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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 ポーランドの食 その1

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ポーランドでの食事のまとめです。

グダンスク メルキュール・ポセイドンでの朝食。

朝食は、いずれもブッフェ・スタイルのため、自分の好みが入っていつも同じような内容になりました。




トルン メルキュール・トルン・セントラムでの朝食。

ポーランドは、ハムが美味しかったです。




ワルシャワ マリオットでの朝食。ここが一番内容が充実していました。旅の最後で草臥れて食欲が低下しており、あまり食べられなかったのは残念です。



二日目の昼食は、マルボルク城のレストランでとりました。雰囲気は満点です。



大皿のサラダ。



ローストポーク。



トルンのメルキュール・トルン・セントラムホテルでの夕食。

スープ。



カツレツ。



ケーキ。



ボズナンの旧市場広場のレンストランでの昼食。

サラダ。



スープ。



サーモン。



ブロツバフ パークディアメント ホテルのレストランでの夕食。

スープ。



ポーク。



ボレスワビエツの郊外レストランでの昼食。

サラダ。



スープ。細麺入り。



カツレツ。



ヴロツバフ市内のレストランでの夕食。

スープ。



ロールキャベツ。



アイスクリーム。



シヴィドニツァからクラクフへの途中のレストランでの昼食。

スープ。



サラダ。



ピエロギトッピング用のヨーグルトとベーコン。



ピエロギ。水餃子の一種で、肉入りと野菜入り。本来はもう少し小型ですが、ツアー会社のほうで日本人には食べきれないので少なくとリクエストしたところ、数は少なくなりましたが、大型になってしまいました。これでも多すぎました。

さすらいの風景 ポーランドの食 その2

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クラクフ ベストウェスタンプレミエール ホテルのレストランでの夕食。

スープ。



魚。



ケーキ。



ワルシャワ市内のレストランでの昼食。

スープ。



ローストチキン。



クラクフでの夕食。 個人食であったので、ホテル近くのショッピングサンターのフードコートでピザを食べました。1000円ほどでボリューム満点でした。



クラクフ市内のレストランでの昼食。

サラダ。



肉団子。



クラクフ市内のレストランでの夕食。

スープ。



グラーシュ。



デザートにボンチキ。デザートにドーナツとなると、食べきるのは難しくなります。



ワルシャワ・王宮広場のレストランでの昼食。

スープ。



魚のフライ。



個人食であったので、ワルシャワ中央駅隣接ショッピングセンターのフードコートでハンバーガーの夕食。



ジャラゾヴァ・ヴォラのレストランでの昼食。



スープ。



ローストポーク。



クラクフの街角では、オブヴァジャーネと呼ばれるリング状のパンが売られていました。このパンは、ペーグルの原型と言われています。



ポーランドの主食は、ジャガイモですが、移動中の高速のパーキングの売店で売られていたジャガイモの値段を見て驚きました。15kg、6ズヴォティとあります。1ズヴォティは30円ほどなので、これひと袋が180円?1kgの単価としても安い。旅行中の日本では、産地の北海道が夏台風に襲われて値上がりして1個80円ほどしていたので、その値段に驚かされました。日本との価格差を考えれば、このジャガイモが土産に最適と考えられますが、重すぎます。



ニンジン、タマネギも激安で、ポーランドが農業国であることが実感できました。カレーも安くできそうです。



ポーランド観光中、飲み物などのちょっとした買い物には、コンビニが役に立ちました。

代表的なコンビニとして、カエルマークの、”żabka”(ジャプカ=ポーランド語でカエル)


ヴロツワフの旧市街地の店なので、凝った造りになっています。



もう一つは、Biedronka(テントウムシ)。

コンビニの他に、ガソリンスタンド付属の売店も利用価値が高いです。冷えたビールも手に入ります。



ポーランドでは、多くのメーカーのビールが売られていました。

右のジヴィエツ・ビールは、ポーランドの定番ビールで、ポーランド航空の機内食でも提供されていました。



ティスキエ・ビールもポーランドの定番ビール。







マルボルク城で売られていた地ビール。少し高めでした。左のメーカーのものはレストランで飲み、右は寝酒用に買いました。





レストランでは、グラスで提供されることが多いので、グラスに書いてある名前が頼りです。





OKOCIMも良く見かけるビール。



ウォムジャ・ビール。

ポーランドの酒というとウォッカが有名ですが、きつい酒は飲まないので買いませんでした。

さすらいの風景 ポーランドの土産

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ボレスワヴィエツは、14世紀にはじまる陶器造りで知られています。訪問の記念として、陶器博物館の売店でコーヒーカップを買いました。偶然ですが、ガイドブック「地球の歩き方」で紹介されているものと同じでした。



Zakłady Ceramiczne "BOLESŁAWIEC"(ザクワディ・ツェラミチネ・ボレスワヴィエツ ボレスワヴィエツ陶器製造会社)のスタンプには、左の「クラシック柄(伝統柄)とハイ・スタンダード柄」と、右の「ユニーク柄とアート柄 」の二種類があるようです。



購入した者には、後者のマークが押されていました。「アート柄 」には、手描き作者の名前が入るようなので、「ユニーク柄」のランクのようです。



ヴィチナンキ柄のマグカップ。ヴィチナンキとは、18世紀から続くポーランド伝統の切り絵で、その模様を使った様々な製品が売られています。



木彫り装飾の箱。

ボズナンの土産物屋で買いましたが、おそらくクラクフよりも安かったはずです。



グダンスクで買った琥珀のマグネット。バルト三国旅行でも同じようなものを買いました。



ジャラゾヴァ・ヴォラのショパン生家のミュージアムショップで買ったマウスパッド。

他にショパンのCDも買いました。



トルン名物のピエルニク。ジンジャーブレッドともいわれます。


左は、ピエルニクの専門店で買った詰め合わせ。中にジャムが入ったものもあり、美味しかったです。右の二つはスーパーで買ったもの。



クルクフ。ポーランド製生キャラメル。



上二つは、マシュマロをチョコでくるんだ鳥の巣(ブタシュチェミチョコ)。
下は、トルチク ヴェドロフスキ。チョコレートワッフルケーキ。

いずれも、ヴェデル社製。



チョコレート各種。右下は、ジャラゾヴァ・ヴォラのショパン生家のミュージアムショップで買ったもので、他はヴェデル社製のものです。

ヴェデル社は、ポーランドを代表する有名菓子ブランドで、スーパーでも多くの製品を見かけます。土産の菓子としては、ヴェデル社製のものを選んでおけば良いと思います。



プリンス ポロ。層になったウェハースの上からダークチョコレートをコーティングしたチョコレートバー。大きなものは、スーパーでの購入品。小さなものは、ポーランド航空のおやつとして配っていました。



ヴィエリチカ岩塩抗で買った岩塩。

さすらいの風景 成田からメキシコシティ

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2017年最初の海外旅行として、マヤの遺跡を目的として、メキシコに出かけることにしました。選んだのは、以下のツアーです。

「新・メキシコハイライト8日間」(阪急旅行社)
2017年
1日目 1月11日(水)
成田発 15:25(AM-0057)メキシコシティ着 12:50
メキシコ国立人類学博物館観光
(メキシコ・シティ ガレリアプラザ泊)

2日目 1月12日(木)
ポポカテペトル山麓16世紀修道院群・ウェホツィンフランシスコ修道院)、プエブラ観光(サント・ドミンゴ教会、プエブラ大聖堂、ソカロ広場、パリアン市場)
(メキシコ・シティ ガレリアプラザ泊)

3日目 1月13日(金)
メキシコシティ歴史地区観光(メトロポリタン大聖堂、ソカル広場、テンプロ・マジョール遺跡、国立宮殿)、メキシコ国立自治大学、テオティワカン観光、グアダルーベ大聖堂
メキシコシティ発 22:05(AM-0647)メリダ着 23:55
(メリダ ハイアットリージェンシーメリダ泊)

4日目 1月14日(土)
マヤバン遺跡観光、カバー遺跡、ウシュマル遺跡、メリダ市内観光
(メリダ ハイアットリージェンシーメリダ泊)

5日目 1月15日(日)
チチェン・イツァー遺跡観光、シケケンセノーデ、バジャドリ市内観光、
(カンクン クリスタル・グランド・プンタカンクン泊)

6日目 1月16日(月)
トゥルム遺跡観光
カンクン発 19:19(AM-0944)メキシコシティ着 21:15

7日目 1月17日(火)
メキシコシティ発 00:35(AM-0058)

8日目 1月18日(水)
成田着 06:20

成田からメキシコ・シティへは、往路13時間の長時間のフライトなので、少しでも楽なように、京成成田駅前のアパホテルで前泊しました。

両替は、現金を表に出す安全の面から成田空港で行いました。



今回乗るのは、アエロメヒコ航空。登場ゲートからは、残念ながら航空機のロゴマークを眺めることができませんでした。



代わりに、メキシコ・シティーからメリダに移動する際の航空機の写真を載せておきます。アエロメヒコ航空のロゴマークは、かつてメキシコの帝国を築いたナワトル族の鷲の戦士をモチーフとしたものです。



アエロメヒコ航空のロゴマークのオリジナルは、メキシコ国立人類学博物館で見ることができます。



正月明けで旅行客も少ないはずで席は空いていると思ったのですが、満席でした。

離陸後1時間ほどで、ドリンクサービス。ビールとしては、テカテが出されました。



続いて機内食。チキンを頼んだら和食でした。ビールは、コロナ。



メキシコシティーへは、サンフランシスコ付近めざして太平洋を横断した後に、アメリカ大陸の海岸線沿いに南下しました。



アメリカ大陸上空に入ってからの写真。ボーイング787は、窓が電子カーテンのため、空き席からちょっと写真を撮るのは難しいですね。



到着2時間前に、二度目の機内食。パスタを頼んだら、焼きうどんでした。到着後に観光が始まるので、ビールは自粛しておきました。



メキシコ・シティのベニート・フアレス国際空港に無事到着。通関はスムーズでしたが、面白かったのは、自分でボタンを押して赤が点灯すると荷物検査を受けるというシステムでした。その他に、出口付近で係員に目を付けられると、スーツケースを開けての荷物検査を受けることになりました。幸い、二度とも免れることができました。




