豚肉が使えないことが原因のようです。改めて、豚肉の美味しさを思い知らされました。



アンマン・TAWAHEENN AI HAWAでの昼食。ここは正統的アラブ料理のレストランとのこと。

前菜。



クッベと呼ばれる羊肉のひき肉を入れた揚げ物とファタイールと呼ばれるホウレンソウを入れたパイ。



メインのミックスグリル。美味しいけど、アラブ料理の店ということで、ビールが無いのが残念でした。



デザートは果物でした。



他のテーブルの料理でしたが、前菜の野菜がきれいに盛り付けされていました。



最後にミントティー。



ヨルダンでは、最後のアラブ料理のレストランをのぞいて、毎食ビールを飲むことができました。ジョッキに入って出てくるものが多く、メーカーが判り難かったですが、このアムステル・ビールが一般的なようです。



瓶のアムステル・ビール。

ヨルダンのビールは、非常に高いものですが、イスラム社会で飲めることに満足することにしましょう。

さすらいの風景 成田からブレッド

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ここのところ中東が続いたので、今度はヨーロッパをと考え、クロアチア・スロベニアを目指すことにしました。最近は、クロアチア方面のツアーも数多く出ており、人気の観光地になっています。ただ、クロアチア方面には日本からの直行便はなく、乗換地はフィンランド、オーストリア、ドイツ、イタリア、イスタンブールなどで、訪問地も各ツアー毎に異なっています。

ツアー選びでは、ブレッド城の入場、ドブロヴニクの1日観光、プリトヴィッツ湖1日観光に加えて、モンテネグロとボスニアヘルツェゴビナ訪問が入っているものを選びました。

結局、選んだのは以下のツアーでした。ツアー募集時点では、航空会社も決まっておらず、初日のブレッド到着が異常に遅くなるのを知ったのは、日程表が到着した時点でのことでした。

また、参加人員が多くなると予想され、最大募集人員の少ないVIPバス利用日も考えましたが、一人参加のため座席が左右のどちらかに固定されてアドリア海の眺めを楽しめなくなる可能性もあるため、一般バス利用日を選ぶことにしました。

阪急旅行社「クロアチア・スロベニア・モンテネグロ・ボスニアヘルツェゴビナ 4ヵ国周遊10日間」おまけにオーストリア 2014年5月12日(月)〜21日(水)

1日目 5月12日(月)
 羽田発 14:06 (LH0717)フランクフルト着 18:45
 フランクフルト発 21:50 (LH01266) グラーツ着 23:05
 (約219km移動)
 26:30 ブレッド着
 (ブレッド泊 クリム)

2日目 5月13日(火) 
 ブレッド湖観光(聖マリア教会、ブレッド城)
 (約105km移動)
 ボストイナ鍾乳洞観光
 (約62km移動)
 (ボイトナス泊 オパティア)

3日目 5月14日(水)
 (約85km移動)
 ボレッティ観光(エウフラシウス聖堂)
 (約35km移動)
 ロヴィニ観光(聖エウフェミア教会)
 (約50km移動)
 プーラ観光(円形劇場、旧市街)
 (約92km移動)
 (ボイトナス泊 オパティア)

4日目 5月15日(木)
 (約297km移動)
 スクラディン
 クルカ国立公園
 (約93km移動)
 スプリット観光(ディオクレティアヌス宮殿)
 (約27km移動)
 (トロギール泊 セベティクリツ)

5日目 5月16日(金)
 (約207km移動)
 ストン
 (約55km移動)
 ドブロヴニク観光(市街観光、城壁巡り)
 (約27km移動)
 (スラノ泊 アドミラル)

6日目 5月17日(土)
 (約27km移動)
 ドブロヴニク観光(スルジ山展望台、ミニクルーズ)
 (約90km移動)
 コトル市内観光
 (約117km移動)
 (スラノ泊 アドミラル)

7日目 5月18日(日)
 (約135km移動)
 モスタル市内観光
 (約375km移動)
 (プリトヴィッツェ泊 ベルビュー)

8日目 5月19日(月)
 プリトヴィッツェ観光(下湖群、上湖群)
 (約307km移動)
 (グラーツ泊 メルキュール・グラーツ・メッセ)

9日目 5月20日(火)
 グラーツ市内観光
 グラーツ発 13:05 (LH2343)ミュンヘン着 14:00
 ミュンヘン発 15:35 (LH0714)

10日目 5月21日(水)
 羽田着 09:55

日程表からも判るように、バスでの総移動距離は2400kmにも及びました。また、帰国日の出発時間が遅かったため、グラーツの観光ができたのは、予期せぬ幸運でした。

国際線の増便のおかげで羽田発となり、家は朝に出発しても間に合うことになりました。ただ、旅行準備をしていて問題があることに気が付きました。東京駅から浜松町駅までの短い区間ですが、ラッシュアワーの混雑と重なるため、スーツケースを運ぶことが難しそうです。いつもにないことですが、空港までのスーツケースの宅配を頼みました。

羽田の国際便ターミナルは初めてなので、まず見学を行いました。



日本風の店構えの土産物屋が並んでいました。ただ、コンビニやユニクロのある成田空港の方が、出発前の足りないものの買い物としては便利ですね。



ツアー人数は、39名の大人数でした。40人となると二つのグループに分けることになるというので、まさにマックスの人数です。まあ、大人数は料金低下の要因なので、我慢することにしましょう。

まずはフランクフルトへ。



機体はB747-400、いわゆるジャンボですね。エコノミークラスは、3・4・3のシートです。通路側を割り当てられていたのに、なぜか窓側二人ぶんが空いていたため、ゆっくりとすごすことができました。



飛びだってしばらくしたところで、まず飲み物のサービス。最近は、飲み物単独サービスが省かれることも多いので、これはうれしいですね。



第一回目の食事のメインは、サワー・ビーフ・グラーシュ。これは美味しかったです。今度は、白ワインももらって、ほろ酔いになりました。ルフトハンザは、ビールもワインも美味しいので、好きな航空会社です。



飛行機は、ウランバートル上空を通過してシベリアに向かいました。

第一日目のホテル到着は深夜で、寝る時間も少なくなるため、飛行機の中でできるだけ寝ておくことにしました。



途中、外をのぞくと、凍りついた大地が広がっていました。



途中で、夜食としておにぎりが提供されました。



さらにギャレーには、ソフトドリンクやケーキ、チョコレートが用意してあり、自由にとることができました。



二回目の食事は、ペンネ・パスタのトマトクリーム添えを選択。ビールと一緒に戴きました。これも美味しかった。機内食は、日本食よりも、その航空会社の国の食事を選ぶべきでしょう。



フランクフルトに到着して、入国審査を行い、国内線ターミナルへ移動。シャトルによるターミナル移動もあって、迷子にならないように注意する必要があります。



搭乗ゲートに移動すると、コーヒーや紅茶のサーバーが置いてあり、自由に飲むことができました。これはうれしいサービスです。



フランクフルトからグラーツへ。



2・2座席の小型ジェット機でした。



1時間少々の短いフライトですが、サンドイッチと飲み物が配られました。ビールも飲めたようですが、さすがに疲れてきて、ジュースで我慢しました。サンドイッチもホテルに到着後、お酒のおつまみとして食べました。

グラーツには定刻に到着しましたが、それからバス移動となり、オーストリアからスロベニアへの国境越えはシェンゲン条約国同士ということもあって、ノンストップで通過できました。

