クルカ国立公園の見学を終えてスプリットを目指しました。高原地帯から海岸部へ下っていくと、岩山の上に建つ要塞が見えました。
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眺め続けていくと、かなり大規模の要塞であることが判りました。
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帰国後にネットで調べると、クリスの要塞のようです。
クリス要塞は、ローマ時代の砦として築かれたのが始まりで、7世紀初頭からはクロアチアの重要な城となって、16世紀末のオスマントルコ軍の侵入に際しては、ここで大きな戦いが行われました。
あらかじめ見学場所の決められたツアーですが、目をこらしていると発見もあります。
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スプリットが近づくと、街に水を引いていたローマ時代の水道橋が現れました。
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スプリットに到着すると、まず城壁が現れました。
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ディオクレティアヌス宮殿を囲む城壁の海側で駐車場でバスを降りました。スプリットは、ローマ時代に建てられたディオクレティアヌス宮殿を呑み込むように発展した街です。
クロアチア旅行にもかかわらず、ここでローマ帝国の歴史のおさらいをする必要があります。
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ローマ帝国は、カエサルの後継者となったオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年から始まり、カリグラやネロなど暴君が登場したり内乱が生じたりしますが、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)の時代にローマ帝国は最盛期を迎えました。その後は、内乱が続いたことから軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していきました。
軍人皇帝時代を終わらせたのが、284年に皇帝となったディオクレティアヌスです。彼は元首政から専制君主制に改革し、また、拡大した帝国を治めるためにテトラルキア(四分割統治)を導入し、帝国は一時安定を取り戻しました。しかし、ディオクレティアヌスが305年に引退した後、このテトラルキアは急速に崩壊してしまいました。
ディオクレティアヌス皇帝は、キリスト教徒に対する「最後の大迫害」を行ったことでも知られています。ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に対し怒りをつのらせていきました。303年にディオクレティアヌスはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収、国家に対し公然と反抗したキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたといいます。キリスト教史では、これを「最後の大迫害」と呼び、ディオクレティアヌスはキリスト教迫害の暴君の一人として記憶されることになります。キリスト教が公認されるのは、このわずか10年後の、コンスタンティヌス1世による313年のミラノ勅令ということになります。
305年、ディオクレティアヌスは健康を崩したこともあって退位し、スプリットに宮殿を作って隠棲し、311年12月3日にそこで亡くなりました。自分の意志でローマ皇帝から引退したまれな例ということになります。
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城壁で囲まれたディオクレティアヌス宮殿は、四方に門を設けてありますが、青銅の門から入場しました。
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門をくぐった先の通路脇には土産物屋が並んでいました。
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通路から脇に入って、宮殿の地下を見学しました。入り口には井戸が設けられていました。
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広い通路が設けられています。
現在、宮殿は中世の建造物で埋め尽くされて、本来の構造が判り難くなっています。地下の構造物は、地上部を支えるために同じ造りになっているため、これを見れば往時を推測できるということのようです。
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何本もの柱が並んだ大広間。
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時間と共に浸食が進んだのか、柱頭部はイスラム建築の鍾乳石飾りのようになっています。
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展示物はあまりありませんが、これはディオクレティアヌスの肖像が描かれたコインの拡大レプリカ。
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ローマ時代の糸杉。
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この地下室は、倉庫やワイン・オリーブオイル造りに使われ、都市化が進むとゴミ捨て場になってしまっていたといいます。かなりきれいにしたようですが、それでも空洞の上部に配管が見えていたりもします。
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ディオクレティアヌス皇帝の肖像。
ディオクレティアヌス皇帝は、キリスト教徒の迫害者として、肖像は後の時代にほとんど破壊されてしまい、これは復元されたもののようです。
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地下室の見学を終えて、地上へと進みます。
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地上に出たところは、ペリスティルと呼ばれる旧市街の中心です。正面は皇帝の私邸の前庭で、左は大聖堂になります。
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ますは前庭に進み、クラパの合唱を聞きました。クラパは、アカペラ男性コーラスによるクロアチアの伝統音楽です。
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この前庭は、中央に穴が開いたドームで覆われているため、声が響いて美しく聞こえました。
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海外旅行では、その国のCDを買うことにしているので、このクラパのCDも買いました。
クラパの合唱団と記念写真を撮っている者は結構いましたが、CDを買ったのは僅かだったようです。
下中央がクラパ。上二つは、コトルのスーパーでダルメシア地方の曲ということで買いました。左上は歌で、右上はマンドリンの曲です。

