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Channel: さすらい人の独り言
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行ってきました

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今回はメキシコに行ってきました。報告はおいおいと。

トランプ新大統領のおかげで、メキシコでは大騒ぎになっていました。トヨタの新工場は、日本で思っていた以上にメキシコ人の期待が高いようです。ドルに対してペソは暴落しています。海外旅行のためにも、混乱が引き起こされないことを祈っています。

写真は、マヤ遺跡を代表するチチェン・イツァーのエルカスティージョ(ククルカン神殿)。



さすらいの風景 クラクフ その5

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ツアー観光では、カジミエシュ地区の見学の後は、旧市街地に向かいました。旧市街地へのバスの乗り入れが制限されているため、少し離れた所から歩きだしました。、 



ヤギェウォ大学の建物の壁にプレートが取り付けられていました。



Karol Wojtyła(カロル・ヴォイティワ)と書いてあり、これはローマ教皇・パウロ2世の本名です。1938~1939年に在学していたことの記念プレートのようです。



ヤギェウォ大学のコレギウム・マイウスの中庭に入りました。

ヤギェウォ大学は、1364年にカジミエシュ大王によってポーランドで最初に創建された大学です。有名な出身者としては、パウロ2世の他にニコラウス・コペルニクスやSF作家のスタニスワフ・レムがいます。



15世紀に建てられたゴシック様式の建物で、美しいアーチ状の回廊が設けられています。



多くの紋章が飾られていました。



中央広場にやってきました。

高く聳えるのは、旧市庁舎の塔です。旧市庁舎の建物は、1820年に撤去されましたが、この塔だけが残されました。



塔の背後の建物は織物会館ですが、その前の彫刻に目が引き付けられます。



現代アートの彫刻家イゴール・ミトライ作のブロンズ像で、作品名は「エロス」とのこと。この彫刻の展示場所については、中世の街並みを良く保存している中央広場には似合わないという意見もあったようです。



中央広場には、織物会館が置かれています。



中央広場は、中世からそのまま残っている広場としてはヨーロッパ最大のものになっています。織物会館は、長さ100mのルネサンス様式の建物で、かつては織物の取引所として使われていました。





広場の東側には、聖マリア教会があります。



古い建物が広場を囲んで並んでいました。





織物会館の前には、ポーランドの国民的ロマン派詩人のダム・ミツキェヴィチの銅像が置かれていました。



織物会館の周囲には、美しい回廊が設けられています。



回廊では、ウェイディングの撮影を行っていました。





織物会館の中には、土産物屋が並んでいました。





琥珀や木工製品などの土産物一般を扱っており、専門店といったものはありませんでした。







どの店も同じような品揃えで、ここでの買い物は結局しませんでした。

さすらいの風景 クラクフ その6

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中央広場に面して、1222年に造られたゴシック様式の建物聖マリア教会があります。



聖マリア教会は、二つの塔を持っていますが、一方は低くなっています。この二つの塔については、建築家兄弟の伝説が残されています。

兄は優れた建築家で、弟はその兄の影響を受けて建築家になった。聖マリア教会の塔の建設は、それぞれが担当することになった。兄は自分の技量を皆に見せつけるため、早々と塔を完成させた。一方、弟の方は、時間をかけて、高い塔を造ることにした。兄は、弟の塔が次第に高くなっていき、自分の塔を越すことになりそうなことを見て、ふさぎこんでしまった。結局、兄は弟をナイフで刺し殺し、ヴィスワ川に投げ捨ててしまった。弟の塔の工事は中断し、そのまま屋根が載せられた。兄は良心の呵責にさいなまれ、教会献堂式の日に命を絶ってしまった。兄の死は、弟の塔から飛び降りたとか、弟を刺したナイフで自殺したとか言われている。



また、毎正時が近づくと、観光客は塔を上を見上げることになります。正時になると、塔の上でラッパが吹き鳴らされて、「ヘイナウ・マリアツキ」と呼ばれるメロディーが流れてきますが、突然という感じで演奏は途絶えてしまいます。四方の窓から演奏が繰り返されます。

かつて、モンゴル軍がクラクフを襲った際、敵襲を知らせるラッパが塔の上で吹き鳴らされました。しかし、モンゴル兵の放った矢によって、ラッパ手は射殺されてしまいました。演奏が急に途絶えるのも、これに由来しています。

高い塔の開けられた窓からラッパがのぞいています。

驚くべきことに、一時間ごとに繰り返される塔からのラッパの演奏は、14世紀から現在に至るまで続いています。



午前のツアーでの観光は、中央広場の観光だけだったので、午後の自由時間の時に戻ってきて、聖マリア教会に入場しました。



聖マリア教会に入場すると、その豪華な造りに驚かされました。



主祭壇。



祭壇は、15世紀にファイト・シュテーレスによって造られたもので、中央には聖母昇天の場面が描かれています。



祭壇の上に置かれたパネルは、扉を閉めた際に見ることができる扉絵を示したもののようです。



主祭壇背後のステンドグラス。



ステンドグラスの拡大。細かい模様で、絵柄はあまり明確ではありません。



側壁のステンドグラス。



側壁の壁にも、細かい彫刻のレリーフが飾られていました。



受胎告知ですね。



聖母昇天。



教会の名前に由来して、聖母マリアにまつわる場面が描かれています。



教会の壁は、余すところなく装飾が施されていました。







パイプオルガン。



説教台。



教会の天井。



細長いお堂の中央部には、キリスト像が飾られていました。



教会後部。

聖マリア教会は、有料ですが、是非入場して見学することを勧めます。

さすらいの風景 クラクフ その7

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個人行動の際、聖マリア教会の入場見学の後、中央広場から北に延びるフロリアンスカ通りを北に向かいました。



通りの外れには、城壁に設けられたフロリアンスカ門があります。



フロリアンスカ門は、1300年頃にクラクフ旧市街の北の入口に設けられたゲートです。



フロリアンスカ門に飾られた像。



クラクフ旧市街地を取り巻く城壁はほとんどが撤去されてしまっていますが、ここでは一部が残されていました。



フロリアンスカ門を出ると、円形要塞のバルバカンが設けられていました。



バルバカンは、フロリアンスカ門を守るために設けられました。このバルバカンは、ヨーロッパでは三つしか残されていないとのことですが、もう一つをワルシャワでも見ることになります。





脇の緑地帯に置かれていたバルバカンの模型。



通りを挟んでバルバカンと向き合うマティキ広場。ポーランド=リトアニア連合期のヤギェウォ朝初代国王であるヴワディスワフ2世の銅像が置かれていました。



ツアー観光では、中央広場の見学後、王宮に向かって南に進みました。



観光客を載せた馬車が行き来していました。



途中で横断した電車通りの奥に見えていたのは、ドミニカン教会のようです。屋根飾りが特徴的です。



さらに進んでいくと、左に聖ペテロ・パウロ教会、奥に聖アンドリュース教会が現れました。



聖ペテロ・パウロ教会の入口には、キリストの12使徒の像が置かれていました。この教会は、17世紀に建築されたクラクフで最初のバロック様式の教会とのことです。





教会の建物全体は修理作業のために布で覆われていました。



自由時間の時、王宮から中央広場に戻る際に入ってみました。



中央祭壇。



パイプオルガン。



聖ペテロ・パウロ教会の隣にある聖アンドリュース教会。



聖アンドリュース教会の内部。



堂内の装飾も見事でした。



通りに立つ客引きの女性ですが、ダビンチの「白貂を抱く貴婦人」のコスプレをしていました。手には、白貂のぬいぐるみを持っていました。



石畳の通りに沿って、古い家並みが続いていました。



旧市街地n南の外れに出ると、丘の上に広がるヴァヴェル城が姿を現しました。

さすらいの風景 クラクフ その8

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クラクフ市街地や近郊へと移動する際に、ヴィスワ川越しのヴァヴェル城の風景を何度も見ることになりました。

