エディンバラ城の入口のエスプラナード広場からは、東に向かってロイヤル・マイルが延びており、その突き当りにホリールード宮殿があります。ロイヤル・マイルは、観光客が必ず歩かなければならない通りです。
ロイヤル・マイルは、19世紀に新市街地ができるまでエディンバラの中心地となっていました。通り沿いには歴史を感じさせる建物が並んでいます。
セント・ジャイルズ大聖堂。ゴシック様式の建物で、エディンバラ一の格式を持つ教会。16世紀の宗教改革時代に代表的なカルビン主義者のジョン・ノックスがここで説教を行っています。
石畳の坂道を緩やかに下っていきます。
歴史を感じさせる時計。
ホリールード宮殿の入口に到着しました。
やけに静かだと思ったら閉館中でした。エリザベス2世や王室メンバーが滞在する際には見学できません。
柵の隙間から中をのぞきました。
ホリールード宮殿は、1128年にデイヴィッド1世によって建てられた寺院が前身です。15世紀から、スコットランド国王夫妻の住居として使われてきて、現在、宮殿はエリザベス2世の夏季の滞在地として使用されています。
結局、二回目の訪問の際に入場できました。
ホリールード宮殿は、スコットランド女王メアリー・スチュワートの住んだ王宮として知られています。メアリー女王の寝室が見どころになっているので、ここを見学するには、メアリー・スチュワートの生涯をおさらいしておく必要があります。
メアリーは、1542年に、スコットランド王ジェームズ5世の第3子として生まれましたが、長男と次男が早世していたため、生後6日で王位を継承しました。イングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6世と婚約することになりますが、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受けて、1548年にフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられました。
1558年、メアリーがアンリ2世の王太子フランソワと結婚式を挙げると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議ししました。アンリ2世が亡くなると、王太子がフランソワ2世として即位してメアリーはフランス王妃となりました。
1560年にフランソワ2世が16歳で病死すると、子供ができなかったメアリーは、翌年にスコットランドに帰国しました。若い未亡人のスコットランド女王をめぐって、全ヨーロッパの
王家は激烈な争奪戦を展開しましたが、メアリーは自分の意思で4才年下のダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと結婚してしまいます。しかし、1年もたたないうちに2人の関係は冷え切ってしまい、あせったダーンリーは嫉妬から女王に反感を持つ貴族と共謀して、メアリーの秘書で音楽家のダヴィッド・リッチオを妊娠6ケ月のメアリーの面前で殺してしまいました。この悲劇の舞台になったのは、ホリールード宮殿内で現在も見学できるメアリーの寝室です。
長男ジェームスを出産したメアリーは、寵臣で精力的な軍人ボスウェル伯とダーンリーへの対策を練りました。女王はボスウェル伯を重用するうちに激しい恋に落ちていきましたが、双方とも結婚相手がいます。1567年、ダーンリーがエディンバラの屋敷に戻ったところ、夜中に爆発が起きて屋敷は影も形もなく吹き飛ばさ、ダーンリーは死亡しました。メアリーは、夫殺しの深い疑惑が生じたのにもかかわらず、事件の3ヶ月後ボスウェル伯と結婚し、これは大スキャンダルに発展しました。貴族たちが反乱を起こしてしまい、メアリーは強要されてやむなく廃位と息子ジェームスへの王位継承に同意しました。メアリーは復位を目指しますが敗れて、やむなくイングランドへ逃れました。
エリザベスは、イングランドの王位をめぐって宿敵の立場にありましたが、従妹という関係でメアリを迎え入れました。しかし、政治的に危険な存在のメアリーを18年の間、各地の城で軟禁状態にし続けました。メアリーはなんとしても自由と権力を取り戻そうと計画し続けましたが、エリザベス暗殺未遂という謀略に追い込まれて死刑を宣告され、1567年7月に処刑されてしまいました。
1603年エリザベスの死とともにエリザベスの遺言によってメアリーの息子ジェームス6世がジェームス1世として王位を継ぎ、イングランドとスコットランドを一つに結び、連合王国が出現しました。
現在のイングランドとスコットランドの対立も、根の深いものがあります。
ロイヤル・マイルとは別の道を通って戻りましたが、趣のある建物が並んでいます。
グレーフライヤーズ・ボビー・パブの前に出ました。
パブの前にあるのは、グレーフライアーズ・ボビーの像です。
スカイ・テリアのボビーは、主人であるエディンバラ市警のジョン・グレイが1858年に死去した後、14年間その墓の隣に座っていたことから忠犬として知られています。墓地に近いこの場所に銅像が立てられました。忠犬ハチ公のスコットランド版です。
エディンバラ城が再び見えてきました。
エディンバラ城は、街を見下ろすように威容を誇っています。
エディンバラ城は、方向を変えて見たくなります。
バグパイプ吹きがいました。キルトが似合っています。
プリンシーズガーデンの花時計。世界で最古の動く花時計とのこと。
プリンシーズガーデンには芝生が広がって、市民の憩いの場になっています。
プリンシーズガーデンから見る噴水とエディンバラ城の組み合わせの眺めは、定番になっています。
セント ・ ジョンズ ・ エピスコパル教会。
旧市街に戻って歩いていると、パレードに行きあたりました。
エディンバラでは、一年を通して、いろいろな行事が行われるようです。
