旧市街広場から北に進むと、16世紀中頃、旧市街を囲む市壁を強化するために建設さたバルバカンが現れます。ここのバルバカンは、バロック様式の砦で、馬蹄形をしています。
両サイドに城壁が続くのを眺めることができました。
バルバカンを通り抜けていきます。
外側からのバルバカンの眺め。
バルバカンの外側は新市街地と呼ばれていますが、16世紀以来の古い歴史を持った地区です。
北に向かって少し歩くとキュリー夫人博物館が現れます。キュリー夫人は、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証し、原子(核)物理学の最初の基礎を作り、物理学賞と化学賞の分野で二度もノーベル賞を受賞しました。
ポロニウムの名前もポーランドに由来しています。
私が子供の頃の偉人伝ではお馴染みのキュリー夫人ですが、最近では偉人伝の内容も大きく変わってきているようです。伝記の人気ランキングも、野口英世が消えてイチローが入ってきているといいます。野球選手の活躍が文明にどれほど貢献したのかと疑問を持ってしまいますが、昔のランキングでもベーブルースが入っているのに目がとまりました。とりあえず、キュリー夫人の人気は、現在で保たれているようです。
この博物館がキュリー夫人の生家と思ったのですが、向かいの工事中で隠されている建物がそうだったようです。ガイドブックの説明や写真に混乱が見られます。
バルバカンの出口から南西に進むと、ワルシャワ蜂起記念碑が置かれています。
ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦待末、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起です。
ソ連軍がポーランド東部を占領してワルシャワに迫ると、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけました。ポーランド国内軍は、それに呼応するような形で、1944年8月1日に、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起しました。しかし、ワルシャワから10kmの地点まで侵攻してきたソ連軍は、そこで進軍を停止してしまいました。
ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの国内軍を圧倒する豊富な物量装備をもって臨みました。ポーランド国内軍は、ドイツ軍の補給所や兵舎の占領により、武器の補給を行い、激しい市街戦が続くことになりました。この一方で、ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功したソ連軍は、市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、ポーランド国内軍への支援をせずに静観しました。ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々にポーランド国内軍を追いつめていき、蜂起は完全に鎮圧されてしまいました。ドイツ軍の懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされました。
ソ連軍は1945年1月12日、ようやく進撃を再開し、1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領しました。その後、ソ連軍は生き残ったポーランド国内軍の幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取りました。生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、ソ連進駐後は裏切った赤軍を攻撃目標とするようになり、政府要人暗殺を企てるようになりました。
ワルシャワ蜂起を指導したのはロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府でした。ソ連との関係は、ポーランド捕虜のソ連による虐殺「カティンの森事件」によって、決定的に悪くなっていました。ポーランド亡命政府側主導の武装蜂起の成功は、ソ連にとって受け入れられないことでした。ワルシャワ蜂起は、ポーランド亡命政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったとも考えられています。
戦後、ポーランドが長らく共産圏としてソ連の支配下にあったことは、さらなる悲劇であったと考えられます。
スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」が、クラクフでのユダヤ人迫害の悲劇を描いたのと同じように、ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」がワルシャワを舞台として同じテーマを扱っています。
ユダヤ人のピアニストが、ゲットー収容、絶滅強制収容所送り、ゲットー武装蜂起、ワルシャワ蜂起の事件を通して、多くの人々の援助を受けて奇跡的に生き延びた物語を描いています。
ワルシャワ蜂起後に破壊されたワルシャワの街の風景が、現実とは思えない印象で迫ってきます。
主人公のシュピルマンは、運命に流されるままで、いささか心もとないという感じもしますが、これはポランスキーの実体験を反映しているのかもしれません。
ポランスキーは、パリで生まれましたが、ポーランドのクラクフで幼少期を過ごしました。クラクフに作られたユダヤ人ゲットーに押し込められましたが、ゲットーのユダヤ人が一斉に逮捕される直前、父親はゲットーの有刺鉄線を切って穴を作り、そこからポランスキーを逃がしました。ポランスキーは、ドイツに占領されたフランスのヴィシー政権下における「ユダヤ人狩り」から逃れるため逃亡を繰り返すことになりました。