ヴァヴェル城は、11世紀より歴代ポーランド王の居城として使われ、歴代の王が増改築を行い、敷地内に王宮や大聖堂が造られました。16世紀に首都がワルシャワに移された後も、国王の戴冠式はヴァヴェル城で行われてきました。



中央広場から歩いてきて、王宮へと坂道を上がりました。それほどの高度差は無いのですが、朝からの徒歩観光が続いているので、結構辛く感じました。



坂道の途中、甲冑姿のコスプレヤーが営業の準備をしていました。



一汗かいて丘の上に出ると、城門が設けてありました。



城門の脇には、コシチューシュコ像が置かれていました。

コシチューシュコは、ポーランド・リトアニア共和国の将軍で、1793年の第2回ポーランド分割後にクラクフで蜂起し、一時はロシア軍に大勝しましたが、やがて兵員を補充していったロシア・プロイセン連合軍に敗れてしまいました。この敗北によりポーランド国家は消滅の憂き目にあってしまいました。



城門に飾られていた紋章。



城門を過ぎると、多くの建物に囲まれた広場に出ました。



教皇紋章から、パウロ2世の像でしょうね。





広場を囲む建物の中でもひと際目を引くのは、ヴァヴェル大聖堂です。大聖堂は、幾度もの増改築を繰り返してきたため、さまざまな建築様式からなっています。中でもジグムント1世が建てた、金のドームが輝くジグムント礼拝堂は、アルプス以北でもっとも美しいルネサンス建築と言われています。

大聖堂には、午後の自由時間の際に入場することにしました。







旧王宮へと進みました。



防御の意味もあるのか、長いトンネルを抜けていきます。



中庭を取り巻く建物は、16世紀初頭にジグムント1世が建てたゴシックとルネサンスの複合様式のものです。



見上げると、壁の一部に絵が描かれていました。









王宮に入場しましたが、内部は撮影禁止であったので、絵葉書を代わりに載せておきます。

王宮の見どころのひつにタペストリーが挙げられます。ジグムント1世はタペストリーの収集にも情熱を傾け、フランドルやアントワープの工房から数多くの作品を取り寄せました。その情熱はジグムント2世に受け継がれ、集められたタペストリ ーは350枚を超えたといいます。



「バベルの塔」のタペストリー。

一時は国外へ持ち出されたものの、第二次世界大戦後 140枚が戻り、今も王宮博物館を飾っています



ベッドルーム。



旧下院会議場。



評議員の間。



議員ホールの天井。枡目に仕切られた天井に、男女の顔の木彫が嵌め込まれています。



その中には、猿ぐつわをされた女性の像もありました。



見学の途中、中庭を見下ろす回廊に出ました。



その先で、レオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の展示室がありました。本来は、旧市街地にあるチャルトリスキ美術館という別の所に展示されているのですが、改装のために閉鎖されており、ヴァヴェル城での臨時展示になっていました。時間の限られているツアー客には、幸運なことでした。

「白貂を抱く貴婦人」は、1489年から1490年ごろにかけて描かれ、ダ・ヴィンチの作品で、一人の女性を描いた肖像画はわずかに4作品しか現存しておらず、そのうちの一点として貴重なものになっています。

他に客はいない状態で、心ゆくまで絵を鑑賞することができました。女性の表情としては、モナリザより、この絵の方が好きです。



自由行動時に、ヴァヴェル大聖堂に入場しました。



内部は撮影禁止であったので、絵葉書を載せておきます。

14世紀から18世紀までの400年間、歴代のほとんどの王の戴冠式を執り行ったこともあり、重厚な造りでした。



広場の西に出ると、ヴィスワ川を見下ろすことができました。



丘の下に竜の洞窟があり、その前に置かれた竜の像が見えていました。木立の間から見えているドラゴンの口からは時々火が吹きだされます。

伝説によれば、昔、竜がやってきてヴィス川のほとりに居ついてしまった。竜は、家畜に加えて、付近に住む娘を攫っては食べてしまった。騎士が立ち向かったが、ドラゴンの吹く火の前にいずれも倒れてしまった。そこで靴職人の弟子が竜をだましてタールと硫黄を染み込ませた羊のぬいぐるみを食べさせた。腹の中で燃える火によってのどが渇いた竜は、ヴィスワ川の飲み続け、ついには体が破裂してしまった。この賢い靴職人の弟子は、王の娘と結婚したという。



この竜はクラクフのマスコットになっており、土産物屋でも竜のぬいぐるみが売られていました。



ヴァヴェル城の南側の通路を下っていきました。





長い城壁が続いていました。



街中には、「白貂を抱く貴婦人」のポスターが飾られていました。



旧市街地の西には、クラクフ国立博物館本館がありました。



また、ヴァヴェル城のヴィスワ川対岸には、日本美術・技術博物館「マンガ館」があります。ポーランド人コレクターのフェリックス・マンガ・ヤシェンスキの日本美術の所蔵品を集めたもので、浮世絵や日本画や武具などが収めらています。

この美術館の設立にあたっては、「灰とダイヤモンド」で知られる映画監督のワイダ氏が中心的役割を果たしました。1987年に受賞した京都賞の賞金をもとに資金を調達し、さらに京都では自身で街頭募金に立ったといいます。

ちょっと誤解してしまいますが、マンガというのは、シェンスキ氏のミドルネーム兼ペンネームで、北斎漫画に由来しているといいます。日本文化のカルチャーセンターとしての役割を果たしているというので、この先は漫画も紹介されていくことになるでしょう。

これにて、クラクフの市内観光は終わりますが、翌日は、クラクフ近郊のアウシュビッツやヴィエリチカ岩塩抗の見学を行うことになりました。

さすらい人 アウシュビッツ強制収容所 その1

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7日目は、午前中にアウシュヴィッツとビルケナウの強制収容所、午後にヴィエリチカ岩塩抗を見学することになりました。

気分の滅入る負の遺産の見学を望まない者はクラクフにて自由行動を選択することもできるようになっていましたが、ツアーの全員がアウシュヴィッツに向かうことになりました。

ドイツによるアウシュヴィッツ強制収容所は、クラクフの西54kmのオシフィエンチムの町にあり、現在では博物館になっています。「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」として世界遺産に登録されています。

アウシュヴィッツの入口にはビシターセンターがあり、若者の団体も含む大勢の観光客が集まっていました。



入口から収容所内に進みます。



収容所入口のゲート。有名な「ARBITE MACHT FREI」(働けば自由になる)という標語が掲げられています。全くの嘘で、ダンテの神曲に出てくる地獄の門の「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の方が実情にあっています。



ゲートのBの文字が上下逆さまになっており、製作した収容者がせめてもの抵抗の印として作ったという説もありますが、実際は当時良く行われていたスタイルであったとのこと。規律にこだわるナチスドイツが、抵抗の印を見逃すはずはありません。



収容所は、高圧電流を流した有刺鉄線が囲まれています。



レンガ造りの建物が並んで、一見のどかな風景が広がっています。



主要所内には、各所に当時の写真が掲示されています。

被収容者は、このゲートを通って毎日労働に出かけ、十数時間後に戻ってくるのですが、その脇では収容所の楽団がマーチの演奏を行いました。被収容者の行進を整頓してナチス親衛隊(SS)の人員点呼を容易にするためでした。



まず、4号棟に入りました。この棟には、「絶滅計画」というタイトルが付けられています。



犠牲者の灰を収めた慰霊碑。



4号棟には、当時撮影された写真や資料が展示されています。



アウシュビッツのあるオシフィエンチムは、鉄道の要所にあり、ナチスドイツの支配地からの輸送が容易であり、市街地から離れていて拡張と隔離が容易であったことが強制収容所の立地条件に適していました。



