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Channel: さすらい人の独り言
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さすらいの風景 トズール その3

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トズールの旧市街に到着してバスを降り、まずウルド・エル・ハデフ地区に向かいました。



ウルド・エル・ハデフ地区は、14世紀に造られた古い地区で、幾何学的な模様を描く装飾レンガが特徴になっています。



ゲートをくぐって小路に進みました。



一時は荒廃が進んでいたようですが、現在はきれいに修復されて、土産物屋が店を開いています。





壁には花やアラビア語、ベルベルのシンボルが描かれています。



アーチを度々くぐっていくことになりました。





人もあまり歩いておらず、時が止まったような静かな空間が広がっていました。







土産物屋の商品が壁に掛けられていました。



静かな脇道。





ネコも風景の欠かせないパーツになっています。



模様にも家紋のような意味が込められているのかも知れませんが、そこまでは判りませんでした。



観光客の顔を見るのも少ないのか、子供が興味深そうにこちらを見ていました。



ここの装飾は、ひと際見事です。





ウルド・エル・ハデフ地区の出口。案内が無いと、ここは入り方が判らないかもしれません。

さすらいの風景 トズール その4

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ウルド・エル・ハデフ地区の見学を終えて、街の中心地のハビブ・ブルギバ通りに向かいました。



編んだ籠が沢山売られていました。





ハビブ・ブルギバ通りに出ました。噴水風のモニュメントが置かれていました。



トズールのナツメヤシのオアシスは、北アフリカ最大のものといいます。通りでは、枝に付いたデイツが沢山売られていました。



デイツの店が何軒も出ていました。





自由時間となり、まず市場に入ってみました。



野菜の売り場。



羊の肉が吊るされていました。



トズールは、内陸部にありますが、魚が売られていました。



イカも。



市場の外でも果物類が売られていました。



ハビブ・ブルギバ通りを少し歩きました。



立派なミナレットです。



モスクの門は残念ながら閉まっていました。



再集合後、バスに乗って昼食に向かいました。駐車場から歩く途中、立派なレンガ造りの壁が続いていました。古い城壁のように見えますが、歴史を再現した展示物のようです。



ここは、シャクワクと呼ばれる地球、人類、宗教などの歴史を扱ったテーマパークのようです。



入場はせずに、入口脇のレストランで昼食をとりました。



入口には、ベルベル人女性の巨大な像が置かれていました。ここの料理はベルベル人の郷土料理でした。



校外学習なのか、子供達の団体が訪れていました。カメラを向けると、元気にポーズ。



駐車場脇には、恐竜の模型が置かれていました。

トズールの見学後は、塩湖のショット・エル・ジェリドを通って、サハラ砂漠の入口のクサール・ギレンへ向かいました。

さすらいの風景 ショット・エル・ジェリド

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昼食後トズールを出発し、クサール・ギレンに向かいました。

前日は砂嵐がひどかったようで、道路上に砂の吹き溜まりができていました。



蜃気楼が浮かぶ中のドライブが続きました。



ショット・エル・ジェリドの端を横断していきました。草が一本も生えていない砂地が広がっていました。

ショット・エル・ジェリドは、東西120km、南北80kmの塩湖です。面積は5000平方kmといいますが、これは福岡県や千葉県とほぼ同じ大きさになるようです。雨季と乾季では異なってくるのでしょうが、湖面は見えず砂地が地平線まで広がっていました。





塩が多く含まれているような白い砂が所々に見られました。



池が現れましたが、これは塩をとるための溜池のようです。



製塩所のようで、砂が積み上げられた小山ができていました。



砂を積み上げるベルトコンベアも見えていました。

製塩には水が必要なため、乾季の今は休業中のようでした。



民家も無い砂地の真ん中に土産物屋があり、停車しました。



道路脇に展望台のつもりか小山が造られていました。



ラクダの像。



騎士の竜退治の像。竜退治といえば聖ゲオルギオスですが、ここはイスラム教の国なので、何なんでしょうね。



土産物屋では、塩と砂漠のバラが売られていました。



砂漠のバラは、石膏あるいは重晶石が砂とと共に結晶化し、バラの形に成長した石です。

大きいものはもって帰るのが大変なので、1ドルで小さなものを買いました。



一面に広がる砂地を進んでいきました。



草も現れて、ショット・エル・ジェリドを通過したことが判りました。



ゲビリの街でトイレ休憩。砂漠の中に、新しいビルが並んでいました。



一階のカフェでひと休みしました。



果実から絞ったオレンジ・ジュース。一杯に幾つも絞って3ディナール(120円ほど)と激安でした。



幹線道路から別れると、大きく波打つ悪路に変わりました。



クサール・ギレンの手前にある温泉の源泉で写真ストップ。



写真の右手前では、現地の女性が服を着たまま浸かっていたので、そこは写らないようにしています。手を入れてみると、丁度良い湯加減でした。



風紋もできて、次第に砂漠らしくなってきました。



砂漠に紫の花が一面に咲いているのが目に入ってきました。



この花はチュニジアでは「レベイ」と呼ぶとのこと。翌日に写真ストップして良く見ることになりました。

長距離ドライブでしたが、表情の変わる砂漠に飽きることはありませんでした。

さすらいの風景 クサール・ギレン その1

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砂漠の中のオアシスであるクサールギレンに到着しました。クサールギレンは、小さな村で、幾つかの宿泊施設がありますが、我々はヤディス・クサールギレンに泊まりました。入口のレセプションと食堂は通常の建物ですが、客室は固定テントになっています。



