バスを降りてソカロにやってきました。ソカロは中央広場という意味で、メキシコの他の街でもお目にかかることになりました。
三日目の当初の予定は、まずテオティワカンを見学してからメキシコシティに戻って旧市街地の見学を行うということになっていましたが、ストライキが行われてその集合場所がソカロであるというので、朝一番に訪れました。メキシコでは、たびたびストが行われ、それも当日にならないと情報が入ってこないといいます。数回前のツアーでは、ストにあってメキシコシティからメリダへへ飛ぶ飛行機に乗り遅れてしまい、バスの中で夜を過ごしたと聞きました。
あいにくとクリスマスシーズンに行われていた野外スケート場などのイベント会場の跡片付け中で、ソカロの中央部に進むことはできませんでした。
ソカロは、一辺が200mを優に超えるほぼ正方形をした広大な広場で、古代から政治や宗教の中心地として使われてきました。モスクワの赤の広場、北京の天安門広場に次ぐ広さのようです。
ソカロ広場の脇に立つと、威容を誇るメトロポリタン・カテドラルを見上げることになります。
巨大なメトロポリタン・カテドラルの全容を見るには、少し離れる必要があります。カテドラルには、後ほど入場することになりました。
ソカロの南東に接する小公園に、アステカ建国伝説の像が置かれていました。先にも述べましたが、「流離のアステカ人が、メキシコ中央部にやってきたものの、すでに良い場所は他の国に支配されていました。仮住まいしていると、ある時、神官が「サボテンの上に蛇を食らう鷲がいる土地こそがお前たちの土地である」という神託を下しました。彼らがメキシコ盆地のテスココ湖上の島に上陸した時、まさにその光景を見たことから、その島の周りの浅瀬を埋め立てて、テノチティトランという都市を築きました。1325年に、アステカ人はついに自分の国を持つことになりました。」
このテノチティトランのあった場所が、ソカロです。
ソカロの東側に沿って、国立宮殿が広がっています。
この国立宮殿は、1523年にアステカ皇帝の宮殿を破壊した跡地にコルテスが建てた宮殿がもとになっており、現存する建物は1692年の焼失後再建されたものです。
中央にあるバルコニーでは、独立記念日の前夜に大統領が立ち、ソカロに集まった数万の市民に向かって「メキシコ万歳、独立万歳」と叫ぶといいます。
バルコニーの上にも、メキシコ国章になっている「サボテンの上で蛇を食らう鷲」のレリーフが飾られています。
ソカルの北側のカテドラルの東隣に、テンプロ・マヨールの遺跡があります。首都の中心部に遺跡があることは、少し不思議に思ってしまいます。
1913年にアステカのものと思われる地下への階段が発見されたことから発掘調査が進み、テノチティトランの中央神殿跡であることが判りました。
コルテスによってアステカが滅ぼされた後、テノチティトランの神殿はすべて壊されて、スペイン人によって、新しい建物が建てられました。カテドラルや国立宮殿の下には、アステカの遺跡が埋まっているのですが、発掘は不可能になっています。
入場せずに、外観だけの見学は残念でした。
最後にメトロポリタン・カテドラルを見学しました。
この寺院も、16世紀アステカ帝国を滅亡に追い込んだスペインのコルテスの命によって、アステカ帝国の首都だったテノチティトランを徹底的に破壊した跡地に建てられました。1525年に建設が始まったメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、当初は木造に草葺き屋根の質素な造りでした。しかし、新大陸の中心に相応しい大聖堂をという声が次第に高まり、1563年に古い建物を壊し、新たな大聖堂の建設が始まりました。スペインから著名な建築家が何人も招聘され建設されたメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、完成までに250年を要し、ゴシック、ルネサンス、バロック、新古典主義などの様式が混在するカテドラルとなりました。
