バス、徒歩、ロープウェイと様々なアプローチ手段を取り混ぜて、ようやく峨眉山の金頂に到着しました。
山頂部へは幅広の階段が設けられ、両脇には六牙の白象が置かれ、その上から普賢菩薩像が見下ろしていました。
霧が流れて普賢菩薩像はぼんやりと霞んでいました。峨眉山は天候が変わりやすく、この像が完全に隠されていることも多いようです。
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階段を上がっていくと、普賢菩薩像の姿をようやく見極めることができるようになりました。
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階段の上は、普賢菩薩像や華蔵寺のある広場になっていました。
峨眉山は、漢代までは道教の聖地になっており、その後仏教の聖地に変わりました。。
そのきっかけになったのは、次のようなきっかけがあったといいます。後漢の時代に、麓に住む老人が薬草を採集していたところ、足跡が蓮の花のような鹿に出会い、鹿を追いかけて峨眉山の頂上までやって来ると、不思議な仏光(現在でいうところのブロッケン現象)が見えて、菩薩に出会ったと老人は思い込みました。普賢菩薩が姿を現したという言い伝えが広まると、峨眉山では次第に仏教の勢いが盛んになり、道教より優勢になりました。
中国の歴代皇帝も篤く信仰し、峨眉山の寺院の拡張や修繕を推し進めました。峨眉山の仏教は、明、清の時代に最盛期を迎え、山全体には150余りの仏教寺院が設けられました。山頂には金メッキを施したお堂が設けられて光輝いたことから、千仏頂から金頂へと呼び方も変わりました。
しかし、近代の戦争や動乱、天災は、峨眉山に多大な損害をもたらし、さらに文化大革命によっても荒廃が進みました。
2003年より金頂の修繕建設工事が始まり、2006年春に新しい金殿や四面十方普賢菩薩金像が金頂に姿を現しました。
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突如、霧が晴れて、六牙白象に載せられた蓮台の上に座る普賢菩薩像がはっきりと見えるようになりました。
この像は四面十方普賢金像と呼ばれ、高さは48mあります。
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この像には、あくまで個人的感想ですが、信仰心よりも「異形」という印象を持ってしまいます。霧の中から現れた四面十方普賢金像には、「出たなラスボス」というせりふが似合うような気がします。
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像は、顔が東、南、西、北、東南、東北、西南、西北、上、下の十方向に向かっており、普賢菩薩の十大誓願を意味しているといいます。
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台座には、縁起を現したと思われるレリーフが飾られていました。
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普賢菩薩像の周りには、小さな象が置かれていました。
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普賢菩薩像の背後には、華蔵寺があります。華蔵寺本堂は後漢時代に創建されましたが、その後、破損、建て替えが何度も繰り返されました。
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熱心な信者がお参りしており、線香の煙がたなびいていました。
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お堂には三体の仏像が並んでいました。どれも同じ顔をしていますが、中央が釈迦如来で、左が普賢菩薩、右が剣を持っていることから文殊菩薩だろうと思います。
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奉納物なのか、小さな仏塔が並んでいました。
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この像が誰かは不明。
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華蔵寺の裏手の階段を上がると、ようやく標高3077mの金頂の頂上に到着です。早くも霧がかかってきました。
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広場からは、四面十方普賢金像の菩薩の部分だけが見えていました。
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頂上広場のいっかくには、金頂胴殿(普賢殿)が置かれています。
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金頂胴殿(普賢殿)の屋根飾りには、走獣の飾りが置かれていました。屋根によって隠されていますが六体までは見えているので、格式の高い建物であることが判ります。
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峨眉山は、金頂,千仏頂,万仏頂の三峰を持ち、標高3099mの千仏頂が最高点になります。金頂から千仏頂が見えるようですが、視界は霧によって閉ざされたままでした。
金頂の見学を終えて、階段を下りました。
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階段脇には、象が何体も重なって見えていました。
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ひざまづいて礼拝している熱心な信者もいました。
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ロープウェイ山頂駅からの道の途中にあるレストランで昼食をとりました。入口の掲示を見ると、一人800円ほどはするようですが、内容はおそまつなものでした。標高3000mの山頂とあっては仕方ないことで、ここの食事は期待しないことです。
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昼食後、別な道を通ってロープスェイの山頂駅に戻りました。
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遊歩道脇の手すりには鍵が取り付けられていました。最近は、世界中の観光地で同じような鉤の取り付けが行われていますが、もはや独創性は無く陳腐な行動とは思わないのかな。
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ロープスェイの山頂駅周辺の霧が一瞬晴れました。
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下山時も、窓際の位置取りに成功。
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あっという間に接引殿のある広場に戻ってきて、ここからは眼下に見える雷洞坪駐車場まで歩いて下ることになります。
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下る途中、薄日もさして暖かくなってきました。この日の天候はめまぐるしく変わりました。
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キノコ類の店が出ていましたが、漢方薬の材料なのか食用なのかは不明。
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雷洞坪駐車場からバスに乗り込んで山を下りました。途中、紅葉の風景が広がりましたが、日本の山の紅葉の方が美しいですね。
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下りのバスは上りとは違った道を通りました。
これで、今回の旅行における見学はすべて終了し、成都に戻って泊まった後、第八日目は成都から成田へ戻るだけになりました。
最高の天気のもとに九寨溝と黄龍を楽しみ、大混雑の最悪の環境で疲労困憊した旅でした。
峨眉山訪問の思い出として、李白が故郷を離れて旅を始めたときの歌とされている「峨眉山月歌」でこの旅を締めくくることにしましょう。
峨眉山月半輪秋 (峨眉山月半輪の秋)
影入平羌江水流 (影は平羌江水に入って流る)
夜發清溪向三峽 (夜 清溪を發して三峽に向ふ)
思君不見下渝州 (君を思へども見えず渝州に下る)
秋の峨眉山には片割れ月がかかり、
月影は平羌の流れに映りこんで流れていく。
私は夜に清渓を出発して三峡に向かう。
川下りの間ずっと月を見たいと思っていたのだが、とうとう見えないまま渝州に下ってしまった。
山頂部へは幅広の階段が設けられ、両脇には六牙の白象が置かれ、その上から普賢菩薩像が見下ろしていました。
霧が流れて普賢菩薩像はぼんやりと霞んでいました。峨眉山は天候が変わりやすく、この像が完全に隠されていることも多いようです。