航空機は、「メキシコ・シティからメリダ」、「カンクンからメキシコ・シティ」、「メキシコ・シティから成田」への便に乗りましたので、合わせて載せておきます。

メキシコ・シティからメリダへは、1時間50分ほどです。



国内線で時間も短いので、ドリンクサービスのみ。




帰国は、カンクンからメキシコ・シティに飛んで、乗り換えて成田に向かいました。カンクンからメキシコ・シティへは、3時間ほどのフライトです。カンクンとメキシコ・シティの間には、1時間の時差があるので注意が必要です。



カンクン国際空港の売店の規模は小さなものでした。メキシコでは、国内線と国際線を自由に行き来できますが、ここの国際線の売店では、カンクン発の航空券が国内線のため、買い物ができませんでした。



地上から搭乗。



カンクンからメキシコ・シティへは、ドリンクサービスのみでしたが、ビールはもらえました。



メキシコ・シティのベニート・フアレス国際空港では、3時間強の乗り換え時間になりました。



土産物屋は、あまりありませんでした。

キャンディーの店。



調味料の店。



砂糖菓子の店。



このコンビニは、利用価値が高いです。



この日の夕食は、10ドルがわたされて、個人でということになりました。コンビニでコーラ、スターバックスでサンドイッチを買って夕食にしました。



成田へは、深夜の出発になりました。成田までは14時間30分のフライト。辛いですね。



深夜ということで、ドリンクサービスは無く、そのまま食事。

チキンのトマト煮ですが、容器の片隅に転がっており、異様なスカスカ状態でした。普通ならポテトでも入れてあるところでしょう。



復路は、往路とは違ってアラスカまで北上してから南下しました。



朝食は和食。鮭は美味しかったですが、ご飯がまずかった。

アエロメヒコ航空の機内食は、他の航空会社と比べて、劣っていると感じました。

メキシコへは、直行便もあって良いですが、帰りは忍耐の長時間フライトになります。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その1

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空港からメキシコシティー市内に向かい、まずは国立人類博物館を見学しました。

国立人類博物館は、緑豊かなチャプルテペック公園の中にあります。



国立人類博物館は、1964年にオープンし、マヤ・アステカ等の出土品を納めた考古学博物館です。メキシコツアーでは、いろいろな遺跡を見学することになりますが、出土品の多くはここに集められています。



この国立人類博物館は、エジプト観光におけるカイロ考古学博物館と同じように、観光のハイライトといえます。

日本からの長旅で疲れていますが、気を引き締めて見学しましょう。



入口の上に描かれているレリーフは、「湖に突き出た岩に生えるサボテンに、蛇を咥えた鷲がとまる様子」を現しています。

放浪していたアステカ人は、住み着く場所を求めてメキシコ中央部にやってきたものの、すでに良い場所は国々の支配下にありました。仮住まいしていると、ある時、神官が「サボテンの上に蛇を食らう鷲がいる土地こそがお前たちの土地である」という神託を下しました。彼らがメキシコ盆地のテスココ湖上の島に上陸した時、まさにその光景を見たことから、そこに人工の島を造り、テノチティトランという都市を築きました。そこを基盤として、やがてアステカ帝国へと発展していきました。テノチティトランは今日のメキシコシティーの中央部にあたります。

この伝説は、現在のメキシコの国旗やメキシコの国章に描かれています。



国立人類博物館入口のホール。切符売り場とミュージアムショップがあります。

マヤ・アステカ文明とひとまとめにして呼ぶことが多いですが、メキシコ及び中央アメリカ北西部では、この他にオルメカ文明やテオティワカン文明などが興亡したことからメソ・アメリカ文明と呼ぶ方が適切です。

ひと昔前は、世界四大文明として、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明が挙げられましたが、最近ではメソ・アメリカ文明、アンデス文明を加えて世界六大文明と呼ばれるようになっています。

メソ・アメリカ文明では、周辺に大河が無いとか、鉄器の使用まで発展せずに石器の使用に留まったとか、世界四大文明における文明の定義には当てはまらないところがあります。、



国立人類博物館の展示室は、中庭の周りにコの字型に広がっています。中庭では、木の形をしてる柱が天井を支えており、水が流れ落ちています。



マヤ文明では、セイバの木(パンヤノキ)が天界と地界をつなぐ世界樹として信仰されていました。世界樹というと、北欧神話でも出てきますね。



国立人類博物館は、以下の部門に分かれています。
1階 考古学フロア              
第1室 先住民文化
第2室 人類学入門
第3室 アメリカの起源
第4室 先古典期
第5室 テオティワカン
第6室 トルテカ
第7室 メヒカ(アステカ)
第8室 オアハカ
第9室 メキシコ湾岸
第10室 マヤ
第11室 西部
第12室 北部
2階 民族学フロア

時間の制約もあり、テオティワカン、メヒカ(アステカ)、マヤを中心に見学することになりました。全部をじっくり見ようとするならば、丸一日でも足りないことでしょう。

まずは、第5室 テオティワカンの見学です。

メキシコシティ近郊にあるテオティワカンは、紀元前150頃に起こり、最盛期の450年ころには人口20万人を越える世界有数の都市となりましたが、650年頃に謎の滅亡をとげました。後のアステカ人が、巨大遺跡を見て、テオティワカン(神々の座所)と名付けた、謎の多い文明です。

3日目にテオティワカン遺跡を見学することになります。、



入口に置かれているのは、太陽の円盤。

太陽のピラミッド前の広場から発見されたもので、髑髏は太陽神トナティウで、突き出た舌は太陽光線を表しているといいます。



ケツァルコアトル神殿のレプリカ。2世紀頃に作成。

二つの像が交互に飾られています。



これは、ケツァルコアトル神(羽毛のある蛇)。もう一つは、雨神トラック。目玉は下に並んだ二つの〇で、上は飾り。



球技のゴール・マーカーとして利用された「ラ・ベンティアの石標」。

球技は、メソ・アメリカで広く行われていましたが、マヤ世界では丸い輪をゴールとしていたのに対し、テオティワカンのものは異なっています。テオティワカンとマヤは、共通点が多いものの、それぞれ別の文化だったことが判ります。



テパンティトラ神殿の壁画を復元したレプリカ。



雨神の神官たちが儀式をし、種を蒔くところ。





チャルチウトリクエ女神。月のピラミッドの前から発掘された3.19mの高さを持つ巨像です。



チャルチウトリクエとは、「翡翠のスカートの女神」という意味で、水の女神。雨神のトラロックの妹であり嫁ということのようです。



ティカル遺跡の石碑31のレプリカ。





正面にはマヤ風の正装の王が、両脇にはテオティワカン様式の装いの戦士が描かれています。

マヤ文字解読の結果、テオティワカンの王である「投槍器フクロウ」が息子をマヤの大国の支配者に据えたという説が有力になってきました。テオティワカンの影響が広い範囲に及んでいたことが判ります。

なお、「投槍器フクロウ」というのは、王の名前がマヤ文字で投槍器を持ったフクロウとして現されるものの、読み方が判らないため王のあだ名として使われているものです。マヤ文明では、「大ジャガーの足」や「18ウサギ」など、マヤ文字の形によって王があだ名で呼ばれています。



小さな出土品も展示されていました。





黒曜石のナイフ。メソ・アメリカ文化では、鉄器時代には発展せず、石器の使用に留まりました。また、上部右側に置かれているのは、エイの尾です。

マヤ文明では、王がエイの尾や黒曜石のナイフなどで自らのペニスや舌に傷をつけて血を流すことによって神を喜ばせる放血の儀式が行われていました。

高度な数学や天文知識や、鉄器を使わないハンディのもとでの建築技術を発達させた反面、このような放血儀式や生贄の習慣がメソ・アメリカ文明の理解を難しいものにしています。



三足土器。



土器類。

時間も限られているため、主なものだけを見学します。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その2

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「第5室 テオティワカン」に続いて、「第6室 トルテカ」を簡単に見学しました。

トルテカ文明は、テオティワカン崩壊後の7世紀頃~12世紀頃にメキシコ中央高原北部を支配した城塞都市で起こりました。テオティワカンでは見られなかったマヤ芸術の影響が入ってきています。

入口に置かれたチャックモール像。中央に生贄の心臓を置きました。トルテカ文明を代表するトゥーラ遺跡では、このチャックモール像が12体も発掘されました。

このチャックモールという言葉は、チチェン・イツァー遺跡から幾つかのチャックモールを発見した19世紀の探検家ル・プロンジョンが、マヤ語からもっともらしく作った言葉で、実際の呼び名は判っていないとのこと。一応は、「赤いジャガー」とか「大きなジャガーの足先」という意味とされてはいますが。

ル・プロンジョンは、発掘の業績をあげてはいるのですが、マヤ文化の研究者としてダークサイドに落ちてしまった人でもあります。ル・プロンジョンは、アトランティスに魅入られて、僅かに現存するマヤ文章の一つである「トロアノ絵文書」に書かれていたマヤ文字を独自に読み解いて「マヤ人はムー(アトランティスのマヤ語読み)の滅亡を逃れてきた末裔で、大陸崩壊後にはムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作った」などと主張しました。

「ムー大陸」がマヤ文字が起源になっているとか、オーパーツ(それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品)と見られる出土品、2012年滅亡を予言したマヤ歴など、マヤ文明には、「とんでも本」で扱われる事項が多いですが、それらについてはおいおいと。



カカシュトラの壁画のレプリカ。ジャガーの戦士。











トゥーラ遺跡の戦士像。遺跡の神殿には、4体の像が並んでおり、二つはレプリカに置き換えられて、本体はここに収められています。



球技のゴール。



中庭には、トゥーラ遺跡の壁が置かれていました。レプリカだろうと思います。



その一部拡大像ですが、蛇に飲み込まれる人が連続的に描かれており、その腕は肉は剥ぎ取られて、骨が出ているように見えます。



兵士の頭部。



三足土器。



第6室 トルテカと第7室 メヒカ(アステカ)の間には、球技のゴールが展示されていました。



マヤ文明では、重要な国家行事の一つとして行われました。一般的なルールとしては、足先や手足は使えず腰だけでボールを打つというもので、二人一組あるいはもっと人数を増やして、二組に分かれて対戦したといいます。ヒザや前腕部、肘、スティックをプラスする場合もあったようです。高い所に置かれた輪の中の穴にボールを入れたら勝ちになったようですが、的に当たったら得点というルールもあったようです。

