ワット・シーサケートに続いて、通りを挟んで向かい合うワット・ホーパケオを見学しました。
ワット・ホーパケオは、ビエンチャンに遷都が行われた際に、エメラルド仏を安置する目的で1565年にセーターティラート王によって建立されました。1730年と1828年のシャムの侵入によって破壊され、エメラルド仏も持ちされてしまいました。現在の建物は20世紀になってから再建されたもので、ラオス各地の仏像や歴史的価値のある宝物が納められる博物館になっています。
屋根の壁には、ラオス王国の国章のレリーフが飾られています。
事前にガイドブックの写真で想像していたよりも大きな建物でした。
堂内に入る階段脇には、ナーガの像が飾られていました。
ナーガは、インド神話でも有名なナーガの王(ナーガラージャ)に由来し、仏教では釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、竜王として取り入れられています。なお、隣国のタイでは、同じくインド神話に由来する神鳥ガルダを信仰しているため、その仇敵であるナーガをタイの寺院に置くことはほとんどありません。
ワット・ホーパケオの内部には仏像が展示されていましたが、撮影禁止のために写真はありません。
かつてここに収められていたエメラルド仏は、現在ではタイのバンコク、ワット・プラケーオに安置されています。(写真は、ワット・プラケーオに現在安置されているエメラルド仏で、堂内が撮影禁止のため、前庭から撮影したもの)
エメラルド仏と言われていますが、実際にはヒスイ製です。由来は不明な所がありますが、インドで造られ、スリランカ、アンコール・トム、アユタヤ、カムペーンペット、チエンラーイ、チエンマイと転々と所を変えました。1551年、ラオスのラーンサーン王朝・セーターティラート王は、エメラルド仏をラーンサーンの首都・ルアンパバーンへ運びました。さらにビルマの進攻を懸念して1564年にはビエンチャンに移され、ラーンサーン王朝分裂後はビエンチャン王朝によって守られました。
1777年、トンブリー王朝(シャム)のタークシン王がビエンチャン王国へ侵攻すると、当時はタークシン王に仕える将軍であったラーマ1世が、1779年に、略奪してトンブリー(現在のバンコク)へと持ち帰りました。後にラーマ1世がチャクリー王朝を開くと、エメラルド仏はラーマ1世が設置したワット・プラケーオに安置される事となり、そのまま今日まで至っています。
現地ガイドの説明で気になったことは、ワット・プラケーオに安置されるのはレプリカで、本物は王宮内に保管されているということでした。ワット・プラケーオは、大勢の観光客が見学に訪れる観光スポットであるから、貴重品の保管ということから、考えられることです。
本堂の周りに巡らされた回廊の扉の彫刻や置かれた仏像は、見ごたえのあるものでした。
それぞれ図柄が違っています。
回廊には、多くの仏像が置かれていました。
ラオス独特の雨乞い仏も置かれていました。
雨水の流水孔が面白い形をしていました。ヒンドゥー神話のカーラ像とよく似ています。カーラは、シヴァ神の部下でしたが、底なしの大喰らいで、自分の体を食べてしまい頭だけになったといいます。カーラ像は、アンコール・ワット遺跡やミャンマーのバガンでも見たので、ラオスにあっても不思議はないように思えます。
ワット・ホーパケオは、ビエンチャンに遷都が行われた際に、エメラルド仏を安置する目的で1565年にセーターティラート王によって建立されました。1730年と1828年のシャムの侵入によって破壊され、エメラルド仏も持ちされてしまいました。現在の建物は20世紀になってから再建されたもので、ラオス各地の仏像や歴史的価値のある宝物が納められる博物館になっています。
屋根の壁には、ラオス王国の国章のレリーフが飾られています。
事前にガイドブックの写真で想像していたよりも大きな建物でした。
堂内に入る階段脇には、ナーガの像が飾られていました。
ナーガは、インド神話でも有名なナーガの王(ナーガラージャ)に由来し、仏教では釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、竜王として取り入れられています。なお、隣国のタイでは、同じくインド神話に由来する神鳥ガルダを信仰しているため、その仇敵であるナーガをタイの寺院に置くことはほとんどありません。
ワット・ホーパケオの内部には仏像が展示されていましたが、撮影禁止のために写真はありません。
かつてここに収められていたエメラルド仏は、現在ではタイのバンコク、ワット・プラケーオに安置されています。(写真は、ワット・プラケーオに現在安置されているエメラルド仏で、堂内が撮影禁止のため、前庭から撮影したもの)
エメラルド仏と言われていますが、実際にはヒスイ製です。由来は不明な所がありますが、インドで造られ、スリランカ、アンコール・トム、アユタヤ、カムペーンペット、チエンラーイ、チエンマイと転々と所を変えました。1551年、ラオスのラーンサーン王朝・セーターティラート王は、エメラルド仏をラーンサーンの首都・ルアンパバーンへ運びました。さらにビルマの進攻を懸念して1564年にはビエンチャンに移され、ラーンサーン王朝分裂後はビエンチャン王朝によって守られました。
1777年、トンブリー王朝(シャム)のタークシン王がビエンチャン王国へ侵攻すると、当時はタークシン王に仕える将軍であったラーマ1世が、1779年に、略奪してトンブリー(現在のバンコク)へと持ち帰りました。後にラーマ1世がチャクリー王朝を開くと、エメラルド仏はラーマ1世が設置したワット・プラケーオに安置される事となり、そのまま今日まで至っています。
現地ガイドの説明で気になったことは、ワット・プラケーオに安置されるのはレプリカで、本物は王宮内に保管されているということでした。ワット・プラケーオは、大勢の観光客が見学に訪れる観光スポットであるから、貴重品の保管ということから、考えられることです。
本堂の周りに巡らされた回廊の扉の彫刻や置かれた仏像は、見ごたえのあるものでした。
それぞれ図柄が違っています。
回廊には、多くの仏像が置かれていました。
ラオス独特の雨乞い仏も置かれていました。
雨水の流水孔が面白い形をしていました。ヒンドゥー神話のカーラ像とよく似ています。カーラは、シヴァ神の部下でしたが、底なしの大喰らいで、自分の体を食べてしまい頭だけになったといいます。カーラ像は、アンコール・ワット遺跡やミャンマーのバガンでも見たので、ラオスにあっても不思議はないように思えます。