シーギリア・ロックの見学のためには、混雑と暑さを避けるために早い時間のスタートが必要になります。ホテルを7時半に出発し、入口にあるトイレを使った後に、ゲートを8時15分に通過することができました。開場は7時というので、朝一番を目指した入場者もひと段落して、ゲート付近は空いていました。先行の入園者は大勢いましたが、登り階段の途中で体力に応じて適当にばらけており、一か所で渋滞というようなことはありませんでした。
シーギリア・ロックの周辺には、ハスの水路と呼ばれる堀がめぐらされています。
かつてはワニが放されており、ここに落ちた者は助からなかったといいます。
橋を渡ってガイドの説明が始まったとたんに、スリランカ国歌が流れてきて、しばらく清聴することになりました。始業時の国歌演奏とのことでした。歌詞が何番まであるのか、かなり長く続きました。
堀から上がってところには、見張り台の土台跡がありました。
土塁を抜けると、直線的な通路が続いていました。
最初に、水の広場が現れます。
通路の左右に沐浴場跡の池が設けられていました。向かって左は自然なままにされています。
右手は、修復の手が加えられて沐浴場跡の形が良く分かるようになっています。
その先にも左右一対の沐浴場跡が現れます。
当時は500人もの妃がおり、その沐浴姿を王は楽しんだといいます。
ここでようやくシーギリヤ・ロックが姿を現しました。高さ200mの岩山に要害を兼ねた宮殿が造られています。
この岩山に宮殿が造られた経緯については、一つの物語があります。
ここに宮殿を作ったカーシャパは、シンハラ王朝の5世紀、広大な貯水池を作って名君として知られたダートゥセーナ王の長男でした。カーシャパは、母親が平民の出であったことから、王族の血筋の母親から生まれた腹違いの弟モッガラーナに王位の継承権を奪われると思い、王を監禁し、自らが王位につきました。その後、隠した財産をすべて出せと迫ったところ、ダートゥセーナ王は自らが建設した貯水池に案内し、「これが私の財産のすべてだ」と言ったいいます。怒りに震えたカーシャパは、部下に命じてダートゥセーナ王を殺させてしまいました。
弟モッガラーナは、インドに亡命していましたが、カーシャパは弟の復讐を恐れてか、父の殺害に心を乱したのか、都をアヌラーダプラからシーギリヤに移して、岩山に宮殿を立てました。11年後、モッガラーナは、亡命先の南インドから軍隊を引き連れて戻り、兄に戦いをいどみました。戦いの結果、劣勢におちいったカーシャパは自害してしまいました。モッガラーナは、シーギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移しました。
シーギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続しましたが、徐々に衰退し、忘れ去られることになりました。建造から1400年の後、イギリス統治下の1875年に、望遠鏡で岩山をのぞいていたイギリス人によって、岩山に描かれたフレスコ画の"シーギリヤ・レディ"が発見され、シーギリヤ・ロックは新たな時代を迎えることになりました。
この物語は、オペラの題材にもうってつけですね。ヴェルディの「マクベス」なら、ちょっとした読み替え演出で、オペラ「シーギリヤ」ができそうです。マクベス夫人は、カーシャパの母親に変えればよいでしょうか。狂気や流血、裏切りが遺跡の輝きを増すことになるのは、皮肉なことです。
なお、天空の宮殿として、宮崎駿監督のアニメ「天空の城ラピュタ」のモデルになったとも言われています。
ガイドの説明と記念撮影で足が止まりましたが、再び先に進みます。
続いてドライシーズン・パレス地区になります。通路脇は水路も設けられた庭園になっています。
現在でも噴水から水が出ています。
小高い部分に宮殿が設けられていたようです。
いよいよシーギリヤ・ロックも迫ってきました。
逆光で細部が判りにくいので、観光後にもらった登頂証明書の写真で説明することにします。
まずは、岩山の中腹にあたるAの展望テラスまで登ります。ここで高さにして半分ほど登ったことになります。Aの展望テラスからCのミラー・ウォールまでは高さの変化はありませんが、途中でBのシーギリヤ・レディーへはらせん階段の上り下りがあります。ミラー・ウォールを抜けた後、階段をひと登りすると、Dのライオンの足のある広場に出ます。なお、下りは、ライオンの足のある広場の下から別な道を通ることになります。Dのライオンの足のある広場からさらに階段登りを頑張って、ようやく頂上に到着です。
登山のグレードでいうなら、初心者向き程度の体力は必要になります。
岩山の下に到着し、ここから階段登りが始まります。
脇には、僧院として使われていた石窟寺院があります。
先も長いので、ゆっくりペースで登っていきます。
途中にも、石窟が現れます。
第一アーチと呼ばれる大岩の間の隙間を通ります。防御の役にたっていたようです。
大岩の下には瞑想につかわれていた台座が残されていました。
この先は、テラスの庭と呼ばれ、昔は花や木が植えられていた花壇がテラス状に整備されています。その中を階段が高みに向かって続いていました。
気温が早くも上がってきて、汗だくの登りになりました。
展望テラスまでは、個人個人のペースで登ることになりました。日頃、ハイキング程度の歩きを行っていないと辛い思いをすることになると思います。
展望テラスまであともうひと頑張り。