最初は、ポーランドの政治犯が収容されました。



さらにソ連の戦争捕虜。



ロマ(ジプシー)。



聖職者。



ユダヤ人。



1941年、SS司令官のハインリヒ・ヒムラーは、アウシュヴィッツ収容所をユダヤ民族殲滅計画実行の地に決めました。1942年前半にユダヤ人の大量殺戮が始まりました。



ユダヤ人の移送は、上シレジアが最初で、次いで占領下ポーランド、スロヴァキア、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ノルウェー、リトアニアなどドイツ占領下の欧州の国々と続きました。



移送者の書類などが展示されていました。



ユダヤ人の多くは、アウシュヴィッツへは欧州東部への移住と信じて運ばれてきました。わざわざ切符を買わされたこともあったようです。



また、強制収容所の隠ぺい工作として、移住先とされた地からの偽りの手紙も出されました。



収容所に到着すると、SS将校と医師が、ユダヤ人の選別を行い、労働のために収容するか、働けないとみなしてガス室へ送るか決定しました。子供の大部分は、そのままガス室へ送られました。



ガス室の模型が置かれていました。

地下の脱衣所に導かれ、服を脱ぐと浴室に見せかけた部屋に追い立てられます。この部屋では、水が出ることはなく、天上の穴からはチクロンBが投入されました。人々は15~20分で死亡しました。



解放後に発見された使用済みのチクロンBの空き缶の山。



チクロンBは、ドイツ製のシアン化合物系の殺虫剤で、過熱燻蒸すると青酸ガスの発生を早めることができたといいます。

収容所が解放されると、袋詰めされた約七トンの髪の毛が発見されました。見つかった髪の毛からはシアンの反応が見られました。人間の髪の毛からは、生地が生産されていました。大量の髪の毛の展示には、思わず目を背けてしましますが、これは撮影禁止のために写真はありません。



焼却所から立ち上る煙。



収容者の持ち物は、分別されて、ドイツ第三帝国内に鉄道で運ばれました。



倉庫はいつも溢れており、倉庫のの前には分別前の高い山ができていました。

さすらい人 アウシュビッツ強制収容所 その2

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建物の外に出ると、ほっとひと息付くことができました。



5号棟に入りました。「犯罪証拠」というタイトルが付けられています。

被収容者から押収した衣服の山。



鞄。名前を書いた持ち主は、収容所で命を落としたのでしょう。





靴。



靴紐は全て抜かれており、再利用されたようです。



押収した食器類。





続いて6号棟。「囚人の生活」というタイトルが付けられています。



新たに到着した者は、服やあらゆる私物を取り上げ、髪を切ってシャワーを浴びせて消毒した後、囚人番号を与えて登録しました。初期の頃の被収容者は、三面から写真を撮られました。



被収容者に囚人番号を刺青で入れましたが、これはアウシュビッツだけで行われました。



縞模様の囚人服は、薄くて寒さを防げるものではありませんでした。また。下着は何週あるいは何か月ごとに交換ということもあって洗濯できませんでした。このことが、様々な伝染病、特にチフスと乾癬の流行をもたらしました。



囚人は、収容の理由によって、様々な色の三角印が囚人番号とともに服に縫い付けられました。赤色の三角は政治犯。ユダヤ人は、赤と黄色の三角を組み合わせた印が付けられました。





被収容者の日常の食事の摂取量は、1日1300から1700カロリーで、朝は500ccのコーヒーと称する飲み物あるいは草を煎じたもの。昼は約1リットルのしばしば腐りかけた野菜でつくったスープ。夜は約300から500gの粘土みたいな黒パンに僅かな添加物(20gのソーセージまたは30gのマーガリンあるいはチーズ)と草を煎じたものかコーヒーでした。



写真左は、31才のポーランド人女性で、アウシュビッツに収容された際には身長160cm、体重75kgであったものが、体重25kgになっていました。右のユダヤ人女性は、身長168cm、60kgであったものが、35kgになっていました。



ロマ(ジプシー)の子供たち。



アウシュビッツでは、子供たちも大人と同じ扱いで一緒に収容所で暮らしました。ユダヤ人の子供の大部分は、到着後すぐにガス室で殺害されました。子供の中で双子は医学実験の材料にされ、大部分は重労働を強いられました。



気の滅入る展示物から目を離して外を見ると、プールが設けられているのが目にとまりました。防火用水の目的の他に、SSはここで水泳を楽しんでいたのだろうか。



生き残った被収容者が収容所の様々な情景を描いた絵が展示されていました。

収容所到着すると、すべての持ち物が取り上げられました。



収容所到着時の点呼。



洗濯。



食事の配給。



労働への出発。



強制労働。



強制労働者の列の脇で演奏する楽団。演奏者は特別待遇を受けることができましたが、このことによって心に消えない傷を受けたといいます。



膨大な数の被収容者の写真に見送られて、6号棟を後にしました。

さすらい人 アウシュヴィッツ強制収容所 その3

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11号棟、「死のブロック」。

収容所内の刑務所として使われていました。



陰気な廊下が続いていました。



入口付近は、当直の親衛隊員の詰所が並んでいます。





被収容者の待遇とは大違いです。



ここで、多くの者が有罪として死刑を宣告されたのでしょう。



洗面所。

銃殺の前にここで服を脱がされました。





絞首台。

この棟の地下には、飢餓牢、窒息牢、立ち牢がありますが、撮影禁止でした。

政治犯として収容されていたコルベ神父は、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった際に、その一人の身代わりとなって飢餓牢にて命を落としました。



10号棟と11号棟の間には、銃殺が行われた「死の壁」があります。ここでは数千人が殺害されました。



近くに銃殺の様子を描いた絵が掲示されていました。これから銃殺されようとする被収容者は裸にされています。



キッチン。





被収容者の数を確認していた点呼広場には、集団絞首台が復元されています。



SSの詰所。



金網で囲まれた収容所の外に出ていきます。



脱走防止のため、高圧電流の流された金網が張り巡らされています。



収容所から出た所の絞首台では、アウシュビッツ強制収容所初代所長ルドルフ・ヘスの死刑執行が行われました。



ガス室と焼却炉を合わせた複合施設のクレマトリウム。



ソ連軍の進行が迫ったところで破壊されましたが、三基のうち二喜が復元されています。



当初は、遺体置き場として使われていましたが、ガス室に改造されました。



天井の穴からチクロンBが投入されました。



焼却炉。当時は1日に340人もの遺体が焼かれていたといいます。



ガス室や病気、栄養失調などで死亡したおびただしい数の遺体を焼却炉などに運んで処分するのは、被収容者から選ばれた「ゾンダーコマンド(特別労務班員)」が担当しました。比較的待遇は良かったものの、大量虐殺の秘密保持者として一般収容者から隔離され、口封じのため数ヵ月ごとに彼ら自身も処分されました。



見学はこれで終わりで、入口のビジターセンターに戻りました。

引き続き、バス移動して、アウシュヴィッツ強制収容所2とも呼ばれるビルケナウ強制収容所の見学を行うことになりました。

さすらいの風景 ビルケナウ強制収容所

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ビルケナウ強制収容所は、アウシュヴィッツ強制収容所の西2kmほどのところにあります。二番目の強制収容所として、さらに大規模の絶滅施設として建設されました。

