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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 グラーツ その1

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プリトヴィッツェを出発してからは、クロアチアからスロヴェニアを通り抜けてオーストリアに入ることになりました。移動距離は約307kmで、昨日に次ぐ長距離移動になりました。スロヴェニアとオーストリアの間は、区別のつかない同じ風景が広がっていました。



オーストリアに入ると、集落に教会が建つのと同時にメイポールが立っているのが目に入りました。



葡萄畑も見かけました。



日の長い五月とあって、まだ明るいうちにグラーツに到着しました。街並みは、これまで見てきたオーストリアの街と同じ雰囲気です。



グラーツでは、メルキュール・グラーツ・メッセに泊まりました。



移動の関係で泊まるホテルでしたが、可もなく不可もないといったところでした。

翌日のホテル発の予定は10時過ぎのため、グラーツの観光を行いたいと思い、ガイドブックのコピーとホテルの位置を記した地図を持参しました。ホテルから中心地までは4km程のようなので、歩くか現地で交通機関を確認しようと考えていました。朝グラーツは一般的には訪れない街なので、食を抜いてでもグラーツの観光を行いたいと思っていました。

ホテルに到着して翌日の打ち合わせを聞くと、希望者にはグラーツの簡単な市内観光に案内するということになって、自由行動は行う必要が無くなりました。



グラーツでは、路面電車が運行しており、乗り場の名前と路線番号を記した標識が設けてあり、使いやすい状態でした。



ハウプト広場で下車しました。降りた電車を見送ったところ。



ハウプト広場は、グラーツ旧市街地の中心になっており、市庁舎をはじめとする17〜18世紀の古い建物が周囲を囲み、飲み物や花を得るスタンドが並んでいました。



広場の中央に立つのは、ヨハン大公の像です。



ヨハン大公は、女帝マリア・テレジアの三男であるトスカーナ大公レオポルドの13番目の子として生まれました。皇帝となった長男のフランツ2世よりも、有能な軍人であるカール大公に一般の広人の親近感や憧れが寄せられたといいます。ヨハン大公は、戦場で多くの兵士を死なせたことに傷つき、宮廷から身を引き、貴族社会よりも山岳を愛するようになりました。スイス出身の芸術家の影響でスイスに傾倒しますが、やがて同様の美しい風景の広がる自国のチロル地方を愛するようになります。非常に活動的でまた庶民的な人柄であり、グラーツのあるシュタイアーマルク州の農業、鉱工業、林業を繁栄へと導きました。

ヨハン大公は、長らく結婚することがありませんでしたが、平民の娘のアンナと知り合い結婚を決意しますが、皇族・貴族等の猛反発に合いました。後に、皇帝からの正式な許可が下り、身分差と22歳の年齢差を越えて結婚することができました。

ヨハン大公の死後、地元の人たちが大公を偲んでいつともなく歌いだしたといわれているのが、日本でも知られている「ヨハン大公のヨーデル」です。

ヨハン大公の身分違いの結婚はハッピーエンドに終わりましたが、グラーツ出身のオーストリア皇位継承者のフランツ・フェルディナントは、同じような身分違いの結婚をし、こちらは悲劇的な生涯を閉じることになりました。彼の生涯については、別の項で触れることにしましょう。



広場には、メイポールが建てられていました。



市庁舎は、19世紀末に建てられたもののようです。



入り口の上には像が置かれていました。



市庁舎には、ドーム状の天井と尖塔が設けられていました。



広場の周囲の建物にも目が引き付けられました。



壁にフレスコ画が描かれていました。



広場を通過している道は、ヘレン通りといい、グラーツ一の繁華街になっています。



ヘレン通りにある装飾の施された建物は、スワロフスキーの店でした。日本でも人気の高いクリスタルガラスのスワロフスキーは、同じオーストリアのインスブルックに本店があります。



ハウプト広場から離れ、ムーア川に架かる橋を渡りました。



橋には錠が取り付けられていました。最近は、いろいろな所で見かけますが、昔からの言い伝えに基づくものなのかどうかは疑問です。



橋の上からは、シュロスベルクとその上にある時計台を望むことができました。



この時計台は、グラーツの街のシンボルになっています。

この後で、シュロスベルクに登り、時計台を間近にみることになりました。

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