ホテル到着は、深夜の2:30となり、いそいでシャワーを浴び、寝酒をひっかけて寝ることになりました。

この第一日目が、今回の旅行の一番の難関だったのですが、無事にこなすことができました。

さすらいの風景 ブレッド その1

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旅行の二日目は、スロヴェニアのブレッドの観光から始まりました。

宿泊したこのクリムホテルは、ブレッド湖に近い場所にありました。ホテル入りしたのは夜中の2時半で、それからシャワーを浴びて一杯ひっかけて寝たのは4時近くになっていましたが、朝の散歩を行うため6時に起きました。荷造りしたスーツケースを部屋の前に出してから7時開始の朝食に行くと、ほとんどのツアー参加者が集合していました。出発は9時45分だったので、もっとゆっくりしていても良いはずなのですがね。

小雨が降っており、傘をさしながらの散歩になりました。



ホテルの前の坂を下っていくと、ブレッド湖の畔に出ました。湖の向こうにブレッド城の立つ岩山が聳えていました。



今回訪れたスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロは、バルカン半島の国々で、ひと昔前まではユーゴスラビアに属する国々でした。これらの国々を見学するのに際しては、歴史を復習しておく必要があります。

バルカン半島の国は、東ローマ帝国・オスマン帝国・オーストリア・ハンガリー帝国といった多民族国家の時代が長かったことから諸民族が入り混じって住むことになりました。長らくこの地方を支配していたオスマン帝国の衰退とともに、セルビアなどの小国のナショナリズムが高揚します。これら地域のナショナリズムを利用して勢力拡大を目指すロシア帝国のパン=スラヴ主義と、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国のパン=ゲルマン主義が、以後この地をめぐって激突することになり、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになります。

1914年6月28日、オーストリアの皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの州都サラエヴォを訪問中、反オーストリア運動結社「黒い手」のメンバーだったセルビア人に暗殺され、このサラエヴォ事件によって第一次大戦が引き起こされます。

第一次大戦終了後に、南スラヴ人王国の構想によって「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)」が成立し、1929年にはユーゴスラビア王国と国号を変更しました。

第二次大戦では、ナチス・ドイツはユーゴスラビアを分割占領しますが、チトーの率いるパルチザンは粘り強く抵抗し、ユーゴスラビアを自力で解放しました。

大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められました。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現されました。

このようなユーゴスラビアが成り立っていたのも、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きかったためでしたが、1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出し、分裂の動きが加速されていくことになります。

このスロヴェニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していましたが、南側の共和国や自治州がスロヴェニアの経済成長の足を引っ張っているという不満が高まりました。またクロアチア人は、政府がセルビアに牛耳られているという不満を持ちました。1991年6月には、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言しました。

ユーゴスラビア連邦軍とスロヴェニアとの間は、十日間戦争と呼ばれる比較的短い戦闘で終結しましたが、他の国々の独立は泥沼化しました。

ブレッド湖湖畔からの古城や教会の眺めからは、オーストリアの山岳部といった印象を持ってしまいますが、これもハプスブルグ家の支配が長かったことによるのでしょう。





湖畔には遊歩道が整備され、遠くにブレッド島とその上に建つ聖母被昇天教会が見えていました。教会が良く見える場所まで歩くことにしました。



島の左に船着き場があり、そこから階段を上って教会に入ることになります。



途中で、ブレッド城を振り返ったところ。



鴨の親子が湖で泳いでいました。



ブレッド湖南岸のボート乗り場を過ぎると、階段も良く見えるようになってきました。



ヴィラ・ブレッドの下を過ぎる頃からは、遊歩道の脇の木立が続くようになって、展望の開ける場所を探しながらの歩きになりました。



雨も止んできて、湖面に教会の影が映るようになってきました。



階段を正面から眺めるようになって、ガイドブック等の写真もこのあたりから撮影したもののようです。

ブレッド湖は一周6kmというので、歩けない距離ではないのですが、時間も心配なので引き返すことにしました。



ブレッド城も少し違った姿で見えていました。





戻る途中、白鳥がのんびり草を食べていました。



車道脇に並ぶ観光客向けのお店やホテルですが、オーストリアと変わらない雰囲気です。

1時間ほどの朝の散歩を終えてホテルに戻り、ひと休みした後に、正式な観光に出かけました。

さすらいの風景 ブレッド その2

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ブレッド島に渡るため、朝方の散歩で通り過ぎた南岸の船着き場にバスで移動し、そこから船に乗りました。



雨も止んで、観光には支障の無い状態になっていました。

観光客が乗ったボートが船着き場に到着しているのが見えました。



ブレッド湖では、環境保全のため、エンジン付きボートは禁止で、全てプレトナと呼ばれる伝統的手漕ぎボートが用いられています。

二艘のボートに分かれて乗ったので、一艘には20人が乗っています。漕ぐのも大変そうですが、ゆっくりとボートは進んでいきました。



ブレッド湖は、東西2.1km、南北1.4kmの広さを持ち、深さは30mあります。スロヴェニアでは、唯一の島であるとのこと。



階段の下が船着き場になっています。



99段の階段で、新婚はこの階段をお姫様抱っこで登るといいます。



階段の途中には、マリアさまの祠がありました。



階段を上り切ると、聖母被昇天教会の前庭に出ます。

この教会の創設は、6〜7世紀に遡ることができ、17世紀に現在の塔を持ったバロック様式の教会に改築されました。湖に浮かぶ小島に建てられた教会の姿は、1800年代から絵葉書の定番になってきたといいます。



前庭に置かれた像。マリア像でしょうか。



塔の奥にある教会に入りました。



教会の祭壇の手前には、鐘を鳴らす綱が下がっており、これを引っ張るのに順番待ちになっていました。鐘楼は1534年に造られ、鐘を鳴らすと願いがかなうといいます。綱を引くには力が必要ですが、下に体重を掛けて数回勢いを付けると、鐘を鳴らすことができました。教会内部では音が聞こえにくいのですが、外では鐘がゴンゴン鳴っていました。



祭壇には聖母仔像が飾ってありました。スロヴェニアは、ローマ・カトリックが一般的なので、この教会もそうなのでしょう。祭壇以外は質素な造りでした。



入り口を振り返ったところ。



塔に登ることができるというので、さっそく上を目指しました。



塔の最上部には、時計の機械が置かれていました。



残念ながら、塔の窓には格子が付けられ、鳩除けの網も被さっており、展望は良くありませんでした。



塔を下りてからは、船着き場と反対側に続く遊歩道を歩きました。ブレッド城の眺めも広がっていました。



南岸にあるチトーの別荘であったヴィラ・ブレッドも良く眺めることができました。朝もこの下を歩いたのですが、遊歩道からは建物は良く見えませんでした。



売店の脇には、小さな展示場もあったので入ってみました。



この地方の民族衣装を着た人形の展示がありました。





見学を終えて船着き場へと階段を下りました。



周りの風景を眺めながら、南岸の船着き場に戻りました。

次はブレッド城の見学になります。

さすらいの風景 ブレッド その3

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聖母被昇天教会の見学を終えて、次はブレッド城に向かいました。ツアーによっては湖畔から見て終わりというものもありますが、やはり入場する必要があります。

