続いて、武侯祠で諸葛孔明にご対面。
門の柱には幾つかの分が書かれています。
三顧頻煩天下計 (三顧頻煩たり天下の計)
これは、杜甫の七言律詩「蜀相」の一説です。
丞相諸葛孔明の墓はどこにあるのだろうか、錦官城外に柏の木がこんもりと茂っているあの地だろうか、来て見れば階段に伸びている草は春の模様を呈し、葉陰の鶯は空しく鳴いている
三顧の礼を尽くして迎えられたのは天下のため、親子二代にわたって蜀の君主に仕えたのは老臣の忠誠心から、将軍の志を得ないままに死んだことは、英雄をしてとこしえに悲しませる
安禄山の変から逃げてきた杜甫は、成都におちつくと、さっそく葛孔明の遺構を訪ねて、その悲運をうたったといいます。
「武侯祠」と書かれた額は、郭沫若によって書かれたものです。
武侯祠の中央の額には、「名垂宇宙」と書かれています。
これも杜甫の七言絶句「詠懐其五」中の「諸葛大名垂宇宙(諸葛の大名宇宙に垂れ)」に基づくものです。
諸葛孔明の名は宇宙に垂れ、宗臣の遺像は肅として清高だ、三分割據の策を弄して、その姿は雲霄に鳳凰の羽を見るが如く崇高だ
伯仲の間に伊呂を見るようなその大志は、もし成功したならば蕭曹にも勝ったことだろう、だが運が移って天下を回復することはならず、志は高いながら身は軍務の労のために滅びてしまった
なお、この額は、清の康煕帝の子の愛新覚羅允礼によって書かれています。
諸葛孔明像
「頭に綸巾をかぶり道服をまとい、手には白羽扇(びゃくうせん)をくゆらせ」というのが馴染みの姿ですが、着ている服はちょっと違うかな。顔も稀代の軍師というには?
諸葛孔明の右手には、嫡男の諸葛瞻(せん)の像が置かれています。
諸葛瞻は、父が亡くなると武郷侯を継ぎ、皇帝劉禅の娘を娶り、軍師将軍について、諸葛孔明の信奉者からは実力以上の評判を受けるようになりました。しかし、国政を動かす地位になると姜維と対立するようになり、魏が攻めてきた際には、積極的に迎撃に出ようとはせず、綿竹に立てこもって防戦するも戦死しました。
左には、諸葛瞻の嫡男である諸葛尚。綿竹における戦いにて父の諸葛瞻とともに戦死。
なお、弟の諸葛京は、戦いの時は年少であったため生き延びて後に晋王朝に仕えています。現在も、蜀の諸葛氏の子孫を自称する家があり、これは諸葛京の血筋ということです。
武侯祠の脇の庭には鐘楼が置かれていました。
また鼓楼も置かれていました。
蓮池は、秋を迎えて枯れ葉が広がっていました。
武侯祠の奥には、劉備、関羽、張飛の3人を奉った三義廟があるのですが、中国人ガイドの判断なのか省略されてしまいました。時間が無いのは判りますが、足を停めての説明が長く、一通りでも見せてもらいたかったものです。
劉備の墓に向かいましたが、赤い土壁に囲まれた道が竹林の中に続いていました。
通常は混み合っているようですが、時間も遅いため、人のいない通路を楽しむことができました。
「恵陵」とも呼ばれる劉備の墓の入口。
額には「千秋凛然」と書かれ、これは威風堂々としており、いつまでも人々に偲ばれるという意味だといいます。
劉備の墓には、「漢昭烈皇帝之」と刻んであります。
劉備は、関羽を殺した孫権に対しての報復として親征を行いますが、陸遜の火計策に嵌り大敗しました。劉備は白帝城に逃げ込んで休戦を結んだ後そこに留まり、223年に白帝城にて病死しました。
恵陵は、円形の古墳状態で、その周囲に通路が設けられて一周することができます。
中央部は木の茂った塚になっています。
この劉備のお墓は、これまで盗掘されたことがなかったといいます。
伝説では、泥棒が盗掘に入ったところ、声がしたので近づくと、劉備と孔明が碁をさしており、しかも関羽と張飛が側に立って見ていた。驚いた二人が逃げようとすると酒をすすめられ、一気に飲んで逃げたところ大きな雷が鳴った。帰った二人は、病気になり死んでしまったという。
なお、曹操の墓が2009年に発見されたというニュースが流れましたが、真偽論争が続いているようです。
墓の入口の前庭には、馬とおそらく麒麟の像が置かれていました。明の十三廟の入口の神道にも同じような像が置かれているので、明の時代あるいはそれをまねた近代製作の像のように思います。
文官と思われる像。
入口には、宋の時代に造られた斧を持った武士のレリーフが置かれていました。
劉備の入口の壁。
龍の紋が描かれていました。
博物館のようですが、すでに閉まっていました。
他にも見どころはあるようですが、時間がないので見学も終わりになって、錦里に向かました。
武侯祠は、三国志ファンには聖地のひとつですね。工事中や時間切れによって見ていないところも多いので、いつか再訪する必要があります。