プールの他に塔が設けられており、宿泊地を見下ろすことができるようになっています。



夕食後に星空を眺めるためにこの塔に登ることになりました。



割り当てられたテントに荷物を入れた後は、急いで夕陽見物のために砂漠に向かいました。



ラクダに乗ることになりました。中近東のラクダはヒトコブ・ラクダで、中国の西域にいるフタコブ・ラクダよりも大柄です。

跨るところまでは良いのですが、ラクダが立ち上がる時は前後に大きく揺れるので、しっかりと捕まっている必要があります。また、性格の悪いラクダもおり、一人の女性参加者が振り落とされて、ガイドにクレームをつけていました。

先日参加したHISのエジプト旅行では、ギザのピラミッドでのラクダ乗りの際には、自己責任で乗るとの誓約書を書く必要がありました。今回は書きませんでしたが。



砂漠の中を進んでいく他のグループを見ることができました。



ラクダから振り落とされないようにしがみついている必要があり、サブカメラとして使っている防水機能のついたアウトドア用コンパクトデジカメで、片手持ち撮影することになりました。また、砂混じりの風が吹いているため、防水カメラでないと壊れてしまう可能性がありました。



全員がラクダに乗ったら、出発。



列を作って砂漠に進む様は、隊商気分です。



ラクダが歩いていくうちに、揺れのリズムにも慣れてきました。





クサールギレンは、サハラ砂漠の東の縁に位置することから砂漠見物の基地になっています。



20分ほど歩いたところで、ラクダから下りて砂漠と夕陽見物を行うことになりました。ラクダもひと休み。



ここの砂漠の砂は細かいため、雪山で見られる雪庇や風紋と同じ構造物ができていました。



ただ、砂が細かすぎて足元で流れるため、ちょっとした段差を上がるのにも苦労することになりました。



いかにも砂漠という眺めを楽しみながら、夕陽を待ちました。



雲が掛かって夕陽見物は諦めかけたのですが、一瞬姿を現しました。





夕陽が丸い姿を見せましたが、これが限界でした。

夕暮れる砂漠の眺めからは、アンリ・ルソーの「眠れるジプシー女」の絵が思い浮かんできました。



太陽も沈んでしまったので、ラクダに乗って引き返しました。



翌朝は、日の出見物のために歩いて再び砂漠に出ることになりました。

さすらいの風景 クサール・ギレン その2

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夕食後、宿泊地内の夜景撮影を行いました。

この固定テントに泊まりました。敷地内にこのようなテントが幾つも並んでいます。



テント内にはベッドが三つ並んでいますが、一人で使用しました。室内には電気が引かれており、コンセントもあってデジカメの電池の充電も行えました。



洗面台もテント内に設けられていました。



トイレとシャワーも完備。テント泊といっても、普通のホテル泊まりと変わりません。ただ、細かい砂が入りこんで、ジャリついている点は我慢する必要がありました。



敷地内にある塔に上がって、夜景を眺めました。灯りのともったテントが美しい眺めを作っていました。



星空も広がっていました。オリオン座。



北斗七星。砂嵐の影響が残って、少し靄っていました。



砂漠で夜明けを見るため、未明に起きました。



今度は、歩いて砂漠の中に進みました。





生き物はいないと思われる砂漠ですが、砂の上には小動物か虫の足跡が刻まれていました。



四つ足ではないようなので、鳥でしょうか。子供の頃見た「砂漠は生きている」という映画がを思い出しました。



太陽が昇ってきました。



太陽の昇るスピードは速く、カメラの露出も刻々と変わってくるので、しばらくは忙しく撮影を行うことになります。





明るさも増してきて、太陽自体の撮影はここまでになりました。



砂漠が赤く染まっていました。



西方向を眺めると、彼方までサハラ砂漠が広がっています。



砂漠の入口僅かに足を踏み入れただけですが、砂漠の眺めを楽しむことができました。



テントに戻って、出発の準備をしました。



テント脇に咲いていた花。水を貯めこむための葉を持つ多肉植物ですね。



マトマタに向かって出発し、前日にクサール・ギレンの入口で見たお花畑で写真ストップしました。



現地では「レベイ」と呼ばれるとのことですが、日本の植物だと何に近いのでしょうか。



葉には細かい毛が生えており、気温の下がった夜に空気中の水分を集めて、砂漠の乾燥した環境に適応しているようです。



このお花畑は一年のうちの僅かな期間だけのものでしょうから、貴重な体験ができたことになります。

さすらいの風景 タメズレット

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砂漠のオアシスのクサール・ギレンで1泊した後マトマタに向かいました。

砂漠の中に敷かれた大きく波打つ車道を進んでいきました。



除雪車ならぬ砂嵐で積もった砂を除く車が作業していました。



岩山が見えてきて、砂漠も終わりのようです。



岩山の上に、タメズレットの集落が見えてきました。



岩山の中腹にあるカフェで休憩しました。



ここの名物のアーモンド・ミントティーをツアー会社からふるまってもらいました。ここはアーモンドが名産のようで、アーモンド菓子を作っており土産に買いました。

アーモンド・ミントティーの味ですが、多過ぎるほどのアーモンドが入っており、茹でたような味のあまり無いアーモンドを食べるのに苦労しました。揚げたアーモンドをつまみにミントティーを飲むという方が好みです。



