二日目、まずグダンスク旧市街地に向かいました。
郊外では、ショッピングセンターが建設されていました。この後回ったポーランドの各地でも、新しいショッピングセンターができていました。ポーランドは、ユーロはまだ導入していませんが、欧州連合に加盟しており経済活動も活発になっているようです。
写真にうまく写っていませんが、グダンスクの港のクレーンが見えていました。
バルト海に面したグダンスクは、ポーランドの歴史の幾つもの場面で、重要な舞台になってきました。
グダンスクは、モンゴルのヨーロッパ侵攻に対抗するために招聘されたドイツ騎士団の支配下になると、ドイツからの移民が増加し、急成長して1361年にはハンザ同盟の正式な貿易加盟都市となりました。グダンスクは、1440年にドイツ騎士団の利権の排除を目指してポーランド王国と同盟して13年戦争を起こし、その勝利によってポーランド王国の直接の庇護を得て、16世紀と17世紀に黄金期を迎えました。
グダンスク観光では、このハンザ同盟都市としての名残りを見学することになります。
18世紀、度重なる戦争によってグダンスクの経済は徐々に衰退していき、1793年の第2次ポーランド分割により、グダンスクはプロイセン王国に併合され、公式名称も「ダンツィヒ」に変更されてしまいました。ナポレオン戦争の期間は、自治都市としての地位を回復しましたが、ナポレオン戦争が終結すると、ダンツィヒは再びプロイセン王国の支配下に置かれ、西プロイセンのダンツィヒ地方の行政中心地とされました。
第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約によりポーランド第二共和国が復活しましたが、プロイセンを分断して、ポーランドの海への出口となる「ポーランド回廊」が設定されました。その中心地のダンツィヒは、ドイツ人が大多数を占める街だったため、ドイツでもポーランドでもない国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となりました。しかしダンツィヒとポーランドの対立が深まると、ポーランド政府はポーランド回廊の海岸部にあるグディニャに新しい近代的な港湾を建設して100%ポーランドが管理できる港を作り上げて、ダンツィヒと激しく競合するようになりました。これによってダンツィヒの経済は停滞し、ダンツィヒのドイツ系住民の民族主義を強めることになりました。この結果、市の議会では1933年にナチスが第一党となり、ダンツィヒ港にはドイツ本土から大量の武器弾薬が次々と送り込まれて、対ポーランド戦争が準備されました。1939年に、港内に停泊していたドイツ海軍の軍艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインが砲撃を開始し、これによって第二次大戦が始まりました。この大戦の結果、ダンツィヒは、ドイツ軍と連合国軍との激しい戦闘により大半が破壊されてしまいました。
1952年にポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒはもとの「グダンスク」を公式名称として、159年ぶりにポーランド領に復帰しました。戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料をもとにポーランド人の手によって完全に復元されました。
1970年代のオイルショックによって経済が低迷すると、ソビエト連邦の経済体制に対する不信から民主化運動と労働運動が始まるようになりました。1980年代初め、ポーランドを民主化に導く「連帯」の指導によるグダニスク造船所労働者のストライキが行われ、こうした運動によって1989年に非共産主義政府のポーランド共和国が誕生し、1990年には「連帯」指導者だったレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)がポーランド大統領になりました。
今回のツアーでは、「第二次大戦勃発の地の碑」や「連帯記念碑」を見ることはできなかったのですが、ツアーではあまり訪れることのないグダンスクを見学できたのは良かったと思っています。
旧市街の西の入口にやってきました。ヴァウイ・ヤギュロニスキ通りに面して立つのは、「高い門」です。奥には「囚人塔」が見えています。