生贄になったのは勝者の方という説もありましたが、それでは競技者にとってあまりに割が合わないということで、やはり負けた方が命を奪われたようです。選手には、貴族や王がなったので、必死になって競技が行われたようです。



重いゴムボールが使われたので、選手は防具を付けて競技しました。

この球技を再現した実演が観光客向けに行われているようですが、現在では球技の詳細は全く分からなくなってしまっているので、この実演がどこまで再現できているかは不明です。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その3

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「第7室 メヒカ(アステカ)」は、この博物館の最大の見どころになっています。

アステカは、1325年~1521年に栄え、最盛期にはメキシコ中央部のほとんどに版図を広げました。

入室すると、奥に巨大な太陽の石が見えてきますが、その前にアステカが大国になるまでの歴史を振り返りましょう。



レプリカですが「巡礼絵巻」と呼ばれる展示物があり、これにアステカ建国までの歴史が記されています。

メキシコの国章に関連して先に述べましたが、北部で生活していたアステカ人は、自分たちの神ウィツィロポチトリの導きで、新天地を求めて放浪の旅に出ました。

その途中、ウィツィロポチトリ神から、「お前たちはアステカではなくメシカと呼ぶように」とのお告げがでました。このメシカが、メヒコに少し変化して、後のメキシコの由来になりました。ただ、慣例的にこれ以後もアステカ人あるいは文明と呼ぶことにします。

メキシコ中央部にやってきたものの、すでに良い場所は他の国に支配されていました。仮住まいしていると、ある時、神官が「サボテンの上に蛇を食らう鷲がいる土地こそがお前たちの土地である」という神託を下しました。彼らがメキシコ盆地のテスココ湖上の島に上陸した時、まさにその光景を見たことから、その島の周りの浅瀬を埋め立てて、テノチティトランという都市を築きました。1325年に、アステカ人はついに自分の国を持つことになりました。



テスココ湖上の島に築かれたテノチティトランの復元模型。

当初、アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるアスカポツァルコの庇護を受けていましたが、1428年にアスカポツァルコを滅亡させてアステカ帝国が誕生しました。周辺の国々を従属国として重税を課して栄え、1519年にコルテス率いるスペイン人が到来した時点で、アステカの支配は約20万平方キロメートルに及び首都テノチティトランの人口は数十万人に達し、当時、世界最大級の都市になっていました。コルテス率いるスペイン人の攻撃によってテノチティトランが陥落した1521年がアステカ終焉の時となりました。



中央の大神殿は1487年に完成したもので、上には、右にウィツィロポチトリの神殿、左にトラロックの神殿が置かれていました。

1519年11月8日にコルテス率いるスペイン軍がテノチティトランに入場する際には、水の上に浮かぶ都市のあまりの壮麗さに呆然とし、夢かと思ったそうです。

テノチティトランは現在のメキシコシティのソカロ地区にあったのですが、残念なことにスペイン人によって破壊されて、その跡地にはメトロポリタン・カテドラル他の建物が建てられてしまい、僅かにテンプロ・マヨールの遺跡が見られるだけになっています。



脇には、神殿の大きな復元模型が置かれていました。



発掘された頭蓋骨や黒曜石のナイフ。



「第7室 メヒカ(アステカ)」の展示物を、入口から見ていきましょう。

ジャガーの石像。ネコに見えますが。

「クアウシカリ」と呼ばれるもので、背の中央の穴に生贄の心臓を入れるために使われました。アステカの人々は、太陽の寿命を延ばすために生贄になることを崇高な行為であると考えていました。そのため、戦勝記念や神殿の落成式、王の即位式、月に1回以上あるお祭りで、何百、何千もの人々が殺されたようです。神殿は、こびりついた血で黒々として、異臭を放っていたといいます。さらに、死体の皮を剥いで着たり、死体の肉を皆で配分して食べたりと、現代人にはタブーの一線を越してしまっています。



円形の台座。



側面には戦う戦士のレリーフが飾られています。



左の像は、戦いと太陽の神であるウィツィロポチトリの母のコアトリクエ。右の像は火と光の神シュウテクトリ。



コヨルシャウキ女神の頭部。アステカの月の女神で「黄金の鈴」を意味し、頬や帽子に鈴の模様が彫られています。大地母神コアトリクエの娘で、ウィツィロポチトリの姉にあたります。



太陽の石(アステカ・カレンダー)。

直径は3.6mあり、メキシコシティ中心部にある大聖堂の修復工事中に発見されました。中央は擬人化された太陽で、口から出ているのは人身供養用のナイフ。

太陽の周りにある4つの絵文字は既に滅んでいる4つの太陽を表しています。第1の時代はジャガー、第2の時代は大風、第3の時代は火の雨、第4の時代は洪水によって滅んだと考えられ、現在は第5の太陽の時代になります。なお、第5の太陽の時代は、大地震で滅ぶことになっているようです。

中央の太陽の周りの絵文字はジャガー、風、火の雨、水を表しています。

次の2番目の輪にはナワトル語の20の暦名。3番目の輪には装飾模様、4番目の輪にはトルコ石と翡翠のシンボル、春分・夏至・秋分・冬至のシンボル。最も外側には2匹のシウコアトル(トルコ石ないし火のヘビ)。2匹のヘビは下で向かい合い、大きく口を開けています。



太陽の石(アステカ・カレンダー)の中央部。



脇に説明版が置かれていましたが、日本語の説明が無いと理解できませんね。



コアトリクエ像。この博物館で有名な展示品のひとつです。

「ヘビの婦人」を意味するアステカの大地母神で、アステカ人をティノチティトランに導いた最高神ウィツィロポチトリの母です。

最上部の二匹の蛇を対面させたものが頭で、口からはヘビの牙と先が2つに分かれたヘビの舌が出ています。首から両肩にかけて流れ出す血がヘビの頭の形で表され、腕を形作っています。切り取られた人間の手と心臓と頭蓋骨が女神のペンダント。スカートは曲がりくねった無数のヘビ。

首から流れ出すヘビは豊穣祈願を、手・心臓・頭蓋骨でできたペンダントは太陽を養うために人の血と生贄が必要なことを表し、この像は人の誕生と死を象徴してているとのこと。



コアトリクエ像の上部。



死の神ミクトランテクトリの司祭の像。

アステカの死後の世界は、天と地下階に振り分けられますが、日頃の善行ではなく、死に方で決められます。生贄と戦死した人の魂は東の天国、お産で死んだ人の魂は西の天国に住みます。4年後には、ハチドリや美しい蝶に生まれ変わります。

また、水死、落雷死など雨や水に関係して死んだ人、小人や不具者、皮膚病、伝染病、痛風の人々はトラロックに愛されて、天界の4層目にあるトラロックが支配するトラロカンという楽園に住むことができます。

それ以外の人々は、地下世界のミクトランに行くことになります。冥界では大風が吹き、ナイフが降ってきたり、怪物と戦う必要もあります。食べ物は、虫や毒草。途中では、心臓を取り出して捧げることも行う必要があります。4年の苦難の旅の後に冥界の王のミクトランテクトリのもとに辿りつくと、魂は完全に消滅してしまいます。

死後の3コースから選ぶなら、暴飲暴食で痛風になって死ぬのが一番良さそうですがね。



死の神ミクトランテクトリの司祭の腰の部分のレリーフのように見えます。



シワテテオの像。

アステカでは将来戦士となる男子を出産する際に命を落とした女性は、みなシワテテオという神になるとされました。

彼女らは戦場で死んだ戦士の魂を運ぶ役割をしたと言われ、骸骨の頭と鉤爪を持っています。





これも暦でしょうか。



サルのように見えますが、ケツァルコアトル神もしくはケツァルコアトルの神官の像のようです。

羽毛のあるヘビの姿をしていたケツァルコアトル神も、各地の色んな神の要素が加わっていき、アステカのころにはこのような姿になったようです。



鷲の頭飾りを付けた鷲の戦士像。アエロメヒコ航空のロゴマークのもとになっています。

アステカ軍は、好戦的で戦闘能力が高く、アステカが滅んだのはスペイン人の持ち込んだ天然痘に負けたのと同時に、戦闘の際にスペイン人を殺害せず、生贄のために捕虜にするのに手間取ったかととも言われています。

また、アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在しました。「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになったとも言われています。



これも鷲の戦士像でしょうか。







「花の王子で青春・愛・踊り・詩・劇」などを司る神ショチビリ。





小さな水晶の彫り物が展示されていました。



そこで目に留まったのは、水晶髑髏(クリスタル・スカル)。

小さくて期待外れですが、ここに展示してあるので、本物の出土品でしょう。

現在、十数個が確認されており、そのほとんどがマヤ文明やアステカ文明、インカ帝国といった中南米の考古遺物とされています。当時の技術水準から考えてあまりにも精巧に造られているとも思えるためにオーパーツとして取り上げられますが、本当に出土品であるかどうかについて懐疑的な説があります。

なお、オーパーツ「OOPARTS」とは、英語の「out-of-place artifacts」を略したもので、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指します。メソ・アメリカ文明関係では、この水晶髑髏の他に「パレンケ王の石棺の浮き彫り」が例として挙げられます。これについては、後ほど。

道具による加工痕が無いとされていた水晶髑髏でも、走査型顕微鏡の精査ではダイヤモンド研磨剤による切削痕が見られて、人工物と判明したものもあります。一方、時間をかけて磨いていけば人間の手でも髑髏への加工は可能とも言われています。



クリスタル・スカルで、思い起こすのは、インディー・ジョーンズシリーズ第4作「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」でしょう。ここに登場するクリスタル・スカルは、細長く宇宙人のものとされていますが、マヤやインカ人には生後4~5月に頭に矯正器具を取り付けて頭蓋変形を起こすという習慣がありました。

「水晶ドクロは全部で13個あり、全てが再び一ヶ所に集結した時、宇宙の謎が暴かれる」「2012年までに一箇所に集めないと世界は滅びる」といった元ネタ不明の説があるようですが、この映画の中で13人の宇宙人の骸骨が登場したのも、この説に基づいていたのでしょうか。

インディー・ジョーンズシリーズは好きな映画ですが、この第4作には失望しました。神秘主義(オカルティズム)あるいは超常現象の話であってこそのインディー・ジョーンズです。最後に宇宙人と宇宙船が出てきて、B級SF映画に成り下がってしまいました。



