技術博物館見学の後は、王宮家具博物館に向かいました。まず路面電車でウィーン西駅に出て、そこから地下鉄に乗って、Zieglergasseで下車しました。
地上に出ると、地元民が利用するような店が並んだ通りが延びていました。
王宮家具博物館は、大通りから脇道に入った奥にあり、見つけにくいという下調べ通りでした。王宮家具博物館は、個人観光客が利用することの多いシシーチケットでも、シシー博物館、シェーンブルン宮殿と並んで入場個所として含まれているのですが、ここまで訪れる人は少ないようです。
王宮家具博物館に入場すると、雑然と家具が並んでおり、中古家具売り場といった感じでした。
この王宮家具博物館は、1747年にマリア・テレジアによって、ハプスブルグ家の家具の保管庫として造られたのがはじまりです。
蝋燭の燭台が沢山置かれていました。
それなりに由緒のあるものなのでしょうけど、膨大な数の家具が並んでおり、いちいち説明を読んでいくわけにもいきません。
皇妃エリザベート(シシー)の胸像は幾つも造られたようです。
皇妃エリザベート(シシー)に比べると、皇帝フランツヨ・ーゼフ1世の方は、人気がないようで、胸像も僅かしかありませんでした。
皇后エリーザベト・クリスティーネ(愛称白き肌のリースル)の車椅子。
皇后エリーザベト・クリスティーネは、皇帝カール6世の連れ合いで、マリア・テレジアの母親にあたります。リウマチで体を悪くし、車椅子で生活するようになったといいます。マリア・テレジアは、母親の思い出として、この車椅子を残しておいたのかもしれませんね。
皇妃エリザベート(シシー)の肖像画として最も有名な、フランツ・ヴィンターハルター作の絵も置かれていました。
シシー博物館では撮影禁止ですが、王宮家具博物館では自由に撮影ができ、この絵の前で同じようなポーズをとっての記念写真もできます。
ここで疑問が湧いてくるのは、この絵は本物かということです。シシー博物館でも同じ絵を見て、感激した覚えがあります。この絵の所属を調べていくと、美術史博物館所蔵ということになっています。おそらく本物は博物館の奥に仕舞い込んであって、室内装飾の家具として複製品が複数造られたのではと想像します。
シシー・ファンにとっては、この絵の前の記念写真撮りだけでも訪れる価値があるでしょうね。
皇帝フランツヨ・ーゼフ1世とエリザベート(シシー)の子供のベッド。皇太子ルドルフもこのベッドに寝かされたことになります。
皇妃エリザベート(シシー)関連コーナー
皇妃エリザベート(シシー)のドレス。
体重計。
銭湯に置かれた体重計なみに塗装がはげて、使用頻度が高かったことがうかがわれます。
皇妃エリザベート(シシー)の写真を張った衝立。
誰が造らせたものなのでしょうか。皇帝フランツヨ・ーゼフ1世なのか、皇太子ルドルフなのか。
さまざまな、皇妃エリザベート(シシー)の肖像画。
皇妃エリザベート(シシー)の彫像。
左は、アントン・フェルンコルン製作による7才の少女エリザベートの胸像として知られていますが、ここにあるということは、複製品でしょうかね。
皇太子ルドルフの子供用民族衣装。
揺り籠。
立派な造りなので、皇太子ルドルフのものでしょうか。
祈祷台。
メキシコ皇帝マクシミリアンの棺。
なんでこのようなものがと思ってしまいますね。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟のマクシミリアンは、優れた軍歴の後に、1864年4月10日、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位しました。しかし、アメリカ合衆国を含む多くの国々は彼の帝国を承認せず、またメキシコの自由主義勢力が勢力を挽回させて保守派を破ると、強大化したプロイセンに対抗するためナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまいました。マクシミリアンは退位を拒んでメキシコ人帝国軍と共に戦いましたが、1867年に捕虜となり処刑されてしまいました。
背後には、マネによる「皇帝マキシミリアンの処刑」と題する絵が映されていました。
処刑後、遺体は防腐処理されてメキシコで公開されましたが、ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督の「ノヴァラ号」によって遺体はオーストリアに戻され、カプツィーナ教会の皇帝納骨所に埋葬されました。
ノヴァラ号によって遺体が運ばれる際に用いられたのが、この棺ということになります。