1614年には、伊達政宗が欧州に派遣した支倉使節団が訪れています。一行がヌエバ・エスパーニャと呼ばれていた現在のメキシコ経由で欧州に渡ったのは、現在の欧州への航路を考えると不思議な気もしますが、中米から大西洋にかけてスペインの支配が行き届いていたことによるためでしょう。また、ハプスブルク家出身のクマシミリアンもこの寺院でメキシコ皇帝の戴冠式を行っています。
カテドラルの東側にエル・サグラリオ教会が隣接して建てられています。このエル・サグラリオ教会は18世紀半ばに建てられ、メキシコ・バロック様式で造られています。
この写真は、東側からの眺め。
通常のバロック様式を越えた過剰な装飾が施されており、これはウルトラ・バロック様式として知られています。
この超過剰装飾は、スペイン侵略後に教会の建立に従事した先住民たちの美的感覚が混じって生まれた建築とされています。インディヘナ・バロック(先住民のバロック様式)やニュースパニッシュ・バロック(ヌエバ・エスパーニャのバロック様式)と呼ばれますが、日本では、写真家の小野一郎氏が名付けた「ウルトラバロック」という言葉で知られています。
壁一面に飾られているため、個々の像を一つずつ見定める気力が起きてきません。
メトロポリタン・カテドラルに入場しました。
高い天井を持った大伽藍です。
入口に置かれた祭壇。金ぴかです。
祭壇の右手前には、「黒いキリスト像」が置かれています。
毒に侵された信者から毒を吸い取ったため肌が浅黒くなったといわれています。
奥に進みます。
左側の通路を進みましたが、中央通路は信者しか入れませんでした。
左側通路奥の祭壇。
主祭壇は脇から垣間見るだけになりました。正面から眺めることができなかったのは残念でしたが、全面に金ぴかの装飾が施されているようです。
パイプオルガン。
入口近くの礼拝堂ですが、ウルトラ・バロックという言葉がぴったりの過剰装飾です。
見学時間の関係で薄暗かったですが、光が差し込むと、金色に輝くのでしょう。
大天使ミカエルでしょうか。
ソカロ広場から東に延びる道も趣がありましたが、ソカロ地区の見学はここまででバスに戻りました。
三日目の当初の予定は、まずテオティワカンを見学してからメキシコシティに戻って旧市街地の見学を行うということになっていましたが、ストライキが行われてその集合場所がソカロであるというので、朝一番に訪れました。メキシコでは、たびたびストが行われ、それも当日にならないと情報が入ってこないといいます。数回前のツアーでは、ストにあってメキシコシティからメリダへへ飛ぶ飛行機に乗り遅れてしまい、バスの中で夜を過ごしたと聞きました。
あいにくとクリスマスシーズンに行われていた野外スケート場などのイベント会場の跡片付け中で、ソカロの中央部に進むことはできませんでした。
ソカロは、一辺が200mを優に超えるほぼ正方形をした広大な広場で、古代から政治や宗教の中心地として使われてきました。モスクワの赤の広場、北京の天安門広場に次ぐ広さのようです。
ソカロ広場の脇に立つと、威容を誇るメトロポリタン・カテドラルを見上げることになります。
巨大なメトロポリタン・カテドラルの全容を見るには、少し離れる必要があります。カテドラルには、後ほど入場することになりました。
ソカロの南東に接する小公園に、アステカ建国伝説の像が置かれていました。先にも述べましたが、「流離のアステカ人が、メキシコ中央部にやってきたものの、すでに良い場所は他の国に支配されていました。仮住まいしていると、ある時、神官が「サボテンの上に蛇を食らう鷲がいる土地こそがお前たちの土地である」という神託を下しました。彼らがメキシコ盆地のテスココ湖上の島に上陸した時、まさにその光景を見たことから、その島の周りの浅瀬を埋め立てて、テノチティトランという都市を築きました。1325年に、アステカ人はついに自分の国を持つことになりました。」
このテノチティトランのあった場所が、ソカロです。
ソカロの東側に沿って、国立宮殿が広がっています。
この国立宮殿は、1523年にアステカ皇帝の宮殿を破壊した跡地にコルテスが建てた宮殿がもとになっており、現存する建物は1692年の焼失後再建されたものです。