黒曜石の壺。猿は雨を降らす雲を象徴しているようです。見事な研磨面です。



ケツァール鳥のはねで作られた頭飾りのレプリカ((1952年に作製)。

アステカ王モクテスマが 征服者コルテスに献上したと言う頭飾りのレプリカで、 オリジナルはウィーン民族博物館にあります。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その4

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第9室 メキシコ湾岸

ここでは、メキシコ古代文明の母ともいわれるオルメカ文明(前1200~前400年)に関する展示が行われています。

オルメカとは「ゴムの国々の人々」という意味で、アステカ人がこの地域の人々をそう呼んでいたことに由来します。実際にどのような人々がオルメカ文明を発展させたかは判っていません。



オルメカ文明を代表する巨大人頭像。4つの遺跡から17個の像が発見されています。



石像は、平均8トン、最大のものは24トンもの重量があります。原料の玄武岩は、100km以上離れた山でとれたもので、どのように運んだのか謎になっています。

残念ながら、この部屋では、この像を見ただけで移動。他の展示物もあったのですがね。ツアーの日程では、アステカ室とマヤ室を1時間で見るだけとなっているので、1時間半ほどかけてめぼしいものを一通り見せてくれたのは感謝ではあります。



第10室 マヤ。ここもみどころの一つです。

マヤ文明は、メキシコ南部・ユカタンからグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバトルにかけて栄えました。最盛期と言われる250~900年を古典期、その前後を先古典期(前1600?~250年)、後古典期(900~16世紀)と呼びます。

最近の発掘で先古典期の開始時がどんどん遡っていっており、オルメカ文明との前後関係が論争になってきています。

マヤでは、多くの国が生まれて統一されたことはありませんでしたが、同じ文化を共有しました。ただ、前2000年頃には一つのマヤ語であったものが、スペイン人がやってきた時には、約30に細分化されてしまっており、部族間の会話は困難になっていました。



入口には、パカル遺跡から発掘された神の頭に装飾をほどこした香炉が置かれていました。



ヤシュチラン遺跡のリンテル(入口の上の開口部に置かれる横石)

「楯ジャガー2世」と「カバル・ショーク王妃」が向かい合い、王妃がジャガーの兜を王に手渡す様子が描かれています。



印象的な顔です。





摩耗が進んで少し判り難いですが、右側の戦士が左に倒れている戦士の頭を持っているように見えます。



マヤ文字が書かれた石碑。

マヤ文字には、日本語の漢字とひらがなと同じく、表音文字と表意文字からなります。



その一部拡大。

一マス分の文字の中の、主要な大きな部分を「主字」と呼び、小さな部分を「接字」と呼びます。

兎と猿がそれぞれの主字でしょうか。





この石碑のマヤ文字は、前のものより単純に見えますが、マヤ文字では複雑な書き方と簡単な書き方があったようです。



マヤ絵文書のレプリカ。


マヤ文字の解読を難しくしている原因に、マヤ絵文書としては、ドレスデン絵文書、パリ絵文書、マドリッド絵文書、グロリア絵文書の僅か四点しか残されていないということがあります。

マヤ文字の解読の功労者であり重大犯罪人として登場するのが、スペイン人統治の初期の1549年に赴任した宣教師ランダです。彼の記した「ユカタン事物記」によってマヤ人の日常生活を知ることができます。その一方、キリスト教布教の情熱から、異教の神への信仰を捨てないマヤ人に対し、異端審問を強行し、拷問やむち打ちを行い、年間150人の死者を出しました。マヤ人の生贄の儀式をどうのこうのとは言えないレベルですね。さらに、マヤ人の絵文書を徹底的に焼き尽くしました。現在残されているドレスデン絵文書やマドリッド絵文書は、コルテスがスペインに持ち帰ったもののようです。

ランダは、このような学問上での重大犯罪人と言えるのですが、その反面、「ランダのアルファベット表」を残したことによって、マヤ文字解読に重要なヒントを与えることになりました。

マヤ文字の解読は、数字はできたものの、他の文字は不可能と判断されて、そのまま放置されていました。

そこに登場するのが、フランス人のブラ・スール神父。彼はメソ・アメリアの絵文書を幾つも再発見して紹介していましたが、1862年にマドリードの王立研究所の図書館で、埋もれていた「ユカタン事物記」を発見し、その中には「ランダのアルファベット表」という対応表が記されていました。これでマヤ文字が解読できると学会は色めきだちましたが、成功した者はおらず、ランダのアルファベット表」はでたらめと判断されることになりました。

「ランダのアルファベット表」の発見から90年後の1952年、ソ連のユーリ・クノローゾフは、ランダのアルファベット表に対応しているマヤ文字はスペイン語のアルファベットの音をそのまま記したものだと気づき、幾つかの文字の解読に成功しました。ランダがHはどう記すのかと尋ねると、マヤ人は「エイチ」と答えるといった具合です。さらに、マヤ人が音節文字を使っていることにも気づきました。音節文字の例を挙げれば、英語ではKAの二文字で現される音が、日本語ではカは一字で現されます。

クノローゾフによって、マヤ文字が表意文字と表音文字が合わさったものであることが解明されたことによって研究は進み、現在のマヤ文字の解読率は80%あるいは50%以下と言われています。



ブラ・スール神父が関係したマヤ文字解読のエピソードをもう一つ紹介しておきましょう。ブラ・スール神父は、ランダのアルファベット表を使って、トロアノ絵文書(マドリッド絵文書の持ち主の名前に由来する呼び名)の解読を試みました。文字の感じから自分に都合の良い字にあてはめたりと、でたらめな翻訳を行いました。その中にアルファベットのMに似た文字を見つけ、これを「ムー」と読みました。ブラ・スール神父は、以前からエジプト人とマヤ人はアトランティスの末裔だという持論を持っていたことから、「ムー」はアトランティスのマヤ語での呼び名だとして、「マヤ人はムー(アトランティスのマヤ語読み)の滅亡を逃れてきた末裔で、大陸崩壊後にはムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作った」と提唱しました。

ブラ・スール神父の考古学上の業績は、最大限に評価されるべきものですが、同時にトンデモ界を代表する「ムー大陸」の生みの親でもあります。考古学とトンデモ界の世界とは、紙一重のところで背中合わせになっているのかもしれません。

トンデモ界の分野として、一般にも知られることになった「マヤ歴における2012年滅亡説」については、チチェン・イツァー遺跡の項で述べることにします。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その5

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第10室 マヤの続きです。

サイル遺跡の復元された宮殿。近くのウシュマル遺跡と同じくプウク様式(マヤの言葉でユカタン半島中央部の丘陵地帯のこと)で造られています。



地下階に進むと、国立人類博物館の展示品として有名なヒスイの仮面が展示されています。

ヒスイの仮面は、パレンケの王墓から発見されたパカル王のもので、碑文の神殿の地下から発見されました。

パレンケは、ユカタン半島のつけねにあります。パレンケは、431年に開かれ、パカル王が統治した7世紀に繁栄しました。9世紀から都は段階的に放棄され、1746年にデ・ソリス神父が発見するまで、およそ800年の間ジャングルの中に眠ることになりました。



その地下王墓が実物大で再現されています。

1949年に、メキシコの考古学者のルイリエールが、碑文の神殿の修復を行っていると、床に石の栓が詰め込まれた奇妙な穴を発見しました。栓を抜いて石を持ち上げると、土や石で埋められた階段が現われました。地道な作業を続けて階段の下までたどり着くと、通路が現れましたが、厚さ3mの壁。これを壊して突破すると三角の石板が現れ、1952年にこれを開くとパカルの墓が現れました。

パカル王の墳墓の発見は、マヤのピラミッドは上に設けられた神殿の基壇であるという通説をつくがえすものになりました。



王の体には、水銀朱が一面に振りかけられており、翡翠の装身具がその周囲にちらばった状態で発見されました。

復元は難しかったようで、翡翠の仮面も、少し古い資料では違った姿をしています。口の中にも翡翠の球が入れてあります。





手には、翡翠の指輪がはめられて、翡翠の球を握りしめています。



棺と床の隙間に置かれていた頭部像のレプリカ。

右は、12歳で即位した時、左は成人したパカル王の姿を著したものと言われています。



パカル王の棺の蓋には、細かい彫刻が施されていました。(ネット上の画像を、白黒に変換して判りやすくしています。)

これは、オーパーツ(場違いな工芸品)の例として必ず取り上げられるものになっています。ロケットに乗り操縦桿を握った宇宙飛行士のように見えるため、古くからUFO研究家などからマヤ文明が宇宙人によって作られた文明であるとの根拠にされてきました。

宇宙船というよりは、スター・ウォーズに出てくるスピーダーバイクの方が良く似ていると思いますが。

なお、スター・ウォーズの一作目では、グアテマラにあるティカル遺跡が反乱軍の秘密基地として撮影に使われましたが、マヤ人は「スター・ウォーズ」を行っていたという説があります。1970年代末にマヤ文字の解読によって「古典期マヤ人は、金星の動きに合わせて、特に乾季に宵の明星として最初に昇る時に戦争を行った」という説が出ました。当時ヒットした映画から、この戦争はスター・ウォーズと呼ばれるようになりました。残念ながら、その後の研究の結果、スター・ウォーズの解読は誤りであったということになりました。どうもマヤ文明ではトンデモ本のネタに事欠かないようです。



実際には、縦に見るのが正解です。見る向きを変えただけで雰囲気が変わってきます。

中央に横たわるのがパカル王で、中央にあるのは、セイバの木で、天界に上る通路。上部には天界、下部には地下界が現されています。パカル王は、地下界の怪物に飲み込まれて、さらにそこから再生する様子が描かれているといいます。

正解はそうなのだとうと思いますが、宇宙船説の方が楽しいですね。



翡翠の仮面。



チチェン・イツァーの金星の基壇から発見されたチャック・モール。



チチェン・イツァーの祭壇を支える像。



チチェン・イツァーの聖なるセノーテは、儀式の場だったようで、 1882年と1968年には水を抜いて調査を行ったところ、金製品を始め、 銅、石、木、貝製品等の供物、さらに生贄と思われる、成人、子供の骨も回収されました。