湖畔を時計回りに回っていくと、牧草地が広がっていました。晴れていればユリアンアルプスの眺められるはずなので、ちょっと残念です。



湖畔とは反対側の斜面をひと登りして城見学者用の駐車場に到着しました。湖畔から歩いて登るものと思っていたので、予想が外れました。

高い城壁が取り巻いていました。



ブレッド城は、1011年にドイツの皇帝ヘンリック2世が、ブリクセンの司祭アデルベロンに城を譲渡した時が始まりで、一時期を除いて19世紀までずっとブリクセンの司教が所有していました。城はロマネスク様式の壁とゴシック様式の棟で囲まれた1階部分と、邸宅や礼拝堂が建つ2階部分からなります。



城門には跳ね橋が架かっています。



内部から城門を振り返ったところ。防御のための備えが施されています。



急坂を登っていきますが、頭上には円塔が高く聳えています。



ひと汗かくと、一階部の広場に出ました。これは二階部に続く階段。後ほど下ってくるのに使いました。



広場にある建物は、グーテンベルグの印刷機を使う刷屋が入っていますが、これは後の自由時間に見学することになりました。



井戸も設けられていました。



階段を上ると、礼拝堂や博物館のある二階部の広場に出ました。



ここからのお楽しみは、ブレッド湖の眺めです。ブレッド湖は、「アルプスの瞳」とも称され、古くから風光明媚な観光地として知られていたといいますが、それに納得のいく眺めです。



さきほど訪れた聖母被昇天教会も良く眺めることができました。

さすらいの風景 ブレッド その4

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ブレッド城の見学は、ここで自由時間となり、まず礼拝堂の中を見学しました。



礼拝堂の内部。質素な造りでした。



礼拝堂の天井画。



祭壇。



展示室には、この周辺の発掘物などが展示されていました。





武器なども展示されていましたが、それほどめぼしい物はありませんでした。



テラスに戻って、再び湖の眺めを楽しみました。



窓の扉に模様が描かれているのは、この城主の紋章でしょうか。



登ってきたのとは別な階段を下っていくと、この城の名物でもあるワインセラーがありました。自分で樽からくんで瓶詰できるといいますが、時間がないのでこれはパス。



城壁の回廊に上がれるところがありました。



回廊からは、周囲に広がる草原を眺めることができました。



ワインセラーの入り口が見えています。



一階部の広場に戻ってきて、印刷屋に入りました。



ここにはグーテンベルクの活版印刷機があり、印刷物をお土産に売っていました。事前に注文しておけば、名前や日付をいれたカードを作ってくれるようです。

ただ、なぜグーテンベルクの印刷機がここにあるのかは判りませんでした。



注文の時間が無かったので、できあいのカードを買いました。



最後に印刷屋のお兄さんの記念撮影。



一階部のテラスから再度ブレッド湖の眺めを楽しみました。



泊まったホテル・クリムは、ブレッド湖東岸の、写真では湖畔左にあるパークホテルの背後になります。



ブレッド城の見学を終えて、先ほどのボート乗り場の前のレストランで昼食をとりました。



昼食後、ブレッド湖の眺めを見納めしました。



天気も回復してきたようです。



ブレッド湖を離れると、雪が残るユリアンアルプスの山腹が見えてきました。スロヴェニアの最高峰で国旗の一部にも取り入れられているトリグラフ山はついに姿を現してくれませんでした。

さすらいの風景 ボストイナ鍾乳洞

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ブレッド湖の見学を終えて、次はボストイナ鍾乳洞に向かいました。

スロヴァニアのアドリア海から内陸に入った地域は、カルスト地方と呼ばれ、石灰岩が浸食されてできたカルスト地形の言葉の元になった地です。スロヴェニアには8500以上もの鍾乳洞があるといいますが、このボストイナ鍾乳洞はヨーロッパ最大の規模を有して、スロヴェニアの代表的観光地になっています。

入場は時間が指定されているため、3時過ぎに到着してから4時のガイドツアー開始まで、周辺の土産物屋をのぞきました。



ボストイナ鍾乳洞のマスコットにもなっているプロテウス(類人魚とも訳されています)。洞窟内に生息する目の退化したホライモリです。鍾乳洞内にも生きたものが展示されていました。



プロテウスのぬいぐるみ。可愛さが微妙なので買いませんでした。

このプロテウスについては、伝説が残されています。

大昔、ボストイナ鍾乳洞には邪悪な竜が住み、大きな鳴き声とともに、炎を吹き出していた。竜を落ち着かせるため、地元の人々は毎日竜に子羊を食べさせた。食べ終わると、竜はピウカ川まで行って大量の水を飲み寝てしまう。このような日々が続き、地元の人々は絶望していた。どうすればいいか判らず悩み続けていたが、ある日シュミヘル村の賢く勇気のあるヤコブ少年を訪ね、彼に助けを求めた。

死んだ子羊の間に生石灰を入れ、竜が子羊を欲した時に、それを竜の巣に投げ入れた。お腹が空いていた竜はそれをあっという間に食べてしまい、いつものように大量の水を飲んだ。水と生石灰が竜のお腹で混ざると爆発し、竜の残骸があちらこちらに飛び散った。ボストイナの人々はヤコブに大変感謝し、竜の皮から鞄を作りプレゼントした。現在でもボストイナでは、鞄が重要なものとして認識されている。

豪雨の時、川の近くに住む農民たちは、鍾乳洞から流れてきた水の中に不思議な小動物を見つけた。それはお腹を空かせた伝説の竜の子だろうと思った。(ボストイナ鍾乳洞ガイドブックより)



中央の洞窟入り口は昔使われていたもので、現在は右が乗車口で、左が出口になっています。



ボストイナ鍾乳洞では、最初の2kmを洞窟鉄道で移動し、その後の1.8kmを徒歩で歩いて見学することになります。携帯ガイドが渡され、日本語を選んでおき、場所のナンバーを入力すると解説が流れて聞くことになります。



この窟鉄道の通るトンネルは天井がえらく低いところがあり、背の高い外国人に混じっていても思わず首をすくめてしまうことになりました。ジェットコースターに近い恐怖を味わうことができました。洞窟内の疾走は、インディージョーンズ・魔宮の伝説の気分でした。



途中、古い照明装置の置かれたホールを通過しました。ここはコングレスホールと呼ばれるところのようです。昔はダンスホールとして使われていたといいます。

鍾乳洞の照明は、古くは松明、干し草、蝋燭が用いられてきましたが、1884年、この地方では初めての電気照明が取り付けられました。



洞窟鉄道の乗車中も、見事な鍾乳石を見ることができました。

この洞窟鉄道の歴史は古く、1872年に全長1534mの線路が敷かれ、観光客は二席しかないトロッコに乗って、ガイドがそれを押して移動しました。1914年にはガソリン機関車に変わって輸送能力は増大し、現在では電気機関車が用いられています。



ボストイナ鍾乳洞はヨーロッパで最大規模の鍾乳洞とのことで、スロヴェニア観光のほとんどのツアーに組み込まれていますが、世界遺産には、近くのシュコツィヤン鍾乳洞が登録されています。どうやら、ボストイナ鍾乳洞は、この洞窟鉄道のおかげで選からもれてしまったようです。ただ、見方を変えれば、オーストリア皇帝フランツ1世や、フランツ・ヨゼフ皇帝とエリザベート皇妃をはじめとするハプスブルク家の人々をはじめとする著名人が訪問した歴史的観光地として、別な興味が湧いてきます。

世界遺産は、お勧め観光地のお墨付きでは無いということを忘れてはいけません。

洞窟鉄道を降りてからの徒歩観光では写真撮影禁止になっていたので、ボストイナ鍾乳洞ガイドブックの写真を数枚載せておきます。



ロシア橋とレペ・ヤメ(美しい洞窟という意味)