駐車場から正門目指して歩いていきます。



被収容者は、鉄道で運ばれてきました。



このゲートは、多くの映画で、強制収容所のシンボルとして登場しています。



正門の塔に上がると、広大な強制収容所を見渡すことができました。鉄道の引き込み線の先は枝分かれして、多くの列車を停めることが可能になっています。



プラットホーム。ここに下り立った被収容者は10万人に達したといいます。



広大な敷地に300以上のバラックが並んでいたといいますが、現在では45棟のレンガ造りの建物と22棟の木造バラックが残されています。



残った木造バラックの奥には、残った煙突だけが並んでいます。



収容所内に進んでいきます。



高圧電流が流されていた柵を抜けていきます。



木製バラックが並んでいます。



バラックの一つに入ります。



連続して開いた丸い穴はトイレでした。トイレの使用は、午前・午後2回に制限されており、目隠しになるものもなく、一斉に使用を強制されました。



続いて、別なバラックに入りました。



入口には暖炉が設けてありました。建物の大きさに対して暖炉は小さ過ぎますが、そもそも燃料が与えられませんでした。



バラックは、湿地の上に基礎無しに建てられており、地面との間に隙間が開いています。隙間風が被収容者を苦しめたと思われます。



粗末な蚕棚のようなベッドが並んでいたようです。

ビルケナウの施設はバラックとして建てられたため、時間の経過とともに劣化が進んで、保存方法が問題になっているようです。



収容所内から外側を眺めたところ。



シンドラーのリストでも、ビルケナウの正門が登場しています。

敗戦ムードが色濃くなった1944年、ナチスは証拠隠滅を謀ろうとクラクフ近郊のプワシュフ収容所を閉鎖し、残ったユダヤ人をアウシュヴィッツに送り込み虐殺しようとしました。このままプワシュフ収容所が閉鎖されれしまえば、従業員たちは全員絶滅収容所に送られ虐殺されてしまうため、ついにシンドラーは故郷チェコのプリンリッツにユダヤ人を連れていくことを決意しました。男性従業員は無事にチェコに移送することができましたが、女性と子供を載せた列車は手違いでビルケナウに送られてしましました。

これは、女性と子供を乗せた列車がビルケナウに到着する場面です。

シンドラーの交渉の結果、なんとか全員を引き取ってチェコに移送することに成功しますが、従業員の運命はいかにとハラハラする場面になっています。

映画では、収容所内に列車が入ってくる場面として撮影されていますが、許可が得られなかったことから、収容所外でセットを組んで撮影されています。



ビルケナウからクラクフに戻ろうとすると、アウシュヴィッツの駅の脇を通り過ぎました。静かな田舎の駅でした。



クラクフに戻って昼食をとってヴィエリチカ岩塩抗に向かいましたが、市街地の外れでプワショフ強制収容所跡の脇を通り過ぎました。シンドラーのリストでも、被収容者を面白半分に射殺する冷酷な所長が支配する収容所として登場しています。

丘の上に置かれた慰霊碑を見ることができました。この慰霊碑は、1964年にクラクフ技術大学の教授も勤めた高名な建築家ウィトルド・セキーウィッチによって造られました。彫られた5人はプワシュフで犠牲になった人々の5つの出身国を象徴し、胸の位置に走る大きな裂け目は、突然終わらされた命を表現しているとのこと。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制主要所の見学では、いろいろな思いがわいてきました。ヨダヤ人の受けた迫害の悲惨さを知ることができましたが、一方、これほどの迫害を受けたユダヤ人が建国したイスラエルがパレスチナ人に対する迫害を行っているのは、どう考えるべきなのだろう。

さすらいの風景 ヴィエリチカ岩塩抗 その1

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アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の見学を終え、午後はクラクフの南東約15kmのところにあるヴィエリチカ岩塩抗を訪れました。ダークツーリズムを避けるわけにはいきませんが、通常の観光の方がやはり楽しいですね。

ヴィエリチカ岩塩抗は、廃坑になっていない岩塩坑としては世界最古のものになっています。



数が増えすぎていまや陳腐化しつつある世界遺産ですが、ヴィエリチカ岩塩抗は、1978年に初めて制定された12個所のうちの一つになっています。なお、クラクフも、この12のうちに入っています。



ガイドツアーの時間が決まっていたので、最初に岩塩の製品が並ぶ売店をのぞきました。



入口の建物の奥に特徴のある建物が見えていました。GRADUATION TOWERという、水を蒸発させて塩の濃度を高める塩の精製に用いる木製施設です。塩に殺菌力があるということで、呼吸器疾患の治療も行われているようです。



建物の奥には、岩塩を地上に運び上げるためのものか、高いリフトが設けられていました。



ヴィエリチカ岩塩抗は、全長300km以上ありますが、観光コースとしては、約2.5km程を歩くことになります。約135mの地底深くまで下っていき、リフトで上がってくることになるので、それなりの脚力が必要になります。



入場の時間になったのですが、岩塩抗のガイドが現れず、しばらく待たされました。遅れて登場したガイドの話では、リフトが故障して、2時間ほど地底に留められてようやく上がってきたとのことでした。地底探検の緊張が高まりました。



ヴィエリチカ岩塩抗の紋章。



建物に入ると、木の階段をひたすら下ることになりました。



ようやく水平の坑道に下りたちました。65m程の深さまで一気に下ったようです。



岩塩採掘の様子を現した人形が置かれていました。



抗道は、木の丸太で補強されていました。





コペルニクスの間。1493年にここを訪れたコペルニクスを記念した像です。坑道内の各所に、岩塩を削って造られた像が置かれています。



聖アントニ教会。17世紀に造られたバロック式の礼拝堂ですが、閉鎖されていました。



ヤノヴィッツの間。キンガ王妃の伝説の像が置かれています。

ハンガリーのキンガ姫は、ポーランドに嫁ぐことになりましたが、気乗りせず、父の王が持っていた岩塩抗に結婚指輪を投げ捨ててしまいました。結局嫁ぐことになってラクフに向う途中、目にしたヴィエリチカがとても気に入り井戸を掘るように命じました。すると水ではなく、塩と父の岩塩抗に投げたはずの指輪がでてきました。それ以来、キンガ姫はヴィエリチカ岩塩抗の守り神になりました。

発見した指輪をキンガ妃に渡している場面ですね。



焼き場。



発生したメタンガスを燃やして処理していたようです。メタンは、無臭の空気よりも軽い気体で、空気中の場合5~15容量%が爆発限界になります。





シュレツの間。



16世紀には、運搬に馬も使われました。









カジミエシュ3世の像。

カジミェシュ3世は、ドイツ騎士団と講和し、通商を盛んにすることによって国力を高めました。また、法典の整備、通貨の発行など統一国家としての体裁を整備していき、その国力を背景に、1364年には首都クラクフに大学を設立し、文化を保護しました。

さすらいの風景 ヴィエリチカ岩塩抗 その2

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再び長い階段を下ることになりました。ピスコヴァ・スカウの間にあるこの階段は17世紀に造られたとのこと。



下っていったクネグンダの間には、19世紀頃に造られた妖精像が置かれていました。







聖十字架礼拝堂。事故が起きないように願いを込めて19世紀に造られました。





ヴィエリチカ岩塩抗の最大のみどころの聖キンガ礼拝堂が現れました。101.4mの深さに造られています。



岩塩の結晶で造られたシャンデリアが飾られています。



階段を下っていきます。




聖キンガ礼拝堂は、70年かけて1963年に完成しました。



日曜日の朝には、ここでミサが行われています。



壁には、岩塩を彫った多くのレリーフが飾られていますが、その中でも有名なのが、この「最後の晩餐」のレリーフです。











多くの像も置かれていました。









ローマ教皇パウロ2世の像も置かれていました。



床はタイル張りのように見えますが、これも岩塩から造られています。



バロンチの間にある地底湖。最深部は9mあります。



神秘的な色をしています。





ブドリクの間。フードコートになっています。





ワルシャワの間。イベント会場になっています。



聖ヨハネ教会。1859年に造られた木造の教会です。



トロッコも設けられており、最近まで稼働していることが判ります。



リフトで一気に地上に上がって、ヴィエリチカ岩塩抗の見学は終わりました。

ヴィエリチカ岩塩抗の見学は、地底探検の気分もちょっぴり味わえ、得難い体験になりました。

さすらいの風景 クラクフからワルシャワ

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クラクフでの見学を終えて、ワルシャワへ移動することになりました。人は列車で移動し、荷物はバスで運ぶことになりました。列車を利用すれば、バス移動の半分の2時間半ほどで済むので、その分を観光に回すことができます。

