武侯祠の後は、隣接する錦里(きんり)の見学を行いました。
錦里は、明清時代の建物を修復あるいは再現して蜀漢時代の町並みを再現した通りです。
錦里の名は、漢代に錦産業が発達したことから成都が錦の古里と呼ばれたことに由来します。
時間は18時過ぎ。週末の金曜日の夜とあってすごい混みようでした。人の隙間ができたところで撮影しているので、実際は写真以上の込み具合です。
時間もおしており、30分だけの自由行動での見学です。
時計を見ながら先へ進んでいきました。
切り絵の店。戻りの途中に土産に買いました。川劇の面やパンダの作品が売られていました。
土産物を売る露店も出ていました。
劇の舞台が設けられていました。
張飛牛肉というのは、ビーフジャーキー風の干し肉のチェーン店のようです。
これは、張飛はもともと肉屋をしていたから、あるいは張飛が作り方を教えたという言い伝えによるといいます。
メーキャップをした店員がいました。張飛というには、はてなと思ってしまいます。
むしろ、水滸伝で魯達に殴り殺される肉屋の鄭の方があっているように思います。
肉製品は日本へ持ち込めないため、残念ながら張飛牛肉は買いませんでした。少し買って味見をしてみるべきでしたね。
射的場のようです。
なお、諸葛孔明は、連続発射ができるボウガンの「連弩」を発明したといいます。
レストランが並ぶようになりました。ここらへんで、店をのぞきながら引き返すことにしました。
楽器の店。
店先に、諸葛孔明に関係したゲームとやら書いてある看板が出ていました。
パズルのようです。
街に灯りがともるようになりました。
込み具合も少し和らいできたようです。
錦里は、時間も限られており、一部しかみることができなかったことは残念でした。
この後、近くのレストランで夕食をとりました。
オプショナルツアーとして川劇の観劇があったのですが、長時間の移動とあわただしい見学のために疲れて、これはに参加せずにホテルに戻ることにしました。
バス移動の途中、天府広場を通ると、毛沢東像が立っていました。中国では、成都とカシュガルにしかないといいますが、両方見たことになります。
成都の夜景見物ができました。
ホテル近くで、城壁を見ることができました。
成都は、三国志の時代には二重の城壁に囲まれており、清代には全長11kmに及ぶ一重の城壁が再建されていたといいます。しかし、1958年に毛沢東の「交通の障碍となる」との指摘を受けて撤去が進められ、現状では北部に約500mが残存するだけになっています。城門や城楼もあったようなので、せっかくの観光遺産が失われたことになります。
錦里は、明清時代の建物を修復あるいは再現して蜀漢時代の町並みを再現した通りです。
錦里の名は、漢代に錦産業が発達したことから成都が錦の古里と呼ばれたことに由来します。
時間は18時過ぎ。週末の金曜日の夜とあってすごい混みようでした。人の隙間ができたところで撮影しているので、実際は写真以上の込み具合です。
時間もおしており、30分だけの自由行動での見学です。
時計を見ながら先へ進んでいきました。
切り絵の店。戻りの途中に土産に買いました。川劇の面やパンダの作品が売られていました。
土産物を売る露店も出ていました。
劇の舞台が設けられていました。
張飛牛肉というのは、ビーフジャーキー風の干し肉のチェーン店のようです。
これは、張飛はもともと肉屋をしていたから、あるいは張飛が作り方を教えたという言い伝えによるといいます。
メーキャップをした店員がいました。張飛というには、はてなと思ってしまいます。
むしろ、水滸伝で魯達に殴り殺される肉屋の鄭の方があっているように思います。
肉製品は日本へ持ち込めないため、残念ながら張飛牛肉は買いませんでした。少し買って味見をしてみるべきでしたね。
射的場のようです。
なお、諸葛孔明は、連続発射ができるボウガンの「連弩」を発明したといいます。
レストランが並ぶようになりました。ここらへんで、店をのぞきながら引き返すことにしました。
楽器の店。
店先に、諸葛孔明に関係したゲームとやら書いてある看板が出ていました。
パズルのようです。
街に灯りがともるようになりました。
込み具合も少し和らいできたようです。
錦里は、時間も限られており、一部しかみることができなかったことは残念でした。
この後、近くのレストランで夕食をとりました。
オプショナルツアーとして川劇の観劇があったのですが、長時間の移動とあわただしい見学のために疲れて、これはに参加せずにホテルに戻ることにしました。
バス移動の途中、天府広場を通ると、毛沢東像が立っていました。中国では、成都とカシュガルにしかないといいますが、両方見たことになります。
成都の夜景見物ができました。
ホテル近くで、城壁を見ることができました。
成都は、三国志の時代には二重の城壁に囲まれており、清代には全長11kmに及ぶ一重の城壁が再建されていたといいます。しかし、1958年に毛沢東の「交通の障碍となる」との指摘を受けて撤去が進められ、現状では北部に約500mが残存するだけになっています。城門や城楼もあったようなので、せっかくの観光遺産が失われたことになります。