シュピルマンは、ワルシャワ蜂起後、廃墟の中で完全に孤立無援となってしまいました。廃墟の中で食べ物をあさっていたシュピルマンは、ドイツ人将校ホーゼンフェルトに見つかってしまいます。尋問によって職業はピアニストであることを告げると、演奏するように命じられます。
死を覚悟し、最後のピアノ演奏として選んだのは、ショパン・バラード第1番。緊迫した場面で、ショパンの曲が心にしみてきます。
その見事なピアノの腕前に感動しと、ドイツの敗退を予想するホーゼンフェルトは、シュピルマンの命を助け食料を差し入れます。
なお、生き延びたシュピルマンが、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を演奏する場面で映画は終わります。
ワルシャワ蜂起に関連する映画としては、ワイダ監督の「地下水道」が挙げられます。ワルシャワ蜂起の際に、ドイツ軍の包囲から脱出するために下水道に逃げ込みますが、一行はちりじりになり、あるものは気が狂い、ドイツ軍の中に出てしまって射殺されたりして、全滅していく様子が描かれています。
現在ビデオは絶版状態ですが、YouTubeで日本語字幕版で見ることができます。
途中ではぐれた男女が、ヴィスワ川への出口にようやく辿りつきますが、下水には鉄柵が設けられて行き止まりになっていました。柵の向こうには、ヴィスワ川と対岸を望むことができました。ワイダ監督は、共産圏国家でのぎりぎりの表現として、ヴィスワ川対岸に陣取ってワルシャワ蜂起を傍観しているソ連軍の姿を暗示して、ワルシャワ蜂起の黒幕がソ連軍であったと訴えています。
ワイダ監督の代表作「灰とダイヤモンド」についても触れておきましょう。
ソ連軍のワルシャワ占領後、生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、政府要人の暗殺を企てるようになりますが、この時代を背景にした物語です。
ロンドン亡命政府派の青年マチェクは、党権委員会書記の暗殺を図るも誤って別人を殺害してしまい、翌朝暗殺に成功するも、軍によって射殺されてしまいます。
青年マチェクは、政治的信念は持っておらず「チャラ男」といった軽い性格で、出会った女性に恋をして、暗殺から足を洗おうかと心が揺れます。キリスト像が逆さまにぶるさがる教会の廃墟で二人が逢引きを行う場面は、この映画の印象的な場面の一つになっています。
党権委員会書記の暗殺者が主人公として描かれているため、検閲の際にはその点が問題視されましたが、青年マチェクがゴミ山の上で息絶えるラストシーンが反政府運動の無意味さを象徴したものだとして統一労働者党から高く評価され、上映が許可されたといいます。実際に映画を見ると、青年の無残な死に同情を覚えてしまう場面になっています。
これらのポーランド映画は、ポーランドの近代史の基礎知識を知るためにも見ておくできでしょう。
両サイドに城壁が続くのを眺めることができました。
バルバカンを通り抜けていきます。
外側からのバルバカンの眺め。
バルバカンの外側は新市街地と呼ばれていますが、16世紀以来の古い歴史を持った地区です。
北に向かって少し歩くとキュリー夫人博物館が現れます。キュリー夫人は、ウラン鉱石の精製からラジウム、ポロニウムを発見し、原子核の自然崩壊および放射性同位元素の存在を実証し、原子(核)物理学の最初の基礎を作り、物理学賞と化学賞の分野で二度もノーベル賞を受賞しました。
ポロニウムの名前もポーランドに由来しています。
私が子供の頃の偉人伝ではお馴染みのキュリー夫人ですが、最近では偉人伝の内容も大きく変わってきているようです。伝記の人気ランキングも、野口英世が消えてイチローが入ってきているといいます。野球選手の活躍が文明にどれほど貢献したのかと疑問を持ってしまいますが、昔のランキングでもベーブルースが入っているのに目がとまりました。とりあえず、キュリー夫人の人気は、現在で保たれているようです。
この博物館がキュリー夫人の生家と思ったのですが、向かいの工事中で隠されている建物がそうだったようです。ガイドブックの説明や写真に混乱が見られます。
バルバカンの出口から南西に進むと、ワルシャワ蜂起記念碑が置かれています。
ワルシャワ蜂起は、第二次世界大戦待末、ナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで起こった武装蜂起です。
ソ連軍がポーランド東部を占領してワルシャワに迫ると、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけました。ポーランド国内軍は、それに呼応するような形で、1944年8月1日に、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起しました。しかし、ワルシャワから10kmの地点まで侵攻してきたソ連軍は、そこで進軍を停止してしまいました。
ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの国内軍を圧倒する豊富な物量装備をもって臨みました。ポーランド国内軍は、ドイツ軍の補給所や兵舎の占領により、武器の補給を行い、激しい市街戦が続くことになりました。この一方で、ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功したソ連軍は、市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、ポーランド国内軍への支援をせずに静観しました。ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々にポーランド国内軍を追いつめていき、蜂起は完全に鎮圧されてしまいました。ドイツ軍の懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされました。
