シディ・ブ・サイドからカルタゴに戻って、まずビュルサの丘を見学しました。
バスを降りた駐車場の脇に聳えるのは、サン・ルイ教会です。丘の上に礼拝堂が置かれたのは1840年で、現在の大聖堂は1890年にフランスによって建てられました。1270年に第8回十字軍遠征に参加し、チュニス包囲戦のただ中に没したフランス国王ルイ9世に捧げられたものです。ルイ9世は、死後にカトリック教会により列聖されました。内政、産業、芸術を発展させた敬虔なキリスト教の王でしたが、二度の十字軍に参加して捕虜になったり最後は死亡して、将軍としての戦略、戦術には欠けていたという評価です。パリの観光名所になっているステンド・グラスで有名なサント・シャペルはルイ9世の命によって建てられました。、
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古代カルタゴの中心であった遺跡へ進みました。
カルタゴは、現在のレバノンの周辺を拠点に、地中海で海上貿易に従事していたフェニキア人によって建設されました。
伝説では、フェニキアの都ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーンから逃れてカルタゴを建設したとされます。岬に上陸したディードーは、1頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めました。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れました。そのため、この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになったといいます。
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カルタゴというと、共和政ローマとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争であるポエニ戦争が思い浮かんできます。
紀元前264年から紀元前241年に起きた第一次ポエニ戦争は、シチリア島の支配を巡っての争いで、アエガテス諸島沖の海戦によってローマの勝利に終わりました。
紀元前219年から紀元前201年に行われた第二次ポエニ戦争では、ハンニバルの善戦によってローマに迫りましたが、スキピオ・アフリカヌスのスペインから北アフリカへの逆侵攻によってカルタゴの敗北に終わりました。
紀元前149年から紀元前146年に起きた第三次ポエニ戦争で、カルタゴは3年間の籠城戦の後に陥落し、住民のほとんどは殺されるか奴隷にされ、街は完全に破壊されました。土地を塩で埋め尽くして不毛の土地にしようとまでされたといいます。
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丘の上に設けられたテラスに立つと、遺跡が広がっているのを見ることができました。
一旦は、破壊しつくされたカルタゴですが、紀元前29年に、ユリウス・カルタゴ植民市として再建されて、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、2世紀にはローマ、アレキサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市にまで発展しました。
しかし、7世紀のアラブの侵攻以降は、北アフリカの中心はカイラワーンに移されて再び廃墟に戻ってしまいました。
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カルタゴの遺跡のほとんどはローマ人の物ですが、カルタゴ人の住居跡も見つかっているようです。見渡しても、どれとはいえませんが。
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ただ、この廃墟を見ると、「国破れて」とカルタゴを忍ぶ気持ちが沸いてきます。
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遺跡から見たサン・ルイ教会。
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続いてカルタゴ博物館を見学する予定でしたが、門が閉まっていました。数日前に閉館になったということで、現地ガイドも知らなかったとのこと。
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この博物館には、ローマのモザイクが収められているようなので、閉館は残念でした。
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続いて、トフェ(タニト神の聖域)を訪れました。住宅地の中にありました。
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トフェは、ローマ以前のカルタゴの面影を残す数少ない遺跡です。ポエミ時代には、墓場と火の神バール・ハモン神(フェニキアの古代宗教神)、天と豊穣の神タニト(カルタゴの守護神)が祀られた聖域でした。
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狭い敷地内には、小さな墓石がずらりと並んでいます。この下には、幼児の骨が入った骨壺が見つかっています。
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神像の前で、都市の繁栄や戦争の勝利のために、生贄のために幼児は火の中に投じられたといいます。この生贄は、高貴な身分のものほど良いとされました。ここでは、炭化した幼児の骨をいれた骨壺も見つかっているといいます。
ただ、幼児の死亡率が高かった古代で、死亡した幼児の遺体を火葬して供養し、神の元に送り返したという考えもあり、どちらが正しいのかは判らない状態になっています。
歴史は、勝者が敗者に対して都合の良いことを書き残すということを忘れてはなりません。
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この丸と三角を組み合わせたものは、タニトの印と呼ばれます。
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敷地の奥に洞窟があります。
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アーチ状の天井を持つ洞窟は、幼児の墓地として使われていたようです。
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墓石を見ていくと、他にもタニトの印を見つけることができました。
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赤ん坊の像でしょうか。
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これもタニトの印。
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添乗員さんが、回してくれたカルタゴの街の復元図。
カルタゴでは、海に面して円形の水面を持つ軍港を整備しており、現在でもその跡を見ることができます。
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住宅地の外れに島を浮かべた円形湖があり、これがカルタゴの軍港跡でした。
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釣竿を垂らす釣り人や、湖岸の草むらで寝そべるネコがいたりしてのどかな風景でした。ただ、その奥は新しく設けられた現在の軍港になっており、警備の者に追い返されました。
我々は、軍港なら見学禁止は当然と納得するのですが、現地ガイドは猛烈に抗議して、政府に反感を持つジャスミン革命の余韻を感じました。
バスを降りた駐車場の脇に聳えるのは、サン・ルイ教会です。丘の上に礼拝堂が置かれたのは1840年で、現在の大聖堂は1890年にフランスによって建てられました。1270年に第8回十字軍遠征に参加し、チュニス包囲戦のただ中に没したフランス国王ルイ9世に捧げられたものです。ルイ9世は、死後にカトリック教会により列聖されました。内政、産業、芸術を発展させた敬虔なキリスト教の王でしたが、二度の十字軍に参加して捕虜になったり最後は死亡して、将軍としての戦略、戦術には欠けていたという評価です。パリの観光名所になっているステンド・グラスで有名なサント・シャペルはルイ9世の命によって建てられました。、