Kraków Główny(クラクフ本駅)から列車に乗ることになりました。



駅舎はショッピングセンターが併設されており、鉄道部門の方が片隅に追いやられてしまっているという感じです。



Kraków Głównyの駅名表記。



乗り込む高速列車です。



ペカペ インターシティ/PKP Intercityは、ポーランド国鉄を示しています。



EIP (Express Intercity Premium)は、ICの中で最も速いスピードを誇る全席指定制の列車で、ワルシャワから主要都市の間を時速200kmで結び、全席座席指定になっています。



プラットフォームの反対に古びた列車が停まっていました。



行き先表示板を見ると、この列車もクラクフとワルシャワを結んでいるようです。TLK (Twoje Linie Kolejowe)とありますが、このクラスは、古い車両が使われており、コンパートメントタイプでした。冷暖房が無いので、できるだけ避けるべきとの指摘もあります。



列車に乗り込みました。2+2の座席配列でした。ポーランドも日本の新幹線と同じ標準軌なので、座席の幅が広く設けてあり、ゆったりとしています。



天井にモニターが吊るされていましたが、イヤホンの貸し出しはありませんでした。



出発してからは、車窓の眺めを楽しみました。



列車からの眺めは、バスからとも違った感じがします。



途中で飲み物のサービスがありました。紙コップにお湯を注いでくれて、自分でティーバッグを入れることになりました。コーヒーは、袋入りのインスタントでした。



列車は、農地になった広々とした平野を進んでいきました。



Warszawa Zachodnia(ワルシャワ西駅)に到着。降りるのは、次の駅です。



Warszawa Centralna(ワルシャワ中央駅)に到着。地下駅になっていました。



プラットフォームで、Warszawa Centralnaの駅名板を探したのですが、見つかりませんでした。これでは、個人旅行で初めてだと、下車してよいか迷ってしまうかもしれません。



外に出て、ようやくビルの上に駅名が書いてあるのを見つけました。



夜の自由時間に、駅の中を見学しました。1階部にある切符売り場。



プラットフォームは、地下にあります。



プラットフォーム。



列車が入ってきました。かなり汚れています。



宿泊したマリオットホテルの前から見た、朝のワルシャワ中央駅。

さすらいの風景 ワルシャワ その1

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ワルシャワ中央駅からバスに乗って、ワルシャワ旧市街地に向かいました。

クラクフで別れたバスは荷物を載せてワルシャワに向かって走っている途中のため、別のバスが用意してありました。現地旅行会社は、煩雑な手配を良くやってくれていると思いました。

サスキ公園を通りかかりました。緑地の奥に見えているのは、平和を願って1925年に造られた無名戦士の墓のようです。



手前には、大きな十字架が置かれてました。



続けてワルシャワ大劇場とも呼ばれる国立オペラ劇場の前を通り過ぎました。

国立オペラ劇場は、1833年建築されたポーランド・ネオクラシカル様式の代表的建築物です。1939年のワルシャワの戦いにより劇場は甚大な被害を受けて焼失したましたが、1965年に再建されました。



ニケ像。

ギリシャ神話の勝利の女神である「ニケ」がモチーフですが、第二次世界大戦の際の、ワルシャワ市民のナチス軍に対する抵抗活動を称えて1964年に建立されたものです。



旧市街にバスは入れないので、離れた所でバスを降り、少し歩くと王宮広場に出ました。ここのレストランでまずは昼食をとり、その後に観光開始になりました。



王宮広場から南に向かってクラクフ郊外通りが始まっていますが、その入口にあるのが聖アンナ教会。



聖アンナ教会は、1454年にベルナルド会修道院として建てられ、新古典主義のファサードを持つポーランドの最も著名な教会の一つです。



自由時間に入ってみました。豪華絢爛な装飾が施されています。



昼間に入場したため太陽の光が差し込んで、明るい雰囲気でした。



主祭壇。教会の名前の由来になる聖アンナは、聖母マリアの母親に当たる人物です。祭壇画は、香炉が邪魔して良く見えませんが、聖アンナを現したものでしょう。



豪華なパイプオルガンが設けられていました。



クラクフ郊外通りや新世界通りの数か所に置かれたベンチには、ボタンを押すとショパンの曲が流れる仕掛けが施されていました。この仕掛けのおかげで、ベンチに座る者はおらず、観光客が取り巻く状態になっていました。



王宮広場で目につくのは、右手の王宮とジグムント3世の碑です。



王宮は、ツアーでは外観のみの見学になりましたが、夜の自由時間に入場することができましたので詳しくは後ほど。



ジグムント3世は、1596年にポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移しました。



ジグムント3世は、ポーランド・リトアニア共和国の国王に加えてスウェーデン王の継承権を持っていました。ジグムント3世は、イエズス会の手で教育を受けていたため熱心なカトリック教徒になったため、ルター派プロテスタント国家であったスウェーデンには受け入れられずスウェーデン王位を廃位させられることになりました。ジグムント3世はスウェーデンの王位を要求し続け、その結果スウェーデン・ポーランド戦争が引き起こされて、この遺恨は後の北方戦争に受け続けられることになりました。

また、歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」で有名な偽ドミトリー1世がロシア貴族を糾合してロシア攻略を開始した際には、自身は偽ドミトリーとは距離を置いたものの、動乱にスウェーデンが介入すると、ロシア・ポーランド戦争を引き起こしました。ジグムント3世はモスクワを占領することに成功しましたが、本来の目的がロシアのカトリック化であったため、ロシア正教会の反発を受けて、結局撤退することになりました。



王宮広場の北側の旧市街地を囲む城壁が残されていました。





旧市街地には、趣のある建物が並んでいました。



窓辺に置かれた人形。意味不明ですけど。



シフィエントヤンスカ通りに進みました。



小路の途中にあるのが、洗礼者ヨハネ大聖堂。れんが造りのファザードが印象的です。



昼はミサかなにかを行っていて入れなかったので、夜の自由行動時に入場しました。



洗礼者ヨハネ大聖堂は、王宮に近いこともあって、ポーランド国王とのゆかりが強く、歴代のポーランド国王のうち、スタニスワフ1世とスタニスワフ2世がここで戴冠式を行っており、ヨーロッパ最初の成文憲法「5月3日憲法」の憲法宣言式も1791年にここで執り行われています。



ステンドグラスは、細かいガラスが組み合わされていました。





堂内には、お墓も置かれていました。



側壁部には、幾つもの小礼拝堂が設けられていました。







洗礼者ヨハネ大聖堂の脇には、聖母教会があります。





聖母教会の主祭壇。すっきりした造りです。

さすらいの風景 ワルシャワ その2

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シフィエントヤンスカ通りを抜けると旧市街広場に出ました。



広場の入口に昔の写真が展示されていました。



ワルシャワの街は、第二次世界大戦終了間近に、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起であるワルシャワ蜂起の舞台になり、ナチスの報復もあって完全に破壊されました。戦後、以前と全く同じ姿に復元され、現在ではワルシャワ歴史地区として、世界遺産に認定されています。



