ボレスワヴィエツの見学を終えてブロツワフに戻ってきました。
道路脇に、BOLESLAW CHROBRYと書かれた像が置かれていました。ポーランド初代君主のミェシコ1世の息子のボレスワフ1世です。父の跡を継いで即位すると、強力な騎兵隊を編成して軍備を強化し、チェコを征服して自らボヘミア公となり、ポーランド東南部に勢力を拡大しました。さらにキエフ公国を撃退して一部を征服したり、神聖ローマ帝国領のマイセンを侵略して手に入れました。死去の直前に王冠を受け取り、ポーランド公国はポーランド王国に昇格し、ポーランド王国初代の王と認知されました。武勇に優れていたことから、「勇敢王」(BOLESLAW CHROBRY 勇敢なボレスワフ)と称されました。ポズナンの項で述べたように、20ズウォティ紙幣には彼の肖像が描かれています。
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オドラ川には遊覧船が浮かんでいました。
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ブロツワフ市内に戻る前に、東の郊外にあるシチトゥニキ公園を訪れて百年記念館を見学しました。
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百年記念館は、ナポレオン戦争におけるライプツィヒの戦いの勝利から100周年を記念して、マックス・ベルクの設計によって1911~1913年に造られた約6000人収容の巨大な建物で、世界最大級のコンクリート製ドームです。
ライプツィヒの戦いの当時、ポーランドはナポレオンによって造られたワルシャワ公国の時代で、勝者はロシア帝国であって、ポーランドは微妙な立場です。百年記念館は、ロシア帝国の記念碑ということになります。
鉄筋コンクリート建築史の中で画期的な建造物ということで、2006年にはユネスコの世界遺産に登録されています。最近の増えすぎた世界遺産で良く経験することですが、コンクリート製のドームを見て、感銘は受けませんでした。近代の建築物ということでは、上野の西洋美術館の建物は子供の頃から何度も訪れていますが、建物自体を見て素晴らしいと思ったことはありません。その前に置かれたロダンの彫刻の方に目がいってしまうこともありますが。世界遺産はかならずしも観光スポットとは限らないということを心にとめておく必要があります。
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ツアーの当初の予定では、百年記念館は入場見学となっていましたが、ブリッジの大会が行われていて、外観だけの見学になりました。中をのぞくと、ビリッジのためのテーブルが並べられていました。
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百年記念館の脇には大きな噴水があり、その周りには大勢の人が涼んでいました。ポーラドに入国してから連日異常ともいえ暑い日が続いていました。
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噴水と取り巻くように回廊が設けてありました。
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回廊脇には日本庭園が設けられていましたが、残念ながら入園しませんでした。
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ポーランドは、あまり知られていませんが、親日な国です。この背景には、シベリア孤児救済のエピソードがあるようです。
帝政ロシアの支配下でポーラドの独立を図ろうとした愛国者は、シベリアに家族もろとも強制流刑になりました。さらに、ロシア革命による内乱を避けた避難民も加わって、極東地域に十数万人のポーランド人が居住することになりました。ポーランド人たちは、飢餓と疫病で苦しみ、親を失った孤児たちが多く生じてしまいました。
「せめてこの子供達だけでも生きて祖国に送り届けたい」ということで、大正8(1919)年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちは、「ポーランド救済委員会」を組織し、資金を集めようとしました。しかし、流刑者のため金はないうえに、大正9(1920)年の春になると、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まってしまい、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは、これで完全に不可能となってしましました。
そこでポーランド救済委員会のメンバーは、欧米諸国に救援を求めましたが、ロシアとの紛争を避けたい欧州の諸国は、ことごとく救済委員会の申し出を断ってしまいました。窮余の一策として、日本政府に援助を要請したところ、国家として未承認にもかかわらず、歎願は外務省を通じて日本赤十字社に通されて、シベリア孤児の救済事業を行なうことを決定し、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て実行に移されました。合計8回の救済事業によって、合計765名のポーランド孤児たちは、日本で病気の治療や静養をした後、第一陣はアメリカ経由で、第二陣は日本船により直接に祖国ポーランドに送り返されました。
日本人が忘れてしまっているこのエピソードを、ポーランド人はまだ覚えているようです。ポーランド民主化の立役者になったワレサ氏は、初の外国訪問として日本を選び、1981年に来日しました。また、阪神・淡路大震災の際には、両親を失った被災児の心を癒すため60人の被災児たちがポーランドに招待されました。
このシベリア孤児救済の他にも、トルコの「戦艦エルトゥールル号の遭難」事件など、親日の元になるエピソードを日本人自身が忘れてしまいがちですが、未来のためにも記憶に留めておく必要があるでしょうね。国際貢献のために何をすべきべきかは、すぐには判断できない難しい問題です。
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噴水ごしに見る百年記念館。
この後は、ブロツワフの市内観光を行うことになりました。