古代カルタゴの中心であった遺跡へ進みました。
カルタゴは、現在のレバノンの周辺を拠点に、地中海で海上貿易に従事していたフェニキア人によって建設されました。
伝説では、フェニキアの都ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーンから逃れてカルタゴを建設したとされます。岬に上陸したディードーは、1頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めました。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れました。そのため、この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになったといいます。

カルタゴというと、共和政ローマとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争であるポエニ戦争が思い浮かんできます。
紀元前264年から紀元前241年に起きた第一次ポエニ戦争は、シチリア島の支配を巡っての争いで、アエガテス諸島沖の海戦によってローマの勝利に終わりました。
紀元前219年から紀元前201年に行われた第二次ポエニ戦争では、ハンニバルの善戦によってローマに迫りましたが、スキピオ・アフリカヌスのスペインから北アフリカへの逆侵攻によってカルタゴの敗北に終わりました。
紀元前149年から紀元前146年に起きた第三次ポエニ戦争で、カルタゴは3年間の籠城戦の後に陥落し、住民のほとんどは殺されるか奴隷にされ、街は完全に破壊されました。土地を塩で埋め尽くして不毛の土地にしようとまでされたといいます。

丘の上に設けられたテラスに立つと、遺跡が広がっているのを見ることができました。
一旦は、破壊しつくされたカルタゴですが、紀元前29年に、ユリウス・カルタゴ植民市として再建されて、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、2世紀にはローマ、アレキサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市にまで発展しました。
しかし、7世紀のアラブの侵攻以降は、北アフリカの中心はカイラワーンに移されて再び廃墟に戻ってしまいました。

カルタゴの遺跡のほとんどはローマ人の物ですが、カルタゴ人の住居跡も見つかっているようです。見渡しても、どれとはいえませんが。

ただ、この廃墟を見ると、「国破れて」とカルタゴを忍ぶ気持ちが沸いてきます。


遺跡から見たサン・ルイ教会。

続いてカルタゴ博物館を見学する予定でしたが、門が閉まっていました。数日前に閉館になったということで、現地ガイドも知らなかったとのこと。

この博物館には、ローマのモザイクが収められているようなので、閉館は残念でした。

続いて、トフェ(タニト神の聖域)を訪れました。住宅地の中にありました。

トフェは、ローマ以前のカルタゴの面影を残す数少ない遺跡です。ポエミ時代には、墓場と火の神バール・ハモン神(フェニキアの古代宗教神)、天と豊穣の神タニト(カルタゴの守護神)が祀られた聖域でした。

狭い敷地内には、小さな墓石がずらりと並んでいます。この下には、幼児の骨が入った骨壺が見つかっています。

神像の前で、都市の繁栄や戦争の勝利のために、生贄のために幼児は火の中に投じられたといいます。この生贄は、高貴な身分のものほど良いとされました。ここでは、炭化した幼児の骨をいれた骨壺も見つかっているといいます。
ただ、幼児の死亡率が高かった古代で、死亡した幼児の遺体を火葬して供養し、神の元に送り返したという考えもあり、どちらが正しいのかは判らない状態になっています。
歴史は、勝者が敗者に対して都合の良いことを書き残すということを忘れてはなりません。

この丸と三角を組み合わせたものは、タニトの印と呼ばれます。

敷地の奥に洞窟があります。

アーチ状の天井を持つ洞窟は、幼児の墓地として使われていたようです。

墓石を見ていくと、他にもタニトの印を見つけることができました。

赤ん坊の像でしょうか。

これもタニトの印。

添乗員さんが、回してくれたカルタゴの街の復元図。
カルタゴでは、海に面して円形の水面を持つ軍港を整備しており、現在でもその跡を見ることができます。

住宅地の外れに島を浮かべた円形湖があり、これがカルタゴの軍港跡でした。

釣竿を垂らす釣り人や、湖岸の草むらで寝そべるネコがいたりしてのどかな風景でした。ただ、その奥は新しく設けられた現在の軍港になっており、警備の者に追い返されました。
我々は、軍港なら見学禁止は当然と納得するのですが、現地ガイドは猛烈に抗議して、政府に反感を持つジャスミン革命の余韻を感じました。