昼になって、ようやくイシク・クル湖の北岸を走り終え、東岸に移ることができました。
カラコルの街に入る前に、その7km手前にあるブルジェヴァルスキー博物館によりました。
ロシアの探検家のプルジェヴァルスキーの資料を展示する記念館も設けてありましたが、時間がないとのことで、素通りになりました。
入口から通りを進んだ突き当りにブルジェヴァルスキー記念碑が置かれていました。
ニコライ・プルジェヴァリスキーは、ロシア帝国の地理学者で中央・東アジアの探検家として知られています。最終目的地としたチベットのラサまではたどり着くことはできなかったものの、チベット北部や青海そしてジュンガリア(現在の新疆ウイグル自治区北部)など西洋世界に知られていなかった地域を旅し、中央アジアの情報をヨーロッパ人に伝えました。
野生馬や野生のフタコブラクダをはじめとする動植物の発見といった業績が挙げられますが、ロシア帝国が中央アジア一帯を植民地として我が物とするための情報収集が裏の目的であったようです。
プルジェヴァリスキーは、「さまよえるロプノール」論争の一方の当事者として忘れることができません。
「さまよえるロプノール」については、まず井上靖著「楼蘭」から話を始めましょう。
「大国の漢と匈奴とにはさまれた弱小国楼蘭は、匈奴の劫掠から逃れるために住み慣れたロブ湖畔(ロプノール)の城邑から新しい都城に移り、漢の庇護下に入った。新しい国家はぜん善と呼ばれたが、人々は自分たちの故地を忘れたことはなかった。数百年後、子孫がその地を奪回しようとするが、かつての都は砂漠の中で姿を変えていた。」というのが、おおまかな内容です。
1876年から1877年にかけて中央アジアの冒険旅行を敢行したプルジェヴァリスキーは、タリム川の下流が南東ないし南に向かって流れており、砂漠の南部にカラ・ブランとカラ・コシュンという2つの湖を形成しているのを発見し、これがロプノールであると主張しました。
これに対し、「シルクロード」という語を最初に提唱したドイツの地理学者リヒトホーフェンは、これらが淡水湖であることからまだ生まれて間もない新しい湖に違いなく、塩湖であるとされるロプノールはタリム川の東へ向かう支流の先にあるはずだから、どこかで支流を見落としたのだろうと指摘しました。
リヒトホーフェンの弟子で、スウェーデンの地理学者、中央アジア探検家であったスヴェン・ヘディンは、19世紀末から20世紀初頭にかけてこの一帯を踏査し、1900年にカラ・コシュンのはるか北方で楼蘭の遺跡を発見しました。その北側には東西方向に伸びる干上がった川床も見つかったことから、ヘディンはタリム川がかつてはこの川床を東に向かって流れており、楼蘭の東から南にかけて広がっている低地に注いでいたに違いないと考え、これこそがロプノールであると確信しました。
ヘディンによって、「ロプノールの周辺地域は標高差がわずかしかなく、堆積や侵食作用などによってタリム川の流路が大きく変動するために、湖の位置が南北に移動する。ロプノールはいつかきっと元の位置に戻ってくる」とする「さまよえる湖」説が提示されました。それからわずか20年後の1921年には、タリム川の流れが変わって湖が復活したことを自身の目で確かめることができ、予言は実現しました。
ヘディンに敗北した形のプルジェヴァリスキーですが、彼がいなければ、謎に満ちた「さまよえる湖」の論争も盛り上がらなかったことでしょう。
5回目の探検に出発する直前にプルジェヴァリスキーは、イシク・クル湖畔のカラコルでチュイ川の水を飲んでチフスに感染し、1888年11月1日に死亡しました。この時に皇帝は彼を偲んでカラコルの町の名をプルジェヴァリスクと変えさせました。
キルギスの独立に際して、もとの名前のカラコルに戻しましたが、Googleマップでもプルジェヴァリスクという名前が使われているので注意が必要です。
記念碑の脇からは、イシク・クル湖を望むことができました。プルジェヴァリスキーがこの丘に埋葬されたのも、彼の遺言によるものです。