昔の旧市街広場の写真。



昔と全く同じ姿に復元されていることが判ります。



旧市街広場の中央には、人魚像が置かれています。



この人魚については、以下の伝説が残されています。

ワルシャワが漁村であった昔のこと。金髪の美しい人魚が、川を遡ってきて、ワルシャの岸辺に住み着きました。この人魚はいたずら好きで、漁師達を困らせては喜んでいました。怒った
漁師は、人魚をつかまえようとしましたが、人魚はヴィスワ川にまつわる歌を歌い始めました。その歌声に感動した漁師は態度を変えて、人魚をそのままにしておくことにしました。しかし、強欲な商人が売り飛ばそうとして、人魚を捕まえてしまいました。人魚の泣き声を聞きつけた漁師達は、人魚を解放し、悪い商人をこらしめました。人魚は大いに喜び、感謝の印として漁師たちの町を見張り続けることを約束しました。そして今日まで、剣と楯で武装したワルシャワの人魚の像は、町とその住民を守りつづけています。



広場を取り巻く建物の多くはレストランになっており、戸外席が並んでいます。



建物は、美しい飾り付けが施されていました。







店先に飾られた鉄製の飾りも面白く、自由時間の時に見て回りました。



トカゲでしょうか。



薬屋の印。



居酒屋の印でしょうか。





ドラゴンのようです。



屋根にも飾りが置かれていました。



観光の中心地のため、土産物屋も店を開いていました。

旧市街広場には、夜景見物のため、再度やってくることにしました。

さすらいの風景 ワルシャワ その3

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旧市街広場から北に進むと、16世紀中頃、旧市街を囲む市壁を強化するために建設さたバルバカンが現れます。ここのバルバカンは、バロック様式の砦で、馬蹄形をしています。



両サイドに城壁が続くのを眺めることができました。





バルバカンを通り抜けていきます。



外側からのバルバカンの眺め。



バルバカンの外側は新市街地と呼ばれていますが、16世紀以来の古い歴史を持った地区です。



北に向かって少し歩くとキュリー夫人博物館が現れます。キュリー夫人は、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証し、原子(核)物理学の最初の基礎を作り、物理学賞と化学賞の分野で二度もノーベル賞を受賞しました。

ポロニウムの名前もポーランドに由来しています。



私が子供の頃の偉人伝ではお馴染みのキュリー夫人ですが、最近では偉人伝の内容も大きく変わってきているようです。伝記の人気ランキングも、野口英世が消えてイチローが入ってきているといいます。野球選手の活躍が文明にどれほど貢献したのかと疑問を持ってしまいますが、昔のランキングでもベーブルースが入っているのに目がとまりました。とりあえず、キュリー夫人の人気は、現在で保たれているようです。



この博物館がキュリー夫人の生家と思ったのですが、向かいの工事中で隠されている建物がそうだったようです。ガイドブックの説明や写真に混乱が見られます。



バルバカンの出口から南西に進むと、ワルシャワ蜂起記念碑が置かれています。



ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦待末、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起です。

ソ連軍がポーランド東部を占領してワルシャワに迫ると、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけました。ポーランド国内軍は、それに呼応するような形で、1944年8月1日に、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起しました。しかし、ワルシャワから10kmの地点まで侵攻してきたソ連軍は、そこで進軍を停止してしまいました。

ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの国内軍を圧倒する豊富な物量装備をもって臨みました。ポーランド国内軍は、ドイツ軍の補給所や兵舎の占領により、武器の補給を行い、激しい市街戦が続くことになりました。この一方で、ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功したソ連軍は、市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、ポーランド国内軍への支援をせずに静観しました。ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々にポーランド国内軍を追いつめていき、蜂起は完全に鎮圧されてしまいました。ドイツ軍の懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされました。

ソ連軍は1945年1月12日、ようやく進撃を再開し、1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領しました。その後、ソ連軍は生き残ったポーランド国内軍の幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取りました。生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、ソ連進駐後は裏切った赤軍を攻撃目標とするようになり、政府要人暗殺を企てるようになりました。

ワルシャワ蜂起を指導したのはロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府でした。ソ連との関係は、ポーランド捕虜のソ連による虐殺「カティンの森事件」によって、決定的に悪くなっていました。ポーランド亡命政府側主導の武装蜂起の成功は、ソ連にとって受け入れられないことでした。ワルシャワ蜂起は、ポーランド亡命政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったとも考えられています。



戦後、ポーランドが長らく共産圏としてソ連の支配下にあったことは、さらなる悲劇であったと考えられます。



スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」が、クラクフでのユダヤ人迫害の悲劇を描いたのと同じように、ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」がワルシャワを舞台として同じテーマを扱っています。

ユダヤ人のピアニストが、ゲットー収容、絶滅強制収容所送り、ゲットー武装蜂起、ワルシャワ蜂起の事件を通して、多くの人々の援助を受けて奇跡的に生き延びた物語を描いています。

ワルシャワ蜂起後に破壊されたワルシャワの街の風景が、現実とは思えない印象で迫ってきます。

主人公のシュピルマンは、運命に流されるままで、いささか心もとないという感じもしますが、これはポランスキーの実体験を反映しているのかもしれません。

ポランスキーは、パリで生まれましたが、ポーランドのクラクフで幼少期を過ごしました。クラクフに作られたユダヤ人ゲットーに押し込められましたが、ゲットーのユダヤ人が一斉に逮捕される直前、父親はゲットーの有刺鉄線を切って穴を作り、そこからポランスキーを逃がしました。ポランスキーは、ドイツに占領されたフランスのヴィシー政権下における「ユダヤ人狩り」から逃れるため逃亡を繰り返すことになりました。



シュピルマンは、ワルシャワ蜂起後、廃墟の中で完全に孤立無援となってしまいました。廃墟の中で食べ物をあさっていたシュピルマンは、ドイツ人将校ホーゼンフェルトに見つかってしまいます。尋問によって職業はピアニストであることを告げると、演奏するように命じられます。

死を覚悟し、最後のピアノ演奏として選んだのは、ショパン・バラード第1番。緊迫した場面で、ショパンの曲が心にしみてきます。

その見事なピアノの腕前に感動しと、ドイツの敗退を予想するホーゼンフェルトは、シュピルマンの命を助け食料を差し入れます。


なお、生き延びたシュピルマンが、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を演奏する場面で映画は終わります。



ワルシャワ蜂起に関連する映画としては、ワイダ監督の「地下水道」が挙げられます。ワルシャワ蜂起の際に、ドイツ軍の包囲から脱出するために下水道に逃げ込みますが、一行はちりじりになり、あるものは気が狂い、ドイツ軍の中に出てしまって射殺されたりして、全滅していく様子が描かれています。

現在ビデオは絶版状態ですが、YouTubeで日本語字幕版で見ることができます。



途中ではぐれた男女が、ヴィスワ川への出口にようやく辿りつきますが、下水には鉄柵が設けられて行き止まりになっていました。柵の向こうには、ヴィスワ川と対岸を望むことができました。ワイダ監督は、共産圏国家でのぎりぎりの表現として、ヴィスワ川対岸に陣取ってワルシャワ蜂起を傍観しているソ連軍の姿を暗示して、ワルシャワ蜂起の黒幕がソ連軍であったと訴えています。



ワイダ監督の代表作「灰とダイヤモンド」についても触れておきましょう。

ソ連軍のワルシャワ占領後、生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、政府要人の暗殺を企てるようになりますが、この時代を背景にした物語です。

ロンドン亡命政府派の青年マチェクは、党権委員会書記の暗殺を図るも誤って別人を殺害してしまい、翌朝暗殺に成功するも、軍によって射殺されてしまいます。

青年マチェクは、政治的信念は持っておらず「チャラ男」といった軽い性格で、出会った女性に恋をして、暗殺から足を洗おうかと心が揺れます。キリスト像が逆さまにぶるさがる教会の廃墟で二人が逢引きを行う場面は、この映画の印象的な場面の一つになっています。



