カパー遺跡に続いて、ウシュマル遺跡にやってきました。
ウシュマル遺跡は、メリダから南へ80kmほどの距離にあり、チチェン・イツァーと並び称されるマヤ文明を代表する遺跡です。ウシュマル遺跡は、古典期終末期から後古典期前期、およそ 800年から1100年にかけて、プーク地域(プウクは、マヤ語で、ユカタン半島中央部の丘陵地帯のこと)の中心都市として繁栄しました。プウク様式の壮麗な建築装飾を持つことから多くの観光客が訪れています。
東側の入口から入場すると、まず魔法使いのピラミッドが姿を現しました。これは裏側になります。
側面を回り込んでいきます。ピラミッドの角は丸みを帯びた独特の形をしています。
魔法使いのピラミッドは、最上部に神殿を載せており、基部にも神殿が設けられています。
魔法使いのピラミッドと呼ばれるのは、伝説に基づいています。流布している伝説には細部のバリエーションがありますが、19世紀前半にマヤ地域を旅したアメリカの外交官ジョン・ロイド・スティーブンズの著わした「中米・チアパス・ユカタンの旅 マヤ遺跡探索行」によれば、次のような内容のようです。
ひとりの老婆が総督の家の前でおだやかに暮らしていたが、子供がいないのが悲しみの種であった。ある日、一つの卵を温めていると、そこから小人が生まれた。老女は、その小人を息子として育てた。
小人が成長すると、老女は彼を王にしようと画策し、ウシュマルの王に勝負を挑ませた。王は次から次に難問を出すが、老女のアドヴァイスによって小人はすべてクリアしてしまう。すると王は、「ひと晩でウシュマルのどの建物よりも大きいものを造ってみよ。できなければ殺す。」と命じた。小人が老女に泣きつくと、「安心してぐっすりと眠りなさい」とただ一言。
翌朝になると、巨大なピラミッドが一夜にしてできあがっていた。
巨大なピラミッドを見て青ざめた王は、今度は、重い木を互いの頭に打ちつけて割るという石頭対決を申し出た。小人は、老女が小人のためにトルティージャ(スペイン風のオムレツ)の帽子を作ってやったため、どんなに打たれても無事であった。一方、王は頭が割れて死んでしまった。小人は、はれてウシュマルの王になった。
「魔法使いのピラミッド」は、「小人のピラミッド」とも呼ばれています。
マヤ伝説に一般に見られるような訳の分からない話ですが、一晩で造られたという超常的な力をこの魔法使いのピラミッドは感じさせます。
高さ35mの五層のピラミッドで、、一層目は20mと一番大きくなっています。上層の神殿に向かって階段が延びていますが、現在は立ち入り禁止になっています。正直、急すぎる階段なので、登れなくてほっとしたところもあります。
階段下に置かれた男根のシンボル。キリスト教の教えに反して卑猥ということで、スペイン人によって壊されて、本来の形は失われています。
ピラミッド上部の神殿には、雨の神チャーク像が飾られています。
また、階段の脇にもチャーク像が連続して飾られています。
ピラミッド下の神殿は、小鳥の矩形と呼ばれています。
小鳥の矩形の西側のマヤアーチの通路を通って尼僧院に向かいますが、魔法使いのピラミッドを振り返りました。
細かい装飾が施された尼僧院の脇の壁が見えてきました。
ここのチャーク像の鼻は、上を向いていました。
上向きは雨乞い、下向きは雨に感謝という意味を持つといいます。
マヤアーチを通って尼僧院の中庭に入りました。
尼僧院の北側の建物。一階部分に小神殿がありその中央に階段が設けてあります。
東の建物。
東の建物には、細かい装飾が施されています。
中央には、チャーク像。
8匹の双頭の蛇が台形を形作った装飾。
台形の上部の中央に飾られているのは、羽飾りをつけたマヤの神あるいはミミズクと言われて、確定はしていないようです。
西の建物。
チャーク像の脇にガラガラ蛇の胴体が飾られています。
マヤ民家の上にチャークが載った彫刻が施されています。
北の建物の階段下に置かれた石碑。
マヤ文字が彫り込まれていますが、かなり摩耗しています。
入場してきたマヤアーチのある南側の建物。
南の建物の小部屋の入口の上には、マヤ民家の上にチャークが載った彫刻が施されています。
北側の建物の上から見た東の建物。奥に見えるのは魔法使いのピラミッド。
北側の建物のテラスから眺めを楽しみました。
東に回り込むと、魔法使いのピラミッドが再び姿を現しました。
北側の建物のテラスから南を眺めると、大ピラミッドと提督の館が見えていました。
尼僧院で見られる細かい彫刻が、鉄器を使わずに造られたことを思い出すと、驚かずにはいられません。