階段を上がっていくと、普賢菩薩像の姿をようやく見極めることができるようになりました。

階段の上は、普賢菩薩像や華蔵寺のある広場になっていました。
峨眉山は、漢代までは道教の聖地になっており、その後仏教の聖地に変わりました。。
そのきっかけになったのは、次のようなきっかけがあったといいます。後漢の時代に、麓に住む老人が薬草を採集していたところ、足跡が蓮の花のような鹿に出会い、鹿を追いかけて峨眉山の頂上までやって来ると、不思議な仏光(現在でいうところのブロッケン現象)が見えて、菩薩に出会ったと老人は思い込みました。普賢菩薩が姿を現したという言い伝えが広まると、峨眉山では次第に仏教の勢いが盛んになり、道教より優勢になりました。
中国の歴代皇帝も篤く信仰し、峨眉山の寺院の拡張や修繕を推し進めました。峨眉山の仏教は、明、清の時代に最盛期を迎え、山全体には150余りの仏教寺院が設けられました。山頂には金メッキを施したお堂が設けられて光輝いたことから、千仏頂から金頂へと呼び方も変わりました。
しかし、近代の戦争や動乱、天災は、峨眉山に多大な損害をもたらし、さらに文化大革命によっても荒廃が進みました。
2003年より金頂の修繕建設工事が始まり、2006年春に新しい金殿や四面十方普賢菩薩金像が金頂に姿を現しました。

