入口の博物館の見学を終えて遺跡内へと進みました。
広場には、屋根で保護しステラ(石碑)が並んでいます。
キリグア王国は、5世紀頃にコパン王国の衛星都市として発展しました。キリグア王カック・ティリウ・チャン・ヨアート(通称カワク空)は、その経緯は判っていませんが、738年にコパン王18ウサギを斬首してしまいました。この殺害によって、キリグアはコパンの支配から脱し、一挙にマヤ南東部の大国に躍り出ました。キリグアは、モタグア川流域に存在する翡翠・黒曜石・カカオの交易を独占して発展しました。
カワク空王は、724年の即位から 738年のコパンからの独立を経て、785年7月までの長きにわたりキリグア王として君臨しました。広場には石碑が9本あり、その内7本は、このカワク空王によって立てられたもので、コパンの様式の影響を大きく受けています。
石碑A。
775年に、カワク空によって建立され、高さは4mあります。彫られているのは、当然、カワク空王。
奉納の日付や、建立時のカワク空の年齢、コパンを倒して支配下に置いたことが記されています。
石碑C。
石碑Cは、 775年に奉納され、石碑Aと対をなして石碑Aと大きさやデザインがほぼ同じです。
この石碑には、13バクトゥンの長期歴が記されていて、マヤ歴の2012年世界終末説の発端になりました。
写真はその長期歴部を切り出したものです。
上段のバクトゥン(20カトゥン 20×200日で約400年)の桁には、棒2本と丸3つで13の数字が付けられています。その右隣り・カトゥン(20トゥン)、二段目左トゥン(18ウィナル)二段目右。ウィナル(20キン)、三段目左・キン(1日)、これらの桁はゼロのために棒やマルは付いていません。
マヤ文明における創世の日から数えて13バクトゥン経過する2012年12月23日に、長期歴が終わるとされ、このことから2012年世界終末予言が広まりました。マヤの神話では、現在の世界は第5の時代に当たっており、先行していた4つの世界はいずれも何らかの要因で滅んだとされているとも言われています。ただ、長期暦の現サイクルの始点である紀元前3114年には世界を見渡しても何らかの大規模な天災地変の痕跡を見出すことはできません。
2012年は計算間違いで、実は、人類滅亡は2020年という説も出ており、終末予言者は懲りないようです。。
石碑D。
カワク空によって766年に奉納された約6mの石碑です。
この石碑に刻まれた全身像の神聖文字は、マヤで最も洗練された文字と言われています。
獣形神B。
カワク空王が、780年に、最後に奉納した石像です。顔を出しているのは、カワク空王です。
一部赤色が残っていますが、建立当時には全体が赤く塗られていました。
広場の南側に並ぶのは、左が石碑F、中央が獣形神G、右が一番石碑Eです。
石碑F。
761年に建立され、高さ8.1mで、石碑Eが建立されるまでは一番高い石碑でした。
石碑E(北面)。
771年に建立され、地中に埋まった部分をふくめると10.7mの長さがあり、これはマヤ遺跡で最大の石碑になっています。石碑は5年ごとに立てられていましたが、これは重要な区切りであるカトゥン(20年)の記念として巨大な石碑になったようです。
石碑Eの南面。
獣形神G。
カワク空王の死後、後を継いだシュル・シエロ(空シュル)が先王に捧げたものです。
さらに南に進むと、3つの石碑が見えてきます。
なお、燃えカスの乗った円盤は、現代のマヤ人の礼拝儀式の跡です。
左奥が石碑K、手前中央が石碑I、右が石碑Jとなります,
石碑I。
5年毎の石像記念物は 780年の獣形神Bからそれまでの石碑から獣形神に変わって獣形神G、獣形神O、獣形神Pが造られましたが、ハーデ・シエロ(翡翠の空)の時代になって、再び石碑に戻って、800年には石碑Iが奉納されました。
石碑J。
カワク空王によって、756年に建立されたものです。カワク空王が 捕獲・斬首したコパン13代18ウサギ王を継いで14代王を名乗っている事が書かれているといいます。
石碑K。
805年にハーデ・シエロ(翡翠の空)王によって建立されました。
全部の石碑を撮影したつもりでしたが、カワク空王が751年に奉納した石碑Hが抜けていました。
ガイドの説明は、一部の石碑や獣形神のみであったので、最後の自由時間に残りを撮影して補完しています。