土産物屋も併設されていました。



ここでも砂漠のバラが売られていました。



入口に置かれた巨大な砂漠のバラ。



土産物屋の上に上がると、周囲の展望を楽しむことができました。


タメズレットは、ベルベル人の街で、このあたりで最も古く、4つの部族で血族結婚を行っており現在もベルベル語を話しているといいます。



砂漠を振り返ることができました。サハラ砂漠ともお別れです。走ってきた車道が大きく波打っていることが判ります。



ひと休みの後にバスに戻り、タメズレットの街を通り抜けました。



タメズレットからもうひと走りしたところで、マトマタの洞穴住居の見学を行いました。

さすらいの風景 マトマタ その1

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タメズレットのカフェで休憩した後、岩山地帯を走っていきました。



マトマタは、洞穴住居で有名ですが、道路脇にもそれらしい住居が見られるようになってきました。



洞窟住居の見学を行いました。

ベルベル人は、北アフリカ一帯に住んでいた先住民族ですが、12~13世紀にはアラブ民族に追われる身となり、一部の者は岩山に逃れて独特の住居を造って住むことになりました。



入口の脇には、井戸が置かれていました。



乾燥地帯で雨は少ないと思いますが、貴重な雨水を貯水槽に集めるための溝が設けられていました。



白に塗られたドアが住居への入口です。



入口の上に飾られた魚の絵は、魔除けの印です。



入口の間ですが、機織り器が置かれていました。



入口の間を抜けると広場があり、周囲の岩山に部屋が設けられていました。これらの建設では、ある程度オリジナルの地形は利用されていると思いますが、人力で掘られているようです。



ツアー会社と契約して民家を見せているので、生活ぶりを説明してくれました。



部屋の内部を見させてもらいました。それぞれの部屋は小さめのものでした。



居間。





ツアー参加者の一人にベルベル人の服装の着付けを行ってくれました。



壁に掲げられた魚の尾も魔除けのようです。



山羊の角でしょうか。これも魔除け。



住居を上から眺めるため、一旦外に出てから岩山に登りました。



ひと登りすると、住居が見えてきました。



岩山をU字型に掘って、入口の壁を造っているのが判ります。それにしても、どれくらいの時間がかかったのでしょう。

トズールから1日半は4駆にお世話になりましたが、この先は再びバスでの移動になりました。、



洞穴住居の裏手には岩山が広がっていました。



耕作地も僅かながら見られました。



岩山に咲いていた花。タンポポ相当です。



アマナの花に似ていますが、乾燥地に咲いているので別種でしょう。



数少ない観光客である我々に向かって、羊の毛皮を売ろうとしていました。たいした値段ではないはずですが、買ってもどう使っていいか判らない。

マトマタの洞窟住居は、スターウォーズのロケ地として使われていることでも有名で、次に見学することになりました。

さすらいの風景 マトマタ その2

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洞穴住居で有名なマトマタの中心地にやってきました。1961年に15kmほど離れた場所に政府の肝入りで造られた新マトマタがあるので、ここは旧マトマタと呼ばれます。



旧マトマタは観光の中心ですが、山の斜面に広がる小さな街です。



洞穴住居をホテルにした「ホテル・シディ・ドリス」で昼食をとることになりました。

ここは、スターウォーズのロケ地として有名で、今回の旅行でも見学を楽しみにしていました。



ホテルに入っていきます。



ホテルのレセプション。泊り客は少ないようで、レストラン利用者がほとんどのようです。



洞穴住居を利用した食堂に入りました。ビールの注文をして食事が出てくる前に、スターウォーズの撮影場所の見学に向かいました。



スター・ウォーズのロケ場所を示す矢印が壁に書かれていました。



途中の小部屋にはポスターなどが飾っていました。



スター・ウォーズの第一作(エピソード4)で、ルーク・スカイウォーカーが養子として育てられ、農家の手伝いをしていた家の撮影はここで行われました。



広場の周囲に小部屋が掘られています。



映画撮影時の飾りも残されています。



丘の上からこの方向で見た広場が映画の中で出てきます。最後に映画と比べることにします。



広場の周りに造られた部屋。



この部屋は、スター・ウォーズの映画で食事の場面が撮影されました。



天井の独特な模様で、撮影された場所であることが判ります。



バーも設けられていました。



食後に洞穴住居を眺めるため、屋上に上がりました。旧マトマタの街の眺めが広がっていました。



崖際が工事中でしたが、一か所見下ろせる場所がありました。



映画と見比べると、まさにここからの撮影であったことが判りました。



比較のために映画を場面を載せておきます。ドアの色が違ってきてはいますが。

また、映画で見られる広場の中央に立つ水分凝結機は、二台並んだ大型のもので、現在の小型のものと違っています。現在置かれているものは、ネフタ近くの砂漠で撮影された家の出口の脇に置かれていたものに似ており、移し替えられたようです。



また、食堂風景ですが、天井の模様によって撮影された小部屋が判ります。

今回の旅行では、スター・ウォーズの聖地を二か所見ることができ、大いに満足することができました。

さすらいの風景 エルジェム円形闘技場

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マトマタの次の目的地として、エルジェムの円形闘技場に向かいました。