階段を振り返ったところ。
展望テラスでは、大勢が休んでいました。グループの場合は、ここで後続を待つ必要があります。
展望テラスからは、水の広場を見下ろすことができました。頂上までの半分近くを登ってきたことになります。
シーギリア・ロックの周辺には、ハスの水路と呼ばれる堀がめぐらされています。
かつてはワニが放されており、ここに落ちた者は助からなかったといいます。
橋を渡ってガイドの説明が始まったとたんに、スリランカ国歌が流れてきて、しばらく清聴することになりました。始業時の国歌演奏とのことでした。歌詞が何番まであるのか、かなり長く続きました。
堀から上がってところには、見張り台の土台跡がありました。
土塁を抜けると、直線的な通路が続いていました。
最初に、水の広場が現れます。
通路の左右に沐浴場跡の池が設けられていました。向かって左は自然なままにされています。
右手は、修復の手が加えられて沐浴場跡の形が良く分かるようになっています。
その先にも左右一対の沐浴場跡が現れます。
当時は500人もの妃がおり、その沐浴姿を王は楽しんだといいます。
ここでようやくシーギリヤ・ロックが姿を現しました。高さ200mの岩山に要害を兼ねた宮殿が造られています。
この岩山に宮殿が造られた経緯については、一つの物語があります。
ここに宮殿を作ったカーシャパは、シンハラ王朝の5世紀、広大な貯水池を作って名君として知られたダートゥセーナ王の長男でした。カーシャパは、母親が平民の出であったことから、王族の血筋の母親から生まれた腹違いの弟モッガラーナに王位の継承権を奪われると思い、王を監禁し、自らが王位につきました。その後、隠した財産をすべて出せと迫ったところ、ダートゥセーナ王は自らが建設した貯水池に案内し、「これが私の財産のすべてだ」と言ったいいます。怒りに震えたカーシャパは、部下に命じてダートゥセーナ王を殺させてしまいました。
弟モッガラーナは、インドに亡命していましたが、カーシャパは弟の復讐を恐れてか、父の殺害に心を乱したのか、都をアヌラーダプラからシーギリヤに移して、岩山に宮殿を立てました。11年後、モッガラーナは、亡命先の南インドから軍隊を引き連れて戻り、兄に戦いをいどみました。戦いの結果、劣勢におちいったカーシャパは自害してしまいました。モッガラーナは、シーギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移しました。
シーギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続しましたが、徐々に衰退し、忘れ去られることになりました。建造から1400年の後、イギリス統治下の1875年に、望遠鏡で岩山をのぞいていたイギリス人によって、岩山に描かれたフレスコ画の"シーギリヤ・レディ"が発見され、シーギリヤ・ロックは新たな時代を迎えることになりました。
この物語は、オペラの題材にもうってつけですね。ヴェルディの「マクベス」なら、ちょっとした読み替え演出で、オペラ「シーギリヤ」ができそうです。マクベス夫人は、カーシャパの母親に変えればよいでしょうか。狂気や流血、裏切りが遺跡の輝きを増すことになるのは、皮肉なことです。
なお、天空の宮殿として、宮崎駿監督のアニメ「天空の城ラピュタ」のモデルになったとも言われています。
ガイドの説明と記念撮影で足が止まりましたが、再び先に進みます。
続いてドライシーズン・パレス地区になります。通路脇は水路も設けられた庭園になっています。
現在でも噴水から水が出ています。
小高い部分に宮殿が設けられていたようです。
いよいよシーギリヤ・ロックも迫ってきました。
逆光で細部が判りにくいので、観光後にもらった登頂証明書の写真で説明することにします。
まずは、岩山の中腹にあたるAの展望テラスまで登ります。ここで高さにして半分ほど登ったことになります。Aの展望テラスからCのミラー・ウォールまでは高さの変化はありませんが、途中でBのシーギリヤ・レディーへはらせん階段の上り下りがあります。ミラー・ウォールを抜けた後、階段をひと登りすると、Dのライオンの足のある広場に出ます。なお、下りは、ライオンの足のある広場の下から別な道を通ることになります。Dのライオンの足のある広場からさらに階段登りを頑張って、ようやく頂上に到着です。
登山のグレードでいうなら、初心者向き程度の体力は必要になります。
岩山の下に到着し、ここから階段登りが始まります。
脇には、僧院として使われていた石窟寺院があります。
先も長いので、ゆっくりペースで登っていきます。
途中にも、石窟が現れます。
第一アーチと呼ばれる大岩の間の隙間を通ります。防御の役にたっていたようです。
大岩の下には瞑想につかわれていた台座が残されていました。
この先は、テラスの庭と呼ばれ、昔は花や木が植えられていた花壇がテラス状に整備されています。その中を階段が高みに向かって続いていました。
気温が早くも上がってきて、汗だくの登りになりました。
展望テラスまでは、個人個人のペースで登ることになりました。日頃、ハイキング程度の歩きを行っていないと辛い思いをすることになると思います。
展望テラスまであともうひと頑張り。
階段を振り返ったところ。
展望テラスでは、大勢が休んでいました。グループの場合は、ここで後続を待つ必要があります。
展望テラスからは、水の広場を見下ろすことができました。頂上までの半分近くを登ってきたことになります。