続いて大ピラミッドに向かいました。
ウシュマル遺跡は、メリダから南へ80kmほどの距離にあり、チチェン・イツァーと並び称されるマヤ文明を代表する遺跡です。ウシュマル遺跡は、古典期終末期から後古典期前期、およそ 800年から1100年にかけて、プーク地域(プウクは、マヤ語で、ユカタン半島中央部の丘陵地帯のこと)の中心都市として繁栄しました。プウク様式の壮麗な建築装飾を持つことから多くの観光客が訪れています。
東側の入口から入場すると、まず魔法使いのピラミッドが姿を現しました。これは裏側になります。
側面を回り込んでいきます。ピラミッドの角は丸みを帯びた独特の形をしています。
魔法使いのピラミッドは、最上部に神殿を載せており、基部にも神殿が設けられています。
魔法使いのピラミッドと呼ばれるのは、伝説に基づいています。流布している伝説には細部のバリエーションがありますが、19世紀前半にマヤ地域を旅したアメリカの外交官ジョン・ロイド・スティーブンズの著わした「中米・チアパス・ユカタンの旅 マヤ遺跡探索行」によれば、次のような内容のようです。
ひとりの老婆が総督の家の前でおだやかに暮らしていたが、子供がいないのが悲しみの種であった。ある日、一つの卵を温めていると、そこから小人が生まれた。老女は、その小人を息子として育てた。
小人が成長すると、老女は彼を王にしようと画策し、ウシュマルの王に勝負を挑ませた。王は次から次に難問を出すが、老女のアドヴァイスによって小人はすべてクリアしてしまう。すると王は、「ひと晩でウシュマルのどの建物よりも大きいものを造ってみよ。できなければ殺す。」と命じた。小人が老女に泣きつくと、「安心してぐっすりと眠りなさい」とただ一言。
翌朝になると、巨大なピラミッドが一夜にしてできあがっていた。
巨大なピラミッドを見て青ざめた王は、今度は、重い木を互いの頭に打ちつけて割るという石頭対決を申し出た。小人は、老女が小人のためにトルティージャ(スペイン風のオムレツ)の帽子を作ってやったため、どんなに打たれても無事であった。一方、王は頭が割れて死んでしまった。小人は、はれてウシュマルの王になった。
「魔法使いのピラミッド」は、「小人のピラミッド」とも呼ばれています。
マヤ伝説に一般に見られるような訳の分からない話ですが、一晩で造られたという超常的な力をこの魔法使いのピラミッドは感じさせます。
高さ35mの五層のピラミッドで、、一層目は20mと一番大きくなっています。上層の神殿に向かって階段が延びていますが、現在は立ち入り禁止になっています。正直、急すぎる階段なので、登れなくてほっとしたところもあります。
階段下に置かれた男根のシンボル。キリスト教の教えに反して卑猥ということで、スペイン人によって壊されて、本来の形は失われています。
ピラミッド上部の神殿には、雨の神チャーク像が飾られています。
また、階段の脇にもチャーク像が連続して飾られています。
ピラミッド下の神殿は、小鳥の矩形と呼ばれています。
小鳥の矩形の西側のマヤアーチの通路を通って尼僧院に向かいますが、魔法使いのピラミッドを振り返りました。
細かい装飾が施された尼僧院の脇の壁が見えてきました。
ここのチャーク像の鼻は、上を向いていました。
上向きは雨乞い、下向きは雨に感謝という意味を持つといいます。
マヤアーチを通って尼僧院の中庭に入りました。
尼僧院の北側の建物。一階部分に小神殿がありその中央に階段が設けてあります。
東の建物。
東の建物には、細かい装飾が施されています。
中央には、チャーク像。
8匹の双頭の蛇が台形を形作った装飾。
台形の上部の中央に飾られているのは、羽飾りをつけたマヤの神あるいはミミズクと言われて、確定はしていないようです。
西の建物。
チャーク像の脇にガラガラ蛇の胴体が飾られています。
マヤ民家の上にチャークが載った彫刻が施されています。
北の建物の階段下に置かれた石碑。
マヤ文字が彫り込まれていますが、かなり摩耗しています。
入場してきたマヤアーチのある南側の建物。
南の建物の小部屋の入口の上には、マヤ民家の上にチャークが載った彫刻が施されています。
北側の建物の上から見た東の建物。奥に見えるのは魔法使いのピラミッド。
北側の建物のテラスから眺めを楽しみました。
東に回り込むと、魔法使いのピラミッドが再び姿を現しました。
北側の建物のテラスから南を眺めると、大ピラミッドと提督の館が見えていました。
尼僧院で見られる細かい彫刻が、鉄器を使わずに造られたことを思い出すと、驚かずにはいられません。
続いて大ピラミッドに向かいました。