ガイドツアーは、ここまでで、トイレや売店をのぞく自由時間になりました。



出口に向かう途中、第11室 西部をのぞいてみました。



内部で第12室 北部と続いていたようで、展示物がどちらのものかは判らなくなってしまいました。



土偶が並んでいました。







日本の縄文土器、「井戸尻遺跡群の坂上遺跡から出土した土偶」と良く似ていますね。





最後に売店をのぞいて見学は終了。博物館のガイド本が欲しかったのですが、スペイン語版しかなく断念しました。

ロングフライト後の見学で疲れましたが、見ごたえのある展示物で、これからの遺跡の見学が楽しみになりました。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その6

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国立人類学博物館見学後、独立記念塔近くのガレリアプラザホテルに入りました。このホテルでは、二泊することになりました。国立人類学博物館のあるチャプルテペック公園と旧市街地のソカロ地区の中間にあるため、出歩くには場所はあまり良くありませんでしたが、レフォルマ大通りにある独立記念塔はすぐ近くでした。



二日目の夕方に見た独立記念塔。周辺には高層ビルが並んでいました。

この塔は1810年に始まったメキシコ独立戦争の100周年を記念して、ポルフィリオ・ディアス大統領によって1910年に建設されたものです。塔の高さは48mあり、天使の部分だけでも6.7mあります。



塔の上に置かれた天使(アンヘル)像は、ギリシャの勝利の女神ニーケーをかたどったもので、右手には勝利を象徴する月桂樹、左手には自由を表すちぎれた鎖を持っています。



塔の足元には、メキシコ独立革命の父であるイダルゴ神父の像のほか、メキシコ独立戦争の英雄であるモレーロス、ゲレーロ、ミナ、ブラーボの像、さらに四方には、「法」、「正義」、「戦争」、「平和」を示す黒い像が配置されています。



独立記念塔の立つレフォルマ通りは、緑地帯も設けたヨーロッパの大都市の大通りに似た感じを持っています。

レフォルマ通りは、メキシコ皇帝マクシミリアンによって、王妃カルロッタ(ベルギー国王レオポルド1世の第1王女シャルロッテ)のために、フランスのシャンゼリゼ通りを真似て造られました。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟のマクシミリアンは、ナポレオン3世によって1864年に傀儡としてメキシコ皇帝に就けられましたが、政情の変化でナポレオン3世がフランス軍を引き上げたことによって、内戦後に銃殺という悲劇的な死をとげました。一方、妻のシャルロッテは、夫の帝国への支援を求めてパリ、ウィーンとヨーロッパをまわりましたが、努力が失敗に終わったことにより精神の崩壊を生じて幽閉状態の生活を過ごすことになり、2度とメキシコに帰ることはありませんでした。

ハプスブルグ家の没落の象徴的事件の一つであるマクシミリアン皇帝の遺産として、レフォルマ通りは興味あるものに思えました。



二日目の夜、独立記念塔を見学しました。



美しくライトアップされていました。









二日目の朝の独立記念塔。



レフォルマ通りには、多くの像が置かれています。これは、独立記念塔の東にあるディアナ像。





二日目は、プエブラの見学に出かけてメキシコシティを離れてしまったので、メキシコシティの市内観光は三日目になりました。

レフォルマ通りからソカロ広場に向かうと、クアウテモック記念像が現れました。

クアウテモックは、アステカ最後の王で、コルテスと戦いましたが、敗れた後に捕らわれ、財宝のありかを聞きだすために拷問に掛けられた後に絞首刑にされました。現在のメキシコでは国民的英雄になっているようです。



続いてコロンブス記念像。

コロンブスの評価も、「アメリカ大陸の発見者」から「大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達した者」と変わってきて、否定的評価の方が大きくなっています。



レフォルマ通りから離れると、アラメダ公園にあるベニート・ファレス記念碑の前を通りました。

ベニート・フアレス(大統領在任:1861~1863、1867~1872)はメキシコで唯一のインディオ出身の大統領で、「近代メキシコの父」とも呼ばれています。フアレスはフランスと傀儡政権メキシコ帝国(メキシコ第二帝政)に対する徹底抗戦を貫き、フランスの撤退後にマクシミリアンを処刑し、共和制の復活を達成しました。



続いて、ベジャス・アルテス宮殿(メキシコ国立芸術院)が現れました。メキシコでもっとも格調の高い劇場で、1905年に着工され、メキシコ革命の勃発で中断後、1934年に完成しました。大理石を使った壮観なアール・デコ様式の建物ですが、かつては湖であったメキシコシティの地盤が弱いことから、年間数センチずつ地面に沈下しているといいます。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その7

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バスを降りてソカロにやってきました。ソカロは中央広場という意味で、メキシコの他の街でもお目にかかることになりました。

三日目の当初の予定は、まずテオティワカンを見学してからメキシコシティに戻って旧市街地の見学を行うということになっていましたが、ストライキが行われてその集合場所がソカロであるというので、朝一番に訪れました。メキシコでは、たびたびストが行われ、それも当日にならないと情報が入ってこないといいます。数回前のツアーでは、ストにあってメキシコシティからメリダへへ飛ぶ飛行機に乗り遅れてしまい、バスの中で夜を過ごしたと聞きました。



あいにくとクリスマスシーズンに行われていた野外スケート場などのイベント会場の跡片付け中で、ソカロの中央部に進むことはできませんでした。

ソカロは、一辺が200mを優に超えるほぼ正方形をした広大な広場で、古代から政治や宗教の中心地として使われてきました。モスクワの赤の広場、北京の天安門広場に次ぐ広さのようです。



ソカロ広場の脇に立つと、威容を誇るメトロポリタン・カテドラルを見上げることになります。



巨大なメトロポリタン・カテドラルの全容を見るには、少し離れる必要があります。カテドラルには、後ほど入場することになりました。



ソカロの南東に接する小公園に、アステカ建国伝説の像が置かれていました。先にも述べましたが、「流離のアステカ人が、メキシコ中央部にやってきたものの、すでに良い場所は他の国に支配されていました。仮住まいしていると、ある時、神官が「サボテンの上に蛇を食らう鷲がいる土地こそがお前たちの土地である」という神託を下しました。彼らがメキシコ盆地のテスココ湖上の島に上陸した時、まさにその光景を見たことから、その島の周りの浅瀬を埋め立てて、テノチティトランという都市を築きました。1325年に、アステカ人はついに自分の国を持つことになりました。」

このテノチティトランのあった場所が、ソカロです。



ソカロの東側に沿って、国立宮殿が広がっています。

この国立宮殿は、1523年にアステカ皇帝の宮殿を破壊した跡地にコルテスが建てた宮殿がもとになっており、現存する建物は1692年の焼失後再建されたものです。



中央にあるバルコニーでは、独立記念日の前夜に大統領が立ち、ソカロに集まった数万の市民に向かって「メキシコ万歳、独立万歳」と叫ぶといいます。



バルコニーの上にも、メキシコ国章になっている「サボテンの上で蛇を食らう鷲」のレリーフが飾られています。



ソカルの北側のカテドラルの東隣に、テンプロ・マヨールの遺跡があります。首都の中心部に遺跡があることは、少し不思議に思ってしまいます。

1913年にアステカのものと思われる地下への階段が発見されたことから発掘調査が進み、テノチティトランの中央神殿跡であることが判りました。

コルテスによってアステカが滅ぼされた後、テノチティトランの神殿はすべて壊されて、スペイン人によって、新しい建物が建てられました。カテドラルや国立宮殿の下には、アステカの遺跡が埋まっているのですが、発掘は不可能になっています。

入場せずに、外観だけの見学は残念でした。



最後にメトロポリタン・カテドラルを見学しました。

この寺院も、16世紀アステカ帝国を滅亡に追い込んだスペインのコルテスの命によって、アステカ帝国の首都だったテノチティトランを徹底的に破壊した跡地に建てられました。1525年に建設が始まったメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、当初は木造に草葺き屋根の質素な造りでした。しかし、新大陸の中心に相応しい大聖堂をという声が次第に高まり、1563年に古い建物を壊し、新たな大聖堂の建設が始まりました。スペインから著名な建築家が何人も招聘され建設されたメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、完成までに250年を要し、ゴシック、ルネサンス、バロック、新古典主義などの様式が混在するカテドラルとなりました。

1614年には、伊達政宗が欧州に派遣した支倉使節団が訪れています。一行がヌエバ・エスパーニャと呼ばれていた現在のメキシコ経由で欧州に渡ったのは、現在の欧州への航路を考えると不思議な気もしますが、中米から大西洋にかけてスペインの支配が行き届いていたことによるためでしょう。また、ハプスブルク家出身のクマシミリアンもこの寺院でメキシコ皇帝の戴冠式を行っています。



カテドラルの東側にエル・サグラリオ教会が隣接して建てられています。このエル・サグラリオ教会は18世紀半ばに建てられ、メキシコ・バロック様式で造られています。

この写真は、東側からの眺め。



通常のバロック様式を越えた過剰な装飾が施されており、これはウルトラ・バロック様式として知られています。

この超過剰装飾は、スペイン侵略後に教会の建立に従事した先住民たちの美的感覚が混じって生まれた建築とされています。インディヘナ・バロック(先住民のバロック様式)やニュースパニッシュ・バロック(ヌエバ・エスパーニャのバロック様式)と呼ばれますが、日本では、写真家の小野一郎氏が名付けた「ウルトラバロック」という言葉で知られています。





壁一面に飾られているため、個々の像を一つずつ見定める気力が起きてきません。



メトロポリタン・カテドラルに入場しました。



高い天井を持った大伽藍です。



入口に置かれた祭壇。金ぴかです。



祭壇の右手前には、「黒いキリスト像」が置かれています。

毒に侵された信者から毒を吸い取ったため肌が浅黒くなったといわれています。



奥に進みます。



左側の通路を進みましたが、中央通路は信者しか入れませんでした。



左側通路奥の祭壇。



主祭壇は脇から垣間見るだけになりました。正面から眺めることができなかったのは残念でしたが、全面に金ぴかの装飾が施されているようです。



パイプオルガン。



入口近くの礼拝堂ですが、ウルトラ・バロックという言葉がぴったりの過剰装飾です。



見学時間の関係で薄暗かったですが、光が差し込むと、金色に輝くのでしょう。



大天使ミカエルでしょうか。



ソカロ広場から東に延びる道も趣がありましたが、ソカロ地区の見学はここまででバスに戻りました。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その8