党権委員会書記の暗殺者が主人公として描かれているため、検閲の際にはその点が問題視されましたが、青年マチェクがゴミ山の上で息絶えるラストシーンが反政府運動の無意味さを象徴したものだとして統一労働者党から高く評価され、上映が許可されたといいます。実際に映画を見ると、青年の無残な死に同情を覚えてしまう場面になっています。

これらのポーランド映画は、ポーランドの近代史の基礎知識を知るためにも見ておくできでしょう。

さすらいの風景 ワルシャワ その4

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王宮広場からクラクフ郊外通りを南に進んでいきます。



ロマン主義の詩人で愛国者のアダム・ミツキエヴィッチ像。1898年に、彼の生誕100周年を記念して建てられました。



カルメロ教会。





大統領官邸 (ラジヴィウ宮殿)。17世紀に建てられたこの宮殿は、1994年より大統領官邸となり「大統領宮殿」と呼ばれています。

1818年2月24日、8才のショパンは、初めて大衆の前で演奏し、宮殿に集まった聴衆を魅了し、その後演奏会に招かれるようになりました。



中央には、1965年に作られたユゼフ・ポニャトフスキ公爵の銅像が置かれています。





ワルシャワでもっとも歴史を持つ最高級ホテルのブリストル・ワルシャワ。ポーランドの歴史の舞台になってきましたが、有名なピアニストで政治家のイグナツィ・ヤン・パデレフスキが創設したホテルとして注目したいと思います。

パデレフスキは、国際的ピアニストとして活躍しましたが、第1次世界大戦後に発足したポーランド第二共和国の第3代首相兼外相を務めました。一旦は政治活動から引退してピアニスト活動に戻りますが、ポーランド祖国防衛戦争の後には国政に復帰し、ポーランド亡命政府の指導者になりました。すでに80歳になっていましたが、財源確保のために何度も演奏活動を行ない、演奏旅行の最中ニューヨークで客死しました。亡骸はアーリントン国立墓地に葬られましたが、その後、遺灰がワルシャワ聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に埋葬されました。



パデレフスキの演奏は、CDで聞くことができます。二枚組のうち、ショパンの演奏がほとんどを占めています。時代物の演奏なのでノイズは大きいですが、オーソドックな演奏で、ショパンの曲を楽しむには充分です。楽譜の「パデレフスキ版ショパン全集」は、ショパン演奏のスタンダード・ヴァージョンとして日本のみならず世界中のピアニストに最も愛され、広く使われているといいます。また、作曲した作品としては、あまり演奏はされませんが、「パデレフスキのメヌエット」が良く知られています。

ブリストル・ワルシャワを見たならば、前世紀末から今世紀にかけての最大のピアノ奏者の一人ともいわれるパデレフスキを思い出しましょう。



ヴィジトキ教会。



ヴィジトキ教会では、ワルシャワ高等学校の生徒のための課業ミサが日曜ごとに行われていました。ショパンは、頻繁にここでオルガンを弾いて、そのミサで独唱していた初恋の相手のコンスタンツィアに会っていました。



教会のオルガンは、残念ながら修理中のようで、写真が飾られていました。



代わりに小さなオルガンが置かれ、準備のために曲を弾いていました。



ワルシャワ大学の入口。



ポーランド科学アカデミーの建物は工事中でした。



その前には、コペルニク像が置かれています。



コペルニク像の道を挟んだ斜め向かいに、バロック様式の聖十字架教会があります。





入口の上には、十字架を担いだキリストの像が置かれています。



聖十字架教会の内部。荘厳な雰囲気です。



聖十字架教会でのみどころは、ショパンの心臓を収めた柱です。



1830年、音楽家として世界で活躍するため、20才でウィーンに旅立ちますが、その直後、ワルシャワで11月蜂起が起きます。ショパンは、ポーランドへの望郷の念を常に持ちながらも、二度と母国に戻ることはできませんでした。これは、蜂起メンバーと関係があり、蜂起失敗後、ロシアの追求を恐れてのことと言われています。パリで演奏家としての成功をおさめ、ジョルジュサンドと関係を持ったなかで多くの作品を生み出します。しかし、39才の若さで、パリにて亡くなってしまいました。



ショパンは、「体は戻れなくとも、せめて心臓だけでも持ち帰って欲しい」と遺言に残しました。その言葉に従って、死後、心臓はワルシャワに運ばれ、聖十字架教会のこの柱の中に収められました。



聖十字架教会にも立派なパイプオルガンが設けてありました。



聖十字架教会の見学後、バスに戻って移動し、ワルシャワの南部にあるワジェンキ公園を訪れました。

ここには、ショパンの像が置かれており、夏にはピアノの野外演奏が行われます。



柳の木の下に座り故郷の自然を眺めるショパンが表現されています。ショパン誕生100周年を記念して1909年に設計されましたが、第一次大戦の勃発と像の設計に関する議論のため、設置は1926年に遅れました。また、第二次大戦では、ドイツ軍は、最初にこの像を破壊したといいます。

これでツアーのワルシャワ観光は終わりになり、ホテルに向かいました。

さすらいの風景 ワルシャワ その5

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ワルシャワでは、マリオットに泊まりました。ワルシャワ中央駅の向かいにあるワルシャワ随一の高層ホテルで、ガイドブックでは最高級ホテルと紹介されています。

一般に、ツアーの最終宿泊日には、旅の印象を良くするために良いホテルを手配するといわれていますが、このホテルは立地と設備の面で満足のいくものでした。



クラクフからバスで運ばれてきたスーツケースも届いており、部屋に入りました。



窓からは、文化科学博物館をのぞむことができました。窓ガラスが汚れているのが残念です。



夜景見物のために、街に出かけることにしました。夕食は各自でとることになっているので、どうするか考える必要もあります。

ホテルを出ると、正面に文化科学博物館が聳えています。



文化科学博物館の周りは緑地帯になっています。

文化科学博物館は、37階建て、高さ234mの高層ビルです。このスターリン様式の姿から判るように、スターリンによってポーランドに贈与という形で建設されました。内部には3000人を収容できる映画館、劇場、博物館、書店、会議場及び展示場が設けられています。

ワルシャワ市街のランドマークとして、文化科学宮殿は当初から論争の的になっていました。ポーランド国民は、文化科学宮殿をソビエト支配の象徴であると考え、社会主義体制崩壊の現在に至るも、このような否定的な見方は続いているようです。文化科学宮殿の30階のテラスは、高さ114メートルで、ワルシャワ市街が一望できる観光名所になっていますが、ワルシャワ子たちによって「どこに行くんだい」「文化科学宮殿だよ。あそこに行けば宮殿を見なくて済むからね」というジョークが広められています。また、「スターリンの墓」と揶揄されてもいます。

この後、王宮見物と旧市街広場の夜景見学を行いました。



夜になって戻ってくると、文化科学博物館はライトアップされていました。



文化科学博物館の東側に地下鉄のツェントルム駅があります。ワルシャワ中央駅からは、文化科学博物館周辺の緑地帯を横切る必要があるので、少々不便です。



正面から見た文化科学博物館。



ワルシャワ中央駅。



ワルシャワ中央駅の前から見た文化科学博物館。



ワルシャワ中央駅に隣接して、ショッピングセンターのズゥォテ・タラシーがあります。



ズゥォテ・タラシーは、ガラスのドームに覆われた独特な形をしています。内部には、200を超える店舗が入っていますが、夕食のためにフードコートを目指しました。



最上階にファーストフード、その下にはレストランの店が並んでいました。



歩き疲れており、バーガーキングで簡単に済ますことにしました。他にもマックやケンタッキー・フライドチキンもありました。



レストラン街。



日本食のレストランもありました。店先の仏像が、あやしげです。



部屋に戻ると、ライトアップされた文化科学博物館を眺めることができました。

さすらいの風景 ワルシャワ その6

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夜景見物と夕食のために街に出ました。旧市街広場を目指すことにして、文化科学宮殿下を通り抜けた後、新世界通りに進みました。



