第八日目は、フェリーにタリンからヘルシンキに移動し、ヘルシンキに到着後はヘルシンキの市内観光になりました。最終日の午前中は自由行動でヘルシンキ観光を行うので、1日分をヘルシンキ観光にあてることができます。
ヘルシンキは、30年ほど前に訪れており、写真は残っているものの、その時の記憶も薄れています。
フェリーを下りて、昼食までに少し時間があるので、ウスペンスキー寺院を訪れました。
ウスペンスキー寺院は、北欧最大のロシア正教の教会で、1868年にロシア人建築家によって建てられました。
あいにくとこの日は曇り空で写真映りが悪く、翌日に再度撮影を行うことになりました。
この教会の十字架は、ロシア正教で見られる八端十字架と少し違って、一般的には下の斜めになった横木が三日月状になっています。八端十字架の下部の斜めになった横木は、足台を表していて、傾きの向きも意味があるようです。一番下の横の十字が三日月型になっているのは、「舟形」と呼ばれ、船のイカリを表して航海の無事を祈る意味を持つといいます。
第八日目の観光ではウスペンスキー寺院に入らなかったので、翌日のスオメンリンナ島観光の後で、再度訪れました。
青空をバックにして見ることができました。
ウスペンスキー寺院の内部は、ロシア正教ならでは重厚な装飾が施されていました。
イコノスタシスも見事です。
ドームの明かり取りから光が差し込んできます。
バルト三国の観光中、幾つかのロシア正教教会に入りましたが、いずれも内部は写真撮影だったので、今回の旅では最初のロシア教会内部の写真ということになります。
ウスペンスキー寺院のテラスからは、ヘルシンキ大聖堂の眺めが広がっていました。
ヘルシンキ大聖堂は、青空をバックいしないと見栄えがしませんね。
続けて、ヘルシンキ大聖堂を見学しました。ネオ・クラシック様式のこの教会は、1852年に30年の歳月をかけて完成しました。当初、ドームは中央のものだけでしたが、後に四方に小さなドームが加えられました。
ヘルシンキ大聖堂の階段上から見た元老院広場。
スウェーデン領であったフィンランドは、ナポレオン戦争の最中に、アレクサンドル1世によってフィンランド大公国が建国され、ロシアの属国となりました。アレクサンドル1世はフィンランドでのスウェーデンの影響を減らすことやサンクトペテルブルクに近いことから、1812年に首都をそれまでのトゥルクに代わってヘルシンキに移しました。
新しい首都の設計をまかされたドイツの建築家エンゲルは、新古典主義の都市計画をすすめ、ヘルシンキ元老院広場を中心にして、周辺にはフィンランド政府宮殿やヘルシンキ大学の本館を配置しました。広場の北側のヘルシンキ大聖堂は、エンゲルスが亡くなった12年後の1852年に完成しました。
ヘルシンキ大聖堂の前の元老院広場に立つのは、ロシア皇帝アレクサンドル2世像です。
アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世がクリミア戦争中に急死したため、アレクサンドル2世が皇帝につきました。アレクサンドル2世は、国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制政治を延命させることが出来るという思想をもって改革に臨みました。
フィンランドは、この開明的な啓蒙君主のもとで「自由の時代」を謳歌し、民族意識も発展していきました。今でもフィンランド人はアレクサンドル2世を敬愛しているといいます。しかし、アレクサンドル2世が暗殺された後、ロシアは中央集権化を進めるために帝国内の各民族への統制を強めていくことになりました。
なお、アレクサンドル2世の暗殺場所には、血の上の救世主教会が建てられ、サンクトペテルブルクにおける欠かせない観光スポットになっていますね。
アレクサンドル2世像の基部には、法,光(科学と芸術),平和,労働を象徴した像が置かれています。
ヘルシンキ大聖堂は、フィンランド福音ルター派の本山になっています。内部は高い天井を持っているものの、内装はすっきりしています。
主祭壇。
説教台
立派なパイプオルガンが設けられていました。
参列者席は、馬尾で表装されていました。これに用いられる馬尾は小便のかからない牡馬のものが用いられていると現地ガイドが説明していました。
