インド門にやってきました。ムンバイにおけるもっとも重要な観光スポットであると同時に、エレファンタ島へのフェリー乗り場は、この門の脇にあります。
インド門は、1911年の英国王(インド皇帝)ジョージ5世夫妻のインド訪問を記念して建てられました。もっとも1915年に建設が始まったため、国王夫妻が実際に目にしたのは厚紙で作った建物の模型だけであったといいます。インド門は1924年に完成して植民地支配のシンボルとなり、船で来港して上陸する英国要人の歓迎式典の会場になりました。インド独立の際には、1948年2月28日にイギリス軍がこのインド門を通過して退去し、イギリスによる統治の終焉を示しました。
インド門は、古代ローマの凱旋門と16世紀のグジャラート建築物の要素を組み合わせた様式で、玄武岩を用いて建造されています。高さは25mあります。
また隣には、これも歴史を持つタージ・マハル・ホテルがあります。1903年に開業したムンバイで最も格式のあるホテルです。このホテルは、インド最大の富豪といわれるジャムシェードジー・タータによって建てられましたが、これにはあるエピソードがきっかけになりました。
19世紀末、ムンバイ一の資本家であったジャムシェードジー・タータは、外国の友人とあるホテルに夕食に出かけました。ところが、ヨーロッパ人専用とのことで、このホテルから入場を断られてしまいました。この事件から、インドの入口であるムンバイに、インド人が利用でき、世界に通用する一流のホテルが必要だと感じ、タータはホテルの建設を思い立ちました。ホテルは1903年に開業しましたが、その後も建築を続けて27年後に完成しています。このホテルは、隣のインド門ができる8年前から建っていたことになるので、やはりジャムシェードジー・タータの目の付け所は優れていたことになります。
なお、このジャムシェードジー・タータは、パースィー教(拝火教)徒でした。
パースィー教(拝火教)徒は、インドの中ではごく少数派ですが、ムンバイにそのほとんどが集まっています。パースィー教(拝火教)徒は、7世紀にペルシャからイスラム教の改宗をこばんでインドに移住してきました。商才にたけていたことからイギリスと協力して経済を握るようになりました。
現在でも、タタ財閥はインドにおける産業や商業に幅広く関与しており、良く知られているのがタタ・モーターズです。インド国内では商用車のシェアの60%、乗用車分野ではインド国内第2位(1位はマルチ・スズキ・インディア)のシェアを持っています。
また、エア・インディアもタータ一族によって創立されました。
パースィー教(拝火教)徒で日本でも知られている名前というと、指揮者のズービン・メータがいます。ボンベイのパースィー教の家庭で生まれています。彼の初期の名盤と知られているものに、リヒャルト・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラはかく語りき」があります。曲はニーチェの著作をもとにしていますが、ザラスシュトラ(ツァラトゥストラ)は拝火教の開祖なので、共感できるところがあったのかもしれません。
これは、旅行中に見たタタ製のトラック。窓ガラスに張ってある絵はどうなっているのですかね。
なお、ムンバイ市内には、鳥葬の行われる沈黙の塔があります。その下を通りはしたのですが、通りに面して密な木立が広がっており、姿をうかがうことはできませんでした。
インド門の広場の内陸よりの緑地には、チャトラパティ・シヴァージーの像が置かれています。シヴァージーは、地方の小領主の出から、イスラーム勢力との数々の戦いを経てそれらの支配を脱却し、3世紀ぶりになるヒンドゥー王国になるマラーター王国をデカン地方に築きました。シヴァージーは、イスラーム勢力の支配に抵抗し、「国家と宗教」を解放しようとした人物として、インドでもナショナリズムの代表として崇拝されており、空港や駅、博物館に彼の名前が冠されるようになっています。
なお、シヴァージーとデカン地方の覇権を争ったのが、ムガル帝国皇帝アウラングゼーブで、彼のデカン地方支配の拠点となったのが、この後で訪れるアウランガーバードです。
インド門とタージ・マハル・ホテルの一番の展望スポットは、エレファンタ島への船の上からとなります。
タージ・マハル・ホテルがインド門の付属施設のように見えます。中央に立つ白い建物は、タージ・マハル・ホテルの新館です。
インドの貧困問題を話し合う国際会議で、各国の代表者がこの豪華なタージ・マハル・ホテルに泊まったところ、「我々が援助しようとする貧困がある国とは思えない」という声が上がったとか。