門の柱には幾つかの分が書かれています。
三顧頻煩天下計 (三顧頻煩たり天下の計)
これは、杜甫の七言律詩「蜀相」の一説です。
丞相諸葛孔明の墓はどこにあるのだろうか、錦官城外に柏の木がこんもりと茂っているあの地だろうか、来て見れば階段に伸びている草は春の模様を呈し、葉陰の鶯は空しく鳴いている
三顧の礼を尽くして迎えられたのは天下のため、親子二代にわたって蜀の君主に仕えたのは老臣の忠誠心から、将軍の志を得ないままに死んだことは、英雄をしてとこしえに悲しませる
安禄山の変から逃げてきた杜甫は、成都におちつくと、さっそく葛孔明の遺構を訪ねて、その悲運をうたったといいます。
「武侯祠」と書かれた額は、郭沫若によって書かれたものです。
武侯祠の中央の額には、「名垂宇宙」と書かれています。
これも杜甫の七言絶句「詠懐其五」中の「諸葛大名垂宇宙(諸葛の大名宇宙に垂れ)」に基づくものです。
諸葛孔明の名は宇宙に垂れ、宗臣の遺像は肅として清高だ、三分割據の策を弄して、その姿は雲霄に鳳凰の羽を見るが如く崇高だ
伯仲の間に伊呂を見るようなその大志は、もし成功したならば蕭曹にも勝ったことだろう、だが運が移って天下を回復することはならず、志は高いながら身は軍務の労のために滅びてしまった
なお、この額は、清の康煕帝の子の愛新覚羅允礼によって書かれています。
諸葛孔明像
「頭に綸巾をかぶり道服をまとい、手には白羽扇(びゃくうせん)をくゆらせ」というのが馴染みの姿ですが、着ている服はちょっと違うかな。顔も稀代の軍師というには?
諸葛孔明の右手には、嫡男の諸葛瞻(せん)の像が置かれています。
諸葛瞻は、父が亡くなると武郷侯を継ぎ、皇帝劉禅の娘を娶り、軍師将軍について、諸葛孔明の信奉者からは実力以上の評判を受けるようになりました。しかし、国政を動かす地位になると姜維と対立するようになり、魏が攻めてきた際には、積極的に迎撃に出ようとはせず、綿竹に立てこもって防戦するも戦死しました。
左には、諸葛瞻の嫡男である諸葛尚。綿竹における戦いにて父の諸葛瞻とともに戦死。
なお、弟の諸葛京は、戦いの時は年少であったため生き延びて後に晋王朝に仕えています。現在も、蜀の諸葛氏の子孫を自称する家があり、これは諸葛京の血筋ということです。
武侯祠の脇の庭には鐘楼が置かれていました。
また鼓楼も置かれていました。
蓮池は、秋を迎えて枯れ葉が広がっていました。
武侯祠の奥には、劉備、関羽、張飛の3人を奉った三義廟があるのですが、中国人ガイドの判断なのか省略されてしまいました。時間が無いのは判りますが、足を停めての説明が長く、一通りでも見せてもらいたかったものです。
劉備の墓に向かいましたが、赤い土壁に囲まれた道が竹林の中に続いていました。
通常は混み合っているようですが、時間も遅いため、人のいない通路を楽しむことができました。
「恵陵」とも呼ばれる劉備の墓の入口。
額には「千秋凛然」と書かれ、これは威風堂々としており、いつまでも人々に偲ばれるという意味だといいます。
劉備の墓には、「漢昭烈皇帝之」と刻んであります。
劉備は、関羽を殺した孫権に対しての報復として親征を行いますが、陸遜の火計策に嵌り大敗しました。劉備は白帝城に逃げ込んで休戦を結んだ後そこに留まり、223年に白帝城にて病死しました。
恵陵は、円形の古墳状態で、その周囲に通路が設けられて一周することができます。
中央部は木の茂った塚になっています。
この劉備のお墓は、これまで盗掘されたことがなかったといいます。
伝説では、泥棒が盗掘に入ったところ、声がしたので近づくと、劉備と孔明が碁をさしており、しかも関羽と張飛が側に立って見ていた。驚いた二人が逃げようとすると酒をすすめられ、一気に飲んで逃げたところ大きな雷が鳴った。帰った二人は、病気になり死んでしまったという。
なお、曹操の墓が2009年に発見されたというニュースが流れましたが、真偽論争が続いているようです。
墓の入口の前庭には、馬とおそらく麒麟の像が置かれていました。明の十三廟の入口の神道にも同じような像が置かれているので、明の時代あるいはそれをまねた近代製作の像のように思います。
文官と思われる像。
入口には、宋の時代に造られた斧を持った武士のレリーフが置かれていました。
劉備の入口の壁。
龍の紋が描かれていました。
博物館のようですが、すでに閉まっていました。
他にも見どころはあるようですが、時間がないので見学も終わりになって、錦里に向かました。
武侯祠は、三国志ファンには聖地のひとつですね。工事中や時間切れによって見ていないところも多いので、いつか再訪する必要があります。