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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 ポレッチ その1

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旅の三日目は、イストラ半島にある街の見学になりました。イストラ半島は、イタリアのトリエステの南に三角形にアドリア海に突き出た半島です。北の一部はスロヴェニア、南の大部分はクロアチアに属しています。宿泊地のオパティアは、南東の付け根に位置しています。

ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的とした1815年のウィーン会議によって、アドリア海沿岸部のヴェネツィア領を完全に併合する事になり、イストリア半島全域もオーストリア帝国領土となりました。この結果、イストリア半島ではイタリア人、スロベニア人、クロアチア人の混住が進みました。

イタリア統一運動によってイタリア王国が成立すると、本来イタリア領であるべき「未回収のイタリア」として、イタリアによるイストリア半島奪回運動が始まりました。第一次世界大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国が消滅するとイストリア半島の全域がイタリア王国に併合されました。

第二次世界大戦におけるドイツの降伏直前には、ドイツ支配下のイストリア半島に向かって、北のイタリア側からは連合軍が、南側からはチトー率いるパルチザンが進攻し、港湾都市トリエステでぶつかりました。重要港であったトリエステを東側に譲る事は、アメリカ合衆国やイギリスにとってはありえない選択肢であったため、トリエステ地域は分割統治され、国際連合管理下の非武装中立地域になり、この時の国境が現在でも続くことになりました。

オパティアを出発し、ウチカ山を貫く全長5096mのウチカトンネルを通って、半島を西に横断し、まずは、ポレッチをめざしました。

ポレッチは、アドリア海に突き出た小さな半島に街が作られています。



沖に浮かぶスヴェチ・ニコラ島(聖ニコラオス島)によって港が守られています。



旧市街地の入り口に、市庁舎がありました。



市庁舎に掲げられた旗の中にイタリア国旗があるのも、この街の歴史の複雑さがうかがわれます。



ポレッチは城郭都市で、その名残りの円塔が残されていました。



旧市街地は、細い通りが巡らされています。



城壁の一部が残されていました。



城壁には、ヴェネツィアの守護神聖マルコのシンボルである羽の生えたライオン像が掲げられていました。かつてはヴェネツィア領であったことの印です。



メインストリート脇の小路を見ると、その先には海が広がっていました。



ポレッチは、イストラ半島における観光の中心地とあって、メインストリート沿いには土産物屋が並んでいました。





アドリア海でとれるのか、珊瑚の装飾品が売られていました。



後の自由時間に土産物屋で珊瑚のネックレスをかみさんのために買いましたが、アクセサリー類は判りませんね。



ポレッチでの見どころであるエウフラシス聖堂にやってきました。

エウフラシス聖堂は、4世紀から6世紀にかけて建て増しされながら建造されたビザンツ様式の教会です。なお、エウフラシスは、寄進者の名前とのこと。



入り口には、黄金色に輝くモザイク画が飾られていました。550年ころの作品のようです。



教会内に進みます。



左手に、アトリウム(前庭)と洗礼堂、その奥にある鐘楼が現れました。



鐘楼は、18世紀に建て増しされたものです。後ほどの自由時間に登ることになりました。

馬鹿と煙はと言われますが、この旅でも何か所もの塔に上ることになりました。



建物内に進むと、洗礼僧が置かれていました。



苔が生えて少し気持ち悪いですが、現在でも年一回子供の洗礼が行われているようです。



見上げると、屋根を支える構造を眺めることができました。



洗礼堂から柱廊で囲まれたアトリウム(前庭)と聖堂を振り返りました。



アトリウム(前庭)を囲む柱廊。



聖堂の壁には、聖人のモザイク画が飾られていました。





洗礼堂脇の建物には、モザイク画などが展示されていました。





キリスト教のシンボルである魚のモザイクもありました。


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