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ソカル地区の見学後、壁画見学のためにメキシコ国立自治大学へ移動しましたが、その途中、三文化広場の脇を通り過ぎました。ここは車窓見学のみです。

トラテロルコ遺跡、16世紀建設のサンティアゴ教会、それを現代的な建物が取り巻いていることから、三文化広場と呼ばれています。



トラテロルコ遺跡は、アステカ時代の巨大市場の跡で、破壊後にその石材を使ってサンティアゴ教会が建てられました。



教会の前に見えるのは、大神殿の跡です。



メキシコ国立自治大学(UNAM)は、メキシコシティの南西部郊外にあり、学園都市を形作っています。

大学が近づいてくると、エスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオが現れました。1952年完成の多目的スタジアムで、1968年のメキシコシティオリンピックではメイン競技場として使用されました。ディエゴ・リベラの壁画が飾られています。



その拡大。



バスを降りて、壁画の見学を行いました。



本部の壁に設けられたシケイロスによる立体壁画「民衆から大学へ、大学から民衆へ」。



シケイロスは、メキシコ壁画運動の中心的芸術家です。



大学構内ということで出入りは自由で、学内のカフェ脇のトイレを使わせてもらいました。



大学中央図書館の四方の壁には、フアン・オゴルマンの壁画が飾られています。世界最大規模の壁画です。



南面は、「スペイン植民地時代の圧政」。



左側。



中央。



右側。



西面は、「UNAMの校章を中心として、学生たちの現代メキシコにおける役割」。



北面には「アステカ文明」、東面には「太陽と月」が描かれているようですが、見学させてもらえませんでした。



メキシコ国立自治大学のキャンパスは広大で、その中に建物が点在していました。



壁画かと思ったら幕でした。



シケイロス製作の「手と鉛筆」。



左端には、五つの年代が書かれています。

1520 テノチティトランにおけるアステカ人とコルテスの攻防戦。翌年にアステカ滅亡。
1810 スペインからの独立戦争開始。
1867 自由主義憲法制定。
1910 メキシコ革命。
19?? 後世の人が重要なできごとを記すため。記されることなく、時代は20??に変わってしまっています。

メキシコ国立自治大学の壁画は、2007年にユネスコの世界文化遺産に認定されています。大抵のツアーコースに含まれていますが、メキシコ革命時の政治的メセージを含んだ芸術活動にはあまり興味はなく、見学の時間を費やすなら、むしろテンプロ・マヨールに入場したかったなと思いました。

さすらいの風景 メキシコ・シティー その9

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テオティワカン見学を終えてメキシコ・シティに戻ってきて、グアダルーペ寺院を訪れました。

バスの停車位置の関係で、脇道からこの新聖堂を通り抜けて、脇の広場に出ました。



広場からは、旧聖堂の側面が見えますが、傾いています。





旧聖堂の塔の横の隙間は、もともとは建物がつながっていたようです。アステカ建国伝説の説明時に述べましたが、現在のメキシコシティのある場所は、もともとはテスココ湖で、それを埋め立てたもののため地盤が軟弱です。



グアダルーペ寺院の背後には、テペヤックの丘が広がっています。



丘の上には礼拝堂がありますが、残念ながら訪れませんでした。



テペヤックの丘の上への参道は、多くの参拝者で賑わっていました。



階段脇には、グアダルーペの聖母の飾りが置かれていました。



階段の右脇には、「グアダルーペの奇跡」についての像が置かれていました。これには、次のような伝説が残されています。

1531年12月9日、先住民のフアン・ディエゴがテペヤックの丘を歩いていると、目の前に聖母が現れました。その聖母は、「司祭のもとへ行き、この地に教会堂を建てるように伝えなさい」と告げました。しかし、ディエゴが懸命に説明しても、司祭は彼の話を一向に信じようとはしませんでした。そんな彼のもとに再度聖母が現れ、12月の時期には咲くはずのないバラを与えました。ディエゴはバラをマントに包み、再び司祭のもとへ。彼が司祭の前でマントを広げると、マントに褐色の肌を持った聖母が浮かび上がりました。

「グアダルーペの聖母」は、フランスの 「ルルドの泉」 やポルトガルの 「ファーティマ」 と共にカトリック認定の3大奇跡とされています。



右に立つのは、フアン・ディエゴで、聖母が浮かび上がったマントを示しています。左に跪くのは、司祭のようです。



像の周りにはバラが植えられていました。時期はずれなのか、あまり咲いていませんでしたが。



聖堂正面の大広場に移動しました。



聖堂の壁には、「グアダルーペの奇跡」の軌跡についてのレリーフが飾られていました。



正面から見たグアダルーペ寺院の旧聖堂。旧聖堂は、1709年に建設されました。



旧聖堂は傾いてはいますが、入場はできるようです。中には案内されませんでしたが。



丘の上に建つ礼拝堂。



旧聖堂の前には、大きな広場が設けられています。



ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の像が置かれていました。2002年に教皇が訪問した際に、聖母を見たフアン・ディエゴは聖人の地位にあげられました。

ところで、「フアン・ディエゴ」を検索すると、ペルーのリマ生まれで超高音を得意とする現代最高のテノール歌手の「ファン・ディエゴ・フローレス 」がヒットします。フアンは、聖ヨハネ、ディエゴは聖ヤコブのスペイン語形なので、スペイン語圏では一般的な名前なのかもしれません。



旧聖堂が傾いてしまったため、1976年に新しく建てられたのが、新聖堂です。円形の独特の形をしています。



広々とした新聖堂は、2万人を収容できるといいます。中南米のキリスト教信者は、メキシコを訪れた際には、必ずこの寺院に参拝するといいます。



聖堂の奥に、「グアダルーペの聖母」が飾られているのが見えました。丁度ミサが始まったところだったので、近寄ることはできないのかと思ったのですが、思わぬ仕掛けが施されていました。



地階に下ると、「グアダルーペの聖母」の下に見学通路が設けられていました。信者が立ち止まらないように、動く歩道が設けられていました。



「グアダルーペの聖母」を良く見ることができました。伝説を知っていても、絵具で描いたものだろうと思ってしまいますが、ヴァチカン公認の軌跡ですので信じることにしましょう。



バスに戻り、これでマキシコシティの見学は終了し、メリダへ移動するために空港に向かいました。

さすらいの風景 ウエホツィンゴ

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2日目はメキシコシ・ティの東に位置するウエホツィンゴのフランシスコ修道院とプエブラの観光を行いました。

メキシコ・シティの標高は2250mで、これは富士山五合目に相当するので、結構な高地ということになります。



メキシコシティは、湖を埋め立てた跡に造られたため、現在では盆地の底に広がっています。そのため、メキシコシティからプエブラまでは峠越えになりますが、その標高は富士山の山頂とほぼ同じな標高3800mもあります。



峠超えを行っていると、雪をまとった山が見えてきました。



峠超えを行って平地に出たところで、ガソリンスタンドでトイレ休憩を行いました。



ガソリンスタンド脇の空き地からは、山の眺めが広がっていました。

左が5426mのポポカテペトル山で、右は5286mのイスタクシワトル山。

このガソリンスタンドは、峠越えをしてからそれほど走っていないので、標高はおそらく3000m程度あるようで、吹き抜ける風は冷たく感じました。メキシコシティ発でプエブラ見学を行う際には、寒さ対策の厚着をする必要があります。



ポポカテペトル山(5426m)は、活火山で噴煙が上がっています。山名は、ナワトル語で「煙を出す山」「煙を吐く山」といった意味です。


なお、超常現象専門誌の「ムー」によれば、ポポカテペトル山はUFO多発地帯として世界的にもよく知られており、ポポカテペトルの火口の底には、UFO基地や地底世界が存在しているのではないかと指摘されているとのこと。



イスタクシワトル山(5286m)の山名は、ナワ語で〈白い女〉を意味します。

日本の登山では、3000m級の山といって特別視しますが、海外旅行では、通常の観光旅行でもそれくらいの高度は体験することになります。日本の山の魅力は、その標高ではないと理解する必要があります。



ガソリンスタンド前の歩道橋からみたハイウェイ。立派な道が整備されています。



ウエホツィンゴの村に到着。小さな村です。世界遺産に認定されている「ポポカテペトラ山麓の修道院」の14の修道院のうちのサン・ミゲル修道院が、ここでの訪問の目的になります。



サン・ミゲル修道院は、小さな塔をそなえた強固な石壁で囲まれていました。建設当時には、要塞という役割も持っていたようです。

サン・ミゲル修道院が完成したのは1570年頃で、ウエホツィンゴの村も修道院を中心として発達したものです。



修道院には前庭が設けられていました。



四方からの道が合わさる中央には、十字架が立てられていました。



この十字架は、16世紀に造られたものです。



庭の奥に教会の建物が見えています。



教会の入口は閉まっており、外観だけの見学になりました。



サン・ミゲル修道院は、スペイン人侵略後にキリスト教布教のために派遣されたフラシスコ会によって建てられました。サン・ミゲルは、スペイン語で大天使ミカエルに由来します。



窓の脇に紋章が置かれていました。この紋章の由来は確かめることができませんでしたが、周囲を囲む縄は、フランシスコ会の修道院がベルトとして使った縄を現しているのだろうと思います。また、中央に配された五個の穴の開いたマークは、聖フランチェスコの身体に十字架刑に処せられたキリストの5か所の傷と同じものが現れたという奇跡、すなわち聖痕を現しているように思えます。



脇の回廊は、レコンキスタの後に残留イスラム教徒の建築様式とキリスト教建築様式が融合したスタイルであるムデハル様式の影響が見られます。





中庭を囲む四隅には、小さな礼拝堂が設けられていました。



礼拝堂の屋根に飾られた髑髏と骨に目が留まります。何を現しているのかは不明。





天使が持つのは、壺のように見えますが、香油でも入っているのでしょうか。



礼拝堂の内部には、フレスコ画の跡が僅かに残されていました。



入口脇の礼拝堂。



背景にイスタクシワトル山が見えていました。世界遺産の名前は、「ポポカテペトラ山麓の修道院」ではなく、「イスタクシワトル山麓の修道院」の方がふさわしいと思うのですが、他にある13の修道院の分布はどうなっているのでしょうか。



