ヤンギ・カラを出発して、カスピ海に面するトルクメンバシにやってきました。この街は、クラスノボツクと呼ばれていましたが、トルクメニスタン初代大統領のニヤゾフによってトルクメンバシ(トルクメン人の長)に変えられました。
貨物船が停泊していました。トルクメンバシは、トルクメニスタン随一の港であり、石油の積出港になっています。
港も整備されており、展望台のようなタワーが建てられていました。
港の前のモニュメント。
市街地の眺め。
街のバザールを見学しました。残念ながら、ここも撮影は禁止。昼食のために、旅行会社の方でエビを買ったくれました。
街には、大統領の像が置かれていました。
昼食をとったレストランのテラスからは、広大なカスピ海の眺めが広がっていました。西の対岸にはアゼルバイジャンのバクーの街がありますが、見える距離ではありません。
カスピ海は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖で、日本とほぼ同じ広さを持つ世界最大の湖です。カスピ海は、ロシア、アゼルバイジャン、イラン、トルクメニスタン、カザフスタンの5か国によって囲まれています。カスピ海を、海としてか湖としてとらえるかは、鉱物資源(石油・天然ガス)、漁業そして国際水域としてのアクセスの点で異なってきます。ソ連崩壊により沿岸諸国が2か国から5か国になると同時に、カスピ海沿岸国家間でこの領海問題がクローズアップされ、10年に及ぶ領海確定協議が続くこととなりました。現在は、カスピ海を「海」と認定して領海協定で扱うことで合意されています。
眺めの上では、広大なことから海、波の無いことから湖といったところです。
港の眺め。大型船も停泊していました。
昼食後、街外れにある日本人抑留者墓地を訪れました。モンゴルのウランバートル、ウズベキスタンのタシケント、カザフスタンのアルマトイでも訪れましたが、抑留されて死ぬには、日本からはあまりに遠い異国の地です。
ここには、1000人程度の日本人捕虜兵がいたとも言われています。
台座には、「鎮魂」の言葉が書かれていました。
望郷の念をいだきつつ
ここカスピ海をのぞむカラクム砂漠に
抑留死した兵士たちよ
あなたちとともに
永遠の平和をねがひ
日本とトルクメニスタンとの
友好のかけ橋ならんことを誓う
1995年5月
クラスノボトスク望郷の丘 日本人墓地建設委員会
日本人抑留者墓地からは、空港が見えていました。
トルクメンバシからアシガバードへは飛行機を利用しました。タシャウズから地獄の門、アシガバード、ヤンギ・カラを経てトルクメンバシまで乗せてくれた4駆チームともお別れになりました。
トルクメニスタン航空に乗る機会はめったに無いと思いますが、空港内や航空機の撮影は禁止のため、座席に置いてあった案内を載せておきます。トルクメニスタン航空のロゴマークは、白いサギです。
窓際の席に座りましたが、窓ガラスが汚れており良い写真は撮れませんでした。
カスピ海の眺め。
フライト時間も1時間と短い国内線ですが、水と飴が配られました。
砂漠の眺め。
アシガバードに向かって高度を下げていくと、ルーヒー・モスクを見下ろすことができました。
アシガバードに戻って先日と同じホテルに1泊した後、再び飛行機に乗ってマリに向かいました。
貨物船が停泊していました。トルクメンバシは、トルクメニスタン随一の港であり、石油の積出港になっています。
港も整備されており、展望台のようなタワーが建てられていました。
港の前のモニュメント。
市街地の眺め。
街のバザールを見学しました。残念ながら、ここも撮影は禁止。昼食のために、旅行会社の方でエビを買ったくれました。
街には、大統領の像が置かれていました。
昼食をとったレストランのテラスからは、広大なカスピ海の眺めが広がっていました。西の対岸にはアゼルバイジャンのバクーの街がありますが、見える距離ではありません。
カスピ海は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖で、日本とほぼ同じ広さを持つ世界最大の湖です。カスピ海は、ロシア、アゼルバイジャン、イラン、トルクメニスタン、カザフスタンの5か国によって囲まれています。カスピ海を、海としてか湖としてとらえるかは、鉱物資源(石油・天然ガス)、漁業そして国際水域としてのアクセスの点で異なってきます。ソ連崩壊により沿岸諸国が2か国から5か国になると同時に、カスピ海沿岸国家間でこの領海問題がクローズアップされ、10年に及ぶ領海確定協議が続くこととなりました。現在は、カスピ海を「海」と認定して領海協定で扱うことで合意されています。
眺めの上では、広大なことから海、波の無いことから湖といったところです。
港の眺め。大型船も停泊していました。
昼食後、街外れにある日本人抑留者墓地を訪れました。モンゴルのウランバートル、ウズベキスタンのタシケント、カザフスタンのアルマトイでも訪れましたが、抑留されて死ぬには、日本からはあまりに遠い異国の地です。
ここには、1000人程度の日本人捕虜兵がいたとも言われています。
台座には、「鎮魂」の言葉が書かれていました。
望郷の念をいだきつつ
ここカスピ海をのぞむカラクム砂漠に
抑留死した兵士たちよ
あなたちとともに
永遠の平和をねがひ
日本とトルクメニスタンとの
友好のかけ橋ならんことを誓う
1995年5月
クラスノボトスク望郷の丘 日本人墓地建設委員会
日本人抑留者墓地からは、空港が見えていました。
トルクメンバシからアシガバードへは飛行機を利用しました。タシャウズから地獄の門、アシガバード、ヤンギ・カラを経てトルクメンバシまで乗せてくれた4駆チームともお別れになりました。
トルクメニスタン航空に乗る機会はめったに無いと思いますが、空港内や航空機の撮影は禁止のため、座席に置いてあった案内を載せておきます。トルクメニスタン航空のロゴマークは、白いサギです。
窓際の席に座りましたが、窓ガラスが汚れており良い写真は撮れませんでした。
カスピ海の眺め。
フライト時間も1時間と短い国内線ですが、水と飴が配られました。
砂漠の眺め。
アシガバードに向かって高度を下げていくと、ルーヒー・モスクを見下ろすことができました。
アシガバードに戻って先日と同じホテルに1泊した後、再び飛行機に乗ってマリに向かいました。