プルジェヴァリスキーが眺めたイシク・クル湖の風景は、この風景と同じであったでしょうか。
カラコルに到着。メインストリートですが、平屋が並んでいました。これでも、カラコルは、キルギス第4の都市ということのようです。
カラコルに到着して、まずは昼食ということになりました。
昼食を終えて、ドゥンガン・モスクを見学しました。
中国系イスラム教徒(ドゥンガン人)が、1910年に建てた木造のモスクです。
建設の際、中国より職人を呼び寄せて作らせたといいます。一般的なモスクというよりも仏教寺院のように見えます。
本堂の脇には、ミナレットも設けられています。ここからアザーンが流されると、少し不思議な感じがしますね。
内部には入れませんが、入口から眺めることができました。
正面には、メッカの方向を示すミフラーブが設けてあります。信者が座る絨毯はイスラム風ですが、柱や天井飾りは中国風です。
壁に掛けられているのは、一日五回の礼拝時間を示す時計のようです。
太陽系の惑星が描かれていますが、イスラム教との関係は不明。
アラビア書道も飾られていました。
屋根には、中国で見られる走獣を単純化したような飾りが施されていました。中国人建築家は、屋根飾りを施さないとものたりなく思ったのでしょうか。
緑や臙脂の碁盤模様がユニークです。
屋根の上に置かれた三日月マークがイスラム教のモスクであることを示しています。
ドゥンガン・モスクの見学を終えてから土産物屋に立ち寄ることになりましたが、運転手が場所を知らず、しばらく右往左往しました。
通りがかった公園には、誰か判らない人の像が立っていました。
訪れた土産物屋は、JICAが行っている一村一品運動の店でした。
商品の多くは、フェルト製品でした。キルギスでは、まだ観光客用の土産物屋は発達していないので、ここで土産物を買いました。
ホテルは町はずれにありましたが、その途中で見る民家は、ロシアのスーズダリで見たのと似た窓飾りを持っていました。
一旦ホテルに入った後、郊外へ花の見学に出かけました。
カラコルの街に入る前に、その7km手前にあるブルジェヴァルスキー博物館によりました。
ロシアの探検家のプルジェヴァルスキーの資料を展示する記念館も設けてありましたが、時間がないとのことで、素通りになりました。
入口から通りを進んだ突き当りにブルジェヴァルスキー記念碑が置かれていました。
ニコライ・プルジェヴァリスキーは、ロシア帝国の地理学者で中央・東アジアの探検家として知られています。最終目的地としたチベットのラサまではたどり着くことはできなかったものの、チベット北部や青海そしてジュンガリア(現在の新疆ウイグル自治区北部)など西洋世界に知られていなかった地域を旅し、中央アジアの情報をヨーロッパ人に伝えました。
野生馬や野生のフタコブラクダをはじめとする動植物の発見といった業績が挙げられますが、ロシア帝国が中央アジア一帯を植民地として我が物とするための情報収集が裏の目的であったようです。
プルジェヴァリスキーは、「さまよえるロプノール」論争の一方の当事者として忘れることができません。
「さまよえるロプノール」については、まず井上靖著「楼蘭」から話を始めましょう。
「大国の漢と匈奴とにはさまれた弱小国楼蘭は、匈奴の劫掠から逃れるために住み慣れたロブ湖畔(ロプノール)の城邑から新しい都城に移り、漢の庇護下に入った。新しい国家はぜん善と呼ばれたが、人々は自分たちの故地を忘れたことはなかった。数百年後、子孫がその地を奪回しようとするが、かつての都は砂漠の中で姿を変えていた。」というのが、おおまかな内容です。
1876年から1877年にかけて中央アジアの冒険旅行を敢行したプルジェヴァリスキーは、タリム川の下流が南東ないし南に向かって流れており、砂漠の南部にカラ・ブランとカラ・コシュンという2つの湖を形成しているのを発見し、これがロプノールであると主張しました。