この礼拝堂に描かれた天使はトランペットを吹いていました。

サン・ミゲル修道院の見学を終えて、プエブラに向かいました。

さすらいの風景 プエブラ その1

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プエブラは、メキシコシティの120km東にあり、メキシコ湾沿いのベラクルスとメキシコシティを結ぶ街道の中間点として栄えた都市です。植民地時代の建造物が多数残されていることから、現在では観光都市として賑わっています。

メキシコの都市の多くは、元からあった先住民の村や街を破壊してその上にスペイン風の都市を築いていますが、プエブラはスペイン人が無の状態から街を造ったため、碁盤の目のように整然と通りが走っています。

バスを降りてまずはサントドミンゴ教会をめざしましたが、カラフルナ家並みが続いていまいた。



スペインの街並みと似ていますが、どこか異なっています。



プエブラのこの通りにはお菓子の店が多く並んでおり、郷土菓子のカモテ(日本の芋羊羹と似た菓子)を売っていました。後で、カモテを土産に買いました。



立派な門が現れてサントドミンゴ教会入口かと思いましたが、奥にはショッピングセンターが広がっているようです。



門の前を左に曲がると、サントドミンゴ教会が見えてきました。



サントドミンゴ教会のファサード。灰色の石で造られており、重厚な雰囲気です。



サントドミンゴ教会は、ドミニコ会により、1571年に建設が始まり1647年に完成した、大天使ミカエルに捧げられた聖堂です。

中央の像は、大天使ミカエルでしょう。両脇の犬は、ドミニコ会のシンボルです。

「ドミニコ会は同時期に成立したフランシスコ会同様、清貧を特に重んじたため併せて「托鉢修道会」と呼ばれることがある。また神学の研究に励み、学者を多く輩出したドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって「主の犬 (Domini canis)」とも呼ばれた。この呼び名は反対者にとっては畏怖と揶揄であり、ドミニコ会員たちにとっては誇りであった。」このことから、犬がシンボルとなっているようです。



またファザードの上部に置かれた犬は、たいまつを咥えてています。

「聖ドミニコの母ホアナは聖ドミニコを宿した時、黒と白のブチの犬がたいまつをくわえて世界中を駆けて行くという不思議な夢を見ました。後に、ドミニコ会員は、迷える羊を主人の牧場に連れ戻す犬の役目を果たすことになりました。」という謂れもあるようです。



サントドミンゴ教会に入場すると、まずは、キリスト像がお出迎え。やせ衰えたリアルな姿です。



サントドミンゴ教会の内部は、外観とは異なり、華麗な装飾で埋め尽くされています。



主祭壇。多くの聖人像が飾られています。ロシア正教のイコノスタスと似た発想と思われます。



最上部には天界が現されています。



その下には、修道僧や修道女の像が置かれています。













天井にも装飾が施されています。



パイプオルガンも設置されていました。



主祭壇に向かって左脇にはロザリオ礼拝堂があり、サントドミンゴ教会の見どころになっています。



ロザリオ礼拝堂は、過剰ともいえる装飾が施されており、「ウルトラバロック」様式の代表例になっています。



厨子の中には聖母子像が飾られています。



礼拝堂の上はドームになっています。



祭壇上部。ごてごての装飾で、個々の像の印象は薄れています。余白に趣を感じる日本の芸術とは真逆です。



天井の装飾。



脇の壁のタイル装飾。



ロザリオ礼拝堂入口左右にも、これぞウルトラバロックといえる装飾が施されていました。





こちらは、少し落ち着いた感じになっています。

サントドミンゴ教会の見学を終えて、さらにプエブラ観光を続けました。

さすらいの風景 プエブラ その2

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サントドミンゴ教会の見学を終えて、次はタラベラ焼きの工房見学を行いました。



プエブラ地方では、もともと原住民の陶器作りが行われていましたが、スペインのマヨルカ島から伝わった地中海起源の陶器に中国などからの技術も加わって現在のタラベラ焼きが生まれました。



売店では、カップや皿が並んでいました。カップでも買おうかと見ましたが、ぼってりと肉厚で好みでなかったので買いませんでした。



この店では、菓子類の売店もあったので、カモテを買いました。日本の芋羊羹と似た味です。ただ、芋の繊維が混じっていたりでおおざっぱな作りです。舟和の芋羊羹と似てはいますが、洗練さでは劣ります。カモテの方が値段はずっと安いですがね。



タラベラ焼きの工房見学の後は、昼食。



昼食の後は、カテドラルの見学を行いました。



プエブラのカテドラルは、1575年に建設が始まり、1649年に完成しました。



最近になって、信者以外は入場お断りとなって、外観だけの見学になりました。



カテドラルの北側にはソカロ(アルマス広場)があります。観光客や木陰で休む人々で賑わっていました。



背景と重なって見にくいですが、噴水の上に立つのは、大天使ミカエルでしょうかね。



ソカロに面して、市庁舎が建てられています。



市庁舎のバルコニー。



エルバリアン市場に向かって移動しました。カラフルな家並みです。



エルバリアン市場は、民芸品を売る観光客むけの店が並んでいます。



自由行動になって、店をのぞいてみることになりました。



あまり買いたいものは見つかりませんでした。観光二日目で、まだ土産購入といった気分にもなっていません。





エルバリアン市場の北西の十字路に面して砂糖菓子の家があります。赤を基調としたタイルが壁面に張られており、屋根部分には、砂糖菓子を思わせる装飾が施されていることから、砂糖菓子の家と呼ばれています。



18世紀にスペイン帝国副王の迎賓館として造られ、現在では古代文化や古美術品の展示場になっています。

これでプエブラの見学は終わりとなり、メキシコシティに戻りました。

さすらいの風景 テオティワカン その1

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三日目は、午前中にメキシコシティの市内観光を行ってから、テオティワカン遺跡に向かうことになりました。テオティワカン遺跡は、メキシコシティの北東約50キロの地点にあります。

郊外に出てメキシコ・パチュカ高速道路に乗ると、快調なドライブになりました。睡魔にも襲われるところですが、車窓風景に目を奪われました。山の斜面にカラフルな家が密集して建てられていました。



山の斜面いっぱいに広がる巨大壁画といった眺めです。



道路脇の看板には、街の名前がサンカルロスと書かれていました。テオティワカン遺跡を訪れる際には、途中の風景にも注意していてください。



遺跡に隣接するレストランで昼食をとった後に、見学となりました。月のピラミッド近くの入口でバスを降りました。遺跡内を歩いて、太陽のピラミッド近くの駐車場からバスに乗ることになります。

国立人類博物館の項でもふれたように、テオティワカンは、紀元前150頃に起こり、最盛期の450年ころには人口20万人を越える世界有数の都市となりましたが、650年頃に謎の滅亡をとげました。後のアステカ人が、巨大遺跡を見て、テオティワカン(神々の座所)と名付けたという謎の多い文明です。

ここのピラミッドを見るのが、メキシコ旅行のハイライトの一つになっています。駐車場からも月のピラミッドが見えています。



入場口付近に広がる遺跡は、手前から住居跡、ジャガーの神殿、ケツァルパパロトルの神殿になります。





小部屋の土台跡が残る住居部を抜けていきます。





ジャガーの神殿。



ジャガーは羽根の頭飾りを付け、背中からしっぽにかけて貝殻の装飾である白い丸い模様が連なっています。ジャガーは羽毛のある貝のラッパを吹いており、ラッパからは血か水が滴り落ちています。渦巻きは音を表しており、ほら貝を吹くと雨が降ると信じられていたようです。ジャガーの上に交互に描かれているのは、雨神トラロックの仮面と年を表す象形文字のようです。



こちらの壁画は痛みが進んでいますが、同じような絵が描かれているようです。



その奥に、「羽毛のある貝の神殿」があります。この神殿はケツァルパパロトルの宮殿の基壇の下から発見されたものです。1~2世紀に造られましたが、発見は1960年代になってからのことです。マヤでは古い神殿の上に新しい神殿を建てていくということが行われました。



羽毛のある貝のレリーフのアップ。何にでも羽を付けるのが好きだったようです。



花のレリーフも飾られています。



基壇部分には、黄色いくちばしを持った緑のオームが描かれていました。



この神殿は地下に埋もれていたため、壁画の色が良く保存されています。







地上に出ましたが、ケツァルパパロトルの神殿の見学は省略されました。入場禁止になっていたのかもしれません。



展望台へと進むと、お待ちかねのピラミッドが姿を現しました。



遺跡の北端にあるのは月のピラミッド。



南に向かって死者の道が延び、その途中に太陽のピラミッドが聳えています。

この後の見学は、二つのピラミッドを登るために、体力勝負となりました。遺跡の中は日蔭も無く余計にこたえました。

さすらいの風景 テオティワカン その2

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テオティワカンの月のピラミッドの前は、神殿の基壇に囲まれた広場になっており、月の広場と呼ばれています。大きな祭礼儀式は、この広場で行われたと考えられています。



月の広場を囲む基壇。



月のピラミッドは、高さ約42m、底辺150m×130mの、テオティワカンでは二番目に大きいピラミッドです。遺跡の中で少し高い所にあるため、頂点は太陽のピラミッドとほぼ同じ高さになっています。なお、かつてはピラミッドの上に神殿の建物が置かれていました。

残念ながら中段までしか上がれませんが、登頂意欲をそそられます。



自由時間が与えられたので、さっそく登りました。結構急です。



ひと汗かいて、中段の広場に到着。階段はさらに続いていますが、立ち入り禁止になっていました。



月のピラミッドからは、月の広場からまっすぐ南に2kmにわたって延びる死者の道を見下ろすことができました。死者の道の左に見えるのは、太陽のピラミッド。



ボリュームたっぷりの太陽のピラミッドです。



眺めを楽しんだら、足元に注意して下りましょう。急で段差も大きいので、つまずくと致命的な事故になります。



死者の道を南に進んでいきます。



次の目標は太陽のピラミッドですが、結構距離もあり、日陰の無い遺跡の歩きは体力を消耗しました。



途中、庇の置かれた基壇がありました。



中をのぞくと、一部分ですが、壁画が残っていました。おそらく土に埋もれていたために残ったのでしょう。マヤ・アステカのピラミッドや建物は、石積みの上に漆喰が塗られ、赤くペイントされていたといいます。