船上からもムンバイの街に高層ビル群が並ぶ様を眺めることができました。
インド門の脇には海軍基地があって、これは撮影禁止ということなので、少し離れたところからムンバイ方向を振り返ったところです。
左に見える小島には海軍基地が置かれています。また、右手には、航空母艦が停泊しているのが見えます。
上の写真を拡大したものです。
この航空母艦を調べると、「ヴィクラント」のようです。第二次世界大戦後の1945年にイギリスで建造開始されたものの中止になっていたものが、1957年にインドに売却されて完成され、1961年にボンベイにて就航しました。1971年の第三次印パ戦争(バングラデシュ独立戦争)においては、ベンガル湾にて活動し、艦載機がパキスタン軍の艦船を撃破するという成果をあげています。1990年代前半から老朽化のために活動が不活発になり、1997年にインド海軍から除籍されました。退役後はムンバイで博物館船として公開されていましたが、2012年に展示を終了。2015年半ばまでにスクラップとして解体される予定となっていたようですが、まだそのままになっているようです。
空母を保有した国は数多くありましたが、実戦で活用した国というのは意外に少なく、ロシアにしてもシリア空爆のために空母「アドミラル・クズネツォフ」を出撃させたのが、ソ連時代を含めて初実戦でした。その中で、インド海軍の空母による実戦経験は注目されるものになっています。なお、艦載機を用いた空母同士の決戦を行ったのは、太平洋戦争での日本とアメリカだけになります。新空母を次々と就航させて海上覇権をねらう中国の今後に目が離せません。
沖に出ると、石油施設に火事が起きて、火や煙が上がっていました。大火災が生じているようですが、日本に戻って調べてみましたが、日本では報道されていないようです。
エレファンタ島は別項目として、ムンバイの様子を続けましょう。
エレファンタ島から戻ってくると、インド門周辺は大混雑になっていました。
アウランガーバードに移動するため空港に向かうと、アラビア海に沿う海岸道路に出ました。
海に延びた道の先に置かれたハッジ・アリー廟が見えました。
ここで溺死したイスラムの聖者の墓が聖地になっています。
ムンバイは、イギリスの統治の跡の残る大都市でした。ただ、高層ビルの下に広がるバラック群からは、インドの経済成長と同時に貧富の差の大きさがうかがわれました。
インド門は、1911年の英国王(インド皇帝)ジョージ5世夫妻のインド訪問を記念して建てられました。もっとも1915年に建設が始まったため、国王夫妻が実際に目にしたのは厚紙で作った建物の模型だけであったといいます。インド門は1924年に完成して植民地支配のシンボルとなり、船で来港して上陸する英国要人の歓迎式典の会場になりました。インド独立の際には、1948年2月28日にイギリス軍がこのインド門を通過して退去し、イギリスによる統治の終焉を示しました。
インド門は、古代ローマの凱旋門と16世紀のグジャラート建築物の要素を組み合わせた様式で、玄武岩を用いて建造されています。高さは25mあります。
また隣には、これも歴史を持つタージ・マハル・ホテルがあります。1903年に開業したムンバイで最も格式のあるホテルです。このホテルは、インド最大の富豪といわれるジャムシェードジー・タータによって建てられましたが、これにはあるエピソードがきっかけになりました。
19世紀末、ムンバイ一の資本家であったジャムシェードジー・タータは、外国の友人とあるホテルに夕食に出かけました。ところが、ヨーロッパ人専用とのことで、このホテルから入場を断られてしまいました。この事件から、インドの入口であるムンバイに、インド人が利用でき、世界に通用する一流のホテルが必要だと感じ、タータはホテルの建設を思い立ちました。ホテルは1903年に開業しましたが、その後も建築を続けて27年後に完成しています。このホテルは、隣のインド門ができる8年前から建っていたことになるので、やはりジャムシェードジー・タータの目の付け所は優れていたことになります。
なお、このジャムシェードジー・タータは、パースィー教(拝火教)徒でした。
パースィー教(拝火教)徒は、インドの中ではごく少数派ですが、ムンバイにそのほとんどが集まっています。パースィー教(拝火教)徒は、7世紀にペルシャからイスラム教の改宗をこばんでインドに移住してきました。商才にたけていたことからイギリスと協力して経済を握るようになりました。
現在でも、タタ財閥はインドにおける産業や商業に幅広く関与しており、良く知られているのがタタ・モーターズです。インド国内では商用車のシェアの60%、乗用車分野ではインド国内第2位(1位はマルチ・スズキ・インディア)のシェアを持っています。