新世界通りはレストランやカフェの並ぶ繁華街になっています。この通りは、聖十字架教会の手前でクラクフ郊外通りと名前を変えます。



再び王宮広場にやってきました。



旧王宮は木曜日で開館時間が20時まで延長になっていることから、入場することにしました。ショパン博物館にも入りたかったのですが、両方は無理そうなため、旧王宮を選んでしまいました。



旧王宮の中庭。

王宮の歴史は14世紀にまでさかのぼりますが、ジグムント3世の治世の16世紀と17世紀には城は大規模な拡張が行われ、中庭がある五角形の建物に立て直されました。王宮として、そして国会審議が行われ、国の行政、文化の中心になってきました。17世紀の半ばのスウェーデン大戦や第二次大戦中のドイツ軍による爆破によって破壊されましたが、その都度再建されました。



英語のガイドだと充分理解できるわけでもないので、ガイドツアーではなく、個人で見て回ることにしました。



古そうなタペストリーです。王宮にあった貴重な調度品は、第二次大戦中は国外に持ち出されて難を逃れたそうです。



政府の議場として使用された評議会室。



18世紀末のポーランド・リトアニア共和国の最後の国王であるアウグストの王座。1795年につくられました。



次の部屋へと進みます。王宮見学は、次にどのような部屋が現れるか、どきどき感がありますね。



この旧王宮でもっとも大きく豪華な部屋である宴会場。アウグスト王の時代、この部屋で王室行事や国家の祝宴、コンサートといったさまざまなイベントが催されました。



ふんだんに使われた鏡やシャンデリアが、きらびやかな雰囲気を盛り上げています。



昼間は大勢の観光客で賑わっているのでしょうけど、独り占め状態です。

後でパンフレットを読むと、この隣に大理石の間があったようですが、入口が閉まっていたのか、そのまま通過していました。



騎士の間。



クロノス像。



アウグスト王が外国の賓客など最も大切な客人を招き入れた王座の間。



王の書斎。







王の寝室。



小さすぎて休めないですね。



旧接見室。







王宮の礼拝堂。1770年代につくられたもので、戦後オリジナルの資材を中心に復元されました。













上院議員室。







ヤン・マテイコの絵画。ヤン・マテイコは、ポーランドの画家で、ポーランド史に残る政治・軍事の出来事を主題にした絵画で知られています。









クラクフとワルシャワで二つの王宮を見学しましたが、ワルシャワの王宮は復元が終わったのが1984年と新しいせいもあって、よりきらびやかに見えました。

さすらいの風景 ワルシャワ その7

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王宮の見学を終えて、旧市街広場で夜景見物を行うことにしました。



暗くなるのを待ちながら周辺を歩いていると、洗礼者ヨハネ大聖堂の前に路上パフォーマーがいました。古楽の分野の歌でしたが、ソプラノの美しい声が周辺に広がっていました。リュートに似ていますが、はるかに大型の楽器でした。



レストランの屋外席の灯りが次第に明るく見えるようになってきました。



空の色も次第に変わっていきました。



街灯りが輝くようになりました。



人魚像。



そろそろ引き上げることにしました。



ライトアップされた洗礼者ヨハネ大聖堂。



旧王宮の塔。



王宮広場に戻ってきました。



旧王宮。



王宮広場は高台にあり、東側の眺めが広がっていました。



ワルシャワ国立競技場がライトアップされて見えていました。



王宮広場の眺め。昼間とは違った雰囲気です。



ジグムント3世の碑。



聖アンナ教会。





旧王宮にわかれを告げました。



クラクフ郊外通りを戻っていきます。



ブリストル・ワルシャワ。



聖十字架教会。





新世界通りと名前を変えます。





1868年創業のスウィート店のア・ブリック。



店先に飾られたケーキ。



ここでの名物は、ボンチキと呼ばれるバラジャムを入れたドーナツです。明後日には日本に戻るので、土産に買いました。



文化科学宮殿に向かって脇道に入りましたが、夜になっても賑わっていました。

歩き疲れたので、ライトアップされた文化科学宮殿を眺めた後に、ワルシャワ中央駅に隣接するショッピングセンターのズゥォテ・タラシーでハンバーガーを食べた後にホテルに戻りました。

ワルシャワは半日観光でしたが、ホテルの場所が良かったため、個人で夜まで歩きまわれてたっぷり観光できました。

さすらいの風景 ジャラゾヴァ・ヴァラ

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9日目はいよいよ帰国日になります。飛行機の出発は午後のため、午前中にワルシャワの西54kmの距離にあるジャラゾヴァ・ヴァラでショパンの生家を見学することになりました。



入口に設けられたビジターセンターから中庭を抜けていくと、ショパンの生家が現れます。

ショパンは、1810年にこの村のスカルベク伯爵邸の別館で、フランス人の父ミコワイとポーランド人の母ユスティナの間に生まれました。ミコワイは、スカルベク伯爵家の家庭教師をしており、母は伯爵の遠縁でした。数か月の後にワルシャワに移り住みましたが、夏休みや祭日には必ず里帰りしていました。

当時の建物は残念ながら消失してしまいましたが、家具や内装はショパンの生まれた当時のままに復元されて、公開されています。



生家の前に置かれたショパン像。



ショパンの生家の内部に入りました。



ショパンの生きていた当時を再現した家具が置かれています。













古そうなピアノが置かれていました。



ショパンが愛用した楽器としてプレイエル社のピアノが有名ですが、それではないようです。





ショパン一家の肖像画。



有名なショパンの肖像画。



楽譜なども置いてありますが、資料は僅かです。



家の脇にはベンチが置かれていますが、夏には家の中で演奏されるショパンの曲をここで聞くことができるようです。



生家の周囲は緑豊かな公園として整備されていました。





ミュージアムショップでは、ショパンの演奏CDやショパングッズが充実していました。



記念のためにCDを買いたいと思いましたが、ポリーニやアルゲリッチ、ピリスなど持っている物が多く、少々困りました。結局、ラン・ラン演奏のピアノ協奏曲を買いました。ロマンティにばりばり弾くところが好きなのですが、ショパンにしてはうれいが少ないかなと思いました。



ショパンの写真が入っている絵葉書セットを買いました。

ショパンの死ぬ二年前の1847年に、ルイ=オーギュスト・ビソンによって撮影されました。



絵葉書セットには、有名なショパンの肖像画が入っていたので、これについても触れておきましょう。

この絵は1838年にドラクロアによって描かれて、ルーブル美術館に収められています。この絵は、「ジョルジュ・サンドの前でピアノを弾くフレデリック・ショパン」として一枚の絵として描かれたものが、ショパンとジョルジュ・サンド、それぞれの肖像画として切り分けられました。当時、ショパン28歳、ジョルジュ・サンド34歳。

ジョルジュ・サンドとの交際期間に、ショパンは、「24の前奏曲集」や「ピアノ・ソナタ第2番」、「幻想曲/バラード第4番/英雄ポロネーズ/舟歌/幻想ポロネーズ」などの傑作を生みだしました。しかし、1847年にはジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際は決定的な破局を迎え、二月革命も勃発し平穏な時は終わってしまいます。1849年には、長旅で衰弱し持病の結核も悪化して、ショパンは亡くなってしまいます。

一方のジョルジュ・サンドは、72歳まで生き、「愛しなさい。人生で良いものはそれだけなのですから」と書き残しました。

若い日の愛の印として、この絵は切り離されては欲しくない気がしますが、実際の運命を象徴しているようにも思えます。



生家の前のレストランで早めの昼食をとりました。



内部には、ショパンにまつわる飾り付けが施されていました。

これでポーランドの見学は終了し、空港に向かいました。特に問題なく帰国することができました。やはり直行便はありがたいですね。
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