モンサントの後はトマールのキリスト修道院にやってきました。トマールは昨日訪れたバターリャやファティマの東にあり、ポルトガル国内を北上するという旅行の行程からすると少し戻ることになります。
強固な壁を巡らせており、修道院といってもテンプル騎士団のちにキリスト騎士団の拠点として使われたもので、城に他なりません。
キリスト修道院の入り口の門
坂を登っていきます。
堀を巡らせ、高い城壁を設けています。
丘の上まで来て、ようやく入口の広場に到着。
ここで、少し長くなりますが、キリスト騎士団成立までの歴史についてふれておきましょう。
1095年にトルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還のための救援を依頼したことが発端となった。皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であったが、ローマ教皇の呼びかけによって第1回十字軍が編成された。十字軍は、掠奪、虐殺、強姦といった暴挙を行いながら、イスラム教徒支配下の都市を攻略しつつエルサレムを目指した。イスラム教徒の諸領主は十字軍に対し無為無策であり、連合して応戦することもできず潰滅した。一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めて、その結果エルサレム王国をはじめとする幾つかの十字軍国家が成立した。
第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、十字軍国家は慢性的な兵力不足に直面した。この事に憂慮して、聖地の守護及び聖地への巡礼者の保護を目的としてテンプル騎士団が誕生した。
しばらくの間、中東においてキリスト教徒の十字軍国家と、イスラム教徒群小の都市が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返したことによって第二回十字軍が編成されたが、全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。1187年にアイユーブ朝はジハード(聖戦)を宣言し、サラーフッディーン(サラディン)は同年7月のヒッティーンの戦いで現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムを奪還した。同年中には十字軍国家の全てがアイユーブ朝の手に落ちた。
この事態を受けて、教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための第三回目となる十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。イングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わったものの、アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された。以後十字軍国家は守勢に回ることとなり、第九回十字軍の後の1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落し、ここに十字軍国家は全滅した。
テンプル騎士団は、第三回十字軍の際には活躍し、イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとした。その結果、騎士団は、一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行って肥大化していった。テンプル騎士団が十字軍の資金の管理に関わるようになり、12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、フランス王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられるまでになった。
慢性的な財政難にあえいでいたフランス王フィリップ4世はテンプル騎士団の資産の没収をはかり、フランス人の教皇クレメンス5世と結託して、テンプル騎士団を入会儀式における男色行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で異端審問することにした。1307年10月13日、テンプル騎士団の会員は何の前触れもなく一斉に逮捕・処刑された。1312年には正式にテンプル騎士団の禁止を決定し、フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知した。
ヨーロッパ全土における迫害にもかかわら、ポルトガル王ディニス1世は、主にトマールのテンプル騎士団がレコンキスタと戦後のポルトガル復興に尽力したことから、1317年、同騎士団をキリスト騎士団として再構成した。キリスト騎士団は莫大な富を背景として、大航海時代という新たな時代をつくることになった。
長くなりましてが、これでも簡単にまとめたつもりです。
入口を振り返ってところ。
南門。
リスボンのジェロニモス修道院を手掛けたジョアンデ・カスティ―リョが1515年に建造。スペインのサラマンカで生まれたプラテレスコ(銀細工)様式で装飾されています。
上部には聖母子像。
扉の周辺には細かい装飾が施されています。
観光客用の入口の上に置かれていたテンプル騎士団のマーク。
入口を入ると、最初に墓の回廊が現れました。回廊はゴシック様式になっています。
15世紀にエンリケ航海王子が増築した回廊の一つで、修道士の墓地となっています。
回廊を飾るアズレージョは17世紀の改築の際に加えられたもの。
墓の回廊に隣り合う沐浴の回廊。
かつては貯水池があり、修道士たちが洗濯や沐浴を行いました。
この回廊もアズレージョで飾られていました。
墓の回廊に戻ってくると、これから見学する聖堂が見えてきました。
ヴァスコ・ダ・ガマの兄弟の墓。
キリスト騎士団聖堂。マヌエル1世の命により16世紀初めに建立。テンプル騎士団聖堂とつながっています。