岩山地帯を下って北に向かいました。



海岸部に出ると高速道に乗ることができました。



地中海が見えてきましたが、この付近は海岸線が湾曲しておりガベス湾と呼ばれています。



オリーブの林が彼方まで広がっていました。

このチュニジア中部はサヘル(アラビア語で沿岸部と呼ばれ、農作物の産地であると輸送のための港が整備されて、重要地点として栄え、城塞都市が発達しました。

オリーブは、ローマ人が持ち込んだもので、現在、オリーブオイルはチュニジアの重要な輸出品になっています。日本ではあまり知られていませんが、チュニジアはスペインやイタリアと並ぶオリーブオイルの産地です。これまでは、バレルに入ったまま大量にイタリアやスペインに売られて、そこで他の製品と混ぜられて瓶詰めされていましたが、最近は、チュニジア内で製品化され、「チュニジア産」がブランド化されつつあります。



途中のサービスエリアで休憩。



売店のお菓子も充実していました。海外の高速のサービスエリアの売店では、現地の人気商品が並んでいるので、一見の価値があります。



エル・ジェムの街に到着。少し内陸部に位置します。

バスを降りると、巨大なコロセウム(円形闘技場)が家並みの向こうに姿を現しました。



エル・ジェムは古代都市シスドラスが栄えた所で、オリーブ交易地として、ローマ帝国の中で最も豊かな街の一つでした。このコロセウムは、2世紀にローマ帝国のゴルディアン皇帝のもとに建設が始まりました。資金不足のために完成までいきませんでしたが、チュニジアにある25ほどあるコロセウムのうちで最も保存状態が良く、イタリアに残されているものと匹敵するとされています。



外壁は見上げる高さです。



入場しました。

サイズは縦149m、横124m、高さは36m、アリーナの直径は65mの巨大なものです。



7世紀末に東からチュニジアに攻め込んできたイスラム・アラブ軍と先住ベルベル人の最後の決戦はエル・ジェムで行われ、ベルベル人を率いていた女王カヒナは、追い詰められてコロッセウムに籠り、最後はこの中で炎に身を投じて命を絶ちました。



地下室が設けられており、地面に開いている穴は明かり採りです。



このコロセウムは、現在でも数万人を収容でき、毎年夏にはフェスティバルが行われています。





地下室を見学しました。



猛獣を閉じ込めたと思われる小部屋もありました。



映画「スパルタカス」あるいは「グラディエーター」でコロセウムで行われた闘技会の様子を知ることができますが、剣闘士試合の余興や前座として猛獣との戦いが行われました。剣闘士が出場した際は武装しているため命を落とすものも多くはありませんでしたが、重罪人の場合は公開処刑に他なりませんでした。



トンネルには、陰惨な気分のするところもありました。



人力エレベーターの跡で、競技場で待ち構える剣闘士のもとに猛獣を挙げるのに使われました。





地下室の見学を終えて、コロセウムの上階に向かいました。



階段は一直線ではなく、各階の回廊で少しずれた状態で続いていました。



最上部まで上がるのには息が切れました。



最上部まで上がって、ようやくコロセウムの全体像を眺めることができました。



壁が崩れてアーチ状に残っているのも、美しい装飾に見えます。



少し位置を変えての眺め。



中段の見学席に出ました。



近い距離で見学でき、おそらく貴賓席だったのでしょう。

良く戦ったものの負けた剣闘士に対し、親指を上に立てて生を。みっともない戦いをした敗者には親指を下に向けて、死を命じた皇帝の姿が目に浮かんできます。



一旦地上部に下りてから反対側の客席に上がりました。こちらは、フェスティバル会場に使われていることもあり、ベンチ部は完全に修復されていました。



このコロセウムで開催されるエルジェム国際フェスティバルは、クラシック音楽の演奏会のようです。2017年にはウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏も行われたようですが、野外オペラの公演までとはいかないようです。





最後にもうひと眺め。





入場時とは別な方向に向かいました。土産物屋も並んでいました。団体客が我々しかいないので、商売は厳しいでしょうね。



土産用のモザイクが並んでいました。この店ではありませんが、小さなものを買いました。





別な方向からのコロセウムの眺め。石材が転がっているのは、未修復部のパーツでしょうか。



外壁が一部崩れているのも、内部をのぞくのに都合が良くなっています。

コロセウムの見学を終えて、歴史のある古都であるとともにビーチリゾートとして人気の高いスースに向かいました。

行ってきました 秘境ラダック

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9日15日から22日の日程で、インドの最北の地であるラダックに行ってきました。

ラダックは、文化大革命の影響や政治的圧力を受けなかったことから、本家中国領チベットよりもチベット仏教が良く保存されています。

ラダックは標高3505mの高地にありますが、さらにバンゴン・ツォ(湖)(4250m)を訪れるためには、チャン・ラ(峠)(5360m)越があり、未経験の標高を経験しました。

記録のまとめが滞っているので、ラダックの報告はかなり先になります。

(写真は、ラマユル僧院)

さすらいの風景 スース その1

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エルジェム円形闘技場の見学を終えてスースの街にやってきました。

スースは、地中海に面し、ビーチリゾートとしても発展していることから「サヘルの真珠」とも呼ばれています。

スースの起源は紀元前9世紀頃で、カルタゴと同様にフェニキア人によって建設されました。紀元前202年の第二次ポエミ戦争の際には、ハンニバルがローマ軍との戦いの拠点をここに置いたという言い伝えもあります。ビザンチン支配下の街「ジュスティニアノポリス」として発展していきましたが、7世紀に、アラブの攻撃によって街は崩壊。ケロアンに首都を置いたアグラブ朝の時代に「スーサ」として街は再建され、国の主要港として、またシチリア島の遠征の拠点として活躍することになりました。現在の街を取り巻く城壁はこのアグラブ朝時代に築かれたものです。