エディンバラの街はそれほど広くはないので、いろいろな小路や店をのぞきながらの歩きを楽しむことができます。
ロイヤル・マイルは、19世紀に新市街地ができるまでエディンバラの中心地となっていました。通り沿いには歴史を感じさせる建物が並んでいます。
セント・ジャイルズ大聖堂。ゴシック様式の建物で、エディンバラ一の格式を持つ教会。16世紀の宗教改革時代に代表的なカルビン主義者のジョン・ノックスがここで説教を行っています。
石畳の坂道を緩やかに下っていきます。
歴史を感じさせる時計。
ホリールード宮殿の入口に到着しました。
やけに静かだと思ったら閉館中でした。エリザベス2世や王室メンバーが滞在する際には見学できません。
柵の隙間から中をのぞきました。
ホリールード宮殿は、1128年にデイヴィッド1世によって建てられた寺院が前身です。15世紀から、スコットランド国王夫妻の住居として使われてきて、現在、宮殿はエリザベス2世の夏季の滞在地として使用されています。
結局、二回目の訪問の際に入場できました。
ホリールード宮殿は、スコットランド女王メアリー・スチュワートの住んだ王宮として知られています。メアリー女王の寝室が見どころになっているので、ここを見学するには、メアリー・スチュワートの生涯をおさらいしておく必要があります。
メアリーは、1542年に、スコットランド王ジェームズ5世の第3子として生まれましたが、長男と次男が早世していたため、生後6日で王位を継承しました。イングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6世と婚約することになりますが、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受けて、1548年にフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられました。
1558年、メアリーがアンリ2世の王太子フランソワと結婚式を挙げると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者である」と抗議ししました。アンリ2世が亡くなると、王太子がフランソワ2世として即位してメアリーはフランス王妃となりました。
1560年にフランソワ2世が16歳で病死すると、子供ができなかったメアリーは、翌年にスコットランドに帰国しました。若い未亡人のスコットランド女王をめぐって、全ヨーロッパの
王家は激烈な争奪戦を展開しましたが、メアリーは自分の意思で4才年下のダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと結婚してしまいます。しかし、1年もたたないうちに2人の関係は冷え切ってしまい、あせったダーンリーは嫉妬から女王に反感を持つ貴族と共謀して、メアリーの秘書で音楽家のダヴィッド・リッチオを妊娠6ケ月のメアリーの面前で殺してしまいました。この悲劇の舞台になったのは、ホリールード宮殿内で現在も見学できるメアリーの寝室です。
長男ジェームスを出産したメアリーは、寵臣で精力的な軍人ボスウェル伯とダーンリーへの対策を練りました。女王はボスウェル伯を重用するうちに激しい恋に落ちていきましたが、双方とも結婚相手がいます。1567年、ダーンリーがエディンバラの屋敷に戻ったところ、夜中に爆発が起きて屋敷は影も形もなく吹き飛ばさ、ダーンリーは死亡しました。メアリーは、夫殺しの深い疑惑が生じたのにもかかわらず、事件の3ヶ月後ボスウェル伯と結婚し、これは大スキャンダルに発展しました。貴族たちが反乱を起こしてしまい、メアリーは強要されてやむなく廃位と息子ジェームスへの王位継承に同意しました。メアリーは復位を目指しますが敗れて、やむなくイングランドへ逃れました。
エリザベスは、イングランドの王位をめぐって宿敵の立場にありましたが、従妹という関係でメアリを迎え入れました。しかし、政治的に危険な存在のメアリーを18年の間、各地の城で軟禁状態にし続けました。メアリーはなんとしても自由と権力を取り戻そうと計画し続けましたが、エリザベス暗殺未遂という謀略に追い込まれて死刑を宣告され、1567年7月に処刑されてしまいました。
1603年エリザベスの死とともにエリザベスの遺言によってメアリーの息子ジェームス6世がジェームス1世として王位を継ぎ、イングランドとスコットランドを一つに結び、連合王国が出現しました。
現在のイングランドとスコットランドの対立も、根の深いものがあります。
ロイヤル・マイルとは別の道を通って戻りましたが、趣のある建物が並んでいます。
グレーフライヤーズ・ボビー・パブの前に出ました。
パブの前にあるのは、グレーフライアーズ・ボビーの像です。
スカイ・テリアのボビーは、主人であるエディンバラ市警のジョン・グレイが1858年に死去した後、14年間その墓の隣に座っていたことから忠犬として知られています。墓地に近いこの場所に銅像が立てられました。忠犬ハチ公のスコットランド版です。
エディンバラ城が再び見えてきました。
エディンバラ城は、街を見下ろすように威容を誇っています。
エディンバラ城は、方向を変えて見たくなります。
バグパイプ吹きがいました。キルトが似合っています。
プリンシーズガーデンの花時計。世界で最古の動く花時計とのこと。
プリンシーズガーデンには芝生が広がって、市民の憩いの場になっています。
プリンシーズガーデンから見る噴水とエディンバラ城の組み合わせの眺めは、定番になっています。
セント ・ ジョンズ ・ エピスコパル教会。
旧市街に戻って歩いていると、パレードに行きあたりました。
エディンバラでは、一年を通して、いろいろな行事が行われるようです。
エディンバラの街はそれほど広くはないので、いろいろな小路や店をのぞきながらの歩きを楽しむことができます。