死海のホテルを昼前に出発してネボ山をめざしました。ホテルを出ると、車は高度を一気に上げていき、眼下に死海の眺めが広がりました。
ネボ山は817mの標高を持ち、モーゼ終焉の地とされています。山頂には、4世紀後半に建てられた教会をはじめ、モーゼにまつわるモニュメントが置かれています。
午前中に死海で泳いだことが嘘のように、雨が降って寒さに震える天候になっていました。
入り口から進んでいくと、2000年3月20日にヨハネ・パウロ2世が訪れた際の記念碑が置かれていました。
イスラム国にキリスト教の記念碑というと不思議に思えますが、モーゼはイスラム教においても、預言者の一人として崇められています。そのため、ネボ山は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となっています。
石に人の顔が彫りこまれています。
「モーゼ終焉の地ネボ山」の記念碑。
「転がる石」。要塞化された修道院のドアとして用いられていたようです。
教会の敷地からは、丘陵地を見下ろすことができました。谷の斜面の中央右寄りには、モーゼ伝説の泉「アイン・ムーサ」が見えています。
アインは泉、ムーサはモーゼのことです。モーゼが岩を杖でうつと水が湧き出てきたとのことです。
ネボ山の教会は、現在修復工事中で、内部には入れませんでした。
教会には入れませんでしたが、ここの見どころのひとつになっているモザイク画は仮小屋内で見ることができました。
このモザイク画は、ビザンチン時代(6世紀頃)の教会跡の床下から1976年に発見されたもので、531年に製作されたものです。
細かい模様が描かれていますが、床の上に置かれており、奥の方は斜めにしか見られないのは残念です。
モザイク画の置かれた仮小屋の奥には、展示室が設けられていました。
ここには、発掘された古いモザイクや柱が展示されています。
灯明用のランプでしょうか。
展望台に進むと、死海の眺めが広がりました。
また、パレスチナのエリコの街も視界に入ってきました。
旧訳聖書の申命記には、モーゼの死の予言が以下のように書かれています。
「その同じ日に、主はモーセに仰せになった。「エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように。あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」
残念ながらキリスト教徒ではないので、モーゼの死に特別な思いは抱けないのですが、はるばるエジプトから荒野をさまよいながら旅をしてきて、ここから見下ろせる約束の地にたどり着けないというのは、神も仏もないものと思ってしまいますね。
展望台の背後の金網で囲まれた教会の敷地内には、蛇が巻き付いている十字架が置かれていました。
これは、旧訳聖書の「民数記」に由来するモニュメントです。
「エジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中までやってきたときに、苦しみに耐えかねて不平を言った。そこで神は炎の蛇を送ったので、かまれた人々の中から死者が出た。民がモーゼに許しを願うと、モーゼは神の言葉に従って青銅で蛇を作り旗ざおの先に掲げた。この蛇を見たものは炎の蛇にかまれても命を永らえた。」
モーゼの「青銅の蛇」は、宗教画のモチーフとなっています。
ネボ山の見学を終えた所で近くのレストランで昼食をとりましたが、ここでは、「マウント・ネボ」とラベルされたワインを売っていました。イスラム国としては異例なことに思いましたが、キリスト教信者が数多く訪れる聖地であることが、このことからも判ります。
ネボ山は817mの標高を持ち、モーゼ終焉の地とされています。山頂には、4世紀後半に建てられた教会をはじめ、モーゼにまつわるモニュメントが置かれています。
午前中に死海で泳いだことが嘘のように、雨が降って寒さに震える天候になっていました。
入り口から進んでいくと、2000年3月20日にヨハネ・パウロ2世が訪れた際の記念碑が置かれていました。
イスラム国にキリスト教の記念碑というと不思議に思えますが、モーゼはイスラム教においても、預言者の一人として崇められています。そのため、ネボ山は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となっています。
石に人の顔が彫りこまれています。
「モーゼ終焉の地ネボ山」の記念碑。
「転がる石」。要塞化された修道院のドアとして用いられていたようです。
教会の敷地からは、丘陵地を見下ろすことができました。谷の斜面の中央右寄りには、モーゼ伝説の泉「アイン・ムーサ」が見えています。
アインは泉、ムーサはモーゼのことです。モーゼが岩を杖でうつと水が湧き出てきたとのことです。
ネボ山の教会は、現在修復工事中で、内部には入れませんでした。
教会には入れませんでしたが、ここの見どころのひとつになっているモザイク画は仮小屋内で見ることができました。
このモザイク画は、ビザンチン時代(6世紀頃)の教会跡の床下から1976年に発見されたもので、531年に製作されたものです。
細かい模様が描かれていますが、床の上に置かれており、奥の方は斜めにしか見られないのは残念です。
モザイク画の置かれた仮小屋の奥には、展示室が設けられていました。
ここには、発掘された古いモザイクや柱が展示されています。
灯明用のランプでしょうか。
展望台に進むと、死海の眺めが広がりました。
また、パレスチナのエリコの街も視界に入ってきました。
旧訳聖書の申命記には、モーゼの死の予言が以下のように書かれています。
「その同じ日に、主はモーセに仰せになった。「エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように。あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」
残念ながらキリスト教徒ではないので、モーゼの死に特別な思いは抱けないのですが、はるばるエジプトから荒野をさまよいながら旅をしてきて、ここから見下ろせる約束の地にたどり着けないというのは、神も仏もないものと思ってしまいますね。
展望台の背後の金網で囲まれた教会の敷地内には、蛇が巻き付いている十字架が置かれていました。
これは、旧訳聖書の「民数記」に由来するモニュメントです。
「エジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中までやってきたときに、苦しみに耐えかねて不平を言った。そこで神は炎の蛇を送ったので、かまれた人々の中から死者が出た。民がモーゼに許しを願うと、モーゼは神の言葉に従って青銅で蛇を作り旗ざおの先に掲げた。この蛇を見たものは炎の蛇にかまれても命を永らえた。」
モーゼの「青銅の蛇」は、宗教画のモチーフとなっています。
ネボ山の見学を終えた所で近くのレストランで昼食をとりましたが、ここでは、「マウント・ネボ」とラベルされたワインを売っていました。イスラム国としては異例なことに思いましたが、キリスト教信者が数多く訪れる聖地であることが、このことからも判ります。