城塞の各所には塔が設けられて、堅固な造りになっています。



メディナの内部に進みました。

その後の歩きが迷路状態であったため、ガイドブックの地図を後で見直しても、どこから入場したのか判らなくなっています。



静かな小路を進みました。



所々で観光客向けの店もありました。



趣のある脇道。



子供達には良く出会いました。



チュニジアのドアは、それぞれ特徴があって、良い被写体になります。



アーチが所々で現れました。







要塞として造られたリバトの脇に出ました。



リバトの周囲は、繁華街になっていました。



小路の間から見えたミナレット。



リバトは翌日入場見学することになります。



バザールを見学しました。





地元民だけで、観光客は少ないのが気になりました。



アラブ風の衣装。



民族衣装の店も多く並んでいました。



壁に飾られたタイル画。



観光客用の土産物屋。







鳥かごがなぜか多く売られていました。

さすらいの風景 スース その2

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バザールを一周してグランド・モスクの脇に出ました。



振り返って見るリバド。



リバトとグランド・モスクの周辺には土産物屋やカフェが並んでいます。

イスラム教の国とあって、カフェには男性ばかりが休んでいました。



城壁の切れ目を抜けると、その先は旧市街入口のファルハット・ハシェド広場になります。



一旦自由時間となり、ファルハット・ハシェド広場に面したスーラ・センターで、屋上から旧市街地を展望し、買い物を行いました。



屋上に上がると、旧市街地の展望が広がっていました。これはグランド・モスク。



丘の上に見えるのは、スース考古学博物館になっているカスバ(城塞)です。



グランド・モスクの右手にはリバトの塔が見えます。



塔の右手には、民家によって隠されていますが、リバトの城壁が現れています。



スーラ・センターから南に延びる城壁。



屋上はカフェになっており、海を眺めながら休むことができます。



海辺には、観光用の船も停泊していました。



ファルハット・ハシェド広場には銅像が置かれていました。誰かは判りませんでしたが。



スーラ・センターから出て、メディナ内を振り返りました。



バスに乗って、地中海の海岸線を走ってホテルに向かいました。



車窓から見かけたマスコット。この像は、チュニジアの街で時々見かけましたが、「ゴミはゴミ箱へ」と人を啓発するキャンペーンのためのもののようです。

このかわいくないユルキャラは、フェネック(砂キツネ)をモデルにしているといいます。



これは、現在12頭展示している井の頭自然文化園のフェネック(砂キツネ)の写真。

フェネック(砂キツネ)は、日本の動物園でも数か所で飼われているようです。近い所に飼われているなら実物を見てみたいですね。このフェネックは、「風の谷のナウシカ」でのキツネリスのモデルになっています。

この可愛いいフェネックが、どうしてあのような間抜けな像になるのでしょうね。

ユルキャラは、日本がやはり一歩進んでいます。

さすらいの風景 スース その3

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第六日目の宿は、アフリカエルムラディ。スースの北側に位置する地中海に臨むリゾートホテルです。



きれいな客室でした。前日の砂漠の中のキャンプ泊と大違いで、今回のツアーはホテルの点でも変化に富んでいました。



夕食後に庭に出ました。



すでに暗闇が広がって潮騒が聞こえるだけでした。



翌朝の風景。



プールサイドから本館を振り返ったところ。



東方面に海が広がっているのですが、日の出は見られませんでした。



海辺に沿ってホテルが並んでいました。



日除けのパラソルも並んでいました。



プールや海で泳ぐこともなく、スース観光の昨日の続きに出かけました。リゾートホテルに泊まっておいて、ちょっともったいなかったですね。

さすらいの風景 スース その4

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六日目は、まずスースの旧市街地に戻って、昨日の観光の続きを行いました。 



グランド・モスクは、要塞並みの堅牢な壁を巡らしています。





まず、リバトに入場しました。8世紀造られたメディナで最も古い建物です。グランド・モスクと共に海からの敵に対する防御拠点として使われてきました。



リバトの周囲は堀が巡らされていますが、昔は海から水を引いていたのでしょうか。



リバトの中庭の周囲には回廊が巡らされていました。



見張り台として使われていた塔が頭上に聳えていました。

ここで自由時間となり、塔の上を目指すことになりました。



急で薄暗い螺旋階段を登ることになりました。



地上から約38mの高さにある展望台からは、周囲の展望が広がっていました。

下を見下ろすとかなりの高度感があります。



リバト周囲は堀に囲まれています。





メディナは南に向かって高くなっており、その上にはカスパがあります。



カスパのアップ。カスパは現在スース考古学博物館になっています。



隣り合うグランド・モスクの眺め。通常モスクに付属するミナレットはありません。ミナレットの代わりとしては、このリバトの塔が使われていたようです。



メディナの入口のファルハット・ハスエド広場方面の眺めですが、その向こうには地中海が広がっています。



中庭を取り巻く建物の屋上に設けられた回廊に下ってきました。



屋上の回廊から見た塔。



一階部の回廊。



自由時間を利用してグランド・モスクにも入場することにしました。



グランド・モスクは、アグラブ朝時代の851年にアブル・アバス帝によって造られました。隣りのリバトと共に要塞の役割を果たしていたといいます。



異教徒は中庭までしか入れませんが、礼拝室の中を見ることができました。

奥には、メッカの方向を示す窪みのミフラーブが置かれているようです。



礼拝室には、アラブ建築の特徴ともいえる何本もの柱が並んでいました。



上の回廊は立ち入り禁止になっていました。



スースは、砂漠地帯の広がるチュニジア中部の入口ですが、この後はチュニジア北部に戻って、地中海沿岸の色彩の濃い見学地が続くようになりました。

さすらいの風景 シディ・ブ・サイド その1

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スースを出発して、カルタゴとシディブ・サイド観光のためにチュニスに向かいました。