最初は橋を通過し、堂内を一周してから橋の下を通過します。鍾乳洞内は、高低差が結構あり、歩くのに体力も使います。



スパゲティ・ホール。

無数の細いスパゲティ状の鍾乳石が垂れ下がっています。



ホワイト・ホール

鍾乳石の色は、水に含まれる炭酸カルシウム以外の成分によって色が付きますが、ここは特に純度が高いため白色になっています。



このボストイナ鍾乳洞のシンボルになっているブリリアントと呼ばれる石筍。



徒歩観光は、このコンサートで終わりになります。長さ65m、幅と高さと40mで、ボストイナ鍾乳洞で最大のホールです。長らくコンサートなどのイベント会場として使われてきて、床は平らに均されています。

ここは写真撮影が可能になっています。洞窟列車の出発時間まで、記念撮影や売店をのぞいて時間を過ごしました。



コンサートホールの隅だけでも、見事な鍾乳石を見ることができました。



中国の桂林やベトナムのハロン湾でも鍾乳洞を見学しましたが、ボストイナ鍾乳洞の鍾乳石はは各段に素晴らしいものでした。









コンサートホールにある売店には、オーストリア皇帝フランツヨーゼフと皇妃エリザベートの写真が飾ってありました。1857年と1883年の二回訪れているようです。



再び洞窟列車の乗車しました。





帰りは入り口とは違う所の大ホールで列車を降りました。写真の左上がプラットホームになっています。

現在は出口になっている大ホールは、かつては入り口になっていました。ここからピウカ川が地底に吸い込まれていきます。

大ホールは、数世紀の間の松明や蝋燭の照明や外からの埃で、鍾乳石や壁が茶色に変色していますが、第二次大戦中、ドイツ軍の飛行機の燃料庫が置かれ、これを洞窟内を抜けてきたバルチザンが火を付け、一週間燃え続けたため黒色の煤が付いたと言われています。

ボストイナ鍾乳洞は、単なる自然遺産としてだけでなく、観光施設の発展や歴史的事件の場として興味深いものがあります。



洞窟を出ると、脇をピウカ川が流れ、水車小屋も設けられていました。

ブレッド湖とこのボストイナ鍾乳洞で、スロヴェニア観光は終わりになり、この後はクロアチアへ国境越えして、宿泊するオパティアに向かいました。旅の終わりにプリトヴィッツェ湖群国立公園からグラーツに抜ける途中、再度スロヴェニアを通過するのですが、ドライブインによるだけでした。

さすらいの風景 オパティア その1

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ポストイナ鍾乳洞の見学を終えて南下すると、スロヴェニアとクロアチアの国境に到着しました。手前がスロヴェニアで奥がクロアチアの国境ゲートです。

クロアチアは、スロヴェニア、ハンガリー、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナの間に広がる東西に広い内陸部と、北はイタリア、南はモンテネグロまでの長いアドリア海沿岸部からなります。

クロアチア人の主な宗教はローマカトリックで、文化的にはオーストリア・ハンガリー帝国とイタリアの影響が見られます。

15世紀にはオスマン帝国に征服されてその領域に組み込まれますが、18世紀末までに、オーストリア・ハンガリーによって回復されました。一方で、アドリア海沿岸のダルマチア地方は10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になり、1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になりました。

第一次世界大戦の敗北によってオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、南スラブ民族による連邦国家を目指してセルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国が成立し、これは1929年には国名をユーゴスラビアに改名しました。

しかしこの連邦国家にはクロアチア人側からは、政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく、独立の機運が高まります。

第二次大戦中には、ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア独立国が成立されました。以降、セルビア人勢力との間で凄惨な戦闘が繰り返され、虐殺が行われたと双方が非難の応酬を行い、これが後のクロアチア紛争の火種になります。

チトー率いるバルチザンの活躍によってユーゴスラビアは解放されて、ユーゴスラビア共産主義者同盟が誕生します。しかし、チトーの死後、再び民族独立の運動が活発化し、1991年6月に、スロヴェニアとクロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言します。

スロヴェニアの独立は十日間戦争と呼ばれる短期間の戦闘で終わりましたが、クロアチアでの戦闘は泥沼化し、1995年までの長期間に渡って続けられました。この理由としては、クロアチア国内に大勢のセルビア人が住んでいたことが挙げられます。クロアチア紛争によるセルビア人難民は、15-20万人にも及ぶといいます。

今回のクロアチアの訪問地は、主にアドリア海沿岸部ですが、美しい観光地の姿の陰に、クロアチア紛争の爪痕を垣間見ることもありました。



クロアチアに入国したところにある両替所で、日本円からクロアチア・クーナへの交換を行いました。クロアチアではユーロが使える所も多いのですが、飲み物代がクーナでなければならない所があり、またトイレ・チップのためにコインが必要になりました。



夕暮れ近くにアドリア海に面したオパティアに到着しました。



オパティアに到着して、まずレストランで夕食をとってからホテルに入りました。

ホテル・オパティアは坂の上にあり、二泊する間に坂を何度も上り下りすることになりました。ガイドブックには、「19世紀末の建設物が持つ高級感と、近代的な設備が融合している」と紹介されていますが、古くからの建物の正面は良い雰囲気ですが、ユーゴスラビア時代に建て増しされた客室は古びてがたがきていました。出歩くには良い場所であったので、不満はありませんけどね。

到着した後の夜は、前日からの疲れもあってすぐに寝てしまいました。



翌朝、早起きして、オパティアの見学に出かけました。

オパティアは、アドリア海に面した高級リゾート地です。料金節約のツアーでここに宿泊するのも、シーズン・オフのおかげということになります。

海岸部には遊歩道が設けられて、水泳用の施設が広がっていました。



海岸部には、高級そうなホテルが並んでいます。オパティアは、「クロアチアの貴婦人」とか「クロアチアのリヴィエラ」などとも称されるようです。



海水を引き込んだプールも設けられていました。



海岸線に沿って歩いていくと、乙女とカモメの像が現れました。



像は、アドリア海を眺めています。

海岸線の奥に見えるのは、クロアチア最大の港町のリエカのようです。



海岸線に沿って延びるメインストリートを北東に進んでいきました。



少し高台に上がった所に、パーク・アンジェリーナの標識がありました。



公園内に入って海に向かって進むと、ヴィラ・アンジェリーナに出ました。

ヴィラ・アンジェリーナは、1844年にリエカの豪商イジニオ・スカルパによって建てられ、彼の名前にちなんでアンジェリーナの名前が付けられました。イジニオ・スカルパは、オーストリア皇帝フェルディナンド1世や政治家をこの家に招き、これがオパティアの高級リゾートとしての始まりになりました。

現在、ヴィラ・アンジェリーナは、美術品の展示場になっているようです。



ヴィラ・アンジェリーナの前庭からは、アドリア海の眺めが広がっていました。



ヴィラ・アンジェリーナの庭には、各国から集められた植物が植えられた庭園が設けられています。竹や庭石が置かれて、中国か日本風の眺めになっています。



再びメインストリートを引き返しました。



通りには、リゾート地とあって水着やリゾートウェアの店が並んでいました。



小公園に進みました。



遊歩道に出ると、乙女とカモメの像の脇にでました。像はアドリア海の方を向いており、遊歩道からは背中しか見えません。





朝の散歩を終えて、ホテルに戻りました。



朝になって改めて眺めたホテル・オパティア。



ホテルの前庭も美しく整備されていました。



ホテルのテラスから眺めた教会。

この日は、ポレッチ、ロヴィニ、プーラといったイストラ半島の小さな街の見学を行うことになりました。

オパティアの連泊で、体を少し休めることができます。

さすらいの風景 ポレッチ その1

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旅の三日目は、イストラ半島にある街の見学になりました。イストラ半島は、イタリアのトリエステの南に三角形にアドリア海に突き出た半島です。北の一部はスロヴェニア、南の大部分はクロアチアに属しています。宿泊地のオパティアは、南東の付け根に位置しています。

ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的とした1815年のウィーン会議によって、アドリア海沿岸部のヴェネツィア領を完全に併合する事になり、イストリア半島全域もオーストリア帝国領土となりました。この結果、イストリア半島ではイタリア人、スロベニア人、クロアチア人の混住が進みました。

イタリア統一運動によってイタリア王国が成立すると、本来イタリア領であるべき「未回収のイタリア」として、イタリアによるイストリア半島奪回運動が始まりました。第一次世界大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国が消滅するとイストリア半島の全域がイタリア王国に併合されました。

第二次世界大戦におけるドイツの降伏直前には、ドイツ支配下のイストリア半島に向かって、北のイタリア側からは連合軍が、南側からはチトー率いるパルチザンが進攻し、港湾都市トリエステでぶつかりました。重要港であったトリエステを東側に譲る事は、アメリカ合衆国やイギリスにとってはありえない選択肢であったため、トリエステ地域は分割統治され、国際連合管理下の非武装中立地域になり、この時の国境が現在でも続くことになりました。

オパティアを出発し、ウチカ山を貫く全長5096mのウチカトンネルを通って、半島を西に横断し、まずは、ポレッチをめざしました。

ポレッチは、アドリア海に突き出た小さな半島に街が作られています。



沖に浮かぶスヴェチ・ニコラ島(聖ニコラオス島)によって港が守られています。



旧市街地の入り口に、市庁舎がありました。



市庁舎に掲げられた旗の中にイタリア国旗があるのも、この街の歴史の複雑さがうかがわれます。



ポレッチは城郭都市で、その名残りの円塔が残されていました。



旧市街地は、細い通りが巡らされています。



城壁の一部が残されていました。



城壁には、ヴェネツィアの守護神聖マルコのシンボルである羽の生えたライオン像が掲げられていました。かつてはヴェネツィア領であったことの印です。



メインストリート脇の小路を見ると、その先には海が広がっていました。



ポレッチは、イストラ半島における観光の中心地とあって、メインストリート沿いには土産物屋が並んでいました。





アドリア海でとれるのか、珊瑚の装飾品が売られていました。



後の自由時間に土産物屋で珊瑚のネックレスをかみさんのために買いましたが、アクセサリー類は判りませんね。



ポレッチでの見どころであるエウフラシス聖堂にやってきました。

エウフラシス聖堂は、4世紀から6世紀にかけて建て増しされながら建造されたビザンツ様式の教会です。なお、エウフラシスは、寄進者の名前とのこと。



入り口には、黄金色に輝くモザイク画が飾られていました。550年ころの作品のようです。



教会内に進みます。



左手に、アトリウム(前庭)と洗礼堂、その奥にある鐘楼が現れました。



鐘楼は、18世紀に建て増しされたものです。後ほどの自由時間に登ることになりました。

馬鹿と煙はと言われますが、この旅でも何か所もの塔に上ることになりました。



建物内に進むと、洗礼僧が置かれていました。



苔が生えて少し気持ち悪いですが、現在でも年一回子供の洗礼が行われているようです。



見上げると、屋根を支える構造を眺めることができました。



洗礼堂から柱廊で囲まれたアトリウム(前庭)と聖堂を振り返りました。



アトリウム(前庭)を囲む柱廊。



聖堂の壁には、聖人のモザイク画が飾られていました。





洗礼堂脇の建物には、モザイク画などが展示されていました。





キリスト教のシンボルである魚のモザイクもありました。

さすらいの風景 ポレッチ その2

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聖堂の裏に回ると、邸宅跡が残されていました。

昔は右端に聖堂に入る通りが設けられていたようです。



海からの入り口であったアーチが残されています。



保護のために金網で造られた通路が設けられていました。



通路からは、残されたモザイクの床を眺めることができました。







住居跡から鐘楼を振り返ったところ。



聖堂脇の建物内にも、モザイクの床が残されていました。



保存のための工事が行われていましたが、奥に見えるのは、エウフラシス司教の棺のようです。



聖堂内部に入りました。



一番上には、キリストを中心に12使徒が描かれています。

ドームの部分は、神の子羊を中心に殉教の聖女たち。その下のドーム部には、父なる神がマリア様に冠を授けていることを著す、冠を持って天から伸びる手が描かれています。

聖母子は 天使に付き添われています。左から二番目の教会の模型を持っているのは、教会の寄進者のエウフラシスです。









内陣の壁には、斜めになって見にくいですが、一方には「受胎告知」の場面が描かれています。大天使ガブリエルが美しい姿で描かれています。



一方の壁には、もう一つの受胎告知のエピソードである「マリアのエリザベト訪問」の場面が描かれています。

マリアは、エリサベトが身ごもって6か月になることを受胎告知の折に告げられて、エリサベトを訪ねていきます。エリサベトと胎内の子(洗礼者ヨハネ)は聖霊に満たされ、エリサベトはマリアを祝福しました。マリアはマニフィカトを歌って主を賛美し、エリサベトのもとに3か月ほど滞在しました。このヨハネは、後に荒野で修行を積み、ヨルダン川の畔でイエスに洗礼を受けさせることになります。

このモザイク画は、この聖堂に描かれているものの中でも傑作と言われています。

なお、このマニフィカトは、キリスト教会の聖歌になっており、バッハの同名作品やモンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」の一部に用いられてクラシック音楽の分野でも有名になっていますね。



内陣下部の壁も美しいモザイクで飾られています。



柱の柱頭も化粧漆喰で飾られています。



自由行動になり、展示場をのぞいてみました。教会の宝物も展示されていました。



古そうな木彫り彫刻も置かれていました。



十字架に架けられたキリスト像。



古そうな祭壇。



時間も限られていたので、鐘楼に急いで登りました。鐘楼は、1522年に建てられ、ロマネスク様式のものです。



鐘楼からは、オレンジ色の屋根の街並みを見下ろすことができました。



沖合のスヴェチ・ニコラ島(聖ニコラオス島)もすぐ近くに見えます。



真っ青なアドリア海を眺めることができました。



歴史を感じさせる家が広がっていました。



エウフラシス聖堂の見学を終えて海岸通りに出ると、多くの船が停泊していました。



ボレッチの見学を終えて、少し早かったものの、海岸沿いのレストランで昼食をとりました。

さすらいの風景 ロヴィニ その1

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ポレッチ見学の後は、ロヴィニにやってきました。

ロヴィニもアドリア海に臨む港町です。



旧市街は、元々は岬の先にある島に置かれていましたが、1763年に海峡は埋め立てられて地続きになりました。

丘の上には、聖エウフェミア教会が立って、独特の景観を形作っています。



中世にペストが流行した時には、島にあるロヴィニの街に人々が押しかけてきたため、旧市街地では海の際まで家が並ぶようになりました。



沖の小島は、ペスト予防の隔離・検疫所として使われたようです。

1347年の黒死病大流行以来、疫病がオリエントから来た船より広がることに気づいたヴェネツィア共和国当局は、船内に感染者がいないことを確認するため、疫病の潜伏期間に等しい40日の間、疑わしい船を港外に強制的に停泊させるという処置を施しました。そのため、検疫のことを、40日間を意味するイタリア語のヴェネツィア方言quarantenaから、英語ではquarantineと呼ぶようになっています。



