聖ヨハネ教会を出て歩いていくと、ワーグナーが住んでいた家がありました。通り過ぎたところでガイドの説明があり、振り返って写真を撮りました。現在はコンサートホールになっているようです。
ワーグナーは、1837年から二年間、リガに住んでいました。ドレスデンからリガにやってきて、1839年でパリへ引っ越していきました。この時代のワーグナーは借金まみれで、夜逃げを繰り返していました。
ワーグナーの作品リストを見ていくと、リガでの生活時期には、歌劇「リエンツィ」がおおよそ完成されています。初演されたのは、ドレスデンのゼンパー・オーパーにて1842年10月20日のことになります。全曲が上演されることはほとんどありませんが、序曲だけは良く演奏されていますね。
家には、ワーグナーの名前が書かれたプレートが取り付けられていました。
この通りは、ワーグネラ通りと名前が付けられています。
通りを横断する際に、自由記念碑が見えました。
自由記念碑は、1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられました。高さ51mの記念碑で、塔の上には、女性ミルダがラトヴィアの三つの地域の連合を現す星を掲げています。
ソ連時代には、壊されはしませんでしたが、近づくとシベリア送りになると噂される、悲劇の象徴になっていました。
美しいリーブ広場に出ました。
広場の片隅に見えるのは、小ギルドの会館です。
小ギルドの会館の脇には大ギルドの会館が並んでおり、その前に猫の家があります。
猫の家には、かつて裕福なラトヴィア商人が住んでいました。大ギルドに入りたいと思いましたが、ラトヴィア人であることからドイツ人が支配しているギルドの入会は拒否されてしまいました。怒った彼は、塔の上に大ギルド会館に尻を向けて猫を取り付けました。ギルドは怒りましたが、猫がどのように振舞おうと勝手であると反論しました。その後、大ギルド会館がコンサートホールに変わると、音楽に引かれて会館の方を向くようになったといいます。
この猫のポーズは可愛いですね。
猫の家の一階は、猫マークのレストランになっていました。
続いて現れたのは、火薬塔。14世紀に建てられ、1650年に再建されて火薬の保管に使われました。高さ25.5mで、外壁の厚さは3mあります。現在はラトヴィア軍事博物館になっています。
トゥァルニャ通りに進みます。
城壁が現れました。リガの街は、かつては城壁に囲まれていましたが、防衛の重要性が無くなるとともに、城壁は壊されて建材として使われてしまいました。この城壁は、後に再建されたもので、かつては28の塔があったといいます。
城壁に開いているのは、スウェーデン門と呼ばれるリガで唯一残された城門です。当時、向かいの兵舎に住んでいたスウェーデン兵士がよく利用したことから名前が付けられています。
この門には伝説が残されています。かつてラトヴィアの娘たちは外国人と会うことが禁じられていました。しかし、一人のラトヴィアの娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門でひそかに会うようになりました。しかしある時、娘は捕えられ、罰として門の壁の中に塗り込められてしまいました。それ以降、真夜中にここを通ると、娘のすすり泣きが聞こえるといいます。
残念ながらリガでの自由時間は無かったので、この伝説を確かめることはできませんでした。
門の装飾。
スウェーデン門を抜けると聖ヤコブ教会が見えてきました。
聖ヤコブ教会の前の建物はラトヴィア国会ですが、一般道に面しており、オープンです。
続いて、三人兄弟が現れました。兄弟のように3棟並んでいることからその名があります。
右から15世紀、16世紀、17世紀の建物になっています。黄色い建物の「次兄」の時代は、窓税がなくなったため「兄」に比べて窓の大きい見栄えのする造りですが、その後「弟」の時代になると、今度は「間口税」が課せられたため、間口の狭い窮屈な作りになっています。
三人兄弟は、細い道路に面しているため、三軒を一緒に撮るのは難しい状態でした。
三人兄弟から歩いていくと聖母受難教会が見えてきました。
茶色のレンガ造りの教会を見てきたので、白とブルーの教会は新鮮に見えました。
これは英国教会のようです。観光の対象になっているものの他にも多くの教会があります。
円塔が現れましたが、これはリガ城です。
1297年から1330年にかけてリヴォニア騎士団とリガ市民の間で激しい衝突が起き、敗北した住民は破壊された最初の城の代償にこの城を造りました。最初は軍事目的が強かったものが、ポーランド、スウェーデン、ロシアと支配者が代わると宮廷として使われるようになり、18世紀から19世紀にかけて根本的な改修が加えられて現在の姿になりました。現在では、北側がラトヴィア歴史博物館、南側は大統領官邸として使われています。