突如、霧が晴れて、六牙白象に載せられた蓮台の上に座る普賢菩薩像がはっきりと見えるようになりました。
この像は四面十方普賢金像と呼ばれ、高さは48mあります。

この像には、あくまで個人的感想ですが、信仰心よりも「異形」という印象を持ってしまいます。霧の中から現れた四面十方普賢金像には、「出たなラスボス」というせりふが似合うような気がします。

像は、顔が東、南、西、北、東南、東北、西南、西北、上、下の十方向に向かっており、普賢菩薩の十大誓願を意味しているといいます。

台座には、縁起を現したと思われるレリーフが飾られていました。

普賢菩薩像の周りには、小さな象が置かれていました。

普賢菩薩像の背後には、華蔵寺があります。華蔵寺本堂は後漢時代に創建されましたが、その後、破損、建て替えが何度も繰り返されました。

熱心な信者がお参りしており、線香の煙がたなびいていました。

お堂には三体の仏像が並んでいました。どれも同じ顔をしていますが、中央が釈迦如来で、左が普賢菩薩、右が剣を持っていることから文殊菩薩だろうと思います。

奉納物なのか、小さな仏塔が並んでいました。

この像が誰かは不明。

華蔵寺の裏手の階段を上がると、ようやく標高3077mの金頂の頂上に到着です。早くも霧がかかってきました。

広場からは、四面十方普賢金像の菩薩の部分だけが見えていました。

頂上広場のいっかくには、金頂胴殿(普賢殿)が置かれています。

金頂胴殿(普賢殿)の屋根飾りには、走獣の飾りが置かれていました。屋根によって隠されていますが六体までは見えているので、格式の高い建物であることが判ります。

峨眉山は、金頂,千仏頂,万仏頂の三峰を持ち、標高3099mの千仏頂が最高点になります。金頂から千仏頂が見えるようですが、視界は霧によって閉ざされたままでした。
金頂の見学を終えて、階段を下りました。

階段脇には、象が何体も重なって見えていました。

ひざまづいて礼拝している熱心な信者もいました。

ロープウェイ山頂駅からの道の途中にあるレストランで昼食をとりました。入口の掲示を見ると、一人800円ほどはするようですが、内容はおそまつなものでした。標高3000mの山頂とあっては仕方ないことで、ここの食事は期待しないことです。

昼食後、別な道を通ってロープスェイの山頂駅に戻りました。

遊歩道脇の手すりには鍵が取り付けられていました。最近は、世界中の観光地で同じような鉤の取り付けが行われていますが、もはや独創性は無く陳腐な行動とは思わないのかな。

ロープスェイの山頂駅周辺の霧が一瞬晴れました。

下山時も、窓際の位置取りに成功。


あっという間に接引殿のある広場に戻ってきて、ここからは眼下に見える雷洞坪駐車場まで歩いて下ることになります。

下る途中、薄日もさして暖かくなってきました。この日の天候はめまぐるしく変わりました。

キノコ類の店が出ていましたが、漢方薬の材料なのか食用なのかは不明。


雷洞坪駐車場からバスに乗り込んで山を下りました。途中、紅葉の風景が広がりましたが、日本の山の紅葉の方が美しいですね。

下りのバスは上りとは違った道を通りました。
これで、今回の旅行における見学はすべて終了し、成都に戻って泊まった後、第八日目は成都から成田へ戻るだけになりました。
最高の天気のもとに九寨溝と黄龍を楽しみ、大混雑の最悪の環境で疲労困憊した旅でした。
峨眉山訪問の思い出として、李白が故郷を離れて旅を始めたときの歌とされている「峨眉山月歌」でこの旅を締めくくることにしましょう。
峨眉山月半輪秋 (峨眉山月半輪の秋)
影入平羌江水流 (影は平羌江水に入って流る)
夜發清溪向三峽 (夜 清溪を發して三峽に向ふ)
思君不見下渝州 (君を思へども見えず渝州に下る)
秋の峨眉山には片割れ月がかかり、
月影は平羌の流れに映りこんで流れていく。
私は夜に清渓を出発して三峡に向かう。
川下りの間ずっと月を見たいと思っていたのだが、とうとう見えないまま渝州に下ってしまった。