中古家具売り場から、ディープな世界に引きずりこまれてきました。
地上に出ると、地元民が利用するような店が並んだ通りが延びていました。
王宮家具博物館は、大通りから脇道に入った奥にあり、見つけにくいという下調べ通りでした。王宮家具博物館は、個人観光客が利用することの多いシシーチケットでも、シシー博物館、シェーンブルン宮殿と並んで入場個所として含まれているのですが、ここまで訪れる人は少ないようです。
王宮家具博物館に入場すると、雑然と家具が並んでおり、中古家具売り場といった感じでした。
この王宮家具博物館は、1747年にマリア・テレジアによって、ハプスブルグ家の家具の保管庫として造られたのがはじまりです。
蝋燭の燭台が沢山置かれていました。
それなりに由緒のあるものなのでしょうけど、膨大な数の家具が並んでおり、いちいち説明を読んでいくわけにもいきません。
皇妃エリザベート(シシー)の胸像は幾つも造られたようです。
皇妃エリザベート(シシー)に比べると、皇帝フランツヨ・ーゼフ1世の方は、人気がないようで、胸像も僅かしかありませんでした。
皇后エリーザベト・クリスティーネ(愛称白き肌のリースル)の車椅子。
皇后エリーザベト・クリスティーネは、皇帝カール6世の連れ合いで、マリア・テレジアの母親にあたります。リウマチで体を悪くし、車椅子で生活するようになったといいます。マリア・テレジアは、母親の思い出として、この車椅子を残しておいたのかもしれませんね。
皇妃エリザベート(シシー)の肖像画として最も有名な、フランツ・ヴィンターハルター作の絵も置かれていました。
シシー博物館では撮影禁止ですが、王宮家具博物館では自由に撮影ができ、この絵の前で同じようなポーズをとっての記念写真もできます。
ここで疑問が湧いてくるのは、この絵は本物かということです。シシー博物館でも同じ絵を見て、感激した覚えがあります。この絵の所属を調べていくと、美術史博物館所蔵ということになっています。おそらく本物は博物館の奥に仕舞い込んであって、室内装飾の家具として複製品が複数造られたのではと想像します。
シシー・ファンにとっては、この絵の前の記念写真撮りだけでも訪れる価値があるでしょうね。
皇帝フランツヨ・ーゼフ1世とエリザベート(シシー)の子供のベッド。皇太子ルドルフもこのベッドに寝かされたことになります。
皇妃エリザベート(シシー)関連コーナー
皇妃エリザベート(シシー)のドレス。
体重計。
銭湯に置かれた体重計なみに塗装がはげて、使用頻度が高かったことがうかがわれます。
皇妃エリザベート(シシー)の写真を張った衝立。
誰が造らせたものなのでしょうか。皇帝フランツヨ・ーゼフ1世なのか、皇太子ルドルフなのか。
さまざまな、皇妃エリザベート(シシー)の肖像画。
皇妃エリザベート(シシー)の彫像。
左は、アントン・フェルンコルン製作による7才の少女エリザベートの胸像として知られていますが、ここにあるということは、複製品でしょうかね。
皇太子ルドルフの子供用民族衣装。
揺り籠。
立派な造りなので、皇太子ルドルフのものでしょうか。
祈祷台。
メキシコ皇帝マクシミリアンの棺。
なんでこのようなものがと思ってしまいますね。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟のマクシミリアンは、優れた軍歴の後に、1864年4月10日、フランスのナポレオン3世と帝政復活を望むメキシコの王党派の支援の下、メキシコ皇帝に即位しました。しかし、アメリカ合衆国を含む多くの国々は彼の帝国を承認せず、またメキシコの自由主義勢力が勢力を挽回させて保守派を破ると、強大化したプロイセンに対抗するためナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまいました。マクシミリアンは退位を拒んでメキシコ人帝国軍と共に戦いましたが、1867年に捕虜となり処刑されてしまいました。
背後には、マネによる「皇帝マキシミリアンの処刑」と題する絵が映されていました。
処刑後、遺体は防腐処理されてメキシコで公開されましたが、ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督の「ノヴァラ号」によって遺体はオーストリアに戻され、カプツィーナ教会の皇帝納骨所に埋葬されました。
ノヴァラ号によって遺体が運ばれる際に用いられたのが、この棺ということになります。
中古家具売り場から、ディープな世界に引きずりこまれてきました。