広場には、屋根で保護しステラ(石碑)が並んでいます。
キリグア王国は、5世紀頃にコパン王国の衛星都市として発展しました。キリグア王カック・ティリウ・チャン・ヨアート(通称カワク空)は、その経緯は判っていませんが、738年にコパン王18ウサギを斬首してしまいました。この殺害によって、キリグアはコパンの支配から脱し、一挙にマヤ南東部の大国に躍り出ました。キリグアは、モタグア川流域に存在する翡翠・黒曜石・カカオの交易を独占して発展しました。
カワク空王は、724年の即位から 738年のコパンからの独立を経て、785年7月までの長きにわたりキリグア王として君臨しました。広場には石碑が9本あり、その内7本は、このカワク空王によって立てられたもので、コパンの様式の影響を大きく受けています。
石碑A。
775年に、カワク空によって建立され、高さは4mあります。彫られているのは、当然、カワク空王。
奉納の日付や、建立時のカワク空の年齢、コパンを倒して支配下に置いたことが記されています。
石碑C。
石碑Cは、 775年に奉納され、石碑Aと対をなして石碑Aと大きさやデザインがほぼ同じです。
この石碑には、13バクトゥンの長期歴が記されていて、マヤ歴の2012年世界終末説の発端になりました。
写真はその長期歴部を切り出したものです。
上段のバクトゥン(20カトゥン 20×200日で約400年)の桁には、棒2本と丸3つで13の数字が付けられています。その右隣り・カトゥン(20トゥン)、二段目左トゥン(18ウィナル)二段目右。ウィナル(20キン)、三段目左・キン(1日)、これらの桁はゼロのために棒やマルは付いていません。
マヤ文明における創世の日から数えて13バクトゥン経過する2012年12月23日に、長期歴が終わるとされ、このことから2012年世界終末予言が広まりました。マヤの神話では、現在の世界は第5の時代に当たっており、先行していた4つの世界はいずれも何らかの要因で滅んだとされているとも言われています。ただ、長期暦の現サイクルの始点である紀元前3114年には世界を見渡しても何らかの大規模な天災地変の痕跡を見出すことはできません。
2012年は計算間違いで、実は、人類滅亡は2020年という説も出ており、終末予言者は懲りないようです。。
石碑D。
カワク空によって766年に奉納された約6mの石碑です。
この石碑に刻まれた全身像の神聖文字は、マヤで最も洗練された文字と言われています。
獣形神B。
カワク空王が、780年に、最後に奉納した石像です。顔を出しているのは、カワク空王です。
一部赤色が残っていますが、建立当時には全体が赤く塗られていました。
広場の南側に並ぶのは、左が石碑F、中央が獣形神G、右が一番石碑Eです。
石碑F。
761年に建立され、高さ8.1mで、石碑Eが建立されるまでは一番高い石碑でした。
石碑E(北面)。
771年に建立され、地中に埋まった部分をふくめると10.7mの長さがあり、これはマヤ遺跡で最大の石碑になっています。石碑は5年ごとに立てられていましたが、これは重要な区切りであるカトゥン(20年)の記念として巨大な石碑になったようです。
石碑Eの南面。
獣形神G。
カワク空王の死後、後を継いだシュル・シエロ(空シュル)が先王に捧げたものです。
さらに南に進むと、3つの石碑が見えてきます。
なお、燃えカスの乗った円盤は、現代のマヤ人の礼拝儀式の跡です。
左奥が石碑K、手前中央が石碑I、右が石碑Jとなります,
石碑I。
5年毎の石像記念物は 780年の獣形神Bからそれまでの石碑から獣形神に変わって獣形神G、獣形神O、獣形神Pが造られましたが、ハーデ・シエロ(翡翠の空)の時代になって、再び石碑に戻って、800年には石碑Iが奉納されました。
石碑J。
カワク空王によって、756年に建立されたものです。カワク空王が 捕獲・斬首したコパン13代18ウサギ王を継いで14代王を名乗っている事が書かれているといいます。
石碑K。
805年にハーデ・シエロ(翡翠の空)王によって建立されました。
全部の石碑を撮影したつもりでしたが、カワク空王が751年に奉納した石碑Hが抜けていました。
ガイドの説明は、一部の石碑や獣形神のみであったので、最後の自由時間に残りを撮影して補完しています。