リガ城近くのレストランで昼食をとり、これでリガ観光は終わりになりました。通りでバスを待っていると、聖母受難教会が美しい姿を見せていました。
ワーグナーは、1837年から二年間、リガに住んでいました。ドレスデンからリガにやってきて、1839年でパリへ引っ越していきました。この時代のワーグナーは借金まみれで、夜逃げを繰り返していました。
ワーグナーの作品リストを見ていくと、リガでの生活時期には、歌劇「リエンツィ」がおおよそ完成されています。初演されたのは、ドレスデンのゼンパー・オーパーにて1842年10月20日のことになります。全曲が上演されることはほとんどありませんが、序曲だけは良く演奏されていますね。
家には、ワーグナーの名前が書かれたプレートが取り付けられていました。
この通りは、ワーグネラ通りと名前が付けられています。
通りを横断する際に、自由記念碑が見えました。
自由記念碑は、1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられました。高さ51mの記念碑で、塔の上には、女性ミルダがラトヴィアの三つの地域の連合を現す星を掲げています。
ソ連時代には、壊されはしませんでしたが、近づくとシベリア送りになると噂される、悲劇の象徴になっていました。
美しいリーブ広場に出ました。
広場の片隅に見えるのは、小ギルドの会館です。
小ギルドの会館の脇には大ギルドの会館が並んでおり、その前に猫の家があります。
猫の家には、かつて裕福なラトヴィア商人が住んでいました。大ギルドに入りたいと思いましたが、ラトヴィア人であることからドイツ人が支配しているギルドの入会は拒否されてしまいました。怒った彼は、塔の上に大ギルド会館に尻を向けて猫を取り付けました。ギルドは怒りましたが、猫がどのように振舞おうと勝手であると反論しました。その後、大ギルド会館がコンサートホールに変わると、音楽に引かれて会館の方を向くようになったといいます。
この猫のポーズは可愛いですね。
猫の家の一階は、猫マークのレストランになっていました。
続いて現れたのは、火薬塔。14世紀に建てられ、1650年に再建されて火薬の保管に使われました。高さ25.5mで、外壁の厚さは3mあります。現在はラトヴィア軍事博物館になっています。
トゥァルニャ通りに進みます。
城壁が現れました。リガの街は、かつては城壁に囲まれていましたが、防衛の重要性が無くなるとともに、城壁は壊されて建材として使われてしまいました。この城壁は、後に再建されたもので、かつては28の塔があったといいます。
城壁に開いているのは、スウェーデン門と呼ばれるリガで唯一残された城門です。当時、向かいの兵舎に住んでいたスウェーデン兵士がよく利用したことから名前が付けられています。
この門には伝説が残されています。かつてラトヴィアの娘たちは外国人と会うことが禁じられていました。しかし、一人のラトヴィアの娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門でひそかに会うようになりました。しかしある時、娘は捕えられ、罰として門の壁の中に塗り込められてしまいました。それ以降、真夜中にここを通ると、娘のすすり泣きが聞こえるといいます。
残念ながらリガでの自由時間は無かったので、この伝説を確かめることはできませんでした。
門の装飾。
スウェーデン門を抜けると聖ヤコブ教会が見えてきました。
聖ヤコブ教会の前の建物はラトヴィア国会ですが、一般道に面しており、オープンです。
続いて、三人兄弟が現れました。兄弟のように3棟並んでいることからその名があります。
右から15世紀、16世紀、17世紀の建物になっています。黄色い建物の「次兄」の時代は、窓税がなくなったため「兄」に比べて窓の大きい見栄えのする造りですが、その後「弟」の時代になると、今度は「間口税」が課せられたため、間口の狭い窮屈な作りになっています。
三人兄弟は、細い道路に面しているため、三軒を一緒に撮るのは難しい状態でした。
三人兄弟から歩いていくと聖母受難教会が見えてきました。
茶色のレンガ造りの教会を見てきたので、白とブルーの教会は新鮮に見えました。
これは英国教会のようです。観光の対象になっているものの他にも多くの教会があります。
円塔が現れましたが、これはリガ城です。
1297年から1330年にかけてリヴォニア騎士団とリガ市民の間で激しい衝突が起き、敗北した住民は破壊された最初の城の代償にこの城を造りました。最初は軍事目的が強かったものが、ポーランド、スウェーデン、ロシアと支配者が代わると宮廷として使われるようになり、18世紀から19世紀にかけて根本的な改修が加えられて現在の姿になりました。現在では、北側がラトヴィア歴史博物館、南側は大統領官邸として使われています。
リガ城近くのレストランで昼食をとり、これでリガ観光は終わりになりました。通りでバスを待っていると、聖母受難教会が美しい姿を見せていました。