道路脇に、BOLESLAW CHROBRYと書かれた像が置かれていました。ポーランド初代君主のミェシコ1世の息子のボレスワフ1世です。父の跡を継いで即位すると、強力な騎兵隊を編成して軍備を強化し、チェコを征服して自らボヘミア公となり、ポーランド東南部に勢力を拡大しました。さらにキエフ公国を撃退して一部を征服したり、神聖ローマ帝国領のマイセンを侵略して手に入れました。死去の直前に王冠を受け取り、ポーランド公国はポーランド王国に昇格し、ポーランド王国初代の王と認知されました。武勇に優れていたことから、「勇敢王」(BOLESLAW CHROBRY 勇敢なボレスワフ)と称されました。ポズナンの項で述べたように、20ズウォティ紙幣には彼の肖像が描かれています。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/d7/b010053b1acba1c0e5a16ad4b225b092.jpg)
オドラ川には遊覧船が浮かんでいました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/c0/e85d551e16e536a64a94db3074719483.jpg)
ブロツワフ市内に戻る前に、東の郊外にあるシチトゥニキ公園を訪れて百年記念館を見学しました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/39/54fac6d9bd31d6dff3cc8d3f75cdc3f4.jpg)
百年記念館は、ナポレオン戦争におけるライプツィヒの戦いの勝利から100周年を記念して、マックス・ベルクの設計によって1911~1913年に造られた約6000人収容の巨大な建物で、世界最大級のコンクリート製ドームです。
ライプツィヒの戦いの当時、ポーランドはナポレオンによって造られたワルシャワ公国の時代で、勝者はロシア帝国であって、ポーランドは微妙な立場です。百年記念館は、ロシア帝国の記念碑ということになります。
鉄筋コンクリート建築史の中で画期的な建造物ということで、2006年にはユネスコの世界遺産に登録されています。最近の増えすぎた世界遺産で良く経験することですが、コンクリート製のドームを見て、感銘は受けませんでした。近代の建築物ということでは、上野の西洋美術館の建物は子供の頃から何度も訪れていますが、建物自体を見て素晴らしいと思ったことはありません。その前に置かれたロダンの彫刻の方に目がいってしまうこともありますが。世界遺産はかならずしも観光スポットとは限らないということを心にとめておく必要があります。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/31/9724f039df3b926f3a093398bf86f955.jpg)
ツアーの当初の予定では、百年記念館は入場見学となっていましたが、ブリッジの大会が行われていて、外観だけの見学になりました。中をのぞくと、ビリッジのためのテーブルが並べられていました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/db/ff26656a0d6d1c52818da5b78c8df764.jpg)
百年記念館の脇には大きな噴水があり、その周りには大勢の人が涼んでいました。ポーラドに入国してから連日異常ともいえ暑い日が続いていました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/c5/76af72e60a5fdf4f0265cf7d7fb65e5a.jpg)
噴水と取り巻くように回廊が設けてありました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/fd/0366c310fddca1bc0aa88de267bb67b2.jpg)
回廊脇には日本庭園が設けられていましたが、残念ながら入園しませんでした。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/bf/1aba948d22e9c1807e5b3cde6b7d5b37.jpg)
ポーランドは、あまり知られていませんが、親日な国です。この背景には、シベリア孤児救済のエピソードがあるようです。
帝政ロシアの支配下でポーラドの独立を図ろうとした愛国者は、シベリアに家族もろとも強制流刑になりました。さらに、ロシア革命による内乱を避けた避難民も加わって、極東地域に十数万人のポーランド人が居住することになりました。ポーランド人たちは、飢餓と疫病で苦しみ、親を失った孤児たちが多く生じてしまいました。
「せめてこの子供達だけでも生きて祖国に送り届けたい」ということで、大正8(1919)年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちは、「ポーランド救済委員会」を組織し、資金を集めようとしました。しかし、流刑者のため金はないうえに、大正9(1920)年の春になると、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まってしまい、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは、これで完全に不可能となってしましました。
そこでポーランド救済委員会のメンバーは、欧米諸国に救援を求めましたが、ロシアとの紛争を避けたい欧州の諸国は、ことごとく救済委員会の申し出を断ってしまいました。窮余の一策として、日本政府に援助を要請したところ、国家として未承認にもかかわらず、歎願は外務省を通じて日本赤十字社に通されて、シベリア孤児の救済事業を行なうことを決定し、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て実行に移されました。合計8回の救済事業によって、合計765名のポーランド孤児たちは、日本で病気の治療や静養をした後、第一陣はアメリカ経由で、第二陣は日本船により直接に祖国ポーランドに送り返されました。
日本人が忘れてしまっているこのエピソードを、ポーランド人はまだ覚えているようです。ポーランド民主化の立役者になったワレサ氏は、初の外国訪問として日本を選び、1981年に来日しました。また、阪神・淡路大震災の際には、両親を失った被災児の心を癒すため60人の被災児たちがポーランドに招待されました。
このシベリア孤児救済の他にも、トルコの「戦艦エルトゥールル号の遭難」事件など、親日の元になるエピソードを日本人自身が忘れてしまいがちですが、未来のためにも記憶に留めておく必要があるでしょうね。国際貢献のために何をすべきべきかは、すぐには判断できない難しい問題です。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/fb/ba0c4db69225763274c7e70ed9332f20.jpg)
噴水ごしに見る百年記念館。
この後は、ブロツワフの市内観光を行うことになりました。