これに対し、「シルクロード」という語を最初に提唱したドイツの地理学者リヒトホーフェンは、これらが淡水湖であることからまだ生まれて間もない新しい湖に違いなく、塩湖であるとされるロプノールはタリム川の東へ向かう支流の先にあるはずだから、どこかで支流を見落としたのだろうと指摘しました。
リヒトホーフェンの弟子で、スウェーデンの地理学者、中央アジア探検家であったスヴェン・ヘディンは、19世紀末から20世紀初頭にかけてこの一帯を踏査し、1900年にカラ・コシュンのはるか北方で楼蘭の遺跡を発見しました。その北側には東西方向に伸びる干上がった川床も見つかったことから、ヘディンはタリム川がかつてはこの川床を東に向かって流れており、楼蘭の東から南にかけて広がっている低地に注いでいたに違いないと考え、これこそがロプノールであると確信しました。
ヘディンによって、「ロプノールの周辺地域は標高差がわずかしかなく、堆積や侵食作用などによってタリム川の流路が大きく変動するために、湖の位置が南北に移動する。ロプノールはいつかきっと元の位置に戻ってくる」とする「さまよえる湖」説が提示されました。それからわずか20年後の1921年には、タリム川の流れが変わって湖が復活したことを自身の目で確かめることができ、予言は実現しました。
ヘディンに敗北した形のプルジェヴァリスキーですが、彼がいなければ、謎に満ちた「さまよえる湖」の論争も盛り上がらなかったことでしょう。
5回目の探検に出発する直前にプルジェヴァリスキーは、イシク・クル湖畔のカラコルでチュイ川の水を飲んでチフスに感染し、1888年11月1日に死亡しました。この時に皇帝は彼を偲んでカラコルの町の名をプルジェヴァリスクと変えさせました。
キルギスの独立に際して、もとの名前のカラコルに戻しましたが、Googleマップでもプルジェヴァリスクという名前が使われているので注意が必要です。
記念碑の脇からは、イシク・クル湖を望むことができました。プルジェヴァリスキーがこの丘に埋葬されたのも、彼の遺言によるものです。
プルジェヴァリスキーが眺めたイシク・クル湖の風景は、この風景と同じであったでしょうか。
カラコルに到着。メインストリートですが、平屋が並んでいました。これでも、カラコルは、キルギス第4の都市ということのようです。
カラコルに到着して、まずは昼食ということになりました。
昼食を終えて、ドゥンガン・モスクを見学しました。
中国系イスラム教徒(ドゥンガン人)が、1910年に建てた木造のモスクです。
建設の際、中国より職人を呼び寄せて作らせたといいます。一般的なモスクというよりも仏教寺院のように見えます。
本堂の脇には、ミナレットも設けられています。ここからアザーンが流されると、少し不思議な感じがしますね。
内部には入れませんが、入口から眺めることができました。
正面には、メッカの方向を示すミフラーブが設けてあります。信者が座る絨毯はイスラム風ですが、柱や天井飾りは中国風です。
壁に掛けられているのは、一日五回の礼拝時間を示す時計のようです。
太陽系の惑星が描かれていますが、イスラム教との関係は不明。
アラビア書道も飾られていました。
屋根には、中国で見られる走獣を単純化したような飾りが施されていました。中国人建築家は、屋根飾りを施さないとものたりなく思ったのでしょうか。
緑や臙脂の碁盤模様がユニークです。
屋根の上に置かれた三日月マークがイスラム教のモスクであることを示しています。
ドゥンガン・モスクの見学を終えてから土産物屋に立ち寄ることになりましたが、運転手が場所を知らず、しばらく右往左往しました。
通りがかった公園には、誰か判らない人の像が立っていました。
訪れた土産物屋は、JICAが行っている一村一品運動の店でした。
商品の多くは、フェルト製品でした。キルギスでは、まだ観光客用の土産物屋は発達していないので、ここで土産物を買いました。
ホテルは町はずれにありましたが、その途中で見る民家は、ロシアのスーズダリで見たのと似た窓飾りを持っていました。
一旦ホテルに入った後、郊外へ花の見学に出かけました。