ポストイナ鍾乳洞の見学を終えて南下すると、スロヴェニアとクロアチアの国境に到着しました。手前がスロヴェニアで奥がクロアチアの国境ゲートです。
クロアチアは、スロヴェニア、ハンガリー、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナの間に広がる東西に広い内陸部と、北はイタリア、南はモンテネグロまでの長いアドリア海沿岸部からなります。
クロアチア人の主な宗教はローマカトリックで、文化的にはオーストリア・ハンガリー帝国とイタリアの影響が見られます。
15世紀にはオスマン帝国に征服されてその領域に組み込まれますが、18世紀末までに、オーストリア・ハンガリーによって回復されました。一方で、アドリア海沿岸のダルマチア地方は10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になり、1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になりました。
第一次世界大戦の敗北によってオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、南スラブ民族による連邦国家を目指してセルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国が成立し、これは1929年には国名をユーゴスラビアに改名しました。
しかしこの連邦国家にはクロアチア人側からは、政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく、独立の機運が高まります。
第二次大戦中には、ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア独立国が成立されました。以降、セルビア人勢力との間で凄惨な戦闘が繰り返され、虐殺が行われたと双方が非難の応酬を行い、これが後のクロアチア紛争の火種になります。
チトー率いるバルチザンの活躍によってユーゴスラビアは解放されて、ユーゴスラビア共産主義者同盟が誕生します。しかし、チトーの死後、再び民族独立の運動が活発化し、1991年6月に、スロヴェニアとクロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言します。
スロヴェニアの独立は十日間戦争と呼ばれる短期間の戦闘で終わりましたが、クロアチアでの戦闘は泥沼化し、1995年までの長期間に渡って続けられました。この理由としては、クロアチア国内に大勢のセルビア人が住んでいたことが挙げられます。クロアチア紛争によるセルビア人難民は、15-20万人にも及ぶといいます。
今回のクロアチアの訪問地は、主にアドリア海沿岸部ですが、美しい観光地の姿の陰に、クロアチア紛争の爪痕を垣間見ることもありました。
クロアチアに入国したところにある両替所で、日本円からクロアチア・クーナへの交換を行いました。クロアチアではユーロが使える所も多いのですが、飲み物代がクーナでなければならない所があり、またトイレ・チップのためにコインが必要になりました。
夕暮れ近くにアドリア海に面したオパティアに到着しました。
オパティアに到着して、まずレストランで夕食をとってからホテルに入りました。
ホテル・オパティアは坂の上にあり、二泊する間に坂を何度も上り下りすることになりました。ガイドブックには、「19世紀末の建設物が持つ高級感と、近代的な設備が融合している」と紹介されていますが、古くからの建物の正面は良い雰囲気ですが、ユーゴスラビア時代に建て増しされた客室は古びてがたがきていました。出歩くには良い場所であったので、不満はありませんけどね。
到着した後の夜は、前日からの疲れもあってすぐに寝てしまいました。
翌朝、早起きして、オパティアの見学に出かけました。
オパティアは、アドリア海に面した高級リゾート地です。料金節約のツアーでここに宿泊するのも、シーズン・オフのおかげということになります。
海岸部には遊歩道が設けられて、水泳用の施設が広がっていました。
海岸部には、高級そうなホテルが並んでいます。オパティアは、「クロアチアの貴婦人」とか「クロアチアのリヴィエラ」などとも称されるようです。
海水を引き込んだプールも設けられていました。
海岸線に沿って歩いていくと、乙女とカモメの像が現れました。
像は、アドリア海を眺めています。
海岸線の奥に見えるのは、クロアチア最大の港町のリエカのようです。
海岸線に沿って延びるメインストリートを北東に進んでいきました。
少し高台に上がった所に、パーク・アンジェリーナの標識がありました。
公園内に入って海に向かって進むと、ヴィラ・アンジェリーナに出ました。
ヴィラ・アンジェリーナは、1844年にリエカの豪商イジニオ・スカルパによって建てられ、彼の名前にちなんでアンジェリーナの名前が付けられました。イジニオ・スカルパは、オーストリア皇帝フェルディナンド1世や政治家をこの家に招き、これがオパティアの高級リゾートとしての始まりになりました。
現在、ヴィラ・アンジェリーナは、美術品の展示場になっているようです。
ヴィラ・アンジェリーナの前庭からは、アドリア海の眺めが広がっていました。
ヴィラ・アンジェリーナの庭には、各国から集められた植物が植えられた庭園が設けられています。竹や庭石が置かれて、中国か日本風の眺めになっています。
再びメインストリートを引き返しました。
通りには、リゾート地とあって水着やリゾートウェアの店が並んでいました。
小公園に進みました。
遊歩道に出ると、乙女とカモメの像の脇にでました。像はアドリア海の方を向いており、遊歩道からは背中しか見えません。
朝の散歩を終えて、ホテルに戻りました。
朝になって改めて眺めたホテル・オパティア。
ホテルの前庭も美しく整備されていました。
ホテルのテラスから眺めた教会。
この日は、ポレッチ、ロヴィニ、プーラといったイストラ半島の小さな街の見学を行うことになりました。