洗濯ものを家の外に干していますが、これはイタリア文化の影響ですね。



旧市街の入り口には、青空市が広げられていました。後の自由時間にのぞくことになりました。



まずは、街の中心といえる聖エウフェミア教会目指して、坂を上っていきました。石畳が敷かれて歴史を感じさせてくれました。





脇の小路の先には青い海が広がり、小さな店が開いていました。



これは魚料理のレストランの看板でしょうか。



丘の上を望むと、聖エウフェミア教会の鐘楼が聳えていました。



坂道を上るのに結構体力を使いました。



青く塗られた窓脇に目を引かれました。



丘の頂上近くには、灯台も置かれていました。



聖エウフェミア教会の鐘楼が見えてきました。



聖エウフェミア教会に到着。



聖エウフェミア教会は、見学者で賑わっていました。



高さ63mの鐘楼の上には、聖エウフェミア像が置かれています。



アドリア海を眺めながら、少し荒くなった息を整えました。

さすらいの風景 ロヴィニ その2

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ロヴィニの街の上に建つ聖エウフェミア教会に入場しました。



堂内には、様々な像が置かれていましたが、奉納された蝋燭に目が引き付けられました。

これは、マリア様というよりは、聖エウフェミアの像でしょうかね。



これは、右手に車輪を抑え持ち、足元にライオン像が置かれていることから聖エウフェミアの像だと思います。左手に持つ模型は、この教会を表しているのでしょう。



その奥に、聖エウフェミアの石棺が置かれていました。小部屋の中は、石棺に触れようとする人で、大混雑でした。

聖エウフェミアは、異教の儀式への参列を拒んだため、鋸の刃をつけた車輪で轢かれたり、ライオンの前に投げ出されたりしましたが、奇跡に守られ、最後に剣で刺されて殉教しました。

コンスタンチノープルにあった聖女エウフェミアの棺をロヴィニに移す際に、船が座礁してしまい、幼い少年と2頭の子牛が海から棺をを引き上げこの教会に安置したという言い伝えがあります。

殉教者として、聖エウフェミアは、絵画の題材になっています。石棺の向こうに聖女エウフェミアがライオンと対峙させられた絵が飾ってあるのですが、混雑のために写真は撮れませんでした。



代わりに、小部屋の前にあった聖女エウフェミアとライオンの旗飾りを出しておきましょう。



ステンドグラスは小規模で、製作年度も新しいもののようです。



エウフェミア教会の見学を終えて、別な道を下りました。



石畳の道の両脇には、土産物屋が並んでいました。





ゆっくりと歩きたくなる道です。





脇道の先には、スペインではパティオと呼ばれる中庭が広がっていました。



小路を下っていくとアーチが現れました。



通り過ぎてから振り返ったもの。

バルビのアーチと呼ばれ、1680年から建てられている旧市街地の入り口です。



バルビのアーチにも、ヴェネチアの守護聖人である聖マルコのシンボルの羽を生やしたライオン像が描かれています。



バルビのアーチの前の広場には、後期ルネサンス様式の時計台が置かれています。



港に面したチトー広場にあった噴水。



街灯にとまったカモメもおしゃれに見えます。



最初の入り口に戻っていきます。



自由時間に青空市場をのぞきました。乾燥イチジクやニンニクを縄に結わたものを売っていました。



オリーブオイルやトリュフ、乾燥イチジクやアンズを売っていました。



家で自家製イチジクジャムを食べ終えたところなので、今回はアンズを買いました。

アンズ・ジャムの作り方

1 軽く洗い、水に半日浸します。
2 柔らかくなったら、キッチンバサミで四分の一にカットします。
3 火にかけて、しゃもじでつぶしながら、煮つめていきます。途中で、水を再度加えて煮詰めます。また適当量のグラニュー糖も加えて煮つめていきます。
4 煮詰まってきたら、好みの甘さまでグラニュー糖を加えます。
5 好みの甘さで煮詰まったら、最後にレモンを絞って加え、かるく煮立てて終了。

毎日の朝食のパンと一緒にアンズ・ジャムを食べていますが、海外旅行では、重いジャムを買うよりも、ドライフルーツを買って手造りジャムを作るのがお勧めです。このジャムを食べると、少なくとも日本の市販のアンズジャムは買う気にはなれません。



きれいに展示されているのですが、買い物客はあまりいませんでした。



こちらは、海辺らしく貝殻を使った、いかにも観光地といった土産物屋。

ロヴィニは、明るい雰囲気の観光地で、絵になる風景がそこかしこにあって、ゆっくりと過ごしたい所でした。


さすらいの風景 プーラ

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イストラ半島見学の最後にプーラにやってきました。

イストラ半島の南端にあるプーラは、ギリシャ神話のイアソンとメディアが奪った黄金の羊毛を取り返しにきたコルキスの民が築いたという伝説の残る町です。ローマ時代には交易の中継地として栄え、3000年の歴史を持つアドリア海東岸最古の町として古代から行政の中心地になってきました。

街に入ってまず目に飛び込んできたのはローマ時代の円形劇場です。



この円形劇場は、紀元1世紀に建造されたといいます。



残念ながら中には入らず、外からの見学のみ。

長径130m、短径100mで、往時には25000人を収容できたといいます。現在でも5000人収容可能で、オペラやコンサートの会場として使われているようです。



このカードは、スプリットの街でネクタイの本家ブランドのクロアタ社が配っていたもので、2003年9月にこの円形劇場をネクタイに見立てた布で巻いたイベントの写真です。実際には、ネクタイの端が手前の広場の方に長く伸びていたようです。

長さ808mの赤いネクタイが巻かれ、ネクタイの長さ世界一としてギネス世界記録に認定されたとか。ギネス世界記録も陳腐化していますがね。



旧市街に向かうと、まずふたご門が現れました。



城壁に沿って時計周りに進んでいくと、ヘラクレス門が現れました。



さらに進むと、紀元1世紀に建てられた凱旋門スタイルのセルギイ家のアーチの前に出ました。ここが旧市街地への入り口になります。



アーチを通り抜けてから振り返ったところ。



こちら側の方が、アーチの上の天使の飾りが良く残されています。



セルギイ家のアーチの脇の家のテラスに銅像が置かれていました。銘板をみると、ジェイムズ・ジョイスの像でした。

ジェイムズ・ジョイスは、「ユリシーズ」や「ダブリン市民」で知られるアイルランドの作家です。ジョイスのすべての小説の舞台やその主題の多くがアイルランドでの経験を基礎としているので、アイルランド内に住み続けていたように思っていましたが、青年期以降の生涯の大半を国外で過ごしていたのは意外でした。ジョイスは、当時はオーストリア・ハンガリー帝国領だったプーラで半年ほど教職についていたことがありました。



旧市街のメインストリートは、中央の丘の麓を一周するようにカーブしながら続いています。





プーラは、観光客だけではなく地元民も多く、落ち着いた雰囲気の街でした。





中心広場のフォーラムに出ました。



これは市庁舎。



その左手にはアウグストゥス神殿が残されていました。

紀元2〜14年にかけて、初代ローマ皇帝アウグストゥスの治世を称えるために造られたものです。コリント式の円柱が印象的です。神殿は、後に教会、食物の貯蔵庫などに使われてきました。