「高い門」は、1588年完成のグダンスク旧市街の表玄関です。かつては、はね橋になっていたといいます。
現在では観光案内所になっているようです。
門の上には、ドイツ騎士団、ポーランド王国、グダンスク市の紋章が飾られていました。
「高い門」の市内側。
「高い門」の奥にあるのは、「囚人塔」です。
「囚人塔」は、街の防御のために14世紀に建てられ、その後約300年にわたって囚人の監禁や拷問に使われました。現在は琥珀博物館になっています。
壁に開いた細い隙間は、監獄の窓でしょうか。
「囚人塔」の周りは広場になっており、北側に大武器庫が見えていました。残念ながら見えているのは側面で、正面からは見ませんでした。ルネサンス風の豪華な建物で、この屋根をグダンスクの家々がまねをしたといいます。
「囚人塔」に続いて、「黄金の門」が現れます。
門の上には、グダンスク市の紋章が飾られていました。
「黄金の門」をくぐると、旧市街随一の繁華街であるドゥーガ通りが始まります。
ドゥーガ通りの奥には、市庁舎の塔が見えていました。
見学の順路であるので仕方がないのですが、東に向かって進むので、逆光になって写真撮影が難しい状態になっていました。
ドゥーガ通りには大勢の観光客で賑わっていました。
ドゥーガ通りは、かつてポーランド王が通ったことから「王の道」とも呼ばれています。
ドゥーガ通りから、「黄金の門」を振り返ったもの。
ドゥーガ通りの両側には、かつて有力商人や貴族の邸宅であった瀟洒な建物が並んでいます。
これらの建物は、オランダ人建築家によって建てられ、オランダ・ルネッサンス様式になっています。
どのような富豪が住んでいたのかと思わせる美しい門です。
ヨーロッパ各国で見られることですが、ポーランドでは、歴史的建物に門の左に見られる青のマークを取り付けているようです。
家々の装飾を眺めながら歩くことになりました。
壁一面に絵が描かれていました。
「黄金の門」を振り返りながらドゥーガ通りを進んで行きます。
市庁舎の塔が近づいてきました。
塔の下のドゥーガ通り沿いにはテラスが設けられていました。
テラスにはグダンスク市の紋章が飾られていました。
郊外では、ショッピングセンターが建設されていました。この後回ったポーランドの各地でも、新しいショッピングセンターができていました。ポーランドは、ユーロはまだ導入していませんが、欧州連合に加盟しており経済活動も活発になっているようです。
写真にうまく写っていませんが、グダンスクの港のクレーンが見えていました。
バルト海に面したグダンスクは、ポーランドの歴史の幾つもの場面で、重要な舞台になってきました。
グダンスクは、モンゴルのヨーロッパ侵攻に対抗するために招聘されたドイツ騎士団の支配下になると、ドイツからの移民が増加し、急成長して1361年にはハンザ同盟の正式な貿易加盟都市となりました。グダンスクは、1440年にドイツ騎士団の利権の排除を目指してポーランド王国と同盟して13年戦争を起こし、その勝利によってポーランド王国の直接の庇護を得て、16世紀と17世紀に黄金期を迎えました。
グダンスク観光では、このハンザ同盟都市としての名残りを見学することになります。
18世紀、度重なる戦争によってグダンスクの経済は徐々に衰退していき、1793年の第2次ポーランド分割により、グダンスクはプロイセン王国に併合され、公式名称も「ダンツィヒ」に変更されてしまいました。ナポレオン戦争の期間は、自治都市としての地位を回復しましたが、ナポレオン戦争が終結すると、ダンツィヒは再びプロイセン王国の支配下に置かれ、西プロイセンのダンツィヒ地方の行政中心地とされました。
第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約によりポーランド第二共和国が復活しましたが、プロイセンを分断して、ポーランドの海への出口となる「ポーランド回廊」が設定されました。その中心地のダンツィヒは、ドイツ人が大多数を占める街だったため、ドイツでもポーランドでもない国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となりました。