振り返り見た月のピラミッド。死者の道の上に置かれているのは、土産売りの商品です。売り子は客をもとめて歩き回っています。



月のピラミッド。少し離れた方が全景を把握しやすいようです。



太陽のピラミッドの前にやってきました。

太陽のピラミッドは、高さ65m、底辺の一辺が225mの巨大建造物です。平坦な頂上には神殿が立てられて、宗教的な目的に使われました。この巨大なピラミッドは、それ以前にあった神殿を覆うように造られています。

この太陽のピラミッドは、世界第三位の高さのピラミッドです。第一位は、ギザのピラミッド(現在の高さ138.8m、建造当時146.6m)。第二位は、カフラーのピラミッド(高さ136m)、そして第三位がこの太陽のピラミッド(高さ65m)になります。エジプトの三大ピラミッドのうち残るメンカウラー王のピラミッドは、建造当時は65mの高さがありましたが、現在は高さ62mになっています。

頂上を目指しましょう。階段数は、248段。



中段で一息入れました。足が止まって休んでいる者も多く見られました。



頂上部は、丸石が並べられていました。



頂上に到着。大勢が登ってきていました。



登りであらくなった息が静まったら、周囲の風景を楽しみました。



月のピラミッド。距離があるので、少し小さな感じがします。



西側の眺め。死者の道を横断して延びる道の向こうに再集合場所の駐車場があります。



南側の眺め。死者の道がさらに延びています。その左に、ケツァルコアトルの神殿が見えています。



ケツァルコアトルの神殿は、ラシウダデラ(城壁)に囲まれています。ケツァルコアトルの神殿は、最初の日に訪れた国立人類学博物館の第5室テオティワカンで、復元されたレプリカを見ました。実物を見たかったのですが、距離もあって断念しました。



眺めを楽しんだら、下りましょう。ピラミッドが大きいためか傾斜は比較的緩やかで、危険度はそれほどではありませんでした。





死者の道に戻って月のピラミッドを振り返ったところ。



駐車場への道の左右には土産物屋が並んでいます。



衣類や帽子が目立っていました。





メキシコでは、髑髏を描いたTシャツなどの衣類が多く売られていますが、買っても日本では着られませんね。

巨大ピラミッドが並ぶ巨大都市を造ったテオティワカンの人々が、8世紀の頃に謎の滅亡を遂げたのは確かに謎と思われます。

この後は、メキシコシティに戻り、グアダルーペ寺院の見学後に空港に向かい、夜の便でメリダに移動しました。

さすらいの風景 メリダ

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メキシコシティから2時間ほどの飛行でメリダに移動しました。メリダは、ユカタン半島の中心地で、ユカタン州の州都になっています。周辺には数多くのマヤ文明遺跡が残されていることから、カリブ海沿いにあるカンクンと並んで観光の起点になっています。

メリダの宿は、ハイアットリージェンシー・メリダになりました。このホテルには、二泊しました。



ホテルには、プールも設けられていましたが、残念ながら泳ぐ時間はありませんでした。



メリダからカンクンまでは、このバスを使いました。ディズニーアニメのニモで知られているクマノミのラッピング車両で可愛らしい外観です。ただ、窓ガラス部にも細かい穴が開いたラッピングが施されているため、外の写真撮影のために、張られていない場所を選ぶ必要がありました。参加人員が少ないため、座席を自由に選べることができたのは幸いでした。



メリダの中心地のソカロ(中央広場)の見学は、まる一日マヤ遺跡の見学を行った後の日が暮れてから行いました。



日が暮れて涼しくなった公園には、大勢の人が集まってきていました。



この町は、マヤ人にティホ と呼ばれていましたが、1542年にフランシスコ・モンテホ率いるスペイン軍に占領されて以来、内陸部の先住民を制圧及びカトリック改宗するための基地として機能してきました。

歴史のある町なので、ソカロの周りにも古い建物が並んでいます。



ソカロの南には、モンテホの家があります。モンテホの家はメリダの街を建設したフランシスコ・デ・モンテホが住んだ家で、現在は博物館になっています。



市内最古の建物で1549年に建てられました。現在は銀行として使われています。



ファザードには、レリーフが飾られていました。



そのアップですが、スペイン兵士がマヤ人の頭を踏みつけています。暴力的支配のほどが判ります。



ソカロの東側には、カテドラルがあります。このカテドラルは、ユタカン半島最大の規模を誇ります。



観光客を乗せた馬車も動いていました。



ソカロの北側にあるのは、州庁舎。



外からも壁画が見えていました。



入口には門衛がいましたが、中に入ることができました。美しい中庭です。



マヤ文明をテーマとした27の壁画が飾られています。





時間も限られていたので、中庭からの見学ですませました。



ソカロの西側には、市庁舎があります。



色の変化するライトアップが行われていました。





ソカロの周りを一周して、メリダの見どころの見学は終了です。



ホテルに戻って夕食をとり、その後、近くのスーパーマーケットをのぞきに出かけました。
メリダの街自体が小さく、ハイアットリージェンシー・メリダは、中心部から2kmほど離れているので、ホテル周辺は静かな街並みが広がっていました。

このロータリーの向こうにめざすスーパーマーケットがあります。



翌朝、ホテルを出発して通りがかったロータリー交差点。中央に立つ銅像は、誰のものかは不明です。



昨晩、買い物をしたスーパーマーケット。

メリダは、歴史のある街ですが、田舎町といった感じで、周辺のマヤ遺跡見学の基地ということが判りました。

さすらいの風景 マヤパン

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4日目は、マヤバン、カバー、ウシュマルといったマヤ遺跡の見学を行うことになりました。

まずは、マヤパン遺跡を訪れました。「マヤ」の名前の元になったといわれるマヤパン遺跡ですが、他に観光客はおらず、静かな雰囲気が漂っていました。

マヤパンは、マヤ文明における後古典期・後期の1220年代から1440年頃まで栄えた、マヤ文明の中でも新しい時代に属する都市です。ユカタン地方北部に強大な勢力を広げたチチェン・イッツアが、反乱によって衰退、放棄されてしまった後、反乱を起こした者たちを中心に、チチェン・イッツアから100kmほど離れた場所に新しい都の建設が進められました。この新首都がマヤパン(マヤの旗)です。

写真は、北にある入口付近から南方向を見たもの。手前に壁龕の神殿、その奥にククルカンのピラミッドが見えます。



入口付近から西方向の眺め。四層の基壇を持った神殿が見えています。



遺跡の内部に進んでいきましょう。



柱の並んだ建物の跡が見られます。



壁龕の神殿を南側から見たもの。



壁龕の神殿は、壁龕に描かれた彩色壁画が残されていることから名前が付けられているようですが、中は閉鎖されています。



東側には、天文台あるいは丸い神殿が見えています。



ククルカンのピラミッドの全容が現れました。チチェン・イッツァのカスティーヨを模したピラミッドとされており、基壇の底辺は 30m、9層の基壇は 18m とより小型です。



このピラミッドは、マヤパン遺跡で一番高い建物になっています。
 
西側の階段から登ることになりました。ピラミッドの脇には、王達の広間の柱が並んで参道のように見えます。

急な階段で、手も使いながら慎重に登りました。



北西方向の眺め。

ククルカンのピラミッドの上からは、遮るもののない展望が広がっていました。密林の中に遺跡があることが判ります。



北方向の眺め。右寄りに壁龕の神殿が見えています。



北東方向の眺め。



東方向の天文台あるいは丸い神殿の眺め。



ピラミッドの上には、建物の支柱であったような柱の跡も残されていました。

マヤパン遺跡の修復は、北半分が終わったところで、南半分はまだ密林に覆われた状態になっています。修復が完全に終われば、もっと壮麗な都の姿が現れるはずです。



下りは、上りよりも慎重さが必要でした。



このピラミッドも、チチェン・イッツァのカスティーヨと同じく、階段の側面がククルカン(羽の生えた蛇神)を模していて、下部に蛇の頭が置かれていたようですが、現在では他所に移されてしまっています。



ピラミッドの南側に回り込むと、小さな祭壇があり、何かの像が残されていました。



ククルカンのピラミッドの南東角では、崩落によって前の時代のピラミッドが露出しており、漆喰彫刻を見ることができます。



描かれているのは、槍か軍旗を持った兵士で、頭の部分だけが四角にくりぬかれています。頭の部分の四角い窪みからは頭や頸の骨の破片が見つかっており、人の頭部を納めて漆喰で覆い、生贄の儀礼が行われていたようです。





ククルカンのピラミッドの東側に付属する建造物には、壁画が残されており、フレスコ画の広間とも呼ばれています。



軍旗を掲げる兵士が描かれているようですが、劣化が進んでおり、絵柄を見極めることが難しくなっています。ネットで見られる報告と比べても、劣化が急速に進んでいるようです。



ククルカンのピラミッドの南側には、植物に覆われたセノーテ跡があります。水源として、また儀礼の場として、重要な役割を果たしていたようです。



東側にある天文台あるいは丸い神殿の南に隣接してチャーク仮面の広間があります。



チャーク仮面の広間。角度が悪いですが、角が鼻になっています。



天文台あるいは丸い神殿。この建物の目的ははっきりとは判っていないようです。



漁師の神殿。



草葺きの屋根の下には、壁画が保存されていますが、退色が進んで絵が判り難くなっています。



かろうじて見分けられた部分。

左に、丸みを帯びた魚。右に口と手を縛られたワニ。縛られたワニを、洪水を免れる為の生贄とする説もあるようです。

この壁画は、複製である可能性もありますが、近いうちに絵が消えてしまう危険性があります。



漁師の神殿から見た天文台とククルカンのピラミッド。



この遺跡にも、イグアナがいました。

マヤパンは、マヤ最後の大国といえるのですが、この遺跡は「チチェン・イツァーの稚拙な模倣」といった否定的な評価が一般的になっているようです。マヤパン遺跡は、ガイドブックの「地球の歩き方」にも載っていません。

しかし、実際に見学してみると、チチェン・イツァーのコンパクト版として、興味深く見ることができました。これは、最近になって遺跡の修復が進んで、見どころが多くなったことによると思われます。チチェン・イツァーの予習として見学するのが面白いと思われます。
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