市庁舎は、ディアナ神殿のあった場所に建てられており、背後に回ると遺跡の跡が残されています。



メイン通りからは丘の上に小路が分かれていました。



歩いていくとカテドラルが現れました。4〜5世紀に建てられ、建材の一部には円形劇場から持ち出した石材も使われているようです。



プーラはローマ時代の遺跡の上に造られた街のため、掘ると遺跡が出てくるようです。この空き地も、建設工事の途中に遺跡が発見されたため、工事が中断したままになっています。



駐車場近くに戻ってきたところにあった、プーラの街の模型。

写真の上に円形の旧市街地があります。中央の丘の上にカステルと呼ばれる城塞跡があるのですが、見学できなかったのは残念です。

プラーの見学を終えてバスに戻ろうとすると、激しいにわか雨が降ってきました。この日以後、観光にはほとんど影響はなかったものの不順な天候が続きました。バルカン半島内陸部のセツビア方面では、15日から始まった記録的大雨によって甚大な被害が生じたようです。

さすらいの風景 オパティア その2

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イストラ半島の見学を終えてホテル・オパティアに戻ってきました。



この日最後の見学地のプーラではバスに乗るのと同時に雨が降り出しましたが、オパティアに戻ると晴れ空が広がっていました。

夕食前に、近くのスーパーマーケットにミネラルウォーターとビールを買いに出かけました。



夕暮れ時の海岸に出て、再び乙女とカモメの像を眺めました。



オパティアのシンボルといって良い眺めです。



夕食を終えてから夜景を眺めに海岸通りに出かけました。夜の8時では、まだ明るい状態でした。ツアーは盛り沢山の内容だったので、暗くなるのが遅いのは助かりました。この内容のツアーに秋や冬に参加したならば、最後は暗い中での見学になった可能性があります。



うろついているうちに、ようやく空が赤く染まりました。



遊歩道で海を眺めていると、月が昇ってきました。アドリア海に光の筋が浮かんでいました。です。



海沿いのレストランの灯りが、海水を引いたプールに映るようになりました。



乙女とカモメの像もライトアップされていました。





旅の四日目、クルカ国立公園に向かってオパティアを後にしました。

オパティアは、旅行会社の都合で宿泊した街でしたが、リゾート地の雰囲気を味わうことができました。

さすらいの風景 リエカからスクラディン

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旅の4日目は、オパティアからクルカ国立公園までおよそ300kmの長距離移動になります。バスの中では寝ている者も多くいましたが、車窓から眺めるアドリア海の眺めは楽しめました。

オパティアを出発すると、ほどなくリエカの街を通過しました。リエカはクロアチア最大の貿易港で、ビルも立ち並んでいました。



高台を通過していくと、リエカの旧市街地を見下ろすことができました。



街を見下ろす高台にトルサット城を眺めることができました。現在の城は、中世にローマ時代の砦の上に建てられ、19世紀に大改築されました。



車窓からは、アドリア海を眺め続けることができました。



アドリア海の沿岸部には、多くの島が点在し、しばらくはクルク島が見え続けました。



時折り、海辺に広がる小さな街を通過しました。



オレンジ色の屋根の町並みの上に、教会の塔が突き出ています。ヨーロッパの田舎町といったイメージに合っています。







セニの街にやってきました。

セニは、クロアチアの北アドリア海沿岸の都市でもっとも歴史が古い街で、オスマン帝国とヴェネツィア共和国の侵入に対する防御地点で、獰猛な海賊「ウスコク」の本拠地だったようです。



港に沿って古い街並みが広がっていました。



海賊の拠点を偲ばせるように、海に向けて大砲が置かれていました。





街から上がった所のガソリンスタンドでトイレ休憩になりましたが、街の上に聳えるセニ・ネハイ要塞を良く眺めることができました。



セニの街からは内陸部に入り、高速道路に乗りました。



高速道の周囲には、カルスト地形が広がっていました。表土が薄いため耕作地には向いていないようで、荒野が広がっていました。



走るうちに山が見えるようになってきました。



ドライブ・インで休憩しました。クロアチアでは、バスの運転手の勤務規定が厳重で、一定時間ごとの休憩や1日の運転時間を厳密に守る必要があるようです。トイレ休憩の必要もあって途中での休憩はこちらにも必要なことですが、アクシデントで遅れた場合、ホテルに到着できなくなるというリスクがあるようです。



バスの外に出ていると凍えるような寒さになってきましたが、山の頂上部にも雪が積もっているようです。

車窓から見えている山は、カルスト地形や渓谷を楽しむことができるバクレニツァ国立公園に属するもののようです。



強風のために高速道の橋が通行止めとのことで、一旦下道に下りました。1時間ほど余計にかかったようで、この日最後の訪問地のシベニク観光に少し影響が出ました。



高原地帯から一旦海辺近くまで下っていきました。その途中、クロアチア紛争による廃屋が多く見られました。

この一帯は、ボスニアヘルツェゴビナとの国境近くにありセルビア人も多く住んでいたため、クロアチア独立に反対する勢力によって「クライナ・セルビア人共和国」が設立されて、戦闘が激化しました。

国連によって平和維持のために国際連合保護軍(UNPROFOR)が派遣されましたが、民族問題の最終的な解決にはなりませんでした。

この廃屋の壁にUNと書かれているのも、国際連合保護軍と関係があるのかもしれません。



アドリア海から延びる湾に面した小さな街を通り過ぎて、再び高原への上りになりました。



街の上に要塞跡を見ることができました。



この要塞を良く見ると、要塞の壁の背後にトーチカが三つ設けられていました。

クロアチア紛争は、、1991年から1995年にかけての、ほんの少し前の出来事であったことが改めて思い知らされました。



高速道路に戻って、再び高原地帯の走りになりました。



アドリア海の沿岸部に再び下っていきます。







通り過ぎる街の多くで、背後に古い要塞が聳えるのを見ることができました。





クルカ国立公園の入り口の一つであるスクラディンに到着しました。

スクラディンでは昼食をとるだけで、クルカ国立公園へは別な入り口から入場しました。



この街の背後の丘にも要塞が設けられていました。



街の中心に向かう道。



古い教会もありました。



街には、昼下がりの静けさが広がっていました。



昼食を終えて、クルカ川河畔に出ました。スクラディンは湾の奥にあり、船の係留所になっていました。



新しい家が並んでいますが、ここもクロアチア紛争時の戦闘地になっていたようで、戦後に立て直されたもののようです。



バスに戻った後、前方に見える橋を渡って、クルカ国立公園に向かうことになりました。



古い教会の塔を眺めることができました。塔の上部が黒くすすけているのも、戦闘行為によるものかもしれません。また、塔の下に見える屋根が、オレンジ色と褐色の二通りに分かれているのも、戦争によって破壊されて再建された跡と思われます。



バスに戻ってクルカ国立公園に向かい、クルカ川の対岸に出ると、スクラディンの街の眺めが広がりました。



高度を上げると、スクラディンの街の全容を眺めることができました。ヨットが停泊する平和な眺めです。

さすらいの風景 クルカ国立公園

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昼食をとったスクラディンを出発してから尾根越えをすると、クルカ川が見えてきました。クルカ川は、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境の近くのディナル・アルプス山脈から流れ出ています。