高速道に乗ったのですが、路肩には物売りが出ていました。これはナッツ類を売っているようです。



途中で送電線鉄塔の上にコウノトリの巣が見られました。



厳密には、日本をはじめとする東南アジアに生息するコウノトリの近縁種のシュバシコウのようです。シュバシコウは、ヨーロッパ、北アフリカ、中近東に生息し、クチバシが赤い特徴があります。写真では影になってクチバシは黒く見えていますが。



チュニス近くまで戻ったところで、チュニス湖に架かるラデス-ラグレット橋を渡りました。この橋は、日本のODAによって建設されました。橋の上には、日の丸を記した看板も置かれていました。





チュニス湖を見ながらしばらく走りました。



丘の上にカルタゴにあるサンルイ・協会が見えてきました。

当初の予定では最初にカルタゴを見学することになっていましたが、天気が不安定なため、青空が広がっているうちにということで、先にシディブ・サイドに向かいました。



ここでもフェネック(砂キツネ)をモデルにしたゆるキャラの「ラビブ」が置かれていました。



シディブ・サイドの駐車場に到着。

シディブ・サイドは、15世紀末、レコンキスタ終了後にスペインから追放されたイスラムの人々が移り住んだ街です。



白い壁にチュニジアブルーと呼ばれる青に塗られた窓枠が美しく、チュニジアでも人気の観光地になっています。



シディブ・サイドでは、扉が主な被写体の一つになっています。





街は丘の斜面に広がっており、石畳の坂道になっているハビブ・タムール通りを登っていきました。





人気の観光地とあって、多くの観光客が訪れていました。



土産物屋も多くありました。



この付近が賑わいの中心です。



脇道をのぞくと美しい眺めが広がっていました。





シディブ・サイドのランドマークとなっているカフェ・デ・ナット。





カフェ・デ・ナットの手前でハビブ・タムール通りから離れて脇道に進みました。

さすらいの風景 シディ・ブ・サイド その2

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メインのハビブ・ダムール通りから離れて、脇道に進みました。



シディ・ブ・サイドでは、特に重要な建物も無いため、白壁と青い窓枠あるいは扉の美しいところを探しながらの歩きになりました。



脇道も趣があります。



まれですが、茶色のドアもありました。



チュニジアでは、美しく飾られた扉が見どころになっています。









小路の奥は民家のため、車が停まっていたりします。









校外学習なのか、女学生が絵を描いていました。







扉の前で撮影を行っていました。



こちらを意識して、ポーズをとってくれました。



海を見下ろす高台に出ました。ここはシディ・ブ・サイドを代表する写真スポットになっています。陽が陰って地中海が青く見えていないのが少し残念です。



白いドームを持つ建物はカフェのようです。



ここでバス集合の自由行動となり、ハビブ・ダムール通りに向かって歩きました。



土産物屋が並ぶ中心部に戻ってきました。



小路の奥に地中海が見えていました。





カフェ・デ・ナットの下に戻ってきました。



添乗員さんに出会い、シディ・ブ・サイド名物のバンベローニと呼ばれる柔らかい揚げドーナツを半分もらいました。美味しく頂きました。結構大きく、この後は昼食となるので、半分で丁度良かったです。



土産物屋を覗きながらハビブ・ダムール通りを下っていきました。



青空も広がり、白壁と青い窓脇・扉がさらに映えるようになりました。









猫も風景の一部になっていました。シディ・ブ・サイドでも多くのネコに出会いましたが、これは改めて別項目にて。

シディ・ブ・サイドの白と青を基調とした風景は美しく、確かにチュニジアを代表する見どころになっていました。

さすらいの風景 カルタゴ その1

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シディ・ブ・サイドからカルタゴに戻って、まずビュルサの丘を見学しました。

バスを降りた駐車場の脇に聳えるのは、サン・ルイ教会です。丘の上に礼拝堂が置かれたのは1840年で、現在の大聖堂は1890年にフランスによって建てられました。1270年に第8回十字軍遠征に参加し、チュニス包囲戦のただ中に没したフランス国王ルイ9世に捧げられたものです。ルイ9世は、死後にカトリック教会により列聖されました。内政、産業、芸術を発展させた敬虔なキリスト教の王でしたが、二度の十字軍に参加して捕虜になったり最後は死亡して、将軍としての戦略、戦術には欠けていたという評価です。パリの観光名所になっているステンド・グラスで有名なサント・シャペルはルイ9世の命によって建てられました。、