眺め続けていくと、かなり大規模の要塞であることが判りました。

帰国後にネットで調べると、クリスの要塞のようです。
クリス要塞は、ローマ時代の砦として築かれたのが始まりで、7世紀初頭からはクロアチアの重要な城となって、16世紀末のオスマントルコ軍の侵入に際しては、ここで大きな戦いが行われました。
あらかじめ見学場所の決められたツアーですが、目をこらしていると発見もあります。

スプリットが近づくと、街に水を引いていたローマ時代の水道橋が現れました。

スプリットに到着すると、まず城壁が現れました。

ディオクレティアヌス宮殿を囲む城壁の海側で駐車場でバスを降りました。スプリットは、ローマ時代に建てられたディオクレティアヌス宮殿を呑み込むように発展した街です。
クロアチア旅行にもかかわらず、ここでローマ帝国の歴史のおさらいをする必要があります。

ローマ帝国は、カエサルの後継者となったオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年から始まり、カリグラやネロなど暴君が登場したり内乱が生じたりしますが、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)の時代にローマ帝国は最盛期を迎えました。その後は、内乱が続いたことから軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していきました。
軍人皇帝時代を終わらせたのが、284年に皇帝となったディオクレティアヌスです。彼は元首政から専制君主制に改革し、また、拡大した帝国を治めるためにテトラルキア(四分割統治)を導入し、帝国は一時安定を取り戻しました。しかし、ディオクレティアヌスが305年に引退した後、このテトラルキアは急速に崩壊してしまいました。
ディオクレティアヌス皇帝は、キリスト教徒に対する「最後の大迫害」を行ったことでも知られています。ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、治世を通じて融和的政策を採っていた皇帝も、その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に対し怒りをつのらせていきました。303年にディオクレティアヌスはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発しました。キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収、国家に対し公然と反抗したキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたといいます。キリスト教史では、これを「最後の大迫害」と呼び、ディオクレティアヌスはキリスト教迫害の暴君の一人として記憶されることになります。キリスト教が公認されるのは、このわずか10年後の、コンスタンティヌス1世による313年のミラノ勅令ということになります。
305年、ディオクレティアヌスは健康を崩したこともあって退位し、スプリットに宮殿を作って隠棲し、311年12月3日にそこで亡くなりました。自分の意志でローマ皇帝から引退したまれな例ということになります。

城壁で囲まれたディオクレティアヌス宮殿は、四方に門を設けてありますが、青銅の門から入場しました。

門をくぐった先の通路脇には土産物屋が並んでいました。

通路から脇に入って、宮殿の地下を見学しました。入り口には井戸が設けられていました。

広い通路が設けられています。
現在、宮殿は中世の建造物で埋め尽くされて、本来の構造が判り難くなっています。地下の構造物は、地上部を支えるために同じ造りになっているため、これを見れば往時を推測できるということのようです。

何本もの柱が並んだ大広間。

時間と共に浸食が進んだのか、柱頭部はイスラム建築の鍾乳石飾りのようになっています。

展示物はあまりありませんが、これはディオクレティアヌスの肖像が描かれたコインの拡大レプリカ。


ローマ時代の糸杉。

この地下室は、倉庫やワイン・オリーブオイル造りに使われ、都市化が進むとゴミ捨て場になってしまっていたといいます。かなりきれいにしたようですが、それでも空洞の上部に配管が見えていたりもします。

ディオクレティアヌス皇帝の肖像。
ディオクレティアヌス皇帝は、キリスト教徒の迫害者として、肖像は後の時代にほとんど破壊されてしまい、これは復元されたもののようです。

地下室の見学を終えて、地上へと進みます。

地上に出たところは、ペリスティルと呼ばれる旧市街の中心です。正面は皇帝の私邸の前庭で、左は大聖堂になります。

ますは前庭に進み、クラパの合唱を聞きました。クラパは、アカペラ男性コーラスによるクロアチアの伝統音楽です。

この前庭は、中央に穴が開いたドームで覆われているため、声が響いて美しく聞こえました。

海外旅行では、その国のCDを買うことにしているので、このクラパのCDも買いました。
クラパの合唱団と記念写真を撮っている者は結構いましたが、CDを買ったのは僅かだったようです。
下中央がクラパ。上二つは、コトルのスーパーでダルメシア地方の曲ということで買いました。左上は歌で、右上はマンドリンの曲です。