しかしダンツィヒとポーランドの対立が深まると、ポーランド政府はポーランド回廊の海岸部にあるグディニャに新しい近代的な港湾を建設して100%ポーランドが管理できる港を作り上げて、ダンツィヒと激しく競合するようになりました。これによってダンツィヒの経済は停滞し、ダンツィヒのドイツ系住民の民族主義を強めることになりました。この結果、市の議会では1933年にナチスが第一党となり、ダンツィヒ港にはドイツ本土から大量の武器弾薬が次々と送り込まれて、対ポーランド戦争が準備されました。1939年に、港内に停泊していたドイツ海軍の軍艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインが砲撃を開始し、これによって第二次大戦が始まりました。この大戦の結果、ダンツィヒは、ドイツ軍と連合国軍との激しい戦闘により大半が破壊されてしまいました。
1952年にポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒはもとの「グダンスク」を公式名称として、159年ぶりにポーランド領に復帰しました。戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料をもとにポーランド人の手によって完全に復元されました。
1970年代のオイルショックによって経済が低迷すると、ソビエト連邦の経済体制に対する不信から民主化運動と労働運動が始まるようになりました。1980年代初め、ポーランドを民主化に導く「連帯」の指導によるグダニスク造船所労働者のストライキが行われ、こうした運動によって1989年に非共産主義政府のポーランド共和国が誕生し、1990年には「連帯」指導者だったレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)がポーランド大統領になりました。
今回のツアーでは、「第二次大戦勃発の地の碑」や「連帯記念碑」を見ることはできなかったのですが、ツアーではあまり訪れることのないグダンスクを見学できたのは良かったと思っています。
旧市街の西の入口にやってきました。ヴァウイ・ヤギュロニスキ通りに面して立つのは、「高い門」です。奥には「囚人塔」が見えています。
「高い門」は、1588年完成のグダンスク旧市街の表玄関です。かつては、はね橋になっていたといいます。
現在では観光案内所になっているようです。
門の上には、ドイツ騎士団、ポーランド王国、グダンスク市の紋章が飾られていました。
「高い門」の市内側。
「高い門」の奥にあるのは、「囚人塔」です。
「囚人塔」は、街の防御のために14世紀に建てられ、その後約300年にわたって囚人の監禁や拷問に使われました。現在は琥珀博物館になっています。
壁に開いた細い隙間は、監獄の窓でしょうか。
「囚人塔」の周りは広場になっており、北側に大武器庫が見えていました。残念ながら見えているのは側面で、正面からは見ませんでした。ルネサンス風の豪華な建物で、この屋根をグダンスクの家々がまねをしたといいます。
「囚人塔」に続いて、「黄金の門」が現れます。
門の上には、グダンスク市の紋章が飾られていました。
「黄金の門」をくぐると、旧市街随一の繁華街であるドゥーガ通りが始まります。
ドゥーガ通りの奥には、市庁舎の塔が見えていました。
見学の順路であるので仕方がないのですが、東に向かって進むので、逆光になって写真撮影が難しい状態になっていました。
ドゥーガ通りには大勢の観光客で賑わっていました。
ドゥーガ通りは、かつてポーランド王が通ったことから「王の道」とも呼ばれています。
ドゥーガ通りから、「黄金の門」を振り返ったもの。
ドゥーガ通りの両側には、かつて有力商人や貴族の邸宅であった瀟洒な建物が並んでいます。
これらの建物は、オランダ人建築家によって建てられ、オランダ・ルネッサンス様式になっています。
どのような富豪が住んでいたのかと思わせる美しい門です。
ヨーロッパ各国で見られることですが、ポーランドでは、歴史的建物に門の左に見られる青のマークを取り付けているようです。
家々の装飾を眺めながら歩くことになりました。
壁一面に絵が描かれていました。
「黄金の門」を振り返りながらドゥーガ通りを進んで行きます。
市庁舎の塔が近づいてきました。
塔の下のドゥーガ通り沿いにはテラスが設けられていました。
テラスにはグダンスク市の紋章が飾られていました。