中央にあるバルコニーでは、独立記念日の前夜に大統領が立ち、ソカロに集まった数万の市民に向かって「メキシコ万歳、独立万歳」と叫ぶといいます。
バルコニーの上にも、メキシコ国章になっている「サボテンの上で蛇を食らう鷲」のレリーフが飾られています。
ソカルの北側のカテドラルの東隣に、テンプロ・マヨールの遺跡があります。首都の中心部に遺跡があることは、少し不思議に思ってしまいます。
1913年にアステカのものと思われる地下への階段が発見されたことから発掘調査が進み、テノチティトランの中央神殿跡であることが判りました。
コルテスによってアステカが滅ぼされた後、テノチティトランの神殿はすべて壊されて、スペイン人によって、新しい建物が建てられました。カテドラルや国立宮殿の下には、アステカの遺跡が埋まっているのですが、発掘は不可能になっています。
入場せずに、外観だけの見学は残念でした。
最後にメトロポリタン・カテドラルを見学しました。
この寺院も、16世紀アステカ帝国を滅亡に追い込んだスペインのコルテスの命によって、アステカ帝国の首都だったテノチティトランを徹底的に破壊した跡地に建てられました。1525年に建設が始まったメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、当初は木造に草葺き屋根の質素な造りでした。しかし、新大陸の中心に相応しい大聖堂をという声が次第に高まり、1563年に古い建物を壊し、新たな大聖堂の建設が始まりました。スペインから著名な建築家が何人も招聘され建設されたメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、完成までに250年を要し、ゴシック、ルネサンス、バロック、新古典主義などの様式が混在するカテドラルとなりました。
1614年には、伊達政宗が欧州に派遣した支倉使節団が訪れています。一行がヌエバ・エスパーニャと呼ばれていた現在のメキシコ経由で欧州に渡ったのは、現在の欧州への航路を考えると不思議な気もしますが、中米から大西洋にかけてスペインの支配が行き届いていたことによるためでしょう。また、ハプスブルク家出身のクマシミリアンもこの寺院でメキシコ皇帝の戴冠式を行っています。
カテドラルの東側にエル・サグラリオ教会が隣接して建てられています。このエル・サグラリオ教会は18世紀半ばに建てられ、メキシコ・バロック様式で造られています。
この写真は、東側からの眺め。
通常のバロック様式を越えた過剰な装飾が施されており、これはウルトラ・バロック様式として知られています。
この超過剰装飾は、スペイン侵略後に教会の建立に従事した先住民たちの美的感覚が混じって生まれた建築とされています。インディヘナ・バロック(先住民のバロック様式)やニュースパニッシュ・バロック(ヌエバ・エスパーニャのバロック様式)と呼ばれますが、日本では、写真家の小野一郎氏が名付けた「ウルトラバロック」という言葉で知られています。
壁一面に飾られているため、個々の像を一つずつ見定める気力が起きてきません。
メトロポリタン・カテドラルに入場しました。
高い天井を持った大伽藍です。
入口に置かれた祭壇。金ぴかです。
祭壇の右手前には、「黒いキリスト像」が置かれています。
毒に侵された信者から毒を吸い取ったため肌が浅黒くなったといわれています。
奥に進みます。
左側の通路を進みましたが、中央通路は信者しか入れませんでした。
左側通路奥の祭壇。
主祭壇は脇から垣間見るだけになりました。正面から眺めることができなかったのは残念でしたが、全面に金ぴかの装飾が施されているようです。
パイプオルガン。
入口近くの礼拝堂ですが、ウルトラ・バロックという言葉がぴったりの過剰装飾です。
見学時間の関係で薄暗かったですが、光が差し込むと、金色に輝くのでしょう。
大天使ミカエルでしょうか。
ソカロ広場から東に延びる道も趣がありましたが、ソカロ地区の見学はここまででバスに戻りました。