古代カルタゴの中心であった遺跡へ進みました。

カルタゴは、現在のレバノンの周辺を拠点に、地中海で海上貿易に従事していたフェニキア人によって建設されました。

伝説では、フェニキアの都ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーンから逃れてカルタゴを建設したとされます。岬に上陸したディードーは、1頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めました。岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れました。そのため、この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになったといいます。



カルタゴというと、共和政ローマとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争であるポエニ戦争が思い浮かんできます。

紀元前264年から紀元前241年に起きた第一次ポエニ戦争は、シチリア島の支配を巡っての争いで、アエガテス諸島沖の海戦によってローマの勝利に終わりました。

紀元前219年から紀元前201年に行われた第二次ポエニ戦争では、ハンニバルの善戦によってローマに迫りましたが、スキピオ・アフリカヌスのスペインから北アフリカへの逆侵攻によってカルタゴの敗北に終わりました。

紀元前149年から紀元前146年に起きた第三次ポエニ戦争で、カルタゴは3年間の籠城戦の後に陥落し、住民のほとんどは殺されるか奴隷にされ、街は完全に破壊されました。土地を塩で埋め尽くして不毛の土地にしようとまでされたといいます。



丘の上に設けられたテラスに立つと、遺跡が広がっているのを見ることができました。

一旦は、破壊しつくされたカルタゴですが、紀元前29年に、ユリウス・カルタゴ植民市として再建されて、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、2世紀にはローマ、アレキサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市にまで発展しました。

しかし、7世紀のアラブの侵攻以降は、北アフリカの中心はカイラワーンに移されて再び廃墟に戻ってしまいました。



カルタゴの遺跡のほとんどはローマ人の物ですが、カルタゴ人の住居跡も見つかっているようです。見渡しても、どれとはいえませんが。



ただ、この廃墟を見ると、「国破れて」とカルタゴを忍ぶ気持ちが沸いてきます。





遺跡から見たサン・ルイ教会。



続いてカルタゴ博物館を見学する予定でしたが、門が閉まっていました。数日前に閉館になったということで、現地ガイドも知らなかったとのこと。



この博物館には、ローマのモザイクが収められているようなので、閉館は残念でした。



続いて、トフェ(タニト神の聖域)を訪れました。住宅地の中にありました。



トフェは、ローマ以前のカルタゴの面影を残す数少ない遺跡です。ポエミ時代には、墓場と火の神バール・ハモン神(フェニキアの古代宗教神)、天と豊穣の神タニト(カルタゴの守護神)が祀られた聖域でした。



狭い敷地内には、小さな墓石がずらりと並んでいます。この下には、幼児の骨が入った骨壺が見つかっています。



神像の前で、都市の繁栄や戦争の勝利のために、生贄のために幼児は火の中に投じられたといいます。この生贄は、高貴な身分のものほど良いとされました。ここでは、炭化した幼児の骨をいれた骨壺も見つかっているといいます。

ただ、幼児の死亡率が高かった古代で、死亡した幼児の遺体を火葬して供養し、神の元に送り返したという考えもあり、どちらが正しいのかは判らない状態になっています。

歴史は、勝者が敗者に対して都合の良いことを書き残すということを忘れてはなりません。



この丸と三角を組み合わせたものは、タニトの印と呼ばれます。



敷地の奥に洞窟があります。



アーチ状の天井を持つ洞窟は、幼児の墓地として使われていたようです。



墓石を見ていくと、他にもタニトの印を見つけることができました。



赤ん坊の像でしょうか。



これもタニトの印。



添乗員さんが、回してくれたカルタゴの街の復元図。

カルタゴでは、海に面して円形の水面を持つ軍港を整備しており、現在でもその跡を見ることができます。



住宅地の外れに島を浮かべた円形湖があり、これがカルタゴの軍港跡でした。



釣竿を垂らす釣り人や、湖岸の草むらで寝そべるネコがいたりしてのどかな風景でした。ただ、その奥は新しく設けられた現在の軍港になっており、警備の者に追い返されました。

我々は、軍港なら見学禁止は当然と納得するのですが、現地ガイドは猛烈に抗議して、政府に反感を持つジャスミン革命の余韻を感じました。

さすらいの風景 カルタゴ その2

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カルタゴ観光の最後にアントニヌスの共同浴場を訪れました。



アントニヌスの共同浴場は、2世紀にローマの五賢帝のひとり、アントニヌス・ピウスによって造られました。

当時、建物は2階建てで、ドームがせり上がって天井の高さは30mはあったようです。



更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレなど、100を超える部屋が設けられ、フレスコ画や彫刻、モザイクで飾られた贅沢な造りであったといいます。




現在は、石材が持ち去られて、柱や建物の土台部が残されているだけですが、往時の巨大な施設を想像することができます。



広大な遺跡ですが、これ全部が浴場跡です。





一階部に下って、遺跡の中を歩いていきました。



円形の建物だったようです。







太い柱が印象的です。、



導水路も残されていました。







アントニヌス・ピウスの名前が刻まれた大理石も残されていました。





砲弾のような丸石が置かれていますが、これは後世のものでしょう。



青い空と海をバックにして立つ柱が美しい眺めを作っていました。



出口付近から遺跡を振り返りました。

なお、背後の丘の上にある旗は大統領官邸のもので、ひと昔前までは、この方向の写真撮影は禁止になっていたようです。ジャスミン革命後の現在は、撮影禁止措置は無くなっていました。