キリスト騎士団聖堂の天井。
キリスト騎士団聖堂の床。
強固な壁を巡らせており、修道院といってもテンプル騎士団のちにキリスト騎士団の拠点として使われたもので、城に他なりません。
キリスト修道院の入り口の門
坂を登っていきます。
堀を巡らせ、高い城壁を設けています。
丘の上まで来て、ようやく入口の広場に到着。
ここで、少し長くなりますが、キリスト騎士団成立までの歴史についてふれておきましょう。
1095年にトルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還のための救援を依頼したことが発端となった。皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であったが、ローマ教皇の呼びかけによって第1回十字軍が編成された。十字軍は、掠奪、虐殺、強姦といった暴挙を行いながら、イスラム教徒支配下の都市を攻略しつつエルサレムを目指した。イスラム教徒の諸領主は十字軍に対し無為無策であり、連合して応戦することもできず潰滅した。一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めて、その結果エルサレム王国をはじめとする幾つかの十字軍国家が成立した。
第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、十字軍国家は慢性的な兵力不足に直面した。この事に憂慮して、聖地の守護及び聖地への巡礼者の保護を目的としてテンプル騎士団が誕生した。
しばらくの間、中東においてキリスト教徒の十字軍国家と、イスラム教徒群小の都市が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返したことによって第二回十字軍が編成されたが、全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。1187年にアイユーブ朝はジハード(聖戦)を宣言し、サラーフッディーン(サラディン)は同年7月のヒッティーンの戦いで現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムを奪還した。同年中には十字軍国家の全てがアイユーブ朝の手に落ちた。
この事態を受けて、教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための第三回目となる十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。イングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わったものの、アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された。以後十字軍国家は守勢に回ることとなり、第九回十字軍の後の1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落し、ここに十字軍国家は全滅した。
テンプル騎士団は、第三回十字軍の際には活躍し、イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとした。その結果、騎士団は、一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行って肥大化していった。テンプル騎士団が十字軍の資金の管理に関わるようになり、12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、フランス王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられるまでになった。
慢性的な財政難にあえいでいたフランス王フィリップ4世はテンプル騎士団の資産の没収をはかり、フランス人の教皇クレメンス5世と結託して、テンプル騎士団を入会儀式における男色行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で異端審問することにした。1307年10月13日、テンプル騎士団の会員は何の前触れもなく一斉に逮捕・処刑された。1312年には正式にテンプル騎士団の禁止を決定し、フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知した。
ヨーロッパ全土における迫害にもかかわら、ポルトガル王ディニス1世は、主にトマールのテンプル騎士団がレコンキスタと戦後のポルトガル復興に尽力したことから、1317年、同騎士団をキリスト騎士団として再構成した。キリスト騎士団は莫大な富を背景として、大航海時代という新たな時代をつくることになった。
長くなりましてが、これでも簡単にまとめたつもりです。
入口を振り返ってところ。
南門。
リスボンのジェロニモス修道院を手掛けたジョアンデ・カスティ―リョが1515年に建造。スペインのサラマンカで生まれたプラテレスコ(銀細工)様式で装飾されています。
上部には聖母子像。
扉の周辺には細かい装飾が施されています。
観光客用の入口の上に置かれていたテンプル騎士団のマーク。
入口を入ると、最初に墓の回廊が現れました。回廊はゴシック様式になっています。
15世紀にエンリケ航海王子が増築した回廊の一つで、修道士の墓地となっています。
回廊を飾るアズレージョは17世紀の改築の際に加えられたもの。
墓の回廊に隣り合う沐浴の回廊。
かつては貯水池があり、修道士たちが洗濯や沐浴を行いました。
この回廊もアズレージョで飾られていました。
墓の回廊に戻ってくると、これから見学する聖堂が見えてきました。
ヴァスコ・ダ・ガマの兄弟の墓。
キリスト騎士団聖堂。マヌエル1世の命により16世紀初めに建立。テンプル騎士団聖堂とつながっています。
キリスト騎士団聖堂の天井。
キリスト騎士団聖堂の床。