また、エア・インディアもタータ一族によって創立されました。
パースィー教(拝火教)徒で日本でも知られている名前というと、指揮者のズービン・メータがいます。ボンベイのパースィー教の家庭で生まれています。彼の初期の名盤と知られているものに、リヒャルト・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラはかく語りき」があります。曲はニーチェの著作をもとにしていますが、ザラスシュトラ(ツァラトゥストラ)は拝火教の開祖なので、共感できるところがあったのかもしれません。
これは、旅行中に見たタタ製のトラック。窓ガラスに張ってある絵はどうなっているのですかね。
なお、ムンバイ市内には、鳥葬の行われる沈黙の塔があります。その下を通りはしたのですが、通りに面して密な木立が広がっており、姿をうかがうことはできませんでした。
インド門の広場の内陸よりの緑地には、チャトラパティ・シヴァージーの像が置かれています。シヴァージーは、地方の小領主の出から、イスラーム勢力との数々の戦いを経てそれらの支配を脱却し、3世紀ぶりになるヒンドゥー王国になるマラーター王国をデカン地方に築きました。シヴァージーは、イスラーム勢力の支配に抵抗し、「国家と宗教」を解放しようとした人物として、インドでもナショナリズムの代表として崇拝されており、空港や駅、博物館に彼の名前が冠されるようになっています。
なお、シヴァージーとデカン地方の覇権を争ったのが、ムガル帝国皇帝アウラングゼーブで、彼のデカン地方支配の拠点となったのが、この後で訪れるアウランガーバードです。
インド門とタージ・マハル・ホテルの一番の展望スポットは、エレファンタ島への船の上からとなります。
タージ・マハル・ホテルがインド門の付属施設のように見えます。中央に立つ白い建物は、タージ・マハル・ホテルの新館です。
インドの貧困問題を話し合う国際会議で、各国の代表者がこの豪華なタージ・マハル・ホテルに泊まったところ、「我々が援助しようとする貧困がある国とは思えない」という声が上がったとか。
船上からもムンバイの街に高層ビル群が並ぶ様を眺めることができました。
インド門の脇には海軍基地があって、これは撮影禁止ということなので、少し離れたところからムンバイ方向を振り返ったところです。
左に見える小島には海軍基地が置かれています。また、右手には、航空母艦が停泊しているのが見えます。
上の写真を拡大したものです。
この航空母艦を調べると、「ヴィクラント」のようです。第二次世界大戦後の1945年にイギリスで建造開始されたものの中止になっていたものが、1957年にインドに売却されて完成され、1961年にボンベイにて就航しました。1971年の第三次印パ戦争(バングラデシュ独立戦争)においては、ベンガル湾にて活動し、艦載機がパキスタン軍の艦船を撃破するという成果をあげています。1990年代前半から老朽化のために活動が不活発になり、1997年にインド海軍から除籍されました。退役後はムンバイで博物館船として公開されていましたが、2012年に展示を終了。2015年半ばまでにスクラップとして解体される予定となっていたようですが、まだそのままになっているようです。
空母を保有した国は数多くありましたが、実戦で活用した国というのは意外に少なく、ロシアにしてもシリア空爆のために空母「アドミラル・クズネツォフ」を出撃させたのが、ソ連時代を含めて初実戦でした。その中で、インド海軍の空母による実戦経験は注目されるものになっています。なお、艦載機を用いた空母同士の決戦を行ったのは、太平洋戦争での日本とアメリカだけになります。新空母を次々と就航させて海上覇権をねらう中国の今後に目が離せません。
沖に出ると、石油施設に火事が起きて、火や煙が上がっていました。大火災が生じているようですが、日本に戻って調べてみましたが、日本では報道されていないようです。
エレファンタ島は別項目として、ムンバイの様子を続けましょう。
エレファンタ島から戻ってくると、インド門周辺は大混雑になっていました。
アウランガーバードに移動するため空港に向かうと、アラビア海に沿う海岸道路に出ました。
海に延びた道の先に置かれたハッジ・アリー廟が見えました。
ここで溺死したイスラムの聖者の墓が聖地になっています。
ムンバイは、イギリスの統治の跡の残る大都市でした。ただ、高層ビルの下に広がるバラック群からは、インドの経済成長と同時に貧富の差の大きさがうかがわれました。