さすらいの風景 チュニス その2

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到着日にバルドー博物館を見学しただけでチュニスを離れてしまいましたが、南部をひと回りして再びチュニスに戻ってきました。

チュニスのホテルは、アフリカ・エルムラディで、チュニス一番の繁華街のハビブ・ブルギバ通りに面しています。

ハビブ・ブルギバ通りは、なにやらイベントが行われて交通規制が敷かれており、ホテルにバスが横付けするのも大変な騒ぎになっていました。



アフリカ・エルムラデは、チュニスで一番高いビルで、周囲からも良く目立っています。



5つ星ホテルということですが、部屋の装備は普通でした。



メッカの方向を示すキブラシールを探すと、天井ではなく、テーブルの隅に張ってありました。



幸い割り当てられた部屋が最上階に近い所であったため、窓からチュニス中心部の展望を楽しむことができました。

これは東のチュニス湖方面。



チュニス湖の拡大。



廊下の窓を使うと、チュニス湖の向こうにカルタゴ(右端)とシディ・ブ・サイド(中央右寄りの丘付近)を眺めることができました。



ハビブ・ブルギバ通りに立つ時計塔。



時計塔の拡大。



南方向の眺め。



西方向は到着時には逆光でうまく撮影できなかったので、翌朝の写真です。

ハビブ・ブルギバ通りの突き当りの奥がメディナです。



ハビブ・ブルギバ通りの終点部に建つ大聖堂。



メディナでは、細い道が迷路のように広がっています。



左奥に、メディナの中心と言えるグランド・モスクのミナレットを見ることができます。



ホテルの部屋からは、家並みを見下ろすことができました。



部屋からは、夜景も楽しむことができました。



サブカメラに比較明合成モードがあったので、使ってみました。



南方向の眺め。



部屋からは日の出も見ることができました。

このホテルは、最高の立地条件にあるので、チュニスの街歩きを堪能することができました。

さすらいの風景 チュニス その3

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ホテルにチェック・インしましたが、メディナ内のレストランで夕食ということで、再び出かけることになりました。バス移動の予定でしたが、イベントのためチュニス内は大渋滞になっており、歩いていくことになりました。これによって、チュニジア最終日の午前中に行なう予定のメディナ観光は自由行動になり、ありがたい予定変更になりました。

アフリカ・エルムラディの前のハビブ・ブルギバ通りは、行き交う人で賑わっていました。



ハビブ・ブルギバ通りは、ヨーロッパ風でカフェも出ています。これは市民劇場。



フランス保護時代に建てられた劇場のようで、壁面は美しい装飾が施されていました。



道路の反対側に大聖堂が現れました。



フランス保護時代の19世紀末に建造され、ゴシック様式、ネオビザンチン様式、およびアラブ風の建築様式が混在しています。

大聖堂に向かい合ってフランス大使館がありますが、鉄条網で囲まれ、装甲車も置かれ、銃を持った兵士も警備しているというものものしさで、撮影禁止になっていました。



教会前の緑地帯に置かれていた銅像。誰の像かは不明。



その先の通りには、ヨーロッパの街を思わせる重厚なアーケードも設けられていました。



メディナの東の入口のバーブ・ブハル(フランス門)に到着。かつては、メディナの周囲を城壁が取り巻いましたが、現在ではこの門だけが残されています。



門を抜けた先はビクトワール広場となり、ここからメディナ内へ小路が延びています。



ビクトワール広場に面して、古い館を改装した高級ホテルのダール・エル・メディナがあります。



ビクトワール広場からは何本もの小路が始まっていますが、ジャマー・ジトゥーナ通りに進みました。この通りが観光客用の土産物屋が一番並んでいるようでした。



テロの影響がまだ残っていて観光客は少ないようでしたが、地元の人で賑わっていました。



民族衣装の店が目立ちました。



観光客用の土産物屋も多くありました。





金属製の装飾皿の店。



カフェの店が並ぶアーケード。



ジャマー・ジトゥーナ通りは、グランドモスクに行きあたって終わります。



その迷路状態の道を進みました。



この一帯は、結婚用品の店が並んでいました。



飾り籠。



夕食をとるダール・エッサラヤに到着しました。ガイドブックによれば、豪華邸宅を改装したチュニジア伝統料理の高級レストランとのことです。



内部に入って座席が決まると、まずは建物の見学になりました。



アラブ風満点の部屋です。







二階も見学することができました。



一階を見下ろしたところ。



ヨーロッパのリュートの直接の祖先である、チュニジアの民族楽器のウードの演奏を行ってくれて、優雅な気分で食事をすることができました。

アラブ音楽は大別すると東西に分かれ、東のエジプト・シリア・レバノン・イラクなど地中海東側のアラブ諸国、さらにオスマン帝国以来のトルコの伝統音楽は、“シャルキー”とか“オリエンタル音楽”と呼ばれます。一方、西のモロッコ、アルジェリア・チュニジア・リビアなど、北アフリカのいわゆるマグレブ諸国では、アラブがイベリア半島(アンダルシア)を支配していた9~12世紀頃にそこで発展し、13世紀以降は再び北アフリカに持ち帰られた音楽遺産であるアラボ=アンダルース音楽が伝統になっています。

チュニジアでは、アンダルシア起源の伝統音楽を自国の文化遺産とみなし、“マルーフ”と呼んでいますが、19世紀以降はエジプトやトルコ音楽の影響も入ってきているようです。

料理については、後ほど別項目にて。
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