オパティアの連泊で、体を少し休めることができます。
クロアチアは、スロヴェニア、ハンガリー、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナの間に広がる東西に広い内陸部と、北はイタリア、南はモンテネグロまでの長いアドリア海沿岸部からなります。
クロアチア人の主な宗教はローマカトリックで、文化的にはオーストリア・ハンガリー帝国とイタリアの影響が見られます。
15世紀にはオスマン帝国に征服されてその領域に組み込まれますが、18世紀末までに、オーストリア・ハンガリーによって回復されました。一方で、アドリア海沿岸のダルマチア地方は10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になり、1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になりました。
第一次世界大戦の敗北によってオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、南スラブ民族による連邦国家を目指してセルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国が成立し、これは1929年には国名をユーゴスラビアに改名しました。
しかしこの連邦国家にはクロアチア人側からは、政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく、独立の機運が高まります。
第二次大戦中には、ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア独立国が成立されました。以降、セルビア人勢力との間で凄惨な戦闘が繰り返され、虐殺が行われたと双方が非難の応酬を行い、これが後のクロアチア紛争の火種になります。
チトー率いるバルチザンの活躍によってユーゴスラビアは解放されて、ユーゴスラビア共産主義者同盟が誕生します。しかし、チトーの死後、再び民族独立の運動が活発化し、1991年6月に、スロヴェニアとクロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言します。
スロヴェニアの独立は十日間戦争と呼ばれる短期間の戦闘で終わりましたが、クロアチアでの戦闘は泥沼化し、1995年までの長期間に渡って続けられました。この理由としては、クロアチア国内に大勢のセルビア人が住んでいたことが挙げられます。クロアチア紛争によるセルビア人難民は、15-20万人にも及ぶといいます。
今回のクロアチアの訪問地は、主にアドリア海沿岸部ですが、美しい観光地の姿の陰に、クロアチア紛争の爪痕を垣間見ることもありました。
クロアチアに入国したところにある両替所で、日本円からクロアチア・クーナへの交換を行いました。クロアチアではユーロが使える所も多いのですが、飲み物代がクーナでなければならない所があり、またトイレ・チップのためにコインが必要になりました。
夕暮れ近くにアドリア海に面したオパティアに到着しました。
オパティアに到着して、まずレストランで夕食をとってからホテルに入りました。
ホテル・オパティアは坂の上にあり、二泊する間に坂を何度も上り下りすることになりました。ガイドブックには、「19世紀末の建設物が持つ高級感と、近代的な設備が融合している」と紹介されていますが、古くからの建物の正面は良い雰囲気ですが、ユーゴスラビア時代に建て増しされた客室は古びてがたがきていました。出歩くには良い場所であったので、不満はありませんけどね。
到着した後の夜は、前日からの疲れもあってすぐに寝てしまいました。
翌朝、早起きして、オパティアの見学に出かけました。
オパティアは、アドリア海に面した高級リゾート地です。料金節約のツアーでここに宿泊するのも、シーズン・オフのおかげということになります。
海岸部には遊歩道が設けられて、水泳用の施設が広がっていました。
海岸部には、高級そうなホテルが並んでいます。オパティアは、「クロアチアの貴婦人」とか「クロアチアのリヴィエラ」などとも称されるようです。
海水を引き込んだプールも設けられていました。
海岸線に沿って歩いていくと、乙女とカモメの像が現れました。
像は、アドリア海を眺めています。
海岸線の奥に見えるのは、クロアチア最大の港町のリエカのようです。
海岸線に沿って延びるメインストリートを北東に進んでいきました。
少し高台に上がった所に、パーク・アンジェリーナの標識がありました。
公園内に入って海に向かって進むと、ヴィラ・アンジェリーナに出ました。
ヴィラ・アンジェリーナは、1844年にリエカの豪商イジニオ・スカルパによって建てられ、彼の名前にちなんでアンジェリーナの名前が付けられました。イジニオ・スカルパは、オーストリア皇帝フェルディナンド1世や政治家をこの家に招き、これがオパティアの高級リゾートとしての始まりになりました。
現在、ヴィラ・アンジェリーナは、美術品の展示場になっているようです。
ヴィラ・アンジェリーナの前庭からは、アドリア海の眺めが広がっていました。
ヴィラ・アンジェリーナの庭には、各国から集められた植物が植えられた庭園が設けられています。竹や庭石が置かれて、中国か日本風の眺めになっています。
再びメインストリートを引き返しました。
通りには、リゾート地とあって水着やリゾートウェアの店が並んでいました。
小公園に進みました。
遊歩道に出ると、乙女とカモメの像の脇にでました。像はアドリア海の方を向いており、遊歩道からは背中しか見えません。
朝の散歩を終えて、ホテルに戻りました。
朝になって改めて眺めたホテル・オパティア。
ホテルの前庭も美しく整備されていました。
ホテルのテラスから眺めた教会。
この日は、ポレッチ、ロヴィニ、プーラといったイストラ半島の小さな街の見学を行うことになりました。
オパティアの連泊で、体を少し休めることができます。