見学するスクラディンスキー・ブグは、写真の左手にあたる下流部にあります。



バスを降りて公園内に進むと、水の流れの中に木道が巡らされていました。



ここの滝は、日本で見られる深い渓谷の中で高みから流れ落ちるというものとは違って、小さな段差の滝が広がっていました。



作業小屋が設けられていましたが、これは水力洗濯機のようです。



これは、水力粉挽き器。



作業小屋を対岸から見たもの。滝が生活の助けに使われてきたことが判ります。



滝の見晴らし台に出ました。



ここのところ雨が多かったためか、水量も豊富で、迫力が増していました。



ヨーゼフ一世展望台からの眺め。



下流方面にも滝がかかっているようです。





下に見えているのが、この公園で有名なスクラディンスキー・ブグのようです。



坂を下っていくと、水力発電所跡に出ました。

この水力発電所は、近接するシベニクに1895年8月28日から電力を供給し始めました。ナイアガラ滝近くのアダムス電力発電所ではそれよりも3日早い8月25日に操業開始しましたが、バッファローへの送電は1年以上後の1986年11月16日になりました。見方によりますが、世界で最初あるいは二番目の水力発電所といえます。

交流発電機はニコラ・テスラによって発明されましたが、彼は当時オーストリア帝国であったクロアチアで生まれました。その関係でここに水力発電所が造られたのでしょう。

ニコラ・テスラはアメリカに渡るとエジソンの会社に入りますが、直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業を提案し、これによりエジソンと対立して1年ほどで職を失うこととなりました。独立したステラは、交流発電機を完成させ、ウェスティングハウス・エレクトリック社によりナイアガラの滝の発電所に取り付けられました。

ニコラ・テスラは、交流電流の他にもラジオやラジコン、蛍光管等、エジソン以上の発明を行いましたが、情報とエネルギーを無線で地球上のあらゆる場所に瞬時に送ることができる「世界システム」の開発に莫大な資金をつぎこんだあげく失敗し、このあたりからマッド サイエンティストの噂が付きまとうようになりました。

晩年は一人でホテル住まいを続け、亡くなった後、死体が運び出された直後にFBI捜査官がテスラの部屋を物色し、テスラが発明した超兵器の資料を没収したという噂が立ちました。

ニコラ・テスラは、エジソン以上の発明を行った天才科学者にもかかわらずマッド サイエンティストと呼ばれるようになり、オカルティストの人気を誇るようになりました。

興味のある人は、発明超人ニコラ・テスラ (ちくま文庫)を是非お読みください。偉人伝といった枠を超えた面白さです。



坂を下った所で、スクラディンスキー・ブグの下流部を木の橋で渡ります。



大小が合わさってできるこのような滝は、カルスト地形で岩盤が堅いため、一か所が深くえぐられることがないために形成されたのでしょうね。



滝を眺めながら対岸に渡りました。



今度は、坂を登り返します。結構体力を使いました。



滝の落ち口まで登ると、見所を一周したことになりました。

クルカ公園は、旅の終盤に訪れるプリトヴィッツェ湖群国立公園と似た感じですが、スケールは少し小さく、より人里に近い感じでした。

さすらいの風景 スプリット その1

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クルカ国立公園の見学を終えてスプリットを目指しました。高原地帯から海岸部へ下っていくと、岩山の上に建つ要塞が見えました。



眺め続けていくと、かなり大規模の要塞であることが判りました。



帰国後にネットで調べると、クリスの要塞のようです。

クリス要塞は、ローマ時代の砦として築かれたのが始まりで、7世紀初頭からはクロアチアの重要な城となって、16世紀末のオスマントルコ軍の侵入に際しては、ここで大きな戦いが行われました。

あらかじめ見学場所の決められたツアーですが、目をこらしていると発見もあります。



スプリットが近づくと、街に水を引いていたローマ時代の水道橋が現れました。



スプリットに到着すると、まず城壁が現れました。



ディオクレティアヌス宮殿を囲む城壁の海側で駐車場でバスを降りました。スプリットは、ローマ時代に建てられたディオクレティアヌス宮殿を呑み込むように発展した街です。

クロアチア旅行にもかかわらず、ここでローマ帝国の歴史のおさらいをする必要があります。



ローマ帝国は、カエサルの後継者となったオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年から始まり、カリグラやネロなど暴君が登場したり内乱が生じたりしますが、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)の時代にローマ帝国は最盛期を迎えました。その後は、内乱が続いたことから軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していきました。

軍人皇帝時代を終わらせたのが、284年に皇帝となったディオクレティアヌスです。彼は元首政から専制君主制に改革し、また、拡大した帝国を治めるためにテトラルキア(四分割統治)を導入し、帝国は一時安定を取り戻しました。しかし、ディオクレティアヌスが305年に引退した後、このテトラルキアは急速に崩壊してしまいました。

ディオクレティアヌス皇帝は、キリスト教徒に対する「最後の大迫害」を行ったことでも知られています。ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に対し怒りをつのらせていきました。303年にディオクレティアヌスはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収、国家に対し公然と反抗したキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたといいます。キリスト教史では、これを「最後の大迫害」と呼び、ディオクレティアヌスはキリスト教迫害の暴君の一人として記憶されることになります。キリスト教が公認されるのは、このわずか10年後の、コンスタンティヌス1世による313年のミラノ勅令ということになります。

305年、ディオクレティアヌスは健康を崩したこともあって退位し、スプリットに宮殿を作って隠棲し、311年12月3日にそこで亡くなりました。自分の意志でローマ皇帝から引退したまれな例ということになります。



城壁で囲まれたディオクレティアヌス宮殿は、四方に門を設けてありますが、青銅の門から入場しました。



門をくぐった先の通路脇には土産物屋が並んでいました。



通路から脇に入って、宮殿の地下を見学しました。入り口には井戸が設けられていました。



広い通路が設けられています。

現在、宮殿は中世の建造物で埋め尽くされて、本来の構造が判り難くなっています。地下の構造物は、地上部を支えるために同じ造りになっているため、これを見れば往時を推測できるということのようです。



何本もの柱が並んだ大広間。



時間と共に浸食が進んだのか、柱頭部はイスラム建築の鍾乳石飾りのようになっています。



展示物はあまりありませんが、これはディオクレティアヌスの肖像が描かれたコインの拡大レプリカ。





ローマ時代の糸杉。



この地下室は、倉庫やワイン・オリーブオイル造りに使われ、都市化が進むとゴミ捨て場になってしまっていたといいます。かなりきれいにしたようですが、それでも空洞の上部に配管が見えていたりもします。



ディオクレティアヌス皇帝の肖像。

ディオクレティアヌス皇帝は、キリスト教徒の迫害者として、肖像は後の時代にほとんど破壊されてしまい、これは復元されたもののようです。



地下室の見学を終えて、地上へと進みます。



地上に出たところは、ペリスティルと呼ばれる旧市街の中心です。正面は皇帝の私邸の前庭で、左は大聖堂になります。



ますは前庭に進み、クラパの合唱を聞きました。クラパは、アカペラ男性コーラスによるクロアチアの伝統音楽です。



この前庭は、中央に穴が開いたドームで覆われているため、声が響いて美しく聞こえました。



海外旅行では、その国のCDを買うことにしているので、このクラパのCDも買いました。

クラパの合唱団と記念写真を撮っている者は結構いましたが、CDを買ったのは僅かだったようです。

下中央がクラパ。上二つは、コトルのスーパーでダルメシア地方の曲ということで買いました。左上は歌で、右上はマンドリンの曲です。
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