白亜のヘルシンキ大聖堂は、やはり青空をバックに見たいものです。最終日の自由行動時に、改めて外観を見に訪れました。
ウスペンスキー寺院とヘルシンキ大聖堂は、ヘルシンキの最大の見どころといえます。
ヘルシンキは、30年ほど前に訪れており、写真は残っているものの、その時の記憶も薄れています。
フェリーを下りて、昼食までに少し時間があるので、ウスペンスキー寺院を訪れました。
ウスペンスキー寺院は、北欧最大のロシア正教の教会で、1868年にロシア人建築家によって建てられました。
あいにくとこの日は曇り空で写真映りが悪く、翌日に再度撮影を行うことになりました。
この教会の十字架は、ロシア正教で見られる八端十字架と少し違って、一般的には下の斜めになった横木が三日月状になっています。八端十字架の下部の斜めになった横木は、足台を表していて、傾きの向きも意味があるようです。一番下の横の十字が三日月型になっているのは、「舟形」と呼ばれ、船のイカリを表して航海の無事を祈る意味を持つといいます。
第八日目の観光ではウスペンスキー寺院に入らなかったので、翌日のスオメンリンナ島観光の後で、再度訪れました。
青空をバックにして見ることができました。
ウスペンスキー寺院の内部は、ロシア正教ならでは重厚な装飾が施されていました。
イコノスタシスも見事です。
ドームの明かり取りから光が差し込んできます。
バルト三国の観光中、幾つかのロシア正教教会に入りましたが、いずれも内部は写真撮影だったので、今回の旅では最初のロシア教会内部の写真ということになります。
ウスペンスキー寺院のテラスからは、ヘルシンキ大聖堂の眺めが広がっていました。
ヘルシンキ大聖堂は、青空をバックいしないと見栄えがしませんね。
続けて、ヘルシンキ大聖堂を見学しました。ネオ・クラシック様式のこの教会は、1852年に30年の歳月をかけて完成しました。当初、ドームは中央のものだけでしたが、後に四方に小さなドームが加えられました。
ヘルシンキ大聖堂の階段上から見た元老院広場。
スウェーデン領であったフィンランドは、ナポレオン戦争の最中に、アレクサンドル1世によってフィンランド大公国が建国され、ロシアの属国となりました。アレクサンドル1世はフィンランドでのスウェーデンの影響を減らすことやサンクトペテルブルクに近いことから、1812年に首都をそれまでのトゥルクに代わってヘルシンキに移しました。
新しい首都の設計をまかされたドイツの建築家エンゲルは、新古典主義の都市計画をすすめ、ヘルシンキ元老院広場を中心にして、周辺にはフィンランド政府宮殿やヘルシンキ大学の本館を配置しました。広場の北側のヘルシンキ大聖堂は、エンゲルスが亡くなった12年後の1852年に完成しました。
ヘルシンキ大聖堂の前の元老院広場に立つのは、ロシア皇帝アレクサンドル2世像です。
アレクサンドル1世の後を継いだニコライ1世がクリミア戦争中に急死したため、アレクサンドル2世が皇帝につきました。アレクサンドル2世は、国家の西欧化改革を慎重に採用していくことで、伝統的な専制政治を延命させることが出来るという思想をもって改革に臨みました。
フィンランドは、この開明的な啓蒙君主のもとで「自由の時代」を謳歌し、民族意識も発展していきました。今でもフィンランド人はアレクサンドル2世を敬愛しているといいます。しかし、アレクサンドル2世が暗殺された後、ロシアは中央集権化を進めるために帝国内の各民族への統制を強めていくことになりました。
なお、アレクサンドル2世の暗殺場所には、血の上の救世主教会が建てられ、サンクトペテルブルクにおける欠かせない観光スポットになっていますね。
アレクサンドル2世像の基部には、法,光(科学と芸術),平和,労働を象徴した像が置かれています。
ヘルシンキ大聖堂は、フィンランド福音ルター派の本山になっています。内部は高い天井を持っているものの、内装はすっきりしています。
主祭壇。
説教台
立派なパイプオルガンが設けられていました。
参列者席は、馬尾で表装されていました。これに用いられる馬尾は小便のかからない牡馬のものが用いられていると現地ガイドが説明していました。
白亜のヘルシンキ大聖堂は、やはり青空をバックに見たいものです。最終日の自由行動時に、改めて外観を見に訪れました。
ウスペンスキー寺院とヘルシンキ大聖堂は、ヘルシンキの最大の見どころといえます。