ソ連軍は1945年1月12日、ようやく進撃を再開し、1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領しました。その後、ソ連軍は生き残ったポーランド国内軍の幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取りました。生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、ソ連進駐後は裏切った赤軍を攻撃目標とするようになり、政府要人暗殺を企てるようになりました。
ワルシャワ蜂起を指導したのはロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府でした。ソ連との関係は、ポーランド捕虜のソ連による虐殺「カティンの森事件」によって、決定的に悪くなっていました。ポーランド亡命政府側主導の武装蜂起の成功は、ソ連にとって受け入れられないことでした。ワルシャワ蜂起は、ポーランド亡命政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったとも考えられています。
戦後、ポーランドが長らく共産圏としてソ連の支配下にあったことは、さらなる悲劇であったと考えられます。
スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」が、クラクフでのユダヤ人迫害の悲劇を描いたのと同じように、ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」がワルシャワを舞台として同じテーマを扱っています。
ユダヤ人のピアニストが、ゲットー収容、絶滅強制収容所送り、ゲットー武装蜂起、ワルシャワ蜂起の事件を通して、多くの人々の援助を受けて奇跡的に生き延びた物語を描いています。
ワルシャワ蜂起後に破壊されたワルシャワの街の風景が、現実とは思えない印象で迫ってきます。
主人公のシュピルマンは、運命に流されるままで、いささか心もとないという感じもしますが、これはポランスキーの実体験を反映しているのかもしれません。
ポランスキーは、パリで生まれましたが、ポーランドのクラクフで幼少期を過ごしました。クラクフに作られたユダヤ人ゲットーに押し込められましたが、ゲットーのユダヤ人が一斉に逮捕される直前、父親はゲットーの有刺鉄線を切って穴を作り、そこからポランスキーを逃がしました。ポランスキーは、ドイツに占領されたフランスのヴィシー政権下における「ユダヤ人狩り」から逃れるため逃亡を繰り返すことになりました。
シュピルマンは、ワルシャワ蜂起後、廃墟の中で完全に孤立無援となってしまいました。廃墟の中で食べ物をあさっていたシュピルマンは、ドイツ人将校ホーゼンフェルトに見つかってしまいます。尋問によって職業はピアニストであることを告げると、演奏するように命じられます。
死を覚悟し、最後のピアノ演奏として選んだのは、ショパン・バラード第1番。緊迫した場面で、ショパンの曲が心にしみてきます。
その見事なピアノの腕前に感動しと、ドイツの敗退を予想するホーゼンフェルトは、シュピルマンの命を助け食料を差し入れます。
なお、生き延びたシュピルマンが、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を演奏する場面で映画は終わります。
ワルシャワ蜂起に関連する映画としては、ワイダ監督の「地下水道」が挙げられます。ワルシャワ蜂起の際に、ドイツ軍の包囲から脱出するために下水道に逃げ込みますが、一行はちりじりになり、あるものは気が狂い、ドイツ軍の中に出てしまって射殺されたりして、全滅していく様子が描かれています。
現在ビデオは絶版状態ですが、YouTubeで日本語字幕版で見ることができます。
途中ではぐれた男女が、ヴィスワ川への出口にようやく辿りつきますが、下水には鉄柵が設けられて行き止まりになっていました。柵の向こうには、ヴィスワ川と対岸を望むことができました。ワイダ監督は、共産圏国家でのぎりぎりの表現として、ヴィスワ川対岸に陣取ってワルシャワ蜂起を傍観しているソ連軍の姿を暗示して、ワルシャワ蜂起の黒幕がソ連軍であったと訴えています。
ワイダ監督の代表作「灰とダイヤモンド」についても触れておきましょう。
ソ連軍のワルシャワ占領後、生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、政府要人の暗殺を企てるようになりますが、この時代を背景にした物語です。
ロンドン亡命政府派の青年マチェクは、党権委員会書記の暗殺を図るも誤って別人を殺害してしまい、翌朝暗殺に成功するも、軍によって射殺されてしまいます。
青年マチェクは、政治的信念は持っておらず「チャラ男」といった軽い性格で、出会った女性に恋をして、暗殺から足を洗おうかと心が揺れます。キリスト像が逆さまにぶるさがる教会の廃墟で二人が逢引きを行う場面は、この映画の印象的な場面の一つになっています。
党権委員会書記の暗殺者が主人公として描かれているため、検閲の際にはその点が問題視されましたが、青年マチェクがゴミ山の上で息絶えるラストシーンが反政府運動の無意味さを象徴したものだとして統一労働者党から高く評価され、上映が許可されたといいます。実際に映画を見ると、青年の無残な死に同情を覚えてしまう場面になっています。
これらのポーランド映画は、ポーランドの近代